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「おはよ。課長は?」
「今日は朝から直行みたいですよ」
オフィスに着き自分のデスクにドサッとバッグを置いて、空いた窓際の席を眺めた。
窓の横の柱に彼の行動予定を記した小さなホワイトボードが掛けてある。立ち寄り先の二番目に、今日わたしが訪問する先の会社の名前がある。
行く前に打ち合わせしましょうって、言ったのにな・・・。
椅子の上には紙袋が置いてある。よく見ると黄色い付箋が貼ってある。「よろしく」それだけ。タヌキのマーク付き。今日の商談に持って来いということだ。課長は上司。わたしは部下。タヌキのイラストというのは、わたしのことだ。・・・ムカつく。
今年の新人の席が空席になっているのに気づく。彼を呼ばわる。
「あれ? 野島ー」
遅刻かよ? 彼の監督責任を問われるのは上司のわたし。
「有田ー。野島は?」電話を終えたチームの部下の女性社員に訊く。
「SPの方じゃないですか」
・・・そうだった。忘れていた。
昨日、課長の商談に同行することが決まって、今日自分が行くはずだったイベントの立ち合いを野島に頼んだのだった。彼はわたしが指示した通り、今日のイベントのためにSPセールスプロモーション部へ手伝いに行っているのだ。今頃は郊外の大きな電器量販店の店頭で手配したコンパニオンの女の子のリハーサルをチェックしながら、その新発売のムービーカメラのためのノボリ旗を立てているに違いない。
もどかしいほど、頭が回らない。今朝のヤリオのせいにはしたくないが、仕事に影響するほどサレると、困る。
と、
「あー、片桐君」
背後から呼ばれた。
「お早うございます」
萩田部長は少し北の方のナマリのあるこの営業部のボスだ。チビで、ハゲだ。誰かのようにタイコ腹ではない。
「石丸君がいないからキミに直接言うが、キミなア、少しぃ脇が甘いぞ」
何のことだろう。
「と、おっしゃいますと?」
「新人をあまり遅くまで残業させるのはいかがなものかね」
それだけ言うと部長はいなくなった。
「片桐TL。昨日お帰りになった後に本社のエライさんが来て、部長、いろいろ言われたみたいなんです。労務管理をしっかりするように、って」
萩田部長は親会社からの出向組。部下であるわたしたちではなく常に社長や親会社のほうを向いて仕事をする人だった。
はは~ん。野島のことか、と思い当たった。そこそこデキルヤツではあるのだが、いかんせんまだ要領がわかっていない。それで一の仕事を言いつけると二、か三の割合で残業が増えるヤツだった。
「やっばー」
一応部下の手前ショックを受けたフリをして席に着いた。
やれやれ。
わたしたちが新人の頃は9時10時なんて当たり前。午前様になったことも二度三度ではない。女だろうがなんだろうがカンケーネーと言われて育ったのに。親会社からちょっと言われただけですぐに部下に生で言う。部長はタメるということが出来ない人だった。
その点、直属の上司である課長は違った。
ま、いいや。
課長の席から紙袋を取り上げて中を確認し、今日のプレゼンの内容をもう一度おさらいしていた時だった。
紗代からLINEが来た。写真が添付されていた。
「あたしのオトコだよ~ん。そろそろあんたに紹介したいからお昼一緒にどお?」
プレゼンは午後からだったし誘われた料理屋からならヨユーで間に合う。
いくいくー。
そう送った。
紗代のオトコは、小洒落た和風の民家を改造した料理屋の座敷にゴロゴロ寝そべっていた。マシュマロのような頬を赤くして親指をしゃぶりながら大きな真っ黒な瞳でじっとわたしを見つめている。たまらない。食べてしまいたいほどに、かわええ・・・。
「はじめまちてー。おっきくなったでちゅねー。このぷにぷにのけしからんほっぺとか、太腿はなんでちゅかあ。イカンでちゅねー。ほおずりちてちまいたくなるじゃないでちゅかー」
「幼児語はやめてや」
