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13 The last farewell to my son
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夏樹と別れたその足で直行した。
会いたくてたまらなかった。別れた夫には無断だ。もちろん離婚協議書の誓約事項にも違反している。それでも会わずにはいられなかった。
夏樹の気持ちは痛いほどよくわかっていた。それでも彼の気持ちに応えなかったのは、どうしても彼を異性としてではなく、息子と重ねて見てしまっている自分を無視できなかったからだ。
母親としての視点を失えなかった。そういう体(てい)でしか夏樹とのことを捉えられなかった。だからずっと夏樹を高みから見ていた。濡れなかったのはきっとそのせいだ。
東北の中途半端に都会の街の手前に寂れかけた漁港がある。
高速を飛ばして漁港から少し内陸に入ったビニールハウスの点在する地域の家に着いたのは次の日の夕刻に近かった。そこに別れた夫の実家があった。
まだ幼稚園児の大樹はそこに預けられている。別れた夫が土日にそこを訪れ日曜の夜に帰ってゆく。しばらくはそんな生活になるはずだ。
敷居の高かった夫の実家の前をゆっくりと通り過ぎた。
車がない。定年間近の夫の祖父は地元の農協に勤めている。まだ帰宅していないようだ。縁側が開いていればと思ったが、もう日中の肌寒い季節だ。サッシ窓は閉ざされ、中の様子は伺えなかった。
このまま家に乗り付けることができない立場。インターホンを押せない立場。そのまま通り過ぎ、オートバイの爆音が聞こえないぐらいのところにある、これも寂れて客の入りの悪そうなパチンコ屋の駐車場に止めた。そこから家がよく見えた。
もうすぐ暗くなる。でも待つしかない。
義母はムリだろう。思えばあの夫の隠れていたイヤらしい気性は義母そっくりだ。それを見抜けなかった自分は愚かだが、あの性格では恩情を期待するのは無理だろう。
だが、義父なら・・・。義母とは正反対に大らかで温厚な性格の義父なら、
「確かに息子との約束を破っているのはよくないが、遠い所をやってきたんだ。せめて顔を見せて抱かせるぐらいは・・・」
そんなことを言ってくれるかもしれない。そこに僅かだが、希望があった。
連れ出すつもりはない。ただひと目だけでいい。大樹の姿が、顔が見たいのだ。
家の向こうの大通りにバスが止まったのが見えた。もう、ヘッドライトが付いていた。そのバスから小さな影と大人の影がひとつずつ降りた。バスが去り、その二つの影が畑の畔を横切って家に向かうのを見たらもう自然に脚が動いていた。
駐車場のフェンスの隙間を抜け、前の道を家に向かって歩いた。畔を歩く小さな影が大きな影から離れて先に歩き出した。
「だいき!」
声を上げるつもりはなかった。でも、出てしまっていた。
小さな影が立ち止まってこちらを見ていた。間違いない。一か月ぶりに見る、実の息子だった。
「ママっ!」
大樹が駆け出した。美玖も家に向かってどんどん歩を速めた。
「ママ、ママっ!」
畔の終わりで大樹が駆け込んでくるのを待った。でも、結局息子を抱くことはできなかった。
息せき切って大樹を追ってきた義母が大樹の身体を抑え込んだ。
「何しに来たの、あんた!」
美玖は、実の息子がママ、ママと泣き叫ぶのを聞きながら、その、この世で最も醜悪で愚劣な形相を、睨み続けた。
ちょっと飲み過ぎた。
フラフラになるほどではなかったが、そのせいでどこの馬の骨かもわからない余計なヤツと係わってしまった。男は自分だけ気持ちよくなって勝手に寝てしまった。もし美玖が枕探しのようなことをしたらどうするつもりなのか。口先はデカいこと言うくせにセックスは弱いし、あまりにも不用心な男だ。出張で来ているとは言っていたが、仕事も出来なさそうだ。だからこんなところを毎日のようにドサ周りするような役目を押し付けられているのだろう。だが、自分はそんなヤツと行きずりで寝るような女だ。同じようなレベルかもしれない。大人の男は懲りたはずなのに。つくづくガードの緩い女だと自嘲した。
携帯電話を開いて着信とメールをチェックする。メールは一通。あとは着信がスゴイ件数になっていた。全部元夫と彼の雇った弁護士だ。マナーにしていたから気が付かなかった。大方離婚協議書の規定に違反したとかなんとかだろう。いちいち返信しなくても夜が明ければまたかかってくるだろう。
美玖は貴重品を持ってバスルームに入り簡単に汗を流して再び服を着た。
「・・・もう行くのか」
男を起こしてしまったようだ。
「楽しかったわ。じゃあね」
「そんな、つれないな。泊って行けばいいのに・・・」
誰がお前みたいなのとこれ以上同じベッドで寝るかと。歯を磨いて出直して来いと言いたかった。
「朝早く発つの。自分の部屋でもう一寝入りするわ」
「なあ・・・」
「なに?」
「連絡先、教えてくれよ」
「奥さんとお子さんに悪いからこれきりにしましょう」
「・・・なんで、わかった?」
「だって、ケータイの待ち受けにしてるんだもん」
ドアのノブを回しながら、ダメ押しをした。
「縁があればまた会うんじゃないの」
そうして、男のシングルの部屋を早々に退散した。お前のようなチンケな男との縁は、もうない。
北の街の夜はだいぶ冷えた。酔いが醒めたせいもあるだろう。
ママ、ママ、と泣き叫ぶ愛しい息子の顔が頭から離れず、掻き毟られるような胸の内を宥めるために入った酒場で飲み過ぎた結果がそれだった。束の間の道連れの少年の前ではカッコイイ女を演じることができたが、簡単にメッキが剥がれてしまったわけだ。
自分のホテルに戻り、バスルームでシャワーを浴び直しきちんとフェイスケアをして歯を磨く。
ふと、夏樹を思う。
あの後どうしただろう。父親とはうまくやって行けてるだろうか。お母さんには、会えただろうか。
たまらなく夏樹に会いたいと思う。もう二度と会うことはないだろうと思うと、なおさら思いが募る。
あんなにいい子はいない。まだ中学生の身空で、あんなにも逞しい子もそういない。大樹もあんな子になって欲しいが、あの義母の許ではダメだろうなと思う。元夫という、彼女の失敗作の見本を見ているから、なおさらそう思うのかもしれない。
グダグダ下らないことを考えるのはもうやめよう。
一度実家に戻ろうか。逃げてばかりいるとまたろくでもない男に引っかかりそうな気がするから。
どうせ小言の十や二十は浴びてしまうのだろう。小言で済めばいいが、最悪は勘当だとか親子の縁を切るとか言われるのだろうな。それでもいいと思った。
そうだ。帰るついでに一度馴染みのバイク屋に寄ろう。
高校時代から世話になっていて、今の美玖のナナハンもそこで買ったのだ。久々の遠出をしたから点検してもらいがてら、昔話の一つもしてこよう。
少しは気分も軽くなった。ひと眠りしたら、実家のある街に向けて出発だ。
一度そう決めてベッドに潜り込んでしまうと、最低だった夜のことはもうきれいに忘れて深い眠りに落ちて行った。
三日前と同じ鈍行で向かった。キオスクで買った時刻表を見るとどうしても途中大阪か神戸辺りで一泊しなければならない。寝袋を買おうか迷った。都会ならむしろコンビニとか二十四時間のファストフードとかマンガ喫茶とかで朝まで時間を潰す方が目立たない。駅の近くなら始発を待っているみたいに見えるだろう。
乗り換えの駅でトイレを済まし、立ち食い蕎麦屋でうどんを食べた。そんなふうにして大阪のいくつか手前の駅に着いた。ターミナル駅は避けた方がいいと思ったのだ。
駅を出てまずファミレスを探した。やっぱりうどんとサンドウィッチだけじゃ持たなかった。猛烈に腹が減っていた。それにやっぱり一人旅の不安があった。それを喰うことで紛らわせようとした。比較的安くて食いでのあるもの。スパゲッティとか親子丼とかを頼んだ。飲み物は水でガマンした。ハラは満たしつつもゼイタクは敵だった。
半分ぐらいも喰うと少し余裕が出てきて周りを見渡した。どうしても同じ年頃のヤツに目が行く。制服の高校生、大学生、勤め人らしき女。ほとんどが二人以上の連れで来ていた。一人なのは携帯電話や雑誌を読むサラリーマンぐらい。同じような歳の一人のヤツはいなかった。話しかけることはないけれど、たとえ一人でも自分と同じように一人でいるヤツがいれば心強かったからだ。
自分は孤独だった。見つかってはいけないから、自ら望んだ情況なのだが、やはり寂しい。こんな時に奈美がいてくれたら。それか、美玖・・・。
彼女も気ままな一人旅だと言っていた。美玖は今、どこを走っているのだろうか。
「あたしは、旦那さんと息子を裏切った。息子を、捨てた。そういう、汚い女なの」
美玖は自分を「汚い女」だと言った。
彼女がどんな汚いことをして罪を負ったのかは知らない。具体的なことは何も言わなかった。
今まで会った中で最も美人でカッコよくて優しくてエロい。そういう女の人が「汚い」なんて。親切にしてくれたことも「罪滅ぼし」「贖罪」だと言った。
彼女が罪を犯したとするなら、それはきっと美人でカッコよくてエロいからだ。ブスでダサくてエロくない人は罪を犯さないし、犯せない。なら、罪を犯してる人の方がいいな・・・。夏樹は未成年の、特に男子が陥りがちな観念的な遊戯にハマっていた。
家から遠く離れた都会の深夜のファミレスで一人、あの別れ際のキスを思い出していた。
最高のキス。切なすぎるキス。
今も唇に彼女の感触が残っていた。
奈美との初体験を経てなお、初めて女の身体の中に入るという経験を経てもなお、それは消えなかった。忘れられなかった。あまりに大変すぎたせいだと思う。快楽よりも達成感のほうが突出していた。それにに比べ、大人の女のキスは甘くて蕩けそうな官能の余韻をまだ残していた。奈美の中に這入ったことよりも、布団の中や露天風呂で美玖がしてくれたことのほうを思い出し、股間を膨らましていた。
