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第二章 聖女の危機
第15話 その記憶は(新たな脅威の……)
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「姫様」
後方から、か細い声がカトリーナを呼ぶ声がした。
随分と長い回想にふけていた聖女は、侍女の一人の呼びかけを耳にしてふと我に戻る。
思い出さなくてもいい記憶までを辿ってしまったことに今更ながらのように気づき、自分に対して呆れたような声を漏らした。
「ダメね……いつまでも抱えていては前に進めない」
頭を振り、さっきまで脳裏に再生されていた他人の記憶の断片を忘れることにした。
「姫様! お元気になられたとはいえまだ数日ですよ。みんなが心配致します」
幼い頃から側に仕えてくれた三十代の侍女、エミリーは小さな微笑を厚ぼったい口元に讃えた。
彼女が困ったときにする仕草だった。
「どうしたの? わたしの心配をしてくれたのではなかったの」
「いえ、その……それはそうですが」
どうにもエミリーの言葉の歯切れが悪い。
なあに? とカトリーナが小首をかしげて問い返すと、彼女と同じ黒髪の侍女はもう一度、こんどははっきりと困惑した表情を浮かべていた。
「わたしがどこかに行ってしまうとでも思ったの」
再度問うと、エミリーは、はいと答えた。
「心ここにあらず、そんな顔をされてずっと立ち尽くされていましたから。まさか御心だけ女神様に召されたのかもしれない、と。みんなでそう心配していました」
「行列の休憩の合間に後ろの状況を見ておきたかったの。お父様では彼らの扱いは良くない気がしたから」
「獣人たちですか。あの者たちは奴隷の身分が多いと聞きます。おそらく逃亡奴隷かと。あまり関わらいにならないほうが宜しいのでは」
「エミリー。もう関わってしまっているじゃない。彼らはこの馬車のずっと後ろにまで続いて来ている。他にも人間の姿も見えるけれど、逃亡してきたにしては数が多いと思わない?」
「それはそうでございますね。では、主人とともに土地を捨ててきたのでは」
それも何か違う気がするとカトリーナは思った。
王都から逃げ出し、そのあとに父親とその配下の神殿の一団と合流したときから、数は数倍に増えている。
逃亡奴隷が集まってきたにしては、ここ数日の行軍があまりにも静かに緩やかに進んでいて気味が悪い。
そう思った。
「逃げてきたなら主人なり、兵士なりが追いかけてきて、連れ戻すはずでしょう? この街道沿いにあるどこかの大きな農場や牧場から集まったとしても、誰もなんの不満も口にしてこないのはおかしいわ」
「後方を守っている神殿騎士や大神官様が、姫様にお伝えしなくてもよいようにしているのかもしれませんよ。奴隷は逃亡すれば死刑と決まっております」
「待って、エミリー! その前に、王国では獣人の奴隷制度は廃止されているでしょう。もう数年前のことよ。それくらいわたしだって知っているわ」
だから、彼らは奴隷ではなく最下層の身分である契約農民だとカトリーナは口にした。
首輪から解放される代わりに、王国の領内に土地を貸し与えられた彼らは、その場所から離れる際には領主の許可が必要な不自由な解放奴隷だったはず。
そう言うと、エミリーはいいえ、と首を横に振る。
「姫様、それは王都と王家の直轄地だけだと、聞いてございます。それ以外の各貴族が領地では、奴隷から解放はされても、資産として所有されるのが一般的かと」
「……そう。わたしの世界は思ったより狭かったのね……」
残念、とカトリーナは小さく呟くと、自分のこれまでの立場を改めて再認識した。
「聖女は結界の鍵。王妃の地位は鍵を守るために必要なだけの、お飾りの立場。わたしは死ぬまであの王宮の奥でベッドに寝そべって国王になられた殿下がときたまにやってこられるのを待ちながら、死を待つだけの単なる道具。そういうモノだったものね。みんなが知っていることを、わたしは何も知らない。恥ずかしいわ」
「姫様。そんな人生になんの喜びも楽しみもない生活から解放されて、いまここで自由になれたではありませんか」
エミリーは黒い瞳を悲しそうに曇らせていた。
侍女といってもメイド服を着ているわけでもなく、女神に仕える女神官――巫女の一人である彼女は朱色の法衣をその身にまとっている。
同じ朱色の法衣をまとい、その下に青と若葉色の丈の異なるチェニックを重ね着しているカトリーナは、旅装とわかる出で立ちをしている。
一目見ただけでその豪奢のほどからどちらが主人でどちらが側に仕える者かがよく分かるようになっていた。
カトリーナは、細長い指先を列の後方に向けて指し示す。
「そんな解放された喜びを、彼らにも与えてあげたいとは……思わない」
「そっ、それは。姫様、解放奴隷はそれでも主人の資産となると、法律にあります」
「それを奪うようなことをすれば、わたしの名前に傷でもつくっていうの?」
「姫様だけでなく、女神様の評判にも悪い噂が混じります!」
「そう」
助けを求めてやってくる誰かを救うことのどこが悪い評判になるのか。救いの手を差し伸べなかったことの方がもっと後から悪評を誘うわよ、とカトリーナは鼻を鳴らした。
奴隷にせよ、解放奴隷にせよ、もしくはそうでないにせよ。
あの獣人の数は異様だ。
「お父様に会うわ」
自分達を追放した王太子側が、なにか企んで画策のしたもののような気もしないではなかった。
他人のかすかな記憶の断片なんて覗くんじゃなかった。
カトリーナはそうぼやきながら、数台先の馬車に座する父親の元へと足を向けた。
後方から、か細い声がカトリーナを呼ぶ声がした。
随分と長い回想にふけていた聖女は、侍女の一人の呼びかけを耳にしてふと我に戻る。
思い出さなくてもいい記憶までを辿ってしまったことに今更ながらのように気づき、自分に対して呆れたような声を漏らした。
「ダメね……いつまでも抱えていては前に進めない」
頭を振り、さっきまで脳裏に再生されていた他人の記憶の断片を忘れることにした。
「姫様! お元気になられたとはいえまだ数日ですよ。みんなが心配致します」
幼い頃から側に仕えてくれた三十代の侍女、エミリーは小さな微笑を厚ぼったい口元に讃えた。
彼女が困ったときにする仕草だった。
「どうしたの? わたしの心配をしてくれたのではなかったの」
「いえ、その……それはそうですが」
どうにもエミリーの言葉の歯切れが悪い。
なあに? とカトリーナが小首をかしげて問い返すと、彼女と同じ黒髪の侍女はもう一度、こんどははっきりと困惑した表情を浮かべていた。
「わたしがどこかに行ってしまうとでも思ったの」
再度問うと、エミリーは、はいと答えた。
「心ここにあらず、そんな顔をされてずっと立ち尽くされていましたから。まさか御心だけ女神様に召されたのかもしれない、と。みんなでそう心配していました」
「行列の休憩の合間に後ろの状況を見ておきたかったの。お父様では彼らの扱いは良くない気がしたから」
「獣人たちですか。あの者たちは奴隷の身分が多いと聞きます。おそらく逃亡奴隷かと。あまり関わらいにならないほうが宜しいのでは」
「エミリー。もう関わってしまっているじゃない。彼らはこの馬車のずっと後ろにまで続いて来ている。他にも人間の姿も見えるけれど、逃亡してきたにしては数が多いと思わない?」
「それはそうでございますね。では、主人とともに土地を捨ててきたのでは」
それも何か違う気がするとカトリーナは思った。
王都から逃げ出し、そのあとに父親とその配下の神殿の一団と合流したときから、数は数倍に増えている。
逃亡奴隷が集まってきたにしては、ここ数日の行軍があまりにも静かに緩やかに進んでいて気味が悪い。
そう思った。
「逃げてきたなら主人なり、兵士なりが追いかけてきて、連れ戻すはずでしょう? この街道沿いにあるどこかの大きな農場や牧場から集まったとしても、誰もなんの不満も口にしてこないのはおかしいわ」
「後方を守っている神殿騎士や大神官様が、姫様にお伝えしなくてもよいようにしているのかもしれませんよ。奴隷は逃亡すれば死刑と決まっております」
「待って、エミリー! その前に、王国では獣人の奴隷制度は廃止されているでしょう。もう数年前のことよ。それくらいわたしだって知っているわ」
だから、彼らは奴隷ではなく最下層の身分である契約農民だとカトリーナは口にした。
首輪から解放される代わりに、王国の領内に土地を貸し与えられた彼らは、その場所から離れる際には領主の許可が必要な不自由な解放奴隷だったはず。
そう言うと、エミリーはいいえ、と首を横に振る。
「姫様、それは王都と王家の直轄地だけだと、聞いてございます。それ以外の各貴族が領地では、奴隷から解放はされても、資産として所有されるのが一般的かと」
「……そう。わたしの世界は思ったより狭かったのね……」
残念、とカトリーナは小さく呟くと、自分のこれまでの立場を改めて再認識した。
「聖女は結界の鍵。王妃の地位は鍵を守るために必要なだけの、お飾りの立場。わたしは死ぬまであの王宮の奥でベッドに寝そべって国王になられた殿下がときたまにやってこられるのを待ちながら、死を待つだけの単なる道具。そういうモノだったものね。みんなが知っていることを、わたしは何も知らない。恥ずかしいわ」
「姫様。そんな人生になんの喜びも楽しみもない生活から解放されて、いまここで自由になれたではありませんか」
エミリーは黒い瞳を悲しそうに曇らせていた。
侍女といってもメイド服を着ているわけでもなく、女神に仕える女神官――巫女の一人である彼女は朱色の法衣をその身にまとっている。
同じ朱色の法衣をまとい、その下に青と若葉色の丈の異なるチェニックを重ね着しているカトリーナは、旅装とわかる出で立ちをしている。
一目見ただけでその豪奢のほどからどちらが主人でどちらが側に仕える者かがよく分かるようになっていた。
カトリーナは、細長い指先を列の後方に向けて指し示す。
「そんな解放された喜びを、彼らにも与えてあげたいとは……思わない」
「そっ、それは。姫様、解放奴隷はそれでも主人の資産となると、法律にあります」
「それを奪うようなことをすれば、わたしの名前に傷でもつくっていうの?」
「姫様だけでなく、女神様の評判にも悪い噂が混じります!」
「そう」
助けを求めてやってくる誰かを救うことのどこが悪い評判になるのか。救いの手を差し伸べなかったことの方がもっと後から悪評を誘うわよ、とカトリーナは鼻を鳴らした。
奴隷にせよ、解放奴隷にせよ、もしくはそうでないにせよ。
あの獣人の数は異様だ。
「お父様に会うわ」
自分達を追放した王太子側が、なにか企んで画策のしたもののような気もしないではなかった。
他人のかすかな記憶の断片なんて覗くんじゃなかった。
カトリーナはそうぼやきながら、数台先の馬車に座する父親の元へと足を向けた。
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