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秘書のおけいこ

50 おつかいのおけいこ

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「いいか。どういう情報が漏れたかわからなければ相手も対応のしようがなくなる。くれぐれも相手に渡すな。ターゲットに会うまでは、絶対に知られたくない。それだけは肝に銘じろ!」

 東に向かう新幹線の中で、サキさんの言葉を反芻する。今回のミッションは非常に重要なものなのだということが、それでわかる。

 相手、というのはスミレを尾行する者、つまりはサキさんの敵のことだ。もう何度もおつかいはしたのに、やはり緊張が高まって来る。

「それとな、いい男がいたからってみだりに声かけたりするなよ」

「しませんよ、そんなこと! するわけないでしょっ!」

 きっとスミレの顔に緊張が走ったのを見てリラックスさせるために言ったのだろう。サキさんはそういうところは繊細に神経を配る。伊達に何人もスレイヴを抱えてはいない。それほどなら、重大なメルカリを果たそうとする自分に少しは優しい言葉をかけてくれてもいいのに。これも、そんな男に惚れてしまった女の業なのだし、秘書の給料の内なのだろう。吐息をついて自分を慰める。

 昼前に終点に着く。

 ひょっとすると、もう尾行が付いているかもしれない。

 新幹線に乗っている間ずっと、そんな緊張に晒されている。その可能性は十分にある。

 スミレの住む地方都市ならそれとすぐわかる。だがこの大都会の首都だとそれは容易にはわからない。サキさんが首都に本拠を置かず、やや不便な地方都市に置いているのはそうしたことも理由の一つなのだと、いつだったか教えてくれたことがある。

 列車を降り、人波の中に紛れ駅のトイレに入る。そこで用意した長い黒髪のウィッグを着け、リバーシブルのジャケットを裏返す。用意したジーンズを穿き、スカートを脱ぐ。紙袋にスカートを入れ、鏡で頭をチェックしてから個室の中を見回し、忘れ物がないか確かめる。

 個室の外が静かになり、また物音がしたところでドアを開ける。洗面所でもう一度鏡を見て手を洗う。ここでウィッグを触る愚は犯してはいけない。鏡は自分の顔を見るためではなく、スミレに注がれる視線のチェックのためだ。

 トイレを出て、キオスクで経済新聞を買い、すぐにバス停に行く。

 三つ目の停留所で降り、地下鉄に乗り換える。この一連の動きは昨夜何度もシミュレーションした。ちょっとでも戸惑うと、もし尾行が付いていた場合余裕を与えるからだ。

 時にはワザと路線図を見て戸惑っている風も装う。これも尾行者を確認するためだ。

 スマートフォンを見るふりをして画面をミラーにする。新聞を読んでいる男、スマートフォンにじっと見入る女などの特徴を覚える。同じ人物がこの後も見掛けられれば、そいつが尾行者だ。その可能性が非常に高い。

 地下鉄を諦めたふりをしてもう一度地上に出る。タクシーを拾い、ブロックを二つ行ったところで大きなホテルに入る。そこで再びトイレに入り、もう一度ウィッグを取りキャップを被り、ジャケットを脱いでバッグから薄手のウィンドブレーカーを取り出して着る。

 ホテルの目立つごみ箱に最初のスカートの入った紙袋を捨てる。こういうところなら、少なくともすぐにゴミ箱を漁ることはできない。

 このしつこいほどの変装の変更は、そこかしこにある防犯カメラ対策だ。これもサキさんの指示だ。

「AIが発達したからな。顔や洋服の特徴を膨大な動画情報から瞬時に解析する技術もできてる。仮に尾行を撒けたとしても、どこかでそれをオンラインで追尾しているヤツがいるかもしれない。行動中はマメに姿を変えろ」

 入って来たのとは別の出入り口から表に出てまたタクシーを拾う。左手首の安物のミッキーマウスの腕時計を見る。9時26分。待ち合わせまで、あと4分だ。この待ち合わせの場所と時刻だけをサキさんから聞いていた。なんとか間に合いそうだ。

