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「いいか、マライア。お前は俺に相応しくない。婚約破棄だ」

 青年になりきれていない少年はそう言った。

 相応しくない?
 何がそう言わせるのか、マライアは頭を働かせる。
 身分が? 相手は王子だ。自分は侯爵令嬢だ。その点は、問題ない。
 容姿が? 彼は周囲にいる男性の中でも一際輝く星のような存在だ。その意味では自分には太刀打ちできないかもしれない。
 性格が? 自画自賛もいいところだけれど、学院でも他の令嬢に抜きんでて、人数の多い派閥を率いているのは自分しかいない。

 さて、これは幸か不幸か。

 難しい判断を望まれるわね、と女性としてまだ咲きかけの少女は、冷ややかに目を細めてそれを聞き流した。

「おい、聞いているのか?」
「聞いております、アルナルド殿下。良かったですわね?」
「……何がだ?」

 訝しむ青年に、少女はやれやれといった表情をする。

「ここが動く密室。馬車の車内で、私達二人の他に、さきほどの発言を耳にする者がいなかった幸運を、と申しております」
「ちっ‥‥‥下らんことを」

 そう言って向けられた彼の視線は、夜より昏い闇がただよっていた。
 黒目に金髪、白い肌が彼の見た目だ。

 大柄で、胸板が熱く、肩幅も広い。それでいて、全身は細く最適な形で絞られていて、動物に例えれば豹を思わせる。
 大自然で狩りをし、孤高に生きる勇壮な豹のような青年だった。

「学院の大広間でそんな発言をなさったら、それこそ、殿下の将来に響きますわ」
「嫌味な女だ。そういう賢しいところが好きじゃない。婚約破棄だ」
「はいはい、殿下。マライアは辛いですわ‥‥‥それより」

 とはいえ、まだ若い。
 十八歳になったばかりの青年は、野生の豹を思い浮かべて重ね合わせると、黒い斑点の柄模様がどこか幼く見えて笑いを誘う。

 それは失礼だと思いながら、マライアはそっと口元を緩めた。

 彼女は亜麻色の髪に茶色いハシバミ色の目。頬にはいくつかそばかすがあり、それを薄い化粧で誤魔化していることは秘密だ。

「それより? 何が言いたい」
「殿下のお話に沿う内容でございます」

 少女は、ツンと鼻を高くして言った。

 やや丸い鼻、唇は小さく、それが微妙な対比をして、柔らかい雰囲気をまとっている。大きな垂れ目の瞳、広い額ときて、顔そのものは小さくしゅっとまとまっており、知的で好奇心旺盛な猟犬の仔犬。

 そんな印象を見る者に与える少女だった。

「婚約破棄を本当になされたいのアルナルド様?」
「そうだ。お前、最近、男爵家の後輩と、とても仲が良いらしいじゃないか」
「……男爵家? ああ、ポールのこと?」

 口元に手を寄せ、しばし、思案してからあれか、とマライアは一人の少年の名を口にした。
 それだよ、とアルナルドはうなずく。

「嫉妬なんて醜い‥‥‥。心の狭さが表れるようですわ、殿下」
「だからお前はかわいくない‥‥‥」

 ちっ、とアルナルドは舌打ちした。

 ラドルチェ男爵令息、ポール。
 マライアと同じ十六歳。
 彼らが通う王立学院の六回生。
 そして、殿下と呼ばれたこの国の王子アルナルドの親戚筋に当たる。
 つまり、爵位は最下層でも、身分と格式は下手な上級貴族よりも上。アルナルドが豹なら、あちらは銀毛の大鷲といったところか。

 まだ飛び立つには早すぎる大鷲だけれども、鷲は鷲だ。
 いつかは社交界でアルナルドの次か、その次に人気を博する貴公子になる素質は十分に秘めていた。

「殿下のご親戚ではありませんか」
「そうだな」
「あちらから挨拶を下さり言葉を交わしたり、授業で同じ班になったり、食堂でみんなと食事をしていたら誰かが、ポール様も、とか言って呼ぶのですから。こちらは呼ばれたら愛想よくはい、と返事をしなければならないのですよ?」
「嫌なら断ればいいではないか」
「殿下と同じ車内にいるより、よほど天国ですから」
「忌々しい」

 女にばかり責任を求めすぎだ、とマライアは苦情を呈する。
 アルナルドばかり言いたいことをいうのだから、面白いはずもない。

「お前が会話に応じなければそれでいいだろう。適当にあしらえ」
「それができれば苦労しません!」

 マライアは、さっきは軽く、今度は少し強めに不機嫌を伝えてみた。
 いつものアルナルドなら、多少、無理難題でもこれで聞き入れてくれていたからだ。

「彼は優しいわ。殿下だって最初の頃はこうは申されませんでした。いまはお人が変わったみたいに冷たくあられます」
「……。俺だって、婚約者にこんなことを言いたくない。本当に心当たりはないのか?」
「知りません! あなただって、下級生の婦女子たちに囲まれていつもいつも、笑顔を振りまいているじゃない。私ばかり感情を押し殺せ、お前の不貞がこうしたんだと悪く言われるのは、不公平です!」
「不公平? 貴族の男女の仲に公平なんてものがあるはずないだろう。御婦人方に敬意を払い、その意思を尊重するがそれは互いに『まとも』な場合、だけだ。お前、いまどういう立場か理解しているのか?」
「殿下に無理難題を押しつけられ、ありもしない嘘をでっちあげられて、不当に婚約破棄されようとしておりますが?」
「かわいくない女だ‥‥‥」
「ならさっさと手放して、お好きな女性を妻になさってはいかが? 陛下が‥‥‥それをお許しになるなら」

