上 下
75 / 89
おけいこは続く

カオル

しおりを挟む
 わたしは、15で産んだ自分の娘に「薫(カオル)」と名付けた。

 しかし、これも当たり前だけれど、まだ子供だったわたしには、子供一人を育て上げるという厳しさがわかっていなかった。

 若くして不用意に母親になった女の多くがそうであるように、わたしもまた産んだ後のこどもの養育についてまったく何も考えていなかった。考えることが、できなかった。

 わたしもいろいろ混乱していた。

 どう考えてもまだハイスクールに入ったばかりのわたしがカオルを育てるのはムリだった。

 まだティーンエイジャーの真っ只中で、自分の体が日一日と変わって行くのが不安で、でもお腹の中の新しい命に愛おしさも感じつつその日を迎え、二人の母たちもいない外国で出産を、カオルをこの世に産み、そのあまりに愛らしい食べてしまいたいほど可愛い娘に温かい気持ちになる一方で、これからどうしたらいいのだろう、と、形のない漠然とした不安に襲われ始め、それに押しつぶされそうになっていた。


 

「でね、この子育ててくれない?」

 全てを投げうって駆けつけてくれたスミレに、あろうことか、そんな無責任な言葉を吐いていた。その時のわたしは、そう言う以外に言葉を知らなかった。

 サッと顔色を変えたスミレは手を挙げた。殴られる!  思わず目を瞑った。

 それほどまでに怒ったスミレを、初めて見た。

 スミレが振り上げた手はマークおじさんの浅黒いがっしりした手に掴まれていた。

「子供が子供を産んじゃったんだ。ここは怒るよりも考えるべきところだと思うよ、スミレ。それがぼくら大人の務めだ」


 

 大人の男の落ち着いた態度。

 それは、それまでのわたしが感じたことのない安らぎを与えてくれた。でも同時に、心が落ち着くに連れて、少しずつ、わたしは自分がしでかしたことの重大さを思い知り始めてもいた。

 あんなに怒った母を見るのは初めてだった。カオルを育ててきた今なら、あの時の母の怒りの理由がわかる。


 

「ちょっとサキと二人だけにしてくれないか」

 マークおじさんはわたしを庭のブランコに誘った。

 まだドキドキが止まらずにいた。

 淡い街灯に照らされた、閑静な住宅街を走るドライブウェイ。それを望む広い芝生の片隅にポツンとあるペアブランコの周りには、昼間彼の子供たちが遊んだ一輪車や大きなボールやらが転がっていた。

 マークおじさんはわたしをブランコに座らせると隣に座った。気持ちいい夜風がわたしの緊張をほぐした。

「ねえ、サキ。

 なぜお母さんがあんなに怒ったのか、わかるかい?」

 彼は夜空を見上げた。トーキョーとは違い、街中から少し離れただけで、驚くほど星が瞬いているのが見える。

「スミレはね、5人兄弟の末っ子だった。でも、上のお兄さんやお姉さんたちとは歳が離れすぎててね、まるで一人っ子みたいにして育ったんだ。お父さんもお母さんもいつも忙しくってね。朝も晩も一人っきり。家政婦はいたけれど、とてもご両親の代わりなんかできやしないよな。

 サキ。キミもそうだったんだってな。スミレから聞いたよ。

 かつての自分と重ねてね。自分と同じような目にだけは合わせたくない。そう思っているのに、なかなか出来ないんだ、って。とっても申し訳なさそうに、話していた」

 父の顔も知らずに育ったわたしには、どっしりとした岩のようなおじさんがまるで父のそばにいるように感じられた。

「サキ。キミには二人のお母さんがいる。

 一人は、キミの命をくれたお母さん。

 もう一人は、キミを育ててくれたお母さん。

 二人とも一人の男性を愛していた。二人とも、彼のことを『サキさん』と呼んでいた。キミの名前とおんなじだ。

 片一方がキミを産んだ。だけど、キミを産んだお母さん以上にキミを望んでいたのが、スミレなんだ。

 だから無理を言って何度も頭を下げてキミを引き取り、自分の娘として育ててきた。キミが今ここにいるのも、できるだけいい教育を受けさせたいとの親心なんだ。

 キミの素晴らしいお父さんが忘れられないから。お父さんに恥ずかしくないような人間になってほしくて。キミは二人のお母さんと、お父さんの愛の結晶なんだよ。

 スミレは今、とても難しい大事な時を迎えている。一日も早く社長になって、キミのおじいさんの代わりに会社を切り盛りして行かなきゃならない。全世界の何万人もいるタチバナの社員たちを率いて、会社を支えもりたてて行かなきゃならない。

 それでも、キミの一大事だからと、忙しい中わざわざ来てくれたんだよ。

 そのキミが、ボクや周りの人の諫めも聞かず、自分勝手に産んだ子を、面倒だから育ててと言われたお母さんの心の内を考えたことがあるかい。何も感じないかい? 」

 わたしは深い悔恨に襲われ、泣いてしまった。

 マークおじさんは、温かくて大きながっしりした手でわたしの手を取り、しっかりと握り、もう片方の大きな手でわたしの肩を抱きしめた。

「サキ。

 確かに、キミは望まない妊娠をしちゃったかもしれない。誰が父親かもわからない、そんな状況だったかもしれない。

 でも、だんだんお腹の中の新しい命が愛おしくなっちゃったんだよな? だから産むと決めたんだろう? カオルを抱いて、とても優しい気持ちにもなった。そんな可愛いカオルをこのままお母さんに任せちゃって、キミは平気なのかな? そうじゃないだろ?

 ボクとワイフはね、そんなキミを可愛いと思った。キミの気持ちに応えたいと思ったんだ。だからこうしてキミを応援してる。

 同じなんだよ、サキ。

 スミレやレナがキミを思う気持ち。キミがカオルを思う気持ち。それと同じなんだ。

 キミの不安はよくわかる。でもね、何も特別なことは要らないんだ。

 キミは素晴らしい経験をした。苦しんで、痛みに耐えて、新しい命をこの世に生み出した。自分の子を抱きしめてやりたい。キスしてやりたい。自分の腕の中で眠らせててやりたい。それはとても素晴らしい、でも自然な気持ちだ。その気持ちさえあれば、いいんだよ。

 そういう気持ちさえあれば、十分なんだ」

 マークおじさんの優しい、黒い瞳は街灯と星の灯りを反射してキラキラと輝いていた。




 これも今にして思うのだけれど、マークおじさんは、たぶん、本気で母を、スミレのことを愛していた。

 でも、日本の女より日本的な、夫につくすタイプのWASPの女性を妻にするような、日本の男よりつましく奥ゆかしい男であるマークおじさんは、きっと母とは合わなかったろう。

    今、世界的な巨大企業タチバナに君臨するわたしの母、スミレをスミレ足らしめているのは、間違いなくわたしに命をくれた父、わたしがその名前をいただいた「サキ」という男性なのだろうから。



 ままならないもの。

 人はそれを「運命」と呼ぶ。

 本当に、マークおじさんと奥さんにはとてつもなく、世話になった。どれだけ感謝してもしきれない。
 



 次の日。

 わたしは、愛しい娘カオルを抱いて、母スミレと共に、日本に向かうタチバナのプライベートジェットに乗っていた。


 


 


 


 


 

 あれから、15年も経つんだな・・・。


 

 朝降った淡雪が消えた街路。

 初詣の帰りだろう、母親に手をひかれた振り袖姿の可愛い女の子を見ていたら、埒もない回想をしてしまっていた。

 逃げ回っていても仕方ない。今、強烈な日差しが降り注ぐ南の島で年越しをしているであろうスミレ。彼女にはちゃんと向き合って思いを伝えなければ。

 エンジンをかけ、わたしはカオルがレナの作ったお雑煮を食べているであろう実家に戻った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】散らされて

月島れいわ
恋愛
風邪を引いて寝ていた夜。 いきなり黒い袋を頭に被せられ四肢を拘束された。 抵抗する間もなく躰を開かされた鞠花。 絶望の果てに待っていたのは更なる絶望だった……

下品な男に下品に調教される清楚だった図書委員の話

神谷 愛
恋愛
クラスで目立つこともない彼女。半ば押し付けれられる形でなった図書委員の仕事のなかで出会った体育教師に堕とされる話。 つまらない学校、つまらない日常の中の唯一のスパイスである体育教師に身も心も墜ちていくハートフルストーリー。ある時は図書室で、ある時は職員室で、様々な場所で繰り広げられる終わりのない蜜月の軌跡。 歪んだ愛と実らぬ恋の衝突 ノクターンノベルズにもある ☆とブックマークをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

王女、騎士と結婚させられイかされまくる

ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。 性描写激しめですが、甘々の溺愛です。 ※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。

寡黙な彼は欲望を我慢している

山吹花月
恋愛
近頃態度がそっけない彼。 夜の触れ合いも淡白になった。 彼の態度の変化に浮気を疑うが、原因は真逆だったことを打ち明けられる。 「お前が可愛すぎて、抑えられないんだ」 すれ違い破局危機からの仲直りいちゃ甘らぶえっち。 ◇ムーンライトノベルズ様へも掲載しております。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

愛娘(JS5)とのエッチな習慣に俺の我慢は限界

レディX
恋愛
娘の美奈は(JS5)本当に可愛い。そしてファザコンだと思う。 毎朝毎晩のトイレに一緒に入り、 お風呂の後には乾燥肌の娘の体に保湿クリームを塗ってあげる。特にお尻とお股には念入りに。ここ最近はバックからお尻の肉を鷲掴みにしてお尻の穴もオマンコの穴もオシッコ穴も丸見えにして閉じたり開いたり。 そうしてたらお股からクチュクチュ水音がするようになってきた。 お風呂上がりのいい匂いと共にさっきしたばかりのオシッコの匂い、そこに別の濃厚な匂いが漂うようになってきている。 でも俺は娘にイタズラしまくってるくせに最後の一線だけは超えない事を自分に誓っていた。 でも大丈夫かなぁ。頑張れ、俺の理性。

伯爵令嬢のユリアは時間停止の魔法で凌辱される。【完結】

ちゃむにい
恋愛
その時ユリアは、ただ教室で座っていただけのはずだった。 「……っ!!?」 気がついた時には制服の着衣は乱れ、股から白い粘液がこぼれ落ち、体の奥に鈍く感じる違和感があった。 ※ムーンライトノベルズにも投稿しています。

【R18】国王陛下はずっとご執心です〜我慢して何も得られないのなら、どんな手を使ってでも愛する人を手に入れよう〜

まさかの
恋愛
濃厚な甘々えっちシーンばかりですので閲覧注意してください! 題名の☆マークがえっちシーンありです。 王位を内乱勝ち取った国王ジルダールは護衛騎士のクラリスのことを愛していた。 しかし彼女はその気持ちに気付きながらも、自分にはその資格が無いとジルダールの愛を拒み続ける。 肌を重ねても去ってしまう彼女の居ない日々を過ごしていたが、実の兄のクーデターによって命の危険に晒される。 彼はやっと理解した。 我慢した先に何もないことを。 ジルダールは彼女の愛を手に入れるために我慢しないことにした。 小説家になろう、アルファポリスで投稿しています。

処理中です...