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第20話 鴨川スタンダード
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斉藤広美が突然
新幹線に乗り込んで来たのには
かなり驚いた
はじめは奇跡を見ているようだったが
1人になると
嬉しさよりも
彼女の行動が尋常でないように思えてきて
僕はなおさら混乱した
前の日に別れたばかりなのに‥
こんな風になかば強引に
別れ話を帳消しにしてしまうなんて
それは僕が知っていた
広美とは随分違っていた
僕同様
彼女もまた
僕が振り回しているのだろうか
磁石のNとSのように
僕たちは
くっつこうとすると
互いに反発し合ってしまう
京都駅に着く頃には
僕はすっかり冷静さを取り戻した
彼女が別れたくない理由は
やはりただの優柔不断でしかない
僕の前では
あなたが1番みたいな態度を取っていても
園部の前では
はたしてどうなのか
園部のことも好きだと
言い切っている以上
彼女を100%受け入れることはできなかった
バイクの後ろで
園部にしがみつく彼女や
仲睦まじく
ミルクをやめると約束し合う光景が
拭っても拭っても
頭から離れなかった
素直に別れてくれたらいいのに‥
心の片すみに
そんな思いがよぎった
「自己嫌悪ですよ、自分が嫌になる」
「なんで孝ちゃんがそんなん感じんのん?」
「それは…」
「孝ちゃんが腹立つのは、しゃあないんちゃう?」
「そういう自分がイヤなんです」
「彼女も彼女やし、女に手えアゲる男なんて最低やわ」
マズイ、怒ってる‥
僕たちは“祇園さん”で
待ち合わせをした
そんなつもりではなかったのに
電話口で
「これから会えへん?」
と聞かれついOKした
僕はモンシェリに
給料を取りに来ていた
店が混み始め
皆が忙しくなると
手持ち無沙汰になってしまい
ふと彼女に電話してみようと思いついたのだ
番号を書いた小さなメモを取り出し
店の公衆電話から咲子さんに電話した
彼女の声は弾んでいた
「すぐ行くさかい待っててや!」
言われた通り
石段の下で待っていると
東大路をオレンジ色のロードパルがやって来た
あれって‥
咲子さんだった
彼女の恰好は
コットンのスカートに
フリルのついたブラウス
咲子さんにしてはシンプルで
清楚なたたずまいだった
「ラッタッタ?」
「スピード出えへんけどな、便利やねん」
円山公園の中にラッタッタを置くと
彼女は照れ臭そうに笑った
「迷惑やった?手紙とかも」
「いいえ全然」
「ほな、なんで返事くれへんかったん?」
「色々とあって…でも返事は出しましたよ」
「よう言うわ、つい2、3ち前やん!」
「うまく書けなかったんです」
「なんで?」
「それはその…」
好きだから‥
とは言えない
八坂神社は花街の守り神だ
朱塗りの西楼門の下で
咲子さんは
両手を一杯に広げ伸びをした
「もう会えへんか思た!」
振り向いた彼女の笑顔の
憎らしいほど可愛いこと
僕は急に悩みを
共有したくなり
広美との事を打ち明けた
「彼女も園部ゆー子も、孝ちゃんに甘えてんねん」
「甘えてる?」
「あんたが優し過ぎんねやんか」
モンシェリの前を
咲子さんは急ぎ足で過ぎた
「どこ行くんですか」
「どこて、どこにしよ?」
「何時くらいまでいいんですか」
「6時くらいまでかな」
「旦那さんは?」
「やめてよ、舞妓みたいな言い方」
「あ、スイマセン」
「孝ちゃんはどうしたいん?」
「今日ですか」
「ちゃうやん、それもあるけど、彼女のこと」
「しんどいんです」
「ほなら別れたらば?」
「そうですよね」
「新幹線乗って来るとか、計算してたりして」
「それはないですよ」
「言い切れる?」
言い切れない‥
「な?それがあんたのホンマの気持ち」
その通りだった
「もういいです、なんか楽しいこと考えます」
「うちも賛成!」
「映画でも見ますか、暑いし」
「そやね、なんかやってるやろか」
僕たちは新京極へ向かった
「なかなかカッコええやんか」
「そうですか、キマッてます?」
僕はタックの入った麻のパンツに
ストライプのスタンドカラーのシャツを着て
袖を肘まで折りあげていた
靴はやはり麻のコンビだ
これだけで数万円が飛んだ
「似合うてるよ」
「どーも」
「偶然やね、今日の私の恰好と釣り合い取れてるやん」
第2ボタンまで開けた
咲子さんの胸元には
白いプカシェルが揺れていて
小麦色に焼けた肌に際立っていた
僕は彼女の匂いを確かめたくて
歩きながら少しづつ
彼女に近づいた
僕の腕と彼女の肩が
触れるか触れないかの“間合い”
「咲子さん“匂い”変えました?」
「匂い? ああこれ?日焼け止めやん」
「日焼け止め?」
「うち、この香り好きなんやんか」
「なんか甘ったるい匂いがする」
「コパトーンや」
φ(..;)メモメモ‥
「海でもないのに?」
「エエやん、今日は特別やねん」
僕たちが最初に見た映画は
黒のV8インターセプターも
アルマーニに身を包んだジゴロも出て来ない
もしこの時の映画が
メル・ギブソンやリチャード・ギアだったら
僕は単調で退屈な毎日から
一生抜け出せなかったかも知れない