 ここでワザとウィッグを入れた紙袋を置き忘れる。足元に置けば、運転手がすぐに忘れものに気づくことはない。

 さらに3ブロックほど走り、ようやく目的地のバス停が近づく。そのだいぶ手前で下ろしてもらい、ワザと小走りにバス停に向かって走る。

「あーん。行っちゃった。ねえ、おっちゃん。貿易ビル行きのバスって次何時にくるかなあ」

 事前に聞いていた、競馬新聞を読んでいる、すこしくたびれた中年の男に声を掛ける。

「おねえちゃん、あかんな。それ、この停留所やないよ。このもう一本先のブロックやわ。汚いラーメン屋の前のやで。そこのラーメン美味しいねん。急ぎやないなら、あんないしよか」

「じゃあ、おねがいしよっかなあ」

 スミレはそのタバコ臭い中年男と並んで広い路地を入る。

「遅いやないか」

 彼はスミレの耳にだけ聞こえるように声を落とした。お互いに初対面だ。スミレの下げている紙袋にさりげなく競馬新聞を落とし、尻に手を回し、撫で始めた。傍目には、いまひっかけた若い女をしきりに口説くスケベ親父。そんな風に見えるだろう。

「すみません。ちょっとしつこそうなのがいたような気がして」

「言い訳無用や。ほなな」

 お互いに名前も名乗り合わない。男はさっとスミレから離れた。

「なんやこのしょうむない娘! こっちからお断りやわ」

 周りには小娘をナンパしようとして断られた、哀れなおっさんに見えることだろう。

 彼はもといたバス停の方に引き返し、スミレはそのまま真っすぐ歩いて向こう側のバス通りに出る。信号を渡って、向かいの大きなホテルに入りまたまたトイレに入る。

 そこてバッグからタブレットを取り出し、紙袋から男が落としていった競馬新聞を広げ、挟んであるUSBメモリーをポートにさして繋ぐ。

 タブレットの画面には、乱数表が現れる。暗号だ。

 それをスミレはその場で解く。

 それは、電脳が作り出す最新の暗号技術からすればずいぶん旧式な暗号だった。でも、なまじ機械にばかり頼る昨今ではこうした旧式が有効な場合がある。

 乱数表はざっと200行ほど。これを解くにはキーがいる。

 それがキーになることは、この乱数表を作った人物と、スミレしか知らない。今日は7月3日。つまり、7+3+3=13 これがキーだ。

 もし、あの競馬新聞のおっちゃんが敵に捕まりUSBメモリーを取られても、それが何を意味しているかはわからない。おそらくは何かの書物か電話帳か新聞か聖書か。何と繋がっているかどうかを試すのに現在公刊中の書物や雑誌や新聞など多くの印刷物を参照せねばならず実に天文学的な演算回数が必要になる。仮にスーパーコンピュータを使ったとしても、それがわかるころには年が明けているかもしれない。