リュックのポケットにはあの住民票の写しと一緒に奈美の携帯電話から書き写したメモが入っている。よほど美玖に電話しようかとも思った。
今どこにいるのだろう。会いたい。めちゃくちゃ声が聴きたかった・・・。
だけど彼女の前でメモを目の前で千切って捨ててしまっていた。
「どうして電話番号わかったの?」
「実は・・・」
家に電話したんじゃなくて女友達の携帯電話で、彼女と初体験したついでに着信履歴調べた・・・。
カッコわる。ダサ。それに携帯の着信履歴を調べたというのがイヤらし過ぎた。なんであんなカッコつけちゃったんだろう。バカだな・・・。
電話は無理。
美玖がダメなら奈美。あまりにも節操が無さ過ぎると思う。だけど、どうしようもないんだ。許せ奈美。あいつならきっと許してくれる・・・。そう思うと声を聴きたくてたまらなくなった。
考えたら何も頼まずにテーブルを占拠したままはマズい。最初から頼んでおけばよかった。この次はそうしよう。
「すいません」
店員にコーヒーを頼むついでに、電話を掛けたいんですが、と言い、荷物を席に置いたまま、財布だけを持って外の公衆電話ボックスへ行った。
財布の小銭入れから百円玉を五枚。これで何秒話せるのだろう。一枚をスロットに入れ番号を押す。次の百円玉をスロットに入れる。呼び出す。
「・・・ナツキ?」
抑えた奈美の声が聞こえた。
「ごめん。声、聴きたくて」
「・・・五分経ったらかけ直して」
「わかった」
ボックスの中で受話器を握り締めて待つ。繋がっていない受話器を持ってガラスのボックスの中で待つというのは、イヤなものだ。夏樹の場合、特にだ。通る人みんなから監視されているような気がする。自宅から何百キロも離れた知らない街にいるというのに。パトカーが近づいて来ると脈拍が早くなる。思わず帽子を目深に被り直す。本当はそういう素振りを見せない方がいい。父のパソコンで「家出 ノウハウ」で検索するといろんなアドバイスが出てきてその中にそういう記事があった。
五分経った。
もう一度番号を押す。残りは400円だ。さっきの百円玉はもったいなかった。コンビニでテレフォンカードを買っておかなければ。
奈美はすぐに出てくれた。
「元気なの?」
「一応」
「ちょっと、大変なことになってるよ」
「何が」
「あんたのお父さんがウチに来てしつこくいろいろ訊かれた」
「例えばどういうこと」
「居場所を知らないかとか、心当たりとか、連絡来なかったかとか」
「そりゃ、聞くよ。そんなのは予想してたから・・・。お前、何も喋ってないよな」
「とりあえず」
「他になんか言ってた?」
「他は、ないかな」
「じゃあ、まだ感づかれてないかな。オレが母さんが生きてること知ってるって。悪ぃな、迷惑かけて・・・」
「そうだ。警察に捜索願い出すって言ってた」
「それも予想の範囲だ」
「ねえ、なんか怖い。会いたいよ・・・」
「二三日で帰るって」
「会いに行っちゃだめ?」
「だってお前学校あるだろ」
「・・・そうだけどさ」
「お前、可愛くなったな・・・」
奈美は変わった。あんなに上から目線で自分をおもちゃにしてきたヤツとは思えないほどだった。年上だったのが、同い年か年下みたいに感じた。女というのはイッパツやると違うもんだなと思った。
「悪い、もう小銭が無い。また電話する」
「ナツキ、・・・愛してる」
少し声が震えていた。
「オレもだよ。じゃな」
百円玉が一個残った。もう少し喋れたが、そろそろファミレスにも戻らねば変に思われる。とにかく、目立たないこと。それもノウハウにあった。ジーンズのポケットに硬貨を突っ込み、ボックスを出た。父が予想通りの動きを始めたのを知ってあらためて気を引き締めた。それに奈美と話せて少し元気が戻った。
店内に戻り冷めたコーヒーを飲んだ。苦い。時計を見た。まだ十一時前だった。始発まで、まだ大分ある。あと一時間くらいここで粘って、コンビニに行き、そこで一時間くらい時間を潰して大通りの向かいにある、もう一軒の別のファミレスに行こうか。
リュックから文庫本を取り出してゆっくりと字面を読んだ。
「コーヒーのお替わりいかがですか」
さも胡散臭そうに、ウェイトレスが言った。
「・・・お願いします」
なるべく低音でボソッと呟いた。
十二時少し前にそのファミレスを出て通り沿いのコンビニに行き、リュックを足元に挟んで三十分ほど立ち読みし、それから千円のテレフォンカードとガムを買い、コンビニを出た。
「おう、兄ちゃん。今夜泊るとこあるん?」
薄汚れたジーンズにこれもまた薄汚れてヨレヨレの青いジャンパーを着た三十代くらいの男に声を掛けられた。歯が何本か抜けていた。
「・・・まあ」