“カッコーの巣の上で”
「面白いのん?これ」
「うーん、たぶん」
自信はない
「どんなん?」
「精神病院の話し」
「ふーん…」
やっぱりデートには不向きか‥
「孝ちゃん、見たいねんやろ?」
「ロードショウで見逃したんです、まさかここで再映してるとは」
「ええよ見ても、うちはかまへんよ」
「笑える話しではないと思うんですよ、なんとなく」
「いいって、つまらんかったら途中で出たらエエやんか」
それは嫌だな‥
「ね、入ろ入ろ!」
「いいんですか」
「ポップコーン買うてくれたらエエわ」
「じゃあえ~と、大人2枚」
もっと女性が喜びそうなのを
選べば良かったかなと僕は思った
でも見たい映画だけは譲れない
女性が食事のあと
甘いデザートを譲れないのと同じだ
映画の中では
ある精神病院に
刑務所から1人の粗暴そうな男が
移送されて来る
これが
ジャック・ニコルソン
何か話した方が良いのかな‥
女の人と2人で映画を見るなんて
親戚のおばさんと
ジョーズを観て以来だ
こんな話ししても仕様がないか‥
僕は
ポップコーンを頬張る咲子さんを気にしながら
スクリーンを見つめた
マクマーフィが
次第に患者たちから慕われ始めるのを
潔癖症の看護婦長が冷ややかに観察している
施設の中は
この婦長によって
管理、統制されていたのだ
事あるごとに
婦長と対立するマクマーフィだったが
彼女の許可を取り付け
みんなで町に繰り出すことに
生きる屍だった患者らが
人間本来の明るさを取り戻していく
咲子さんも
楽しそうに見ている
しかし、はしゃぎ過ぎて
大変な騒ぎに
怒る看護婦長
再治療(ロボトミー手術)の噂
そして
マザコンの青年がついに…
場内は固唾を呑む
咲子さんの手も止まった
激昂するマクマーフィが
婦長に襲いかかる
ダメだやめろ‥
その人に暴力を振るうのは間違ってる‥
取り押さえられるマクマーフィ
心配げな“チーフ”の目
冷徹な婦長のアップ
もう笑えない
笑う所なんかない‥
そんな
まさか‥
重厚なテーマ曲
見ろ“チーフ”が‥
そして…
魂を揺さぶるラストシーン
涙が洪水のように溢れ出た
横を見ると
咲子さんも子供みたいに泣いていた
エンドクレジットが流れ終わっても
涙は止まらなかった
僕たちも他の客も
鼻をズビズビ言わせながら映画館を出た
真っ赤に泣き腫らした目で
お互いに
「良かったねええ~」
ズビビ~
「うん、うん」
ズビズビ~~
ホントにこれで良かったのだろうか‥
「こんなの初めてだよ!」
「スゴかったやん」
「んー凄かった!」
僕たちはしばし感動を分かち合った
「管理主義って許せないよ」
「あの女の人、欲求不満ちゃうー?」
「そうだよきっと」
「チーフは全部わかってたんやね」
「たぶんネ、あの後どうなるんだろ」
「捕まってしまうんやろか」
「逃げ切って欲しいよね」
心からそう思った
映画の中の話しだというのに‥
映画は自由とは何か
人間の尊厳とは何かについて
訴えかけていた
それは僕もずっと
考えてたことだ
映画のように
深刻ではなかっただけで
僕は咲子さんも
同じように感動したことがとても嬉しかった
ひとしきり語り尽くすと
お腹が減ってきた
感動だけでは
空腹は満たせない
僕たちはリプトンで食事をとった
良い映画を見た後は
ハンバーグライスに限る
彼女はレディースセット
飲み物はアイスティー
リプトンでは常識だ
「疲れた?」
「ううん」
僕は2本めのサムタイムに火を点ける
彼女もマイルドセブンを軽やかに吸った
「あのネー」
「なに」
「男の人がハッカタバコ吸うの、アカンの違う?」
「なんで?」
「知らんのん?」
「うん」
「“立たへん”よーになるんやて」
「ブッ!」
「アハハハ!何してんのん!」
「変なこと言うから」
「ホンマやで」
「ホントに?」
「何ともない?」
「あるわけないじゃん」
自分で言ってて恥ずかしい
「あれ?今日指輪してないの?」
「うん、せや」
「どうして?」
「わからへん?」
「うん」
「内緒」
「ふうーん」
「あ、来た!食べよ」
「うん!」
会話が下手なので
僕は黙々と食べた
食べ終わると
煙草が吸いたくなったが
なんとなく気まずい
映画の話しをしようかと迷ったが
いい加減切り替えないと
ただの映画バカだ
「昨日さ」
「うん」
「喧嘩しちゃって」
「誰と?」
「父親」
「どんな喧嘩したん!」
「取っ組み合い」
「ウソ!殴ったの?」
「少し…何発か…数えてないけど、こっちもやられたし」
「やられたって、何してんのん!」
「妹が学校ズル休みしてたんだ、何日も」
「それで?」
僕はやっぱりサムタイムを吸うことにした
妹は家が面白くないと言う
“おばさん”がうるさい、と
母はこの子は
女の子としての“しつけ”が出来てないと言う
親父は
それは仕方ない
お前が急に直そうとするのは
無理がある、と
では何故
一緒に暮らすことにしたのか
私にとっては娘でしょう?
お前はわかってない
わかってないのは貴方
貴方たちは“子離れ”“親離れ”
が出来てない
それなら
こんなこともうヤメよう
聡美?
また3人で暮らすか?
イヤ!
1人で暮らす!
そのオンナもアンタも大キライ!
何をッ!
パアーン!