 経済新聞は誰にでも買える。経済新聞と、今日の日付、そして第三面。この三つの組み合わせと足し算。そのキーを知っているからこそ解けるのだ。

 このキーは週ごとに変わる。だいたい週初めに、相手はまず、キーだけを伝えて来る。

 あるところからスマートフォンに電話がある。鄙びたラーメン屋からだったり、釣具屋とか、時には交番からだったりする。

「あの、すみません。スマホなくしちゃって、家に電話かけたいんですが、いいですか?」

 電話をかけて来る主は、そうやってラーメン屋や釣具屋や交番の番号を伝えて来る。

「スマートフォンから聞こえてくるのはこんな言葉だ。

「あ、ねえちゃん? コウジ。スマホ忘れてもうてん。今な、交番からかけてんねん。電話代掛かると悪いで、ここの番号言うからかけなおして」

 電話はそこで切れる。

 そこでスミレは公衆電話を探し、今スマートフォンで聞いた番号にかける。

 店の人や交番の警察官が出たら、

「あ、すみません。弟に代わってもらえますか・・・。あ、コウジ?」

 そこで、今週の「キー」を聞く。

「ああ。ねえちゃん、今から帰るで。何か買うてく? ・・・うんうん。あ、その話、、今日の経済新聞の三面に出てたわ。ほなな」

 それで、今週のキーが「今日の経済新聞の第三面」であることがわかる。

 このようにしてキーを伝達すれば、仮に相手やスミレのスマートフォンがマークされて盗聴されていてもキーを盗まれる心配はない。電話の盗聴といってもあらかじめどの電話が使われるか特定できなければ不可能だ。だからこんな手間をかける。

 電話の相手はその都度変わるが、ルールは同じだ。彼ら彼女らはみんなサキさんと同じようなチームで、主に情報収集を担当する。各省庁、大企業、各国大使館、国会議員、大学、警察、そして首相官邸にまで。様々な分野の中枢にアメーバ細胞のように浸透している。

 そこで得た情報を、主に作戦実行を担当するサキさんのようなチームに伝達するわけだ。スミレが今しているのはその「おつかい」なのだ。

 こうして得た、この乱数表と新聞とキーを知るスミレがそろった時が最も危険な時間になる。だからそのまま持って帰るわけにはいかない。可能な限り尾行は撒いたつもりだ。だが、出来るだけ早く解いてしまわねばならない。

 乱数表の13桁目ごとに出て来る数字を拾うため、数字をそろえ、その列だけをコピーして並べる。・・・と、その作業中に扉の外で声がする。しかも足音は二人。それが隣のボックスに入って来た時はさすがに緊張した。全てを抱えて身構えたが、やがて、

「ああん、お姉さま・・・会いたかった」

「私もよ、エミ・・・もしかして、もう、濡らしちゃってるの」

「だって・・・。お姉さまの指が・・・ああっ!」

 フツー、トイレでする? 扉が閉まってるから人がいるのはわかるでしょ? この、ドスケベが! 

 ホッとして声を出さずに大きくため息をつき、水を流す。隣が静かになる。

 心の中で毒づいて、スミレは作業を続ける。

 並べたその一つひとつの数字の文字数を飛ばしながら第三面を右上から順に文字を拾ってゆくと数字を含む文章が出来上がる。15分ほどかかって、スミレはその文章を完成した。

『我々は現在の首脳部の対T国強硬策を支持していない。もし仮に現書記長の更迭、失脚に成功し政権を奪取し得た場合はより融和的な政策に変更する。しかしその場合は貴国がA国の軛(くびき)を脱し、今後我らが採るべき最良の選択である「東アジア経済圏」樹立のためいかなる具体的な政策を実施できるか・・・』

 スミレはそれを数分で丸暗記した。隣の扉の閉まったボックスは静かなままだ。よほど我慢できなかったんだろう。競馬新聞をワザと個室に置き忘れ、スミレは少し同情してトイレを後にする。

「使った電子機器を奪われるとどうしようもない。使用後はすぐに粉々にして海に捨てるか焼き尽くせ」

 空港に向かうモノレールに乗るまでが冷や汗だ。乗ってすぐに途中の物流倉庫前の駅で降りる。サキさんから教わったように運河の傍て持ってきたハンマーでタブレットとUSBを壊す。すぐ脇を大型トラックが轟音を立てて通り過ぎる。USBのチップの残骸だけポケットに入れ、運河沿いを歩きながら何気なく少しずつ、タブレットの残骸をハンマーと一緒に海に投げ捨てる。

 それからもう一度モノレールに乗る。空港の清掃員のオジサンに「すいません。この新聞捨てたいんですが」と経済紙を捨ててもらった。

「帰りは特に気をつけるんだ。短い文章や数字なら暗記しろ。お前自身を誘拐して尋問するケースも考えられる。出来るだけ独りになるな。日本の公安は優しいからな。人目のある所では何の容疑も示さずにいきなり身柄を拘束するのはさすがにやらないだろう。人目につくのがお前を助けるぞ」

