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第四章 希望のない未来
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二日目。
水曜日。
一週間の半分をどうにか昇華することができるようだと思っていた抱介は、見せかけの勝利を手にしていた。
それからすぐに、敗北を得るとも知らずに。
その日の牧那は朝から静かだった。
いつもの図書室で、朝から二人きりの自主学習。
他に生徒はおらず司書さんも今日は別のバイトの人で、書庫の整理に勤しみたいらしい。
カウンターで書類を出したらさっさと印鑑を捺して奥に籠もってしまった。
二人で顔を見合わせる。
牧那は肩をすくめると、彼女が追いかけている例のシリーズ物の作品の続巻を探しに出かけた。
抱介はここ二日の間で、いつも間にか指定席となった窓側のテーブルに座り、教科書を開く。
もうすぐしたら来週から課題テストが始まる。
それでまともな成績を叩きださないと、これから先の課題も多くなっていく。
ある程度以下の順位だと、自主学習は継続しつつ、次回のテストで良い成績を取れるように、各教科の担当教師たちから毎週の小テストが義務付けられるのだ。
ボーダーラインは学年全体の三分の二以上だと言われている。
抱介はここでの時間を大事にするために、自宅学習を欠かしたことはないが、それでも普通に授業を受けている生徒と比べたら分が悪いのは事実だ。
もっとも、そんな点数を取れるくらいなら、ここには来ないわけで‥‥‥。
「あー憂鬱だ」
自主学習開始、三十分と少し。
内容がぼんやりとして理解できない物理の教科書を前にして、抱介は早くも音を上げていた。
「逃げたらだめですよ。苦手は克服しないと」
と、紙面に視線を落としながら牧那が諭すように言った。
まるで優等生の発言だ。
「お前はいいなあ。まだ一年で」
「頭いいですから」
嫌味も通じないらしい。
なら、やってみろ、と例題集をすっと前に押し出した。
意地悪だと分かっている。
二年の問題を一年生が解けるはずが――。
「できました」
‥‥‥ない。
「嘘だろ?」
慌てて解答と照らし合わせると、あろうことかそれは正解だった。
「なんで‥‥‥解ける? お前、天才か?」
「馬鹿な姉の面倒を見ていると、こうして勉強を教えることも多いのです」
まるで教師のようなセリフだ。
いや、塾の講師か。
「教えている? 昨日の昼間からしたら驚きの平日だ。秘密を暴露された気分」
「そうですかねー先輩、御兄弟は」
「いない。一人っ子だよ」
「ああ、だからですか」
悟ったような言い方をされてどこか面白くない。
どういうことだと改めて開かれた彼女の小説の上に手を置くと、牧那は顔を上げた。
「子供みたいな真似しないでください。幼稚園児ですか」
「だって、気になるだろ」
「気になる? 季美のことが、それとも牧のことが? 季美のことだとかなり不機嫌になりますね」
「どっちでもない、お前らの姉妹の関係性だよ」
ぷうっと牧那は頬を膨らませた。
そんな提供された地雷を踏む馬鹿はいないだろう、普通。
不満そうなその頬を、ちょいと摘んでやる。
「ふいーっ?」
それはふくよかで赤ん坊の頬のように柔らかく弾力性に富んだ素材だった。
「おー伸びるなー?」
「いひひいっ」
ぐるぐるぐるぐるっと回して引っ張り、横に上に左に右に‥‥‥ここ二日間ほどでやられたことへのお返し宜しく、それを動かしてみた。
「あいいいいっ、痛いっ、痛いですってば! うちの頬で遊ばないでーっ‥‥‥」
じんわりと目尻に涙が浮かんでいる。
「どうかなあ。これ、触りかいがあるだろ」
「セクハラーっ!」
「いじってるだけだって」
「ふえええっ、いじめっ子がいる――っ!」
面白いから、小説を持つ彼女の両手の上に左手を置いて抵抗を無力化しつつ、ぎゅむっと思いっきり引っ張ってみた。
「あひいいっ!」
なんだか壊れたおもちゃのような声がする。
「最近、いろいろとやってくれたよなあ? どうお返ししようかと思ってさ」
「ひぐっ。しゃべ、話しますっ! お姉ちゃんとのこと話しますからぁーごめんなさいいっ」
ふむ
とりあえず謝罪が聞けたので良しとする。
ぴっと伸ばしていた頬から指先を放すと、パチンッと音がして戻っていった。
ゴムかなにかかな?
「うううううっ、いじめっ子がいるよおお‥‥‥」
昨日まで俺をいじめていたのはお前ではなかったか?
その元いじめっこの目尻には、大粒の涙が浮かんでいた。
「お姉ちゃんはまったくもって頭が良いので」
「誉めるようでけなしてないか?」
「いえいえ。でも努力しないのです。きちんと自分で学ばないと、あの頭の良さは発揮されません」
「ふーん」
まるで練習したらどんな学問でも習得できそうなほどの良さだ、と牧那は季美を誉める。
そんなに頭が良いなら、男運だってもっと良いだろうと考えてしまうのは、邪推だろうか。
「先輩だって昨年はお姉ちゃんに助けてもらっていたでしょう?」
「……」
妹という身近な存在は、余計な情報まで網羅しているらしい。
すぐに抱介の口は閉じられた。
「でも教えるには正しい方程式がいるんです」
「数学のようにか」
「ちょっと違うけれど」
と牧那は頭を傾げた。
彼女が言うには、どんな学問にも正しい考え方があり解法があるのだという。
それを知るか知らないかの差が、テストの結果に繋がってくるのだと。
「けど、暗記は必要だろう? 応用問題にはそれぞれパターンを知らきゃ」
「だから、それを全部先にやるんじゃないですか」
抱介は彼女のやる気と根気と考え方には舌を巻いた。
結果としてさっきのような、魔法が目のまえで披露されるのだから。
「何年までやった?」
「二年の半分までは」
「入試の成績は?」
「……先生から聞いた話では、上から数番目だとか」
「漏らしていいのかよ、えこひいきする教師だなあ……」
「お姉ちゃんはもっと頭が良いですよ。それを活かしてないだけ」
牧那は寂しそうに言った。
どちらにせよ、牧那の頭だけでなく、季美もまた優秀だということはこれで証明された。
あとは自分が追いつくだけ。
なんとも虚しい敗北感を抱介は味わっていた。
水曜日。
一週間の半分をどうにか昇華することができるようだと思っていた抱介は、見せかけの勝利を手にしていた。
それからすぐに、敗北を得るとも知らずに。
その日の牧那は朝から静かだった。
いつもの図書室で、朝から二人きりの自主学習。
他に生徒はおらず司書さんも今日は別のバイトの人で、書庫の整理に勤しみたいらしい。
カウンターで書類を出したらさっさと印鑑を捺して奥に籠もってしまった。
二人で顔を見合わせる。
牧那は肩をすくめると、彼女が追いかけている例のシリーズ物の作品の続巻を探しに出かけた。
抱介はここ二日の間で、いつも間にか指定席となった窓側のテーブルに座り、教科書を開く。
もうすぐしたら来週から課題テストが始まる。
それでまともな成績を叩きださないと、これから先の課題も多くなっていく。
ある程度以下の順位だと、自主学習は継続しつつ、次回のテストで良い成績を取れるように、各教科の担当教師たちから毎週の小テストが義務付けられるのだ。
ボーダーラインは学年全体の三分の二以上だと言われている。
抱介はここでの時間を大事にするために、自宅学習を欠かしたことはないが、それでも普通に授業を受けている生徒と比べたら分が悪いのは事実だ。
もっとも、そんな点数を取れるくらいなら、ここには来ないわけで‥‥‥。
「あー憂鬱だ」
自主学習開始、三十分と少し。
内容がぼんやりとして理解できない物理の教科書を前にして、抱介は早くも音を上げていた。
「逃げたらだめですよ。苦手は克服しないと」
と、紙面に視線を落としながら牧那が諭すように言った。
まるで優等生の発言だ。
「お前はいいなあ。まだ一年で」
「頭いいですから」
嫌味も通じないらしい。
なら、やってみろ、と例題集をすっと前に押し出した。
意地悪だと分かっている。
二年の問題を一年生が解けるはずが――。
「できました」
‥‥‥ない。
「嘘だろ?」
慌てて解答と照らし合わせると、あろうことかそれは正解だった。
「なんで‥‥‥解ける? お前、天才か?」
「馬鹿な姉の面倒を見ていると、こうして勉強を教えることも多いのです」
まるで教師のようなセリフだ。
いや、塾の講師か。
「教えている? 昨日の昼間からしたら驚きの平日だ。秘密を暴露された気分」
「そうですかねー先輩、御兄弟は」
「いない。一人っ子だよ」
「ああ、だからですか」
悟ったような言い方をされてどこか面白くない。
どういうことだと改めて開かれた彼女の小説の上に手を置くと、牧那は顔を上げた。
「子供みたいな真似しないでください。幼稚園児ですか」
「だって、気になるだろ」
「気になる? 季美のことが、それとも牧のことが? 季美のことだとかなり不機嫌になりますね」
「どっちでもない、お前らの姉妹の関係性だよ」
ぷうっと牧那は頬を膨らませた。
そんな提供された地雷を踏む馬鹿はいないだろう、普通。
不満そうなその頬を、ちょいと摘んでやる。
「ふいーっ?」
それはふくよかで赤ん坊の頬のように柔らかく弾力性に富んだ素材だった。
「おー伸びるなー?」
「いひひいっ」
ぐるぐるぐるぐるっと回して引っ張り、横に上に左に右に‥‥‥ここ二日間ほどでやられたことへのお返し宜しく、それを動かしてみた。
「あいいいいっ、痛いっ、痛いですってば! うちの頬で遊ばないでーっ‥‥‥」
じんわりと目尻に涙が浮かんでいる。
「どうかなあ。これ、触りかいがあるだろ」
「セクハラーっ!」
「いじってるだけだって」
「ふえええっ、いじめっ子がいる――っ!」
面白いから、小説を持つ彼女の両手の上に左手を置いて抵抗を無力化しつつ、ぎゅむっと思いっきり引っ張ってみた。
「あひいいっ!」
なんだか壊れたおもちゃのような声がする。
「最近、いろいろとやってくれたよなあ? どうお返ししようかと思ってさ」
「ひぐっ。しゃべ、話しますっ! お姉ちゃんとのこと話しますからぁーごめんなさいいっ」
ふむ
とりあえず謝罪が聞けたので良しとする。
ぴっと伸ばしていた頬から指先を放すと、パチンッと音がして戻っていった。
ゴムかなにかかな?
「うううううっ、いじめっ子がいるよおお‥‥‥」
昨日まで俺をいじめていたのはお前ではなかったか?
その元いじめっこの目尻には、大粒の涙が浮かんでいた。
「お姉ちゃんはまったくもって頭が良いので」
「誉めるようでけなしてないか?」
「いえいえ。でも努力しないのです。きちんと自分で学ばないと、あの頭の良さは発揮されません」
「ふーん」
まるで練習したらどんな学問でも習得できそうなほどの良さだ、と牧那は季美を誉める。
そんなに頭が良いなら、男運だってもっと良いだろうと考えてしまうのは、邪推だろうか。
「先輩だって昨年はお姉ちゃんに助けてもらっていたでしょう?」
「……」
妹という身近な存在は、余計な情報まで網羅しているらしい。
すぐに抱介の口は閉じられた。
「でも教えるには正しい方程式がいるんです」
「数学のようにか」
「ちょっと違うけれど」
と牧那は頭を傾げた。
彼女が言うには、どんな学問にも正しい考え方があり解法があるのだという。
それを知るか知らないかの差が、テストの結果に繋がってくるのだと。
「けど、暗記は必要だろう? 応用問題にはそれぞれパターンを知らきゃ」
「だから、それを全部先にやるんじゃないですか」
抱介は彼女のやる気と根気と考え方には舌を巻いた。
結果としてさっきのような、魔法が目のまえで披露されるのだから。
「何年までやった?」
「二年の半分までは」
「入試の成績は?」
「……先生から聞いた話では、上から数番目だとか」
「漏らしていいのかよ、えこひいきする教師だなあ……」
「お姉ちゃんはもっと頭が良いですよ。それを活かしてないだけ」
牧那は寂しそうに言った。
どちらにせよ、牧那の頭だけでなく、季美もまた優秀だということはこれで証明された。
あとは自分が追いつくだけ。
なんとも虚しい敗北感を抱介は味わっていた。
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