「叩いたわけ?」
「そう」
「そばにおったん?」
「ずっとネ」
「孝ちゃんは何てゆーたの?」
「僕は親父の悪い癖が始まったと思った」
「お酒飲んでたん?」
「うん」
「最悪や」
そう、最悪だった
僕はずっとそばで
そんなやり取りを
うんざりしながら聞いていた
だってみんな
言いたい放題じゃないか
そんなことしてたら
うまく行くものも行かないに決まってる
でも…
聡美の気持ちは
誰にもわからなかったのだ
こうなるまで
親父の目が座ってきたので
こりゃマズイなと
僕は思っていた
3人でいた時も
こういうことはあった
けれど今回は
“母親”がいる
しかも“応戦”しているから
火に油を注ぐようなものだ
親父は面倒臭さくなって
またぶち壊すつもりだ
今まで何度
ぶち壊して来たか
その度に転校して来たんだ
「聡美の好きにしたら?」
僕は口を挟んだ
聡美はもう黙って堪える
“子供”じゃないのだ
僕と親父は
気付くのが遅すぎた
「お前は黙っとれ」
ふざけんな‥
じゃあ呼ぶなよ?
「なんですぐ白紙に戻そうとすんのさ?」
「聡美!どうなんや?広島帰るか?」
バッカじゃないの‥
だんだん腹が立って来た
「聡美、思ってることちゃんと言えよ?」
「聡美!なんとか言わんか!」
「1人暮らしする」
「学校はッ!」
「もう行かないよ!」
「1人暮らしなんかできんだろ!」
「お兄ちゃんしとるやん!」
そうだったのか‥
「お母さんがイヤなんなら、また3人で暮らしたらいい」
「なんにも知らんくせに!」
「どうしたいんじゃ?え!」
「もうイヤ…」
「聡美、ええ加減にせえよ?」
それはアンタだよ‥
「もう…そのオンナも、アンタも大嫌いなのッ!」
「何をッ!」
パアーン!
この‥
僕が立ったと同時に
親父も立ち上がった
どちらかの手が
蛍光灯の紐に引っ掛かり
居間が真っ暗になった
ガシャンと
何かが倒れ割れる音
「やめてよお!」
妹の泣き声
泣き声だ‥
小さい頃よく聞いた
「このガキは…」
パシン!
ガッ!
クソ‥
頭に血がのぼり
痛みは感じない
ガターン
ガタッ!
パッと明かりが点いた
「ええ加減にしよし!外でしなはれッ!」
母だった
「それで?」
「シラけたからヤメた」
「しょっちゅう喧嘩してたん?」
「うんにゃ、初めて」
ウェイターが来て
お冷やを継ぎ足して行く
「親父、あんまし殴って来なかった」
「あんたは?」
「わかんない、終わった時、お前のパンチはまだ甘いってさ」
灰皿の中で
吸い殻が一杯になった
「妹さんは?」
「知らないよ!」
「………」
「ごめん…なさい」
「ええねんよ」
僕たちは店を出て
とぼとぼと歩き始めた
「ご馳走さまでした」
おごって貰ったのは僕だ
「はーい」
ロンシャンのバッグに
フェンディの財布を仕舞った
「話すつもりなかったんだけど」
「ううん、嬉しいよ話してくれて」
「そう?」
「うん」
「うちもな、片親やってん」
「そうなの?」
「うちまだ赤ちゃんやったさかい、お父ちゃんのこと何も知らへんねん」
「うん」
「せやから、孝ちゃんは羨ましい」
「なんで」
「前ゆーたやろ、中学でグレて高校も行ってへんし」
「うん」
「孝ちゃんは、産んでくれたお母さんのことも覚えてるし、高校かて楽しそうやもん」
「そかな」
「そやて、青春してるやん」
やがて視界が広がり
御池通りに出た
「御所まで行く?」
「遠くない?」
「ううん、もうすぐや」
「じゃあ」
「あ、そこが本能寺」
「ここに本能寺?」
「そうや、知らんかったやろ」
本能かあ‥
「元気出しーな?」
「え?あ、あー元気だよ」
「あれが歴史資料館、見て行く?」
「冗談でしょ、自分んちの歴史もままならないのに」
「ホンマやね、アハハハ」
御所の中は
細かな白い砂利で覆われていた
青い空に飛行機雲がひと筋
「綺麗なとこやろ?」
「うん」
「向こうは入れへんけど」
足元の照り返しも
眩しかったが
歩く度に舞い上がる砂利埃も凄かった
「靴、汚れてしまうね」
「いいよ別に」
僕なんかより
咲子さんの21年の方が
よっぽど壮絶な人生だ
僕はこの人より
遥かに恵まれている
なのにこの人は
明るく快活で毅然と振る舞っていた
おまけに僕みたいな
ガキんちょにまで気を遣って
「咲子さんは幸せ?」
「うーん、どやろか」
「どうして?」
「うちな、離婚するかも知れへん」
「離婚?」
「孝ちゃんに言うてもしゃあないことやんね、私アホやね」
「話してスッキリすることもあるし」
「別れたいねん」
「向こうも?」
「あの人は…私のカラダだけやねん、あの人が求めてるのは」
これは困った
不得意分野だ‥
「我慢してたけど、それも限界やわ」
えーと‥
「昔は優しかってんで」
そうでしょうとも‥
「行こ!」
「ちょっと、どこに?」
「そろそろ、お酒飲める店が開きますよ」
「そやね、飲もか」
「潰れないで下さいよ、前みたいに」
「わかってるワ!」
僕たちは御所を横切り
今出川口から同志社女子大の前に出て
河原町までバスに乗った
ちょっとした市内観光だ
バスの中で
咲子さんはうとうとした
疲れてんだ‥
BALビルの脇に入り
ようやく開いてる店を見つけた
薄暗い店内は
真ん中がダンスフロアになっていた
天井には大きなミラーボールがひとつ
テーブルには白いクロスがかかっていて
照明のせいか青く光って見えた
僕たちは壁を背に
ベンチシートへ並んで座った
「いらっしゃいませ」
黒服がいんぎんに
メニューとコースターを置く
「私、ジンフィズ」
「じゃあジントニックで」
「かしこまりました」
「あっちにもお客さんがいる…」
僕は驚いた
「ホンマやね…」
何故か声をひそめて
「さっきの続きは?」
「御苑の?」
「うん…」
「もういいのん…」
「ホントに…」
「うち、今、幸せよ…」
「そういうのはナシだよ…」
「孝ちゃんは?」
「楽しいよ…」
「お待たせ致しました」
「乾杯…」
「乾杯……」
「あー美味しい…」
「ホント…」
「ジンて好き?」
「うん好き…」
「スピリッツてゆーんだよね…」
「ジンのこと?」
「そう…スピリットの、魂にエスがついて…」
「へえ…」
「あれ良かったね…」
「なに…」
「カッコーの巣…」
「うん…どうしてカッコーなんかしら…」
「カッコーはね、ヒナのうちは他の種類の鳥が育てるんだよ…」
「どうやって…」
「親鳥が他の鳥の巣に卵を産むんだ、それを知らずに育てちゃうんだ…」
「怖い…」
「怖くないよ…」
「カッコーって、クレイジーって意味に繋がるんだよ…」
「だから“巣”なん?」
「だと思う…」
「あんなに泣いたの久しぶり…」
「僕も…」
「映画好きなんやね…」
「うん、親父が好きだったから…もう1杯飲む?」
「あと1杯だけ…酔っ払いキライやろ…」
「そうでもないよ…」
「嘘やん…」
「ここ音楽鳴ってる?」
「鳴ってるけど小さいねん…」
カラン…
「氷の音…」
「うん聞こえる…」
カラン…
「孝ちゃん…」
「ん?」
「ゆーていい?」
「いいよ…」
「孝ちゃんのことが…好き…」
ドクン…
鼓動が鳴る
聞こえたかな‥
「僕も…」
ドクン…
消えてしまいたい
このまま‥
「お待たせ致しました」
“卑怯者”
切なくて声にならない
「孝ちゃん?」
「ん?」
「今日ありがとネ…」
今日が終わる
イヤだ‥
「どうしたの?」
「どうもしない…」
「なんか切ないわネ…」
「あ、これ!聞こえる?」
「なに…」
「セイリングだよ…きっと…」
「音楽?」
「うん…」
「ロッド・スチュワートの…」
「いい曲やね…」
たしか‥
アトランティック・クロッシングの
最後の方の曲‥
「これ原曲があるんだよ…ロッドの曲じゃないんだ…」
「へえ…」
アイアン セイリン~
私は海を行く‥
私は漕ぎ出す?
貴方の近く‥
貴方のそばへ?
アイアン フライン~
私は飛ぶ‥
トゥ~ビー フリ~
自由になるために?
私は飛ぶ
私は飛ぶ?
ライクア バード
クロスザ スカイ
キャンユー ヒアミー?
貴方に
私の声は聞こえてる?
鳥みたいに
空を横切って?
スルーザ ダークナイト?
スルーザ ダークナイト…
「出ましょ」
シンデレラは
どんな気持ちで
お城の階段を駆け降りたのだろう‥
去り難い余韻にがんじがらめになった
四条大橋
ヒグラシが哭く
あの時と同じように
「私、ロードパル置いてくわ、飲んでしもたし」
「大丈夫?」
「平気よ」
「孝ちゃん、この下歩いたことある?」
「え?ないよ」
「来てみ」
橋のたもとから
河原に降りた
「久々やわあ、ここ」
「これが鴨川」
「そうや、夕涼みついで」
「そばで見ると広いね」
「あっちが三条」
「東海道の終点」
「みんなここでデートしてんのよ」
「そうみたいだね」
土手も川っ縁も
アベックが寄り添っている
ひざ枕するカップル
そぞろ歩くカップル
語り合い
中にはキスし合うカップルも
「すごいね」
「普通やわ」
「フツー?」
「せや、鴨川ではフツー」
先斗町側の岸の上に
料亭の床がせり出し
それが延々と続いていた
「お店が出てるんだね」
「ああ川床?」
「カワユカ?」
「カワドコとか、ただ単にユカってゆーたりネ」
完全に重なり合うようにして
抱擁する男女が目に入る
女性の方の下着が丸見えだ
うわ、スゲエ‥
「ど、どこまで続くの?これ…」
「二条から五条まで、お店は100軒以上あるんちゃうかな?」
「そんなに…」
陽が傾き始め
川床の提灯が
ぽつりぽつりと
明かりを燈し出す
「大文字の送り火見た?」
「ううん」
「この辺から見ると1番綺麗なんやて」
「へえー」
西の空が
茜色に染まり
川床にもちらほら人の姿が見えた
旅館や料亭で
京料理に舌鼓を打ちながら鴨の流れや川の風を愉しむのだろう
「あれは?」
「先斗町の歌舞練場?」
「変わってるね」
「鴨川をどりするとこよ、普段は舞妓が唄や踊りの練習すっとこや」
「都をどりとか?」
「それは祇園の舞妓やんか」
「そなんだ…」
川端通りを三条大橋から
南座へ向かう京阪電車が通り過ぎる
ゆっくりと
川面が
薄闇に浮かぶ灯を映した
ゆらゆらと揺れる淡い光りたち
“アビーロード”が聞こえて来そうだ
「あのね」
「うん?」
「夏に阪急でビール飲んだ時…」
僕は‥
「タクシーの中で…キ」
「ダメ、ゆーたらアカン」
「え?」
「大事な思い出は、ひとにゆーたらアカンのよ?」
「…幸せが逃げてしまうから」
まただ‥
心臓が高鳴る
さっきから
彼女の手が
何度も僕の手に当たってる
「もう時間やわ」
「うん」
どうしよう
握ってしまおうか‥
彼女の指先をそっと摘んでみた
大冒険だ‥
「寒くない?」
「うん、ちょっと…」
カップルの
濃厚なラブシーン
思い切って手を握った
歩きながら
咲子さんが握り返してきた
時間よ止まれ!