 サキさんの言葉を頼りに。飛行機に乗る。

 最後に残ったUSBのくずはサッポロ行きの飛行機の中のトイレに半分を流し、そこから折り返して乗ったカナザワ行の別の航空会社の飛行機のトイレにもう半分を流し、そこからサンダーバードに乗って頭の中の記憶した文章を無言で諳んじながらオーサカに行き、最終の新幹線で帰って来た。

 Tシャツの背中が汗でびしょぬれになっていた。その極限の緊張状態が、駅まで迎えに来てくれたサキさんの顔を見た途端に、緩んだ。

 それなのに、お帰りも言ってくれない。

「で?」

 と彼は言った。

「・・・ここにある」

 彼からねぎらいや優しい言葉を受けるのは諦めて、スミレは自分の頭を指さした。

 駅の駐車場に駐めたサキさんのグレーのネコのセダンの中で、記憶した文章を紙に書きだした。それを受取ろうとしたサキさんが手を伸ばすと紙をひっこめた。

「わたし、頑張ったのよ。チューぐらいしてよ!」

 とスミレは言った。当然だろ? と。

「・・・ったく。お前ってやつは・・・」

 ぶつぶつ言いながら、サキさんはその冷たい唇をスミレに押し当てた。

 心がこもっていようがなかろうが、かまわない。

 その衝動を堪えきることはできなかった。

 まる一日の極度の緊張状態と、任務の重大さからくるプレッシャーと責任から解放されたスミレは、もう身体のどこを触れられさわられても飛び上がるぐらい、焦らしの調教を受けたような状態になっていた。彼の唇を貪り、彼に存分に抱かれることしか考えていなかった。

 サキさんの官能的な唇がスミレの唇を吸い、シートが倒され、舌を捉え、舌を絡ませ、一気に高みに上り、服の上から身体中をまさぐられて最後にTシャツ越しに乳首を摘ままれ頭が真っ白になって・・・。

 ふにゃふにゃになり、力が抜けた。

 サキさんはその力ないスミレの手から易々と紙を奪い取り、キスしながら読んだ。

 そして、フフンと鼻を鳴らした

「やっぱりお前は、面白い女だな」 

 それからサキさんはスミレをプレイルームに送ってくれた。

 これからタップリ愛してもらえるんだ。まるで女子中学生のような初心なウキウキがスミレを包んだ。

 それなのに・・・。

 プレイルームに入るなり、彼はスミレをベッドに放り出した。

「え?」

「僕はすぐに作戦を練らねばならない。ハラ減ったろう。レストランにでも行って、好きなもの好きなだけ食って帰れ。払いは全部僕につけていいから。じゃあな」

  ばたん。

 ドアが冷たく閉まった。

 一瞬、何が起こったのか、すぐには理解ができなかった。官能を高められたまま、独り放置されたスミレにはこの後どうすればいいのかもすぐには思いつかなかった。

 こんな・・・。

 こんな扱いをされるために尾行に怯えながらほぼ丸一日かけて日本中をぐるっと回ったのか・・・。しかも感謝の言葉、愛の言葉の代わりに「面白い女」だとは・・・。

 怒りとか呆れとか、そんな単純な感情はとうに過ぎていて、そこには虚無以外の何物もなかった。無性に胸が痛い。胸が苦しい。これで給料の内だと言われたら、間違いなく、死ねる。

 その痛みを抱えたまま、何も考えられずに彼に言われたとおりレストランに行き、手当たり次第に注文してヤケ食いし、暴飲暴食、胸だけでなく、腹も痛くなって、寂しく自分の部屋に帰った。やっぱりこれも多額の報酬の代償なのだと、無理やりに自分を納得させながら。

 もちろん、ベッドの中で腹を抱えて、泣いた。

 あまりにも冷たすぎて粗雑すぎて過酷すぎる扱いに、絶望しそうになりながら。
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