派遣人形

和泉鷹央

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プロローグ

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 時計の針の短針は3の部分を指していて、時刻は深夜の三時だと分かる。
 けものも眠る丑三つ時と古い時代には表現されたこの時間に、周りの静寂さから取り残されて目が覚めてしまったことは心に何か罪悪感を覚えさせた。

 瞼が重たいままに辺りを見回した。
 なんだか、耳に覚えのある不思議な音がしたからだ。
 よく言う、スマホのシャッター音。それを聞いた気がした。
 けれどこの部屋の中にはいま足元で寝ている博人と自分の二人しかいない。

 秋も冬に近い時期にもなると、この時間帯は意外と冷え込んでくる。
 それはベランドから遠く離れたマンションの中にも侵入してきて、ぶるっと肌寒さを感じた絵里は、側のイスにかけてあった自分のカーディガンを羽織った。

 下着無しで羽織るそれは、どこか背徳めいた自分を感じさせる。
 ベッドの向こう側にある、半開きになったカーテンの隙間から、夜の闇が窓ガラスを鏡のようにして、絵里の裸体を浮かび上がらせる。

 このまま朝食でも用意したら、彼は満足そうな顔をして‥‥‥。
 最近、めっきりと笑うことの減った仏頂面に、笑みの一つでも浮かべてくれないかな。と絵里は空想してみる。

「……無理、かな」

 途端、心のどこかで無理、無理、と却下された。
 自分がこの家にいることが、彼の心理的負担になっている。
 ただでさえ、自分の息子と新しく母親になった姉を気遣うのが夫の役割なのに。

 それをやっているように見せかけて、実はその裏では妻の妹に手を出している、悪い奴。
 世間様にばれたら、悪女とレッテルを貼られて糾弾され、行く場を失うのはまず自分だ。
 絵里はこの関係を維持しつつも、いつも脳裏でシュミレーションしていた。

 次に、浮気相手の松浦博人さん、四十二歳。
 大手製造メーカーの工場勤務、課長。
 絵里の足元ですやすやと眠る彼は社会的地位を失い、会社内で失脚。
 これまで悠々と歩んできた出世街道からは外れる、日陰者になるに違いない。

 妻の松浦友理。旧姓、大坪友理、二十六歳。
 バツなし、最初に結婚したのが、まさかの妹の恋仲だった男性とは思いもよらないに違いない。
 バレたら‥‥‥アイスピックで串刺しに食らいはされるかもしれない。
 うまく姉妹で共闘できて博人を悪者にできれば、こちらは肉親。そんなに血を見るになることにはならないかも。
 ただ、あの子。

 甥になった松浦の息子、貴也。
 十六歳の彼は――まだこの新しい家庭に馴染めていないようで、最近の高校生にありがちな、掴みどころのない青年だった。
 これもゆとり教育の弊害かしら?
 自分と一番年齢が違いはずの貴也の胸の内を、絵里はあまり推し量ることができないでいた。

 姉夫婦が結婚し、この4LDKのマンションに引っ越しをしたのは二か月ほど前のこと。
 その頃、新社会人になって間もなかった絵里には、貯蓄というものがまるでなかった。
 両親が早くに他界し、自分を大学にまで通わせてくれた姉の友理には、恩義を感じているし――夫を肉体的に奪ってしまって申し訳ないと、心で毎日謝罪している。

 しかし、行き場がなければホームレスになるしかない。

 姉と義兄の温情により、絵里には独立資金が貯まるまで、という期間限定でこのマンションへの住み込みが許可された。
 もちろん、当時から愛人関係にあった絵里が部屋に来ることを、松方は複雑な胸の内で迎えたに違いないのだ。
 だって、自分とそれまで蜜月の関係だった妻以外の女性が、いきなり同居すると言い出すのだから。

 おまけに義理の妹の座にまで収まってくる始末。
 普通なら、追い出すかウィークリーマンションを借りる資金を融通するはずだ。
 だが、松方はしなかった。
 そこにあった気持ちが何なのか。

 絵里への依存。その一言で片づけられる状況が、いま、ここにあるということだ。
 
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