心臓が止まる前に‥
細くてしなやかな指が
何かを懸命に探してる
なんにも見えない
もう何にも
聴こえない‥
心臓なんか止まっちまえ!
立ち止まり
僕は彼女を見た
振り向いたその眼差しに
音もなく
僕は吸い込まれた…
「…悪い子や」
「起きてるよね?」
「あほ」
プア~ン
京阪が警笛を鳴らした
僕たちは
再び歩き出した
「孝ちゃん…」
「うん?」
「どうにもならへんのに」
「わかってるよ」
わかって‥る‥
「広島の彼女、泣かしたら承知せえへんよ?」
「全部わかってる…か…ら…」
「泣かんといて…ネ?」
「うん…うん…」
「サイナラ…」
1羽は西へ
1羽は東へ
羽ばたいていく
新幹線に乗り込んで来たのには
かなり驚いた
はじめは奇跡を見ているようだったが
1人になると
嬉しさよりも
彼女の行動が尋常でないように思えてきて
僕はなおさら混乱した
前の日に別れたばかりなのに‥
こんな風になかば強引に
別れ話を帳消しにしてしまうなんて
それは僕が知っていた
広美とは随分違っていた
僕同様
彼女もまた
僕が振り回しているのだろうか
磁石のNとSのように
僕たちは
くっつこうとすると
互いに反発し合ってしまう
京都駅に着く頃には
僕はすっかり冷静さを取り戻した
彼女が別れたくない理由は
やはりただの優柔不断でしかない
僕の前では
あなたが1番みたいな態度を取っていても
園部の前では
はたしてどうなのか
園部のことも好きだと
言い切っている以上
彼女を100%受け入れることはできなかった
バイクの後ろで
園部にしがみつく彼女や
仲睦まじく
ミルクをやめると約束し合う光景が
拭っても拭っても
頭から離れなかった
素直に別れてくれたらいいのに‥
心の片すみに
そんな思いがよぎった
「自己嫌悪ですよ、自分が嫌になる」
「なんで孝ちゃんがそんなん感じんのん?」
「それは…」
「孝ちゃんが腹立つのは、しゃあないんちゃう?」
「そういう自分がイヤなんです」
「彼女も彼女やし、女に手えアゲる男なんて最低やわ」
マズイ、怒ってる‥
僕たちは“祇園さん”で
待ち合わせをした
そんなつもりではなかったのに
電話口で
「これから会えへん?」
と聞かれついOKした
僕はモンシェリに
給料を取りに来ていた
店が混み始め
皆が忙しくなると
手持ち無沙汰になってしまい
ふと彼女に電話してみようと思いついたのだ
番号を書いた小さなメモを取り出し
店の公衆電話から咲子さんに電話した
彼女の声は弾んでいた
「すぐ行くさかい待っててや!」
言われた通り
石段の下で待っていると
東大路をオレンジ色のロードパルがやって来た
あれって‥
咲子さんだった
彼女の恰好は
コットンのスカートに
フリルのついたブラウス
咲子さんにしてはシンプルで
清楚なたたずまいだった
「ラッタッタ?」
「スピード出えへんけどな、便利やねん」
円山公園の中にラッタッタを置くと
彼女は照れ臭そうに笑った
「迷惑やった?手紙とかも」
「いいえ全然」
「ほな、なんで返事くれへんかったん?」
「色々とあって…でも返事は出しましたよ」
「よう言うわ、つい2、3ち前やん!」
「うまく書けなかったんです」
「なんで?」
「それはその…」
好きだから‥
とは言えない
八坂神社は花街の守り神だ
朱塗りの西楼門の下で
咲子さんは
両手を一杯に広げ伸びをした
「もう会えへんか思た!」
振り向いた彼女の笑顔の
憎らしいほど可愛いこと
僕は急に悩みを
共有したくなり
広美との事を打ち明けた
「彼女も園部ゆー子も、孝ちゃんに甘えてんねん」
「甘えてる?」
「あんたが優し過ぎんねやんか」
モンシェリの前を
咲子さんは急ぎ足で過ぎた
「どこ行くんですか」
「どこて、どこにしよ?」
「何時くらいまでいいんですか」
「6時くらいまでかな」
「旦那さんは?」
「やめてよ、舞妓みたいな言い方」
「あ、スイマセン」
「孝ちゃんはどうしたいん?」
「今日ですか」
「ちゃうやん、それもあるけど、彼女のこと」
「しんどいんです」
「ほなら別れたらば?」
「そうですよね」
「新幹線乗って来るとか、計算してたりして」
「それはないですよ」
「言い切れる?」
言い切れない‥
「な?それがあんたのホンマの気持ち」
その通りだった
「もういいです、なんか楽しいこと考えます」
「うちも賛成!」
「映画でも見ますか、暑いし」
「そやね、なんかやってるやろか」
僕たちは新京極へ向かった
「なかなかカッコええやんか」
「そうですか、キマッてます?」
僕はタックの入った麻のパンツに
ストライプのスタンドカラーのシャツを着て
袖を肘まで折りあげていた
靴はやはり麻のコンビだ
これだけで数万円が飛んだ
「似合うてるよ」
「どーも」
「偶然やね、今日の私の恰好と釣り合い取れてるやん」
第2ボタンまで開けた
咲子さんの胸元には
白いプカシェルが揺れていて
小麦色に焼けた肌に際立っていた
僕は彼女の匂いを確かめたくて
歩きながら少しづつ
彼女に近づいた
僕の腕と彼女の肩が
触れるか触れないかの“間合い”
「咲子さん“匂い”変えました?」
「匂い? ああこれ?日焼け止めやん」
「日焼け止め?」
「うち、この香り好きなんやんか」
「なんか甘ったるい匂いがする」
「コパトーンや」