 と、二歳年上の青年に少女は訊ねた。
 意図的に声のトーンを高めにして、彼を挑発する。

 青年は端正な顔立ちなのに、目を半目にして、ふんっと鼻息も荒く、長い両足を組みなおして靴の裏を対面して座る、少女へと向けた。

 白けた様子で、近寄るな。

 そんな意思表示にも見えた。

「めんどうくさい女だ。いま一言、御受けします、と言えばそれで済むものを」
「言えません! この場所でこんな会話がなされたこと自体、誰かの耳に入れば殿下だけでなく、私まではしたない女だ。リブル侯爵家の恥知らずだと世間に笑われます。家の恥になるようなことはできません」

 実際、馬車の中には、御者に向かい命令を伝える小窓が用意されている。

 そこにはガラス戸がはまっているが、開閉式だし、音が漏れ伝わらないとも限らない。
 移動する密室のようでそうでないのだ。

 そんな風に勘違いした貴族が不倫をしたり、密会をしたりして、どこからともなくその話が漏れてしまい、あとから処分されるということも少なくない。
 マライアはそれを知っているから、この会話を早く終わらせてほしいという気持ちでいっぱいだった。

「私は誠実に殿下だけに心を寄せております。例えそれが家同士の政治的な理由だったとしても」
「……」

 沈黙がしばらくの間、室内を支配する。
 重い空気にいたたまれなくなり、マライアが車窓を確認すると、二人がさっき後にした学び舎の正門へと至る、白いレンガとコンクリートで舗装された道は終わりを告げようとしていた。

 そこから向かって左に抜ければ、貴族街がある。
 多くの学院に通う子弟子女はそこから通っていた。
 右に行けば商業区があり、それ以外にも一般の市民が暮らす場所がある。
 正面に抜ければ王城があり、この王都は最も外側から内側へと四つの外壁で周囲を覆われている。

 学院は王城の真正面、西側に位置していた。
 王と法を司る存在は太陽が昇る東の山裾に。
 学院は賢さの眠る西に、水源となるアスティラ湖や牧羊地と共に。
 戦いの神が眠る北には軍部や処刑場、鉄の鉱山などがあり、豊穣の女神が座する南には三つめから四つ目の城壁の合間に広がる広大な農地がある。

 そして同じく左手。
 北西には広く突き出た湾がありその先は大洋が広がっている。
 暖かい気候の半島と、北部から吹き込む冷たい寒気がぶつかって、この国は南国ほどではないものの、比較的穏やかな南の国。
 ライキルド王国という名で、大陸に広く知られていた。

 がたん、と大きく車輪が轍を踏んだらしい。
 車中で両者の体勢が崩れるほど、馬車は大きく傾き、元へと戻る。
 当然、なかの二人は抗えない力にいいように扱われ、片側の隅に押し込めれてしまった。

「殿下!」
「大声を上げるな。まったく、どうしてお前などを庇わなければならないんだ。あんな年下の遊び人に嬉しそうな顔を向けるお前を見るたびに、俺の心は弄ばれているようだ。腹が立つ」

 そうがなるように言うものの、マライアが下敷きにならないように支えた青年は、上半身で彼女の身体が壁に投げうたれようとしたのを、防いでいた。

 片方の腕がどうにも鈍い痛みを発するが、いまは彼女の安全が大事だった。

 後から宮廷魔導師にでも治癒魔法をかけさせよう、とそう思い、アルナルドは少女をきちんとした位置に座らせた。

「その腕‥‥‥」

 あちらから見ても分かるのだろう。
 自分の服の下から血がにじみ出ているのを確認して、青年はなんでもない、と首を振る。

「軽傷だ。問題ない。それより、さっきの話だが‥‥‥」
 言い終わらないうちに、確固たる返事がきた。
「分かりました!」
「……何?」

 青年は少女の決意した顔を見下ろして唖然とする。

 なんだこの強い意志の込められた眼差しは。
 さっきまでの汚物を見るような、そんな蔑んだあの視線はどこへ行った?
 そう問いかけようにも、相手の凛とした顔つきに踏み込んではいけないものを感じてしまい、アルナルドはそれ以上、何も追求できない。

「私が殿下を好きなのです! 大好きなのです。それが分かりました。ですから、ポール様に誘われても‥‥‥ええ、殿下と一緒にいることにしましょう。周りの目を気にするよりも将来を分かