道連れは可愛くて逞しい ~ミクとナツキの物語~

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05 I have nowhere to go at・・・

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 山の日暮れは早い。陽が落ちる前にそのバスの終点に着いた。

 ガソリンはまだ半分以上はある。次の街までは十分に持つだろう。

 バス停の時刻表を見た。薄暗すぎて見えないなと思っていたら、屋根のある待合の灯りが付いた。それで読めた。センサーか、タイマー式なのだろう。一日二本。もう、街へ降りるバスは二時間も前に出ていたのを知った。つまり、もうそのバス停にはバスは来ない。明日の朝八時まで。ということは、それまでの間はこの屋根のある待合が一夜の仮宿に使えるということだ。

 壁を板で葺いた、瓦屋根の一間半ほどの間口の小屋だ。壁の外には清涼飲料や商工ローンの錆びて色褪せた鉄の看板が掛けられている。まるで何十年か前にタイムスリップしたような、時代から忘れられた停留所、という感じ。

 それでも、テントや屋根のある寝床はありがたい。たとえ天井の隅に蜘蛛の巣が張っていようと、虫が何度も蛍光灯にぶつかってブンブンいっていたとしても、それがあるのとないのとでは大違いだ。満天の星空の下で寝たとしても朝になると夜露が降りて寝袋も顔もびしょびしょになってしまう。ツーリングでよく、こんな田舎のバス停の中で寝たから、美玖は慣れていた。

 タンクの上のバッグからヘッドライトを取り出して頭に着ける。灯りを点けてまず最初に単車を点検する。寝る前に異常な個所を把握しておくのは大切なことだ。特に異常はなさそうだ。次いでリアのサドルバッグから携帯用のコンロを取り出して、コンビニで買ったボンベを繋ぎ火が付くかをチェックする。OK。

 そしてバッグとヘルメットをバス停の待合の中に運び込み、これもバッグから取り出した薄手のシートを広げバイクの上にかける。露避けのためだ。その際、マフラーとエンジンの温度に注意。停止したばかりのエンジンは熱い。うっかりナイロンのシートをかけると熱で溶けてしまう。まだエンジンは熱かった。山の夜は急に冷える。両手をエンジンの上に翳して揉み、しばしの暖を取る。この温もりが心地いい。愛車がさらに愛おしくなるのはこんな時だ。シートをハンドルの上に引っ掛けて、待合に戻る。

 コンロを椅子の上に置く。次いで携帯用のパンセットを分解してヤカンとフライパンとソースパンとに分け、組む。そのうちのヤカンにコンビニで買った水を注いで火にかける。これも携帯用のホーローびきのマグカップを取り出す。さらにマッチやら調味料やらを入れてある、防水加工した小物入れを取り出す。中に小さな瓶入りのインスタントのコーヒーが入れてある。ふたを開けて、カップに入れる。

 振り分けのもう片方にはシュラフが詰め込んである。それを引っ張り出して待合のベンチに広げているとお湯が沸いた。お湯をカップに注ぐ。香ばしいコーヒーの香りが夕暮れの山の冷たい空気と溶け合う。やれやれとシュラフの上に腰を下ろし、湯気の上がるカップを抱えふうふうしながら啜る。

 それでやっと人心地がつく。

 谷の向こうの西の山の稜線を見上げる。もう山は真っ黒に沈んだ。辺りには一つも灯りが見えない。このバス停は登山道の入り口まで客を運ぶためのものなのだろう。街の中から二時間足らずで来れてしまうところにこんな辺鄙なところがあるとは知らなかった。

 道はまだ北に続いている。その峠を抜けると、山の向こうの街へ降りる道だ。明日はその街で一人用のテントを買おう。コインシャワーかマンガ喫茶、銭湯があれば上等だ。このあたりの温泉を期待して来たが、ガイドブックには見当たらなかったから。北の峠を抜けた街のさらに北には温泉場がある。明日の目的地はそこにしよう。温泉に浸かり、命の洗濯と洒落てみよう・・・。

 美玖は目を閉じた。

 静寂が訪れ、孤独が現れる。単独ツーリングの醍醐味は、これだ。

 鳥も塒に引き上げたのか、さえずりももう聞こえない。谷底の水のせせらぎもない。谷が深すぎるのだろう。聞こえるのは、風の音。それに遠くの空を行くジェット機。もうすぐフクロウが鳴きはじめるかもしれない。もう少しよく耳を澄ますと、暗闇のどこかからちょろちょろ水の流れる音が聞こえる。近くに湧水があるのだろう。朝になったら探してみよう・・・。

 コーヒーをもう一杯飲むうちに山の稜線は星が縁取った。

 サンドウィッチを買っておいたが、なんだか食欲がない。明日の朝に食べることにして、今夜はもう寝ようと思った。

 オートバイのエンジンは完全に冷えた。シートをかけて洗濯ばさみで留めた。ツーリングでガムテープ、針金、洗濯ばさみは必需品だ。持っていると何かと役に立つ。簡単に後片付けをして、早々にブーツを脱ぎシュラフに潜り込んだ。

 しかし、眠ろうとすればするほど目は冴えるばかりだ。久々のロングツーリングなのに。疲れているはずなのに。どうしても眠気が来ない。

 やはり大樹のことを思ってしまう。

 もう元が付く夫の弁護士から法律上面会権だけは許されることを聞いた。ただし月に一度。しかも夫の都合に合わせねばならない。その上で三百キロ離れた元夫の実家に行き、半日だけ苦手だった元義母立ち合いで会うことができる。しかし子供のことだから急に体調が悪くなることもある。その際は潔く諦め次の機会を待つ。離婚協議書にそう書いてある。仮に会いに行ってもその都度「大樹の体調が・・・」と言われてしまえばそれまでだ。もう二度と会えなくなる可能性だって、ある。

 このひと月足らずの元夫との係争のなかで、彼の本質がわかりすぎるほどにわかってしまった。サバサバして大らかでワイルドだと思っていた人は、実は慎重で猜疑心が強く狡猾ともいえるほど抜け目がなかった。自分が最も嫌うタイプの男だった。そのもっとも嫌うタイプの男と結婚してしまった。男を見る目が無かった。もっとも、むこうもそう思っているかもしれない。オレは女を見る目が無かった、と。

 美玖は自嘲した。

 しでかしてしまったことへの後悔。家族の団欒を失って一人真っ暗な山の中で身を横たえる寂しさ。明日への、その先への不安・・・。解決はできないにせよ、眠ることで、そんな不快な気分から一時的に遠ざかることができる。でも眠気が来ないと、束の間の安らぎも来ない。

 思えばあの男とのセックスも、そんな漠然とした不安や不快から逃れるためのものだった。

 次第に離れて行く夫の心への寂しさと不満。結婚生活への期待が裏切られた落胆。あまりにも冷淡で淡白な夫への寂寥と空疎、そして疎外。そうした不快なものたちから逃れるため連日のように男の身体を求め、数えきれないぐらいの絶頂を得たが、ただそれだけだった。

 セックスの快感はその時だけ。他には何ももたらさなかった。むしろ、そのせいでかけがえのないものを失ってしまった。ただ一つの救いだった息子という存在まで失い、後には何も残らなかった。

 そして、信じられないことに、あれだけ自分を突き動かしていた、激しい性の衝動がもう跡形もなく消えてしまっていた。こんなに簡単に、あっけなく失われてしまうもののために、大切なもの全てを失ってしまったなんて・・・。

 こんなことになるなら、しなければよかった。

 絶対に泣かないと決めていた。でも、涙が勝手に溢れて来る。

 誰でもいい。骨が折れるぐらい、きつく抱きしめて欲しい。そうでないと・・・。

「失ったものの大きさと犯した罪の深さに呆然自失し、自ら死を選ぶ人もいます。

 わたくしでお力になれることがありましたら、何なりとお申し出ください」

 夫の弁護士はさも善人面してそう、宣うた。誰が慰謝料ふんだくったヤツなんかに助けを求めるか! 新手のイヤミですかと言いたかったが、無益なので黙った。

 きっと、全てを無くした女を揶揄いたかっただけだろう。人間として最低な人種が、弁護士という職種にはあまりにも多すぎる。アイツらは結局、金だけだ。


 

 暗闇が白々と明け染めるまで、美玖は一睡もできず、煩悶を繰り返した。
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