φ(..;)メモメモ‥
「海でもないのに?」
「エエやん、今日は特別やねん」
僕たちが最初に見た映画は
黒のV8インターセプターも
アルマーニに身を包んだジゴロも出て来ない
もしこの時の映画が
メル・ギブソンやリチャード・ギアだったら
僕は単調で退屈な毎日から
一生抜け出せなかったかも知れない
“カッコーの巣の上で”
「面白いのん?これ」
「うーん、たぶん」
自信はない
「どんなん?」
「精神病院の話し」
「ふーん…」
やっぱりデートには不向きか‥
「孝ちゃん、見たいねんやろ?」
「ロードショウで見逃したんです、まさかここで再映してるとは」
「ええよ見ても、うちはかまへんよ」
「笑える話しではないと思うんですよ、なんとなく」
「いいって、つまらんかったら途中で出たらエエやんか」
それは嫌だな‥
「ね、入ろ入ろ!」
「いいんですか」
「ポップコーン買うてくれたらエエわ」
「じゃあえ~と、大人2枚」
もっと女性が喜びそうなのを
選べば良かったかなと僕は思った
でも見たい映画だけは譲れない
女性が食事のあと
甘いデザートを譲れないのと同じだ
映画の中では
ある精神病院に
刑務所から1人の粗暴そうな男が
移送されて来る
これが
ジャック・ニコルソン
何か話した方が良いのかな‥
女の人と2人で映画を見るなんて
親戚のおばさんと
ジョーズを観て以来だ
こんな話ししても仕様がないか‥
僕は
ポップコーンを頬張る咲子さんを気にしながら
スクリーンを見つめた
マクマーフィが
次第に患者たちから慕われ始めるのを
潔癖症の看護婦長が冷ややかに観察している
施設の中は
この婦長によって
管理、統制されていたのだ
事あるごとに
婦長と対立するマクマーフィだったが
彼女の許可を取り付け
みんなで町に繰り出すことに
生きる屍だった患者らが
人間本来の明るさを取り戻していく
咲子さんも
楽しそうに見ている
しかし、はしゃぎ過ぎて
大変な騒ぎに
怒る看護婦長
再治療(ロボトミー手術)の噂
そして
マザコンの青年がついに…
場内は固唾を呑む
咲子さんの手も止まった
激昂するマクマーフィが
婦長に襲いかかる
ダメだやめろ‥
その人に暴力を振るうのは間違ってる‥
取り押さえられるマクマーフィ
心配げな“チーフ”の目
冷徹な婦長のアップ
もう笑えない
笑う所なんかない‥
そんな
まさか‥
重厚なテーマ曲
見ろ“チーフ”が‥
そして…
魂を揺さぶるラストシーン
涙が洪水のように溢れ出た
横を見ると
咲子さんも子供みたいに泣いていた
エンドクレジットが流れ終わっても
涙は止まらなかった
僕たちも他の客も
鼻をズビズビ言わせながら映画館を出た
真っ赤に泣き腫らした目で
お互いに
「良かったねええ~」
ズビビ~
「うん、うん」
ズビズビ~~
ホントにこれで良かったのだろうか‥
「こんなの初めてだよ!」
「スゴかったやん」
「んー凄かった!」
僕たちはしばし感動を分かち合った
「管理主義って許せないよ」
「あの女の人、欲求不満ちゃうー?」
「そうだよきっと」
「チーフは全部わかってたんやね」
「たぶんネ、あの後どうなるんだろ」
「捕まってしまうんやろか」
「逃げ切って欲しいよね」
心からそう思った
映画の中の話しだというのに‥
映画は自由とは何か
人間の尊厳とは何かについて
訴えかけていた
それは僕もずっと
考えてたことだ
映画のように
深刻ではなかっただけで
僕は咲子さんも
同じように感動したことがとても嬉しかった
ひとしきり語り尽くすと
お腹が減ってきた
感動だけでは
空腹は満たせない
僕たちはリプトンで食事をとった
良い映画を見た後は
ハンバーグライスに限る
彼女はレディースセット
飲み物はアイスティー
リプトンでは常識だ
「疲れた?」
「ううん」
僕は2本めのサムタイムに火を点ける
彼女もマイルドセブンを軽やかに吸った
「あのネー」
「なに」
「男の人がハッカタバコ吸うの、アカンの違う?」
「なんで?」
「知らんのん?」
「うん」
「“立たへん”よーになるんやて」
「ブッ!」
「アハハハ!何してんのん!」
「変なこと言うから」
「ホンマやで」
「ホントに?」
「何ともない?」
「あるわけないじゃん」
自分で言ってて恥ずかしい
「あれ?今日指輪してないの?」
「うん、せや」
「どうして?」
「わからへん?」
「うん」
「内緒」
「ふうーん」
「あ、来た!食べよ」
「うん!」
会話が下手なので
僕は黙々と食べた
食べ終わると
煙草が吸いたくなったが
なんとなく気まずい
映画の話しをしようかと迷ったが
いい加減切り替えないと
ただの映画バカだ
「昨日さ」
「うん」
「喧嘩しちゃって」
「誰と?」
「父親」
「どんな喧嘩したん!」
「取っ組み合い」
「ウソ!殴ったの?」
「少し…何発か…数えてないけど、こっちもやられたし」
「やられたって、何してんのん!」
「妹が学校ズル休みしてたんだ、何日も」
「それで?」
僕はやっぱりサムタイムを吸うことにした
妹は家が面白くないと言う
“おばさん”がうるさい、と
母はこの子は
女の子としての“しつけ”が出来てないと言う
親父は
それは仕方ない
お前が急に直そうとするのは
無理がある、と
では何故
一緒に暮らすことにしたのか
私にとっては娘でしょう?