紗代は抱き上げた息子の口元をガーゼのハンカチで拭った。
「普通に喋らんとイカンて本に書いてあった」
紗代とは小学校の時からのダチである。ここしばらくはLINE友が続いていたが、つい最近ダンナの転勤でこっちに越してきて直で会うのは久々だった。
「いいじゃんちょっとぐらい。だってこんなに可愛いんだもん。ねー、かいんずくん?」
「カ・イ・ン。勝手に人の息子の名前作んなや。命名したきゃ自分で産め」
漢字はもちろん当て字だが、どういう字を書くのか忘れてしまうほどに難しい字だったような気がする。こいつに「DQNネーム」という概念を認知させるにはどうしたらいいのか悩む。
カイン君をあやしているうちに料理が運ばれてきてさっそく賞味する。
「ねえ、食べないの?」
「ちくしょお・・・」
何故か紗代は料理にも手をつけずに唇を噛んでいた。
「え?」
「あんたを悔しがらせようと思ってたのに。なんか、ケッコンしたあたしよりリア充してそうで悔しい」
「何言ってんの。三十路で、おひとり様で、二年前に彼氏と別れてそのまんまの空き家だよ」
「嘘つくな」
紗代は立膝でテーブルを回りわたしの体の匂いを嗅ぎだした。少々焦るわたし。
「お前。男がいるだろう」
「いないよ」努めて平静を装うわたし。
「正直に言え」
「おおう。どう。どう」
なんか、カインくんまでが真面目な顔して責めて来る。辛い・・・。
「あのさあ、せっかくのお料理冷めちゃうよ」
「なんかあんた、淫蕩なニオイがする」
「もしかして、レスなの?」
紗代は急に黙った。思いがけなくも図星をさしてしまったようだった。もしかしてそれでわたしにマウント取ろうとして、悔しがらせようと呼び出したというわけなのか。
「知ってる? あんたと仲良かった駿くん、結婚したってね」
「へえ。あ、そう」
紗代が何の脈絡もなく唐突に懐かしい想い出を振って来たからいささか面食らった。それもまたレスを指摘されたのが悔しかったからなのだろうか。
「今日は朝から直行みたいですよ」
オフィスに着き自分のデスクにドサッとバッグを置いて、空いた窓際の席を眺めた。
窓の横の柱に彼の行動予定を記した小さなホワイトボードが掛けてある。立ち寄り先の二番目に、今日わたしが訪問する先の会社の名前がある。
行く前に打ち合わせしましょうって、言ったのにな・・・。
椅子の上には紙袋が置いてある。よく見ると黄色い付箋が貼ってある。「よろしく」それだけ。タヌキのマーク付き。今日の商談に持って来いということだ。課長は上司。わたしは部下。タヌキのイラストというのは、わたしのことだ。・・・ムカつく。
今年の新人の席が空席になっているのに気づく。彼を呼ばわる。
「あれ? 野島ー」
遅刻かよ? 彼の監督責任を問われるのは上司のわたし。
「有田ー。野島は?」電話を終えたチームの部下の女性社員に訊く。
「SPの方じゃないですか」
・・・そうだった。忘れていた。
昨日、課長の商談に同行することが決まって、今日自分が行くはずだったイベントの立ち合いを野島に頼んだのだった。彼はわたしが指示した通り、今日のイベントのためにSPセールスプロモーション部へ手伝いに行っているのだ。今頃は郊外の大きな電器量販店の店頭で手配したコンパニオンの女の子のリハーサルをチェックしながら、その新発売のムービーカメラのためのノボリ旗を立てているに違いない。
もどかしいほど、頭が回らない。今朝のヤリオのせいにはしたくないが、仕事に影響するほどサレると、困る。
と、
「あー、片桐君」
背後から呼ばれた。
「お早うございます」
萩田部長は少し北の方のナマリのあるこの営業部のボスだ。チビで、ハゲだ。誰かのようにタイコ腹ではない。
「石丸君がいないからキミに直接言うが、キミなア、少しぃ脇が甘いぞ」
何のことだろう。
「と、おっしゃいますと?」
「新人をあまり遅くまで残業させるのはいかがなものかね」
それだけ言うと部長はいなくなった。
「片桐TL。昨日お帰りになった後に本社のエライさんが来て、部長、いろいろ言われたみたいなんです。労務管理をしっかりするように、って」
萩田部長は親会社からの出向組。部下であるわたしたちではなく常に社長や親会社のほうを向いて仕事をする人だった。
はは~ん。野島のことか、と思い当たった。そこそこデキルヤツではあるのだが、いかんせんまだ要領がわかっていない。それで一の仕事を言いつけると二、か三の割合で残業が増えるヤツだった。
「やっばー」
一応部下の手前ショックを受けたフリをして席に着いた。
やれやれ。
わたしたちが新人の頃は9時10時なんて当たり前。午前様になったことも二度三度ではない。女だろうがなんだろうがカンケーネーと言われて育ったのに。親会社からちょっと言われただけですぐに部下に生で言う。部長はタメるということが出来ない人だった。
その点、直属の上司である課長は違った。
ま、いいや。
課長の席から紙袋を取り上げて中を確認し、今日のプレゼンの内容をもう一度おさらいしていた時だった。
紗代からLINEが来た。写真が添付されていた。
「あたしのオトコだよ~ん。そろそろあんたに紹介したいからお昼一緒にどお?」
プレゼンは午後からだったし誘われた料理屋からならヨユーで間に合う。
いくいくー。
そう送った。
紗代のオトコは、小洒落た和風の民家を改造した料理屋の座敷にゴロゴロ寝そべっていた。マシュマロのような頬を赤くして親指をしゃぶりながら大きな真っ黒な瞳でじっとわたしを見つめている。たまらない。食べてしまいたいほどに、かわええ・・・。
「はじめまちてー。おっきくなったでちゅねー。このぷにぷにのけしからんほっぺとか、太腿はなんでちゅかあ。イカンでちゅねー。ほおずりちてちまいたくなるじゃないでちゅかー」
「幼児語はやめてや」
紗代は抱き上げた息子の口元をガーゼのハンカチで拭った。
「普通に喋らんとイカンて本に書いてあった」
紗代とは小学校の時からのダチである。ここしばらくはLINE友が続いていたが、つい最近ダンナの転勤でこっちに越してきて直で会うのは久々だった。
「いいじゃんちょっとぐらい。だってこんなに可愛いんだもん。ねー、かいんずくん?」
「カ・イ・ン。勝手に人の息子の名前作んなや。命名したきゃ自分で産め」
漢字はもちろん当て字だが、どういう字を書くのか忘れてしまうほどに難しい字だったような気がする。こいつに「DQNネーム」という概念を認知させるにはどうしたらいいのか悩む。
カイン君をあやしているうちに料理が運ばれてきてさっそく賞味する。
「ねえ、食べないの?」
「ちくしょお・・・」
何故か紗代は料理にも手をつけずに唇を噛んでいた。
「え?」
「あんたを悔しがらせようと思ってたのに。なんか、ケッコンしたあたしよりリア充してそうで悔しい」
「何言ってんの。三十路で、おひとり様で、二年前に彼氏と別れてそのまんまの空き家だよ」
「嘘つくな」
紗代は立膝でテーブルを回りわたしの体の匂いを嗅ぎだした。少々焦るわたし。
「お前。男がいるだろう」
「いないよ」努めて平静を装うわたし。
「正直に言え」
「おおう。どう。どう」
なんか、カインくんまでが真面目な顔して責めて来る。辛い・・・。
「あのさあ、せっかくのお料理冷めちゃうよ」
「なんかあんた、淫蕩なニオイがする」
「もしかして、レスなの?」
紗代は急に黙った。思いがけなくも図星をさしてしまったようだった。もしかしてそれでわたしにマウント取ろうとして、悔しがらせようと呼び出したというわけなのか。
「知ってる? あんたと仲良かった駿くん、結婚したってね」
「へえ。あ、そう」
紗代が何の脈絡もなく唐突に懐かしい想い出を振って来たからいささか面食らった。それもまたレスを指摘されたのが悔しかったからなのだろうか。
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