と、短く答えた。
「一泊千五百円であったかい布団で寝られるとこ紹介しよか」
こういう手合いのこともノウハウのサイトにあった。
安宿に次々と宿無しを放り込んで無理矢理契約書を書かせ、翌朝迎えに来たワンボックスカーに乗せて一日一万円ほどのの建築現場などの日雇いに送り込み三四千円ほど上前をはねてゆく。中にはそれがヤクザの資金源になることもある。下っ端のペーペーのシノギというやつだ。こういうのには出来るだけ拘わらない方がいい。
「結構です」
「兄ちゃん、家出やろ。交番タレこまれてもいいんかいな」
「どうぞ、ご自由に」
どうせカマかけているだけだ。足早にそこを立ち去って目当てのファミレスに入ってしまう。交番に行ったところでああいう手合いは警察もマークしているからまともに相手にされるわけがない。サイトにはそうも書いてあった。誰が書いてくれたか知らないが、貴重な情報をUPしてくれていて助かった。たった一人で行動していると情報というもののありがたみがよくわかる。
あと四時間ちょっとで駅が開く。
オーダーしたコーヒーを飲みながら、CDプレーヤーを出してラフマニノフを聴いた。ふと美玖のことを思う。
今、美玖がそばにいてくれたら、と。
ファミレスの店員には悪かったが、コーヒー一杯で四時間以上も居させてくれたのはありがたかった。幸いにももうあの手配師のような中年男の姿はなかった。
まだ暗い空の下、少し早めに駅に行き、シャッターの開くのを待って構内に入った。切符の自動販売機の前で再び待ち、切符を手に入れてすぐにフォームに降りた。
そこで始発を待った。大阪まで行って神戸行きの鈍行に乗り換え、そこでまた乗り換える。姫路でまた乗り換えてその日の三時ごろには目的地に着きそうだった。
コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、リュックのポケットを探り住民票の写しを取り出し、もう一度住所を確認した。
もちろん、転出先の電話番号はNTTの番号案内で調べた。
「そのご住所ではお届けありませんが・・・」
機械的な女の人が機械的にそう言った。
母と伯父の父、夏樹にとっては祖父の実家に当たるところだ。祖父の家にさえ行ったことがない。その祖父のさらに実家となると、赤の他人とどう違うのか、というレベルだ。だが、母と伯父はそこへ転居したことになっている。電話もつながらない。
心細いことこの上ないが、伯父の山荘に行ったときとは違い、手にはちゃんと住所がある。現地の交番に行って聞くわけには行かないが、うろ覚えの記憶だけを頼りに行くのとこうして住所がわかっているのとでは全く安心感が違う。行ってみるしかないのは同じだが、そこが大きく夏樹を励ました。書類を大切に折りたたんでリュックのポケットに戻した。もう一個のおにぎりをパクついているうちに始発列車がフォームに入って来た。ガラガラの車内に乗り込み、シートに座った。
同じようにして神戸駅から下りの電車に乗るころには乗客がだいぶ増えてきた。反対方向の上りに比べれば大分空いている。車両は四人掛けのコンパートメントの座席だった。適当に席を取り、向かいの座席にリュックを置いた。履きっぱなしのスニーカーを脱ぎ、向かいの座席に脚を載せた。足が浮腫みかけていたから気持ちよかった。足の指をにぎにぎしていると発車のベルが鳴り、もう乗り込んでこないとわかると、ホッとした。
「すんまへん、ここ、ええですか?」
窓の外を見ていたら関西弁の若い男に声を掛けられた。慌てて足を下ろしリュックを取ろうとしたら電車が動いた。揺れのせいで男が態勢を崩し夏樹の方へ揺らめいた。少し体がぶつかった。
「おっとお! あ、ごめんなさい。大丈夫?」
「・・・はい」
「ごめんなさいねえ。一人旅?」
男は特徴のない顔で向かいに座り微笑んだ。夏樹はリュックを脇に抱き、
「はい・・・」と答えた。
「ジブンどこから来たん。関東やろ」
「まあ、そんなとこです」
「喋りでわかんねん。高校生?」
あまりに来やすく声を掛けられたから、調子に乗ってボロが出ないようにするのに気を遣った。
「中退して、これから雇ってくれるところに面接に行くんです」
こんなふうに答えておけば二歳ほどサバを読むだけだからヘンに怪しまれずに済む。少し幼いっぽい高校退学者。高校を辞めれば働かなくてはならない。こんな時間に私服で移動していてもおかしくはない。
「そおかあ。人生いろいろやな・・・。あ、次やわ。ほな、頑張ってな」
「・・・どうも」
男はたった一駅で降りて行った。
列車が動き出し、再び乗って来る人がいないのを確認して、もう一度両脚を向かいの座席に載せた。動き出した窓からフォームを見ると、さっきぶつかって降りて行った男と目が合った。男は小馬鹿にしたような冷たい笑みを浮かべて夏樹を見ていたが、すぐに見えなくなった。
そこで違和感に気づいた。