お前はわかってない
わかってないのは貴方
貴方たちは“子離れ”“親離れ”
が出来てない
それなら
こんなこともうヤメよう
聡美?
また3人で暮らすか?
イヤ!
1人で暮らす!
そのオンナもアンタも大キライ!
何をッ!
パアーン!
「叩いたわけ?」
「そう」
「そばにおったん?」
「ずっとネ」
「孝ちゃんは何てゆーたの?」
「僕は親父の悪い癖が始まったと思った」
「お酒飲んでたん?」
「うん」
「最悪や」
そう、最悪だった
僕はずっとそばで
そんなやり取りを
うんざりしながら聞いていた
だってみんな
言いたい放題じゃないか
そんなことしてたら
うまく行くものも行かないに決まってる
でも…
聡美の気持ちは
誰にもわからなかったのだ
こうなるまで
親父の目が座ってきたので
こりゃマズイなと
僕は思っていた
3人でいた時も
こういうことはあった
けれど今回は
“母親”がいる
しかも“応戦”しているから
火に油を注ぐようなものだ
親父は面倒臭さくなって
またぶち壊すつもりだ
今まで何度
ぶち壊して来たか
その度に転校して来たんだ
「聡美の好きにしたら?」
僕は口を挟んだ
聡美はもう黙って堪える
“子供”じゃないのだ
僕と親父は
気付くのが遅すぎた
「お前は黙っとれ」
ふざけんな‥
じゃあ呼ぶなよ?
「なんですぐ白紙に戻そうとすんのさ?」
「聡美!どうなんや?広島帰るか?」
バッカじゃないの‥
だんだん腹が立って来た
「聡美、思ってることちゃんと言えよ?」
「聡美!なんとか言わんか!」
「1人暮らしする」
「学校はッ!」
「もう行かないよ!」
「1人暮らしなんかできんだろ!」
「お兄ちゃんしとるやん!」
そうだったのか‥
「お母さんがイヤなんなら、また3人で暮らしたらいい」
「なんにも知らんくせに!」
「どうしたいんじゃ?え!」
「もうイヤ…」
「聡美、ええ加減にせえよ?」
それはアンタだよ‥
「もう…そのオンナも、アンタも大嫌いなのッ!」
「何をッ!」
パアーン!
この‥
僕が立ったと同時に
親父も立ち上がった
どちらかの手が
蛍光灯の紐に引っ掛かり
居間が真っ暗になった
ガシャンと
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「やめてよお!」
妹の泣き声
泣き声だ‥
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パシン!
ガッ!
クソ‥
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痛みは感じない
ガターン
ガタッ!
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「なんで」
「前ゆーたやろ、中学でグレて高校も行ってへんし」
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「孝ちゃんは、産んでくれたお母さんのことも覚えてるし、高校かて楽しそうやもん」
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「そやて、青春してるやん」
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「御所まで行く?」
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「あ、そこが本能寺」
「ここに本能寺?」
「そうや、知らんかったやろ」
本能かあ‥
「元気出しーな?」
「え?あ、あー元気だよ」
「あれが歴史資料館、見て行く?」
「冗談でしょ、自分んちの歴史もままならないのに」
「ホンマやね、アハハハ」
御所の中は
細かな白い砂利で覆われていた
青い空に飛行機雲がひと筋
「綺麗なとこやろ?」
「うん」
「向こうは入れへんけど」
足元の照り返しも
眩しかったが
歩く度に舞い上がる砂利埃も凄かった
「靴、汚れてしまうね」
「いいよ別に」
僕なんかより
咲子さんの21年の方が
よっぽど壮絶な人生だ
僕はこの人より
遥かに恵まれている
なのにこの人は
明るく快活で毅然と振る舞っていた
おまけに僕みたいな
ガキんちょにまで気を遣って
「咲子さんは幸せ?」
「うーん、どやろか」
「どうして?」
「うちな、離婚するかも知れへん」
「離婚?」
「孝ちゃんに言うてもしゃあないことやんね、私アホやね」
「話してスッキリすることもあるし」
「別れたいねん」
「向こうも?」
「あの人は…私のカラダだけやねん、あの人が求めてるのは」
これは困った
不得意分野だ‥
「我慢してたけど、それも限界やわ」
えーと‥
「昔は優しかってんで」
そうでしょうとも‥
「行こ!」
「ちょっと、どこに?」
「そろそろ、お酒飲める店が開きますよ」
「そやね、飲もか」
「潰れないで下さいよ、前みたいに」
「わかってるワ!」
僕たちは御所を横切り
今出川口から同志社女子大の前に出て
河原町までバスに乗った
ちょっとした市内観光だ
バスの中で
咲子さんはうとうとした
疲れてんだ‥
BALビルの脇に入り
ようやく開いてる店を見つけた
薄暗い店内は
真ん中がダンスフロアになっていた
天井には大きなミラーボールがひとつ
テーブルには白いクロスがかかっていて
照明のせいか青く光って見えた
僕たちは壁を背に
ベンチシートへ並んで座った
「いらっしゃいませ」
黒服がいんぎんに
メニューとコースターを置く
「私、ジンフィズ」
「じゃあジントニックで」
「かしこまりました」
「あっちにもお客さんがいる…」
僕は驚いた
「ホンマやね…」
何故か声をひそめて
「さっきの続きは?」
「御苑の?」
「うん…」
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「ホントに…」
「うち、今、幸せよ…」
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「孝ちゃんは?」
「楽しいよ…」
「お待たせ致しました」
「乾杯…」
「乾杯……」
「あー美味しい…」
「ホント…」
「ジンて好き?」
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「カッコーの巣…」
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「親鳥が他の鳥の巣に卵を産むんだ、それを知らずに育てちゃうんだ…」
「怖い…」
「怖くないよ…」
「カッコーって、クレイジーって意味に繋がるんだよ…」
「だから“巣”なん?」
「だと思う…」
「あんなに泣いたの久しぶり…」
「僕も…」
「映画好きなんやね…」
「うん、親父が好きだったから…もう1杯飲む?」
「あと1杯だけ…酔っ払いキライやろ…」
「そうでもないよ…」
「嘘やん…」
「ここ音楽鳴ってる?」
「鳴ってるけど小さいねん…」
カラン…
「氷の音…」
「うん聞こえる…」
カラン…
「孝ちゃん…」
「ん?」
「ゆーていい?」
「いいよ…」
「孝ちゃんのことが…好き…」
ドクン…
鼓動が鳴る
聞こえたかな‥
「僕も…」
ドクン…
消えてしまいたい
このまま‥
「お待たせ致しました」
“卑怯者”
切なくて声にならない
「孝ちゃん?」
「ん?」
「今日ありがとネ…」
今日が終わる
イヤだ‥
「どうしたの?」
「どうもしない…」
「なんか切ないわネ…」
「あ、これ!聞こえる?」
「なに…」
「セイリングだよ…きっと…」
「音楽?」
「うん…」
「ロッド・スチュワートの…」
「いい曲やね…」
たしか‥
アトランティック・クロッシングの
最後の方の曲‥
「これ原曲があるんだよ…ロッドの曲じゃないんだ…」
「へえ…」
アイアン セイリン~
私は海を行く‥
私は漕ぎ出す?
貴方の近く‥
貴方のそばへ?
アイアン フライン~
私は飛ぶ‥
トゥ~ビー フリ~
自由になるために?
私は飛ぶ
私は飛ぶ?
ライクア バード
クロスザ スカイ
キャンユー ヒアミー?
貴方に
私の声は聞こえてる?
鳥みたいに
空を横切って?
スルーザ ダークナイト?
スルーザ ダークナイト…
「出ましょ」
シンデレラは
どんな気持ちで
お城の階段を駆け降りたのだろう‥
去り難い余韻にがんじがらめになった
四条大橋
ヒグラシが哭く
あの時と同じように
「私、ロードパル置いてくわ、飲んでしもたし」
「大丈夫?」
「平気よ」
「孝ちゃん、この下歩いたことある?」
「え?ないよ」
「来てみ」
橋のたもとから
河原に降りた
「久々やわあ、ここ」
「これが鴨川」
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「そうみたいだね」
土手も川っ縁も
アベックが寄り添っている
ひざ枕するカップル
そぞろ歩くカップル
語り合い
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「すごいね」
「普通やわ」
「フツー?」
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先斗町側の岸の上に
料亭の床がせり出し
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「カワユカ?」
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完全に重なり合うようにして
抱擁する男女が目に入る
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「ど、どこまで続くの?これ…」
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「そんなに…」
陽が傾き始め
川床の提灯が
ぽつりぽつりと
明かりを燈し出す
「大文字の送り火見た?」
「ううん」
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西の空が
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川面が
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ゆらゆらと揺れる淡い光りたち
“アビーロード”が聞こえて来そうだ
「あのね」
「うん?」
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僕は‥
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「ダメ、ゆーたらアカン」
「え?」
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「…幸せが逃げてしまうから」
まただ‥
心臓が高鳴る
さっきから
彼女の手が
何度も僕の手に当たってる
「もう時間やわ」
「うん」
どうしよう
握ってしまおうか‥
彼女の指先をそっと摘んでみた
大冒険だ‥
「寒くない?」
「うん、ちょっと…」
カップルの
濃厚なラブシーン
思い切って手を握った
歩きながら
咲子さんが握り返してきた
時間よ止まれ!
心臓が止まる前に‥
細くてしなやかな指が
何かを懸命に探してる
なんにも見えない
もう何にも
聴こえない‥
心臓なんか止まっちまえ!
立ち止まり
僕は彼女を見た
振り向いたその眼差しに
音もなく
僕は吸い込まれた…
「…悪い子や」
「起きてるよね?」
「あほ」
プア~ン
京阪が警笛を鳴らした
僕たちは
再び歩き出した
「孝ちゃん…」
「うん?」
「どうにもならへんのに」
「わかってるよ」
わかって‥る‥
「広島の彼女、泣かしたら承知せえへんよ?」
「全部わかってる…か…ら…」
「泣かんといて…ネ?」
「うん…うん…」
「サイナラ…」
1羽は西へ
1羽は東へ
羽ばたいていく
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