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8. アッサラーム・アレイクム

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「逃げろ!逃げるんだ!」
誰かが叫んだ。最初は英語。それから日本語。
先頭を走る黒ずくめの男が徐々にどアップになる。
黒っぽいジェルバを着てターバンを巻いた男は胸に鞄らしき物を抱えていた。
顔は髭ボーボー。目は大きくてギラギラしてて血走ってる。どっからどう見ても悪人ヅラ。40人の盗賊のうち一人がタイムリープ時間跳躍してきたんだ絶対。
その恐ろしい形相がわたしを真っ直ぐ見据えて猛突進して来る。
逃げなきゃいけないって頭では警報アラームが鳴ってるのに身体はフリーズしたまんま。

「逃げろ!逃げるんだ!逃げろ!」

再び、逃げろのリフレイン。今度は全部日本語でハッキリ聞こえた。「やっちまえ!」なんて無責任なフランス語も。何処のどいつだ。後でデコピンだ。
すると先頭集団からやや遅れた辺りにブルーアイズの顔が見えた。足遅っ。
わたしに向けてしきりに手を振ってる。何やってるのかしら。あの男。あれでもボディーガードなの?ケヴィン・コスナーの足元にも及ばないわ。

「逃げろー!」ブルーアイズが叫ぶ。
もう逃げる時間なんてなかった。今さら方向転換して猛ダッシュなんて出来っこない。わたしはウサイン・ボルトじゃないんだから。
ここで撃たれるか刺されるかしてわたしの人生は幕を閉じるのだわ。ママごめんなさい。先立つ不孝をお許しください。

「Arghhhhhhhhhh!!」男が雄叫びをあげた。

メチャクチャ怖い。ハリソン・フォードが蛇の洞窟に落ちたシーンより遥かにビビった。
振りかざした手に何か持ってる。切っ先が光った。レクター博士がフィレンツェで使ったのに似てるわ。スパイダルコ社のハーピーナイフ。メイドイン・ジャパンなんだけど今はそんな事思い出してる場合じゃない。
これでキマリだ。ホラー映画で最初に犠牲になるヤツは何の罪もないこのわたしってワケ。
実に呆気なく殺されるのよ。鮮血がドバーッと噴き出して。恐怖に目をパカーンと見開いて。口をパクパクさせて。何のメッセージもないの。
あー、あの間抜けで血みどろの死にざまだけは勘弁して欲しい。わたしの理想は恋人の胸の中で逝く事だったのに。静かに美しく、気高く。そして感動的に。
走馬灯のようにいろんな妄想が駆け巡る。

そうだ。せめて顔をズタズタにされぬよう何か護る物はないかしら?乙女心が発動された。
ケータイ、ダメだ。小さ過ぎる。タブレット!ない。会社だ。デスクのキャビネットの一番下。コアラのマーチとパイの実が隠してある。帰ったら食べようと思ってたのに。
シャネルのお財布、ダメ!汚したくない。フルラのポーチ、ダメ。母からのプレゼント。アルマーニのコンパクトとリップグロス、全然ダメ。話になんない。ルイ・ヴィトンの手帳、絶対ダメ。秘密が一杯書いてある。テヘ。
伊勢丹で買ったセリーヌのカードケース…
セリーヌの。セリーヌ…の?セリーヌですって!?

忘れてた!398,000円(消費税別)で大人買いしたセリーヌのこのバッグ!
どうせ破産しちゃうのだ。ローンなんてケチ臭い事はしなかった。色はベージュ。逆台形フォルムにフロントの大きなファスナー。なんてハンサムなんだろう!特徴的なデザインに一目惚れした。
お化粧道具が入ったポーチにハンドクリーム。オードトワレ。マウススプレーにボディーミスト。デオドラント・ロールオン。アルコールジェル。ウェットティシュ。ハンカチ、タオル、洗顔セット。乙女のシェーバー。充電器に音楽プレーヤー、筆記用具、折り畳み傘、ペットボトルにオールド・メディナ(旧市街)で買ったアルガンオイルとお肌に良いという万能粘土ガスール。パンとドライフルーツ。
合わせて総重量10キロのメガダンベルトートバッグ!
こんな最強の武器があったじゃないのさ。
あー神様。ラストチャンス フォーエバー!

わたしはセリーヌのラゲージバッグを持ち換えた。
迫り来る暴漢目がけてグルグル回す。
ハンマー投げの要領で襲いかかる男の顔面に叩きつけてやるのだ。
行けぇー!!ダンベルバッグ!!
398,000円(消費税別)の威力を見せろー!!

BACOOOOON!!!

黒ずくめの男が吹っ飛んだ。布団が吹っ飛んだ。
男が持っていた鞄も吹っ飛んだ。
ナイフみたいなのも吹っ飛んだ。よく見るとワインオープナーだった。
わたしはヘナヘナとその場に座り込んだ。

ブルーアイズがすっ飛んできた。
わたしを抱きしめ、血の気が失せた表情でわたしの無事を確かめる。
「大丈夫?どこも怪我はない?」
「Oui」
「よかった。それにしても無茶な事をする。爆弾だったらどうするんですか」
「爆弾?あの人、アルカイダなの?」
「いや、ただの引ったくりです」
そんな、お魚くわえたドラ猫みたいな言い方よして。
「警察が来た。立てますか?」
「ムリ。腰が抜けちゃった」

軍隊並の装備で武装した警官隊が倒れた男を拘束して連れ出していく。ダイ・ハード見てるみたい。
入れ替りに小ざっぱりした制服の警察官がやって来てアラビア語でブルーアイズと話し出した。
メモを取る警官の横には黒髪の長身で鼻が高く、角張った顔の白人紳士が立っていた。
警官と黒髪の白人紳士は時折わたしの方を見てブルーアイズの話しに頷いたり微笑んだり。
微笑み?何がおかしいの?わたしはオシッコチビっちゃうくらい怖い思いしたのに。

「すまないが身分証を見せてくれと言ってます」
「どうして?」
「形式的なものです。それと…」
「何?」
「過剰防衛のおそれがあるとも」

わたしは警官と白人紳士にパスポートを提示した。こんな所で抵抗してゴキブリだらけの牢屋に入れられてもつまらない。
現場検証が終わるとわたしは幾つかの質問を受けた。ブルーアイズが間に入って通訳してくれた。
ブルーアイズのお陰でどうやらわたしは連行されずに済みそうだ。この人は本当に何者なんだろう。

警官は最後にわたしの手を握りしめ満面の笑みを浮かべて言った。
「アッサラーム・アレイクム!(神の平和を!)良い旅を楽しんで下さい」

胸くそ悪い。
ブルーアイズが直訳しようとするのをわたしは制して言った。
「今のはわかったわ。下着を買いに行きたいの。付き合ってくれる?」

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