尻のポケットを探る。
ない。
ポケットの財布が、無くなっていた。
やられた・・・。さっきのあの男だ。
会いたくてたまらなかった。別れた夫には無断だ。もちろん離婚協議書の誓約事項にも違反している。それでも会わずにはいられなかった。
夏樹の気持ちは痛いほどよくわかっていた。それでも彼の気持ちに応えなかったのは、どうしても彼を異性としてではなく、息子と重ねて見てしまっている自分を無視できなかったからだ。
母親としての視点を失えなかった。そういう体(てい)でしか夏樹とのことを捉えられなかった。だからずっと夏樹を高みから見ていた。濡れなかったのはきっとそのせいだ。
東北の中途半端に都会の街の手前に寂れかけた漁港がある。
高速を飛ばして漁港から少し内陸に入ったビニールハウスの点在する地域の家に着いたのは次の日の夕刻に近かった。そこに別れた夫の実家があった。
まだ幼稚園児の大樹はそこに預けられている。別れた夫が土日にそこを訪れ日曜の夜に帰ってゆく。しばらくはそんな生活になるはずだ。
敷居の高かった夫の実家の前をゆっくりと通り過ぎた。
車がない。定年間近の夫の祖父は地元の農協に勤めている。まだ帰宅していないようだ。縁側が開いていればと思ったが、もう日中の肌寒い季節だ。サッシ窓は閉ざされ、中の様子は伺えなかった。
このまま家に乗り付けることができない立場。インターホンを押せない立場。そのまま通り過ぎ、オートバイの爆音が聞こえないぐらいのところにある、これも寂れて客の入りの悪そうなパチンコ屋の駐車場に止めた。そこから家がよく見えた。
もうすぐ暗くなる。でも待つしかない。
義母はムリだろう。思えばあの夫の隠れていたイヤらしい気性は義母そっくりだ。それを見抜けなかった自分は愚かだが、あの性格では恩情を期待するのは無理だろう。
だが、義父なら・・・。義母とは正反対に大らかで温厚な性格の義父なら、
「確かに息子との約束を破っているのはよくないが、遠い所をやってきたんだ。せめて顔を見せて抱かせるぐらいは・・・」
そんなことを言ってくれるかもしれない。そこに僅かだが、希望があった。
連れ出すつもりはない。ただひと目だけでいい。大樹の姿が、顔が見たいのだ。
家の向こうの大通りにバスが止まったのが見えた。もう、ヘッドライトが付いていた。そのバスから小さな影と大人の影がひとつずつ降りた。バスが去り、その二つの影が畑の畔を横切って家に向かうのを見たらもう自然に脚が動いていた。
駐車場のフェンスの隙間を抜け、前の道を家に向かって歩いた。畔を歩く小さな影が大きな影から離れて先に歩き出した。
「だいき!」
声を上げるつもりはなかった。でも、出てしまっていた。
小さな影が立ち止まってこちらを見ていた。間違いない。一か月ぶりに見る、実の息子だった。
「ママっ!」
大樹が駆け出した。美玖も家に向かってどんどん歩を速めた。
「ママ、ママっ!」
畔の終わりで大樹が駆け込んでくるのを待った。でも、結局息子を抱くことはできなかった。
息せき切って大樹を追ってきた義母が大樹の身体を抑え込んだ。
「何しに来たの、あんた!」
美玖は、実の息子がママ、ママと泣き叫ぶのを聞きながら、その、この世で最も醜悪で愚劣な形相を、睨み続けた。
ちょっと飲み過ぎた。
フラフラになるほどではなかったが、そのせいでどこの馬の骨かもわからない余計なヤツと係わってしまった。男は自分だけ気持ちよくなって勝手に寝てしまった。もし美玖が枕探しのようなことをしたらどうするつもりなのか。口先はデカいこと言うくせにセックスは弱いし、あまりにも不用心な男だ。出張で来ているとは言っていたが、仕事も出来なさそうだ。だからこんなところを毎日のようにドサ周りするような役目を押し付けられているのだろう。だが、自分はそんなヤツと行きずりで寝るような女だ。同じようなレベルかもしれない。大人の男は懲りたはずなのに。つくづくガードの緩い女だと自嘲した。
携帯電話を開いて着信とメールをチェックする。メールは一通。あとは着信がスゴイ件数になっていた。全部元夫と彼の雇った弁護士だ。マナーにしていたから気が付かなかった。大方離婚協議書の規定に違反したとかなんとかだろう。いちいち返信しなくても夜が明ければまたかかってくるだろう。
美玖は貴重品を持ってバスルームに入り簡単に汗を流して再び服を着た。
「・・・もう行くのか」
男を起こしてしまったようだ。
「楽しかったわ。じゃあね」
「そんな、つれないな。泊って行けばいいのに・・・」
誰がお前みたいなのとこれ以上同じベッドで寝るかと。歯を磨いて出直して来いと言いたかった。
「朝早く発つの。自分の部屋でもう一寝入りするわ」
「なあ・・・」
「なに?」
「連絡先、教えてくれよ」
「奥さんとお子さんに悪いからこれきりにしましょう」
「・・・なんで、わかった?」
「だって、ケータイの待ち受けにしてるんだもん」
ドアのノブを回しながら、ダメ押しをした。
「縁があればまた会うんじゃないの」
そうして、男のシングルの部屋を早々に退散した。お前のようなチンケな男との縁は、もうない。
北の街の夜はだいぶ冷えた。酔いが醒めたせいもあるだろう。
ママ、ママ、と泣き叫ぶ愛しい息子の顔が頭から離れず、掻き毟られるような胸の内を宥めるために入った酒場で飲み過ぎた結果がそれだった。束の間の道連れの少年の前ではカッコイイ女を演じることができたが、簡単にメッキが剥がれてしまったわけだ。
自分のホテルに戻り、バスルームでシャワーを浴び直しきちんとフェイスケアをして歯を磨く。
ふと、夏樹を思う。
あの後どうしただろう。父親とはうまくやって行けてるだろうか。お母さんには、会えただろうか。
たまらなく夏樹に会いたいと思う。もう二度と会うことはないだろうと思うと、なおさら思いが募る。
あんなにいい子はいない。まだ中学生の身空で、あんなにも逞しい子もそういない。大樹もあんな子になって欲しいが、あの義母の許ではダメだろうなと思う。元夫という、彼女の失敗作の見本を見ているから、なおさらそう思うのかもしれない。
グダグダ下らないことを考えるのはもうやめよう。
一度実家に戻ろうか。逃げてばかりいるとまたろくでもない男に引っかかりそうな気がするから。
どうせ小言の十や二十は浴びてしまうのだろう。小言で済めばいいが、最悪は勘当だとか親子の縁を切るとか言われるのだろうな。それでもいいと思った。
そうだ。帰るついでに一度馴染みのバイク屋に寄ろう。
高校時代から世話になっていて、今の美玖のナナハンもそこで買ったのだ。久々の遠出をしたから点検してもらいがてら、昔話の一つもしてこよう。
少しは気分も軽くなった。ひと眠りしたら、実家のある街に向けて出発だ。
一度そう決めてベッドに潜り込んでしまうと、最低だった夜のことはもうきれいに忘れて深い眠りに落ちて行った。
三日前と同じ鈍行で向かった。キオスクで買った時刻表を見るとどうしても途中大阪か神戸辺りで一泊しなければならない。寝袋を買おうか迷った。都会ならむしろコンビニとか二十四時間のファストフードとかマンガ喫茶とかで朝まで時間を潰す方が目立たない。駅の近くなら始発を待っているみたいに見えるだろう。
乗り換えの駅でトイレを済まし、立ち食い蕎麦屋でうどんを食べた。そんなふうにして大阪のいくつか手前の駅に着いた。ターミナル駅は避けた方がいいと思ったのだ。
駅を出てまずファミレスを探した。やっぱりうどんとサンドウィッチだけじゃ持たなかった。猛烈に腹が減っていた。それにやっぱり一人旅の不安があった。それを喰うことで紛らわせようとした。比較的安くて食いでのあるもの。スパゲッティとか親子丼とかを頼んだ。飲み物は水でガマンした。ハラは満たしつつもゼイタクは敵だった。
半分ぐらいも喰うと少し余裕が出てきて周りを見渡した。どうしても同じ年頃のヤツに目が行く。制服の高校生、大学生、勤め人らしき女。ほとんどが二人以上の連れで来ていた。一人なのは携帯電話や雑誌を読むサラリーマンぐらい。同じような歳の一人のヤツはいなかった。話しかけることはないけれど、たとえ一人でも自分と同じように一人でいるヤツがいれば心強かったからだ。
自分は孤独だった。見つかってはいけないから、自ら望んだ情況なのだが、やはり寂しい。こんな時に奈美がいてくれたら。それか、美玖・・・。
彼女も気ままな一人旅だと言っていた。美玖は今、どこを走っているのだろうか。
「あたしは、旦那さんと息子を裏切った。息子を、捨てた。そういう、汚い女なの」
美玖は自分を「汚い女」だと言った。
彼女がどんな汚いことをして罪を負ったのかは知らない。具体的なことは何も言わなかった。
今まで会った中で最も美人でカッコよくて優しくてエロい。そういう女の人が「汚い」なんて。親切にしてくれたことも「罪滅ぼし」「贖罪」だと言った。
彼女が罪を犯したとするなら、それはきっと美人でカッコよくてエロいからだ。ブスでダサくてエロくない人は罪を犯さないし、犯せない。なら、罪を犯してる人の方がいいな・・・。夏樹は未成年の、特に男子が陥りがちな観念的な遊戯にハマっていた。
家から遠く離れた都会の深夜のファミレスで一人、あの別れ際のキスを思い出していた。
最高のキス。切なすぎるキス。
今も唇に彼女の感触が残っていた。
奈美との初体験を経てなお、初めて女の身体の中に入るという経験を経てもなお、それは消えなかった。忘れられなかった。あまりに大変すぎたせいだと思う。快楽よりも達成感のほうが突出していた。それにに比べ、大人の女のキスは甘くて蕩けそうな官能の余韻をまだ残していた。奈美の中に這入ったことよりも、布団の中や露天風呂で美玖がしてくれたことのほうを思い出し、股間を膨らましていた。
リュックのポケットにはあの住民票の写しと一緒に奈美の携帯電話から書き写したメモが入っている。よほど美玖に電話しようかとも思った。
今どこにいるのだろう。会いたい。めちゃくちゃ声が聴きたかった・・・。
だけど彼女の前でメモを目の前で千切って捨ててしまっていた。
「どうして電話番号わかったの?」
「実は・・・」
家に電話したんじゃなくて女友達の携帯電話で、彼女と初体験したついでに着信履歴調べた・・・。
カッコわる。ダサ。それに携帯の着信履歴を調べたというのがイヤらし過ぎた。なんであんなカッコつけちゃったんだろう。バカだな・・・。
電話は無理。
美玖がダメなら奈美。あまりにも節操が無さ過ぎると思う。だけど、どうしようもないんだ。許せ奈美。あいつならきっと許してくれる・・・。そう思うと声を聴きたくてたまらなくなった。
考えたら何も頼まずにテーブルを占拠したままはマズい。最初から頼んでおけばよかった。この次はそうしよう。
「すいません」
店員にコーヒーを頼むついでに、電話を掛けたいんですが、と言い、荷物を席に置いたまま、財布だけを持って外の公衆電話ボックスへ行った。
財布の小銭入れから百円玉を五枚。これで何秒話せるのだろう。一枚をスロットに入れ番号を押す。次の百円玉をスロットに入れる。呼び出す。
「・・・ナツキ?」
抑えた奈美の声が聞こえた。
「ごめん。声、聴きたくて」
「・・・五分経ったらかけ直して」
「わかった」
ボックスの中で受話器を握り締めて待つ。繋がっていない受話器を持ってガラスのボックスの中で待つというのは、イヤなものだ。夏樹の場合、特にだ。通る人みんなから監視されているような気がする。自宅から何百キロも離れた知らない街にいるというのに。パトカーが近づいて来ると脈拍が早くなる。思わず帽子を目深に被り直す。本当はそういう素振りを見せない方がいい。父のパソコンで「家出 ノウハウ」で検索するといろんなアドバイスが出てきてその中にそういう記事があった。
五分経った。
もう一度番号を押す。残りは400円だ。さっきの百円玉はもったいなかった。コンビニでテレフォンカードを買っておかなければ。
奈美はすぐに出てくれた。
「元気なの?」
「一応」
「ちょっと、大変なことになってるよ」
「何が」
「あんたのお父さんがウチに来てしつこくいろいろ訊かれた」
「例えばどういうこと」
「居場所を知らないかとか、心当たりとか、連絡来なかったかとか」
「そりゃ、聞くよ。そんなのは予想してたから・・・。お前、何も喋ってないよな」
「とりあえず」
「他になんか言ってた?」
「他は、ないかな」
「じゃあ、まだ感づかれてないかな。オレが母さんが生きてること知ってるって。悪ぃな、迷惑かけて・・・」
「そうだ。警察に捜索願い出すって言ってた」
「それも予想の範囲だ」
「ねえ、なんか怖い。会いたいよ・・・」
「二三日で帰るって」
「会いに行っちゃだめ?」
「だってお前学校あるだろ」
「・・・そうだけどさ」
「お前、可愛くなったな・・・」
奈美は変わった。あんなに上から目線で自分をおもちゃにしてきたヤツとは思えないほどだった。年上だったのが、同い年か年下みたいに感じた。女というのはイッパツやると違うもんだなと思った。
「悪い、もう小銭が無い。また電話する」
「ナツキ、・・・愛してる」
少し声が震えていた。
「オレもだよ。じゃな」
百円玉が一個残った。もう少し喋れたが、そろそろファミレスにも戻らねば変に思われる。とにかく、目立たないこと。それもノウハウにあった。ジーンズのポケットに硬貨を突っ込み、ボックスを出た。父が予想通りの動きを始めたのを知ってあらためて気を引き締めた。それに奈美と話せて少し元気が戻った。
店内に戻り冷めたコーヒーを飲んだ。苦い。時計を見た。まだ十一時前だった。始発まで、まだ大分ある。あと一時間くらいここで粘って、コンビニに行き、そこで一時間くらい時間を潰して大通りの向かいにある、もう一軒の別のファミレスに行こうか。
リュックから文庫本を取り出してゆっくりと字面を読んだ。
「コーヒーのお替わりいかがですか」
さも胡散臭そうに、ウェイトレスが言った。
「・・・お願いします」
なるべく低音でボソッと呟いた。
十二時少し前にそのファミレスを出て通り沿いのコンビニに行き、リュックを足元に挟んで三十分ほど立ち読みし、それから千円のテレフォンカードとガムを買い、コンビニを出た。
「おう、兄ちゃん。今夜泊るとこあるん?」
薄汚れたジーンズにこれもまた薄汚れてヨレヨレの青いジャンパーを着た三十代くらいの男に声を掛けられた。歯が何本か抜けていた。
「・・・まあ」
と、短く答えた。
「一泊千五百円であったかい布団で寝られるとこ紹介しよか」
こういう手合いのこともノウハウのサイトにあった。
安宿に次々と宿無しを放り込んで無理矢理契約書を書かせ、翌朝迎えに来たワンボックスカーに乗せて一日一万円ほどのの建築現場などの日雇いに送り込み三四千円ほど上前をはねてゆく。中にはそれがヤクザの資金源になることもある。下っ端のペーペーのシノギというやつだ。こういうのには出来るだけ拘わらない方がいい。
「結構です」
「兄ちゃん、家出やろ。交番タレこまれてもいいんかいな」
「どうぞ、ご自由に」
どうせカマかけているだけだ。足早にそこを立ち去って目当てのファミレスに入ってしまう。交番に行ったところでああいう手合いは警察もマークしているからまともに相手にされるわけがない。サイトにはそうも書いてあった。誰が書いてくれたか知らないが、貴重な情報をUPしてくれていて助かった。たった一人で行動していると情報というもののありがたみがよくわかる。
あと四時間ちょっとで駅が開く。
オーダーしたコーヒーを飲みながら、CDプレーヤーを出してラフマニノフを聴いた。ふと美玖のことを思う。
今、美玖がそばにいてくれたら、と。
ファミレスの店員には悪かったが、コーヒー一杯で四時間以上も居させてくれたのはありがたかった。幸いにももうあの手配師のような中年男の姿はなかった。
まだ暗い空の下、少し早めに駅に行き、シャッターの開くのを待って構内に入った。切符の自動販売機の前で再び待ち、切符を手に入れてすぐにフォームに降りた。
そこで始発を待った。大阪まで行って神戸行きの鈍行に乗り換え、そこでまた乗り換える。姫路でまた乗り換えてその日の三時ごろには目的地に着きそうだった。
コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、リュックのポケットを探り住民票の写しを取り出し、もう一度住所を確認した。
もちろん、転出先の電話番号はNTTの番号案内で調べた。
「そのご住所ではお届けありませんが・・・」
機械的な女の人が機械的にそう言った。
母と伯父の父、夏樹にとっては祖父の実家に当たるところだ。祖父の家にさえ行ったことがない。その祖父のさらに実家となると、赤の他人とどう違うのか、というレベルだ。だが、母と伯父はそこへ転居したことになっている。電話もつながらない。
心細いことこの上ないが、伯父の山荘に行ったときとは違い、手にはちゃんと住所がある。現地の交番に行って聞くわけには行かないが、うろ覚えの記憶だけを頼りに行くのとこうして住所がわかっているのとでは全く安心感が違う。行ってみるしかないのは同じだが、そこが大きく夏樹を励ました。書類を大切に折りたたんでリュックのポケットに戻した。もう一個のおにぎりをパクついているうちに始発列車がフォームに入って来た。ガラガラの車内に乗り込み、シートに座った。
同じようにして神戸駅から下りの電車に乗るころには乗客がだいぶ増えてきた。反対方向の上りに比べれば大分空いている。車両は四人掛けのコンパートメントの座席だった。適当に席を取り、向かいの座席にリュックを置いた。履きっぱなしのスニーカーを脱ぎ、向かいの座席に脚を載せた。足が浮腫みかけていたから気持ちよかった。足の指をにぎにぎしていると発車のベルが鳴り、もう乗り込んでこないとわかると、ホッとした。
「すんまへん、ここ、ええですか?」
窓の外を見ていたら関西弁の若い男に声を掛けられた。慌てて足を下ろしリュックを取ろうとしたら電車が動いた。揺れのせいで男が態勢を崩し夏樹の方へ揺らめいた。少し体がぶつかった。
「おっとお! あ、ごめんなさい。大丈夫?」
「・・・はい」
「ごめんなさいねえ。一人旅?」
男は特徴のない顔で向かいに座り微笑んだ。夏樹はリュックを脇に抱き、
「はい・・・」と答えた。
「ジブンどこから来たん。関東やろ」
「まあ、そんなとこです」
「喋りでわかんねん。高校生?」
あまりに来やすく声を掛けられたから、調子に乗ってボロが出ないようにするのに気を遣った。
「中退して、これから雇ってくれるところに面接に行くんです」
こんなふうに答えておけば二歳ほどサバを読むだけだからヘンに怪しまれずに済む。少し幼いっぽい高校退学者。高校を辞めれば働かなくてはならない。こんな時間に私服で移動していてもおかしくはない。
「そおかあ。人生いろいろやな・・・。あ、次やわ。ほな、頑張ってな」
「・・・どうも」
男はたった一駅で降りて行った。
列車が動き出し、再び乗って来る人がいないのを確認して、もう一度両脚を向かいの座席に載せた。動き出した窓からフォームを見ると、さっきぶつかって降りて行った男と目が合った。男は小馬鹿にしたような冷たい笑みを浮かべて夏樹を見ていたが、すぐに見えなくなった。
そこで違和感に気づいた。
尻のポケットを探る。
ない。
ポケットの財布が、無くなっていた。
やられた・・・。さっきのあの男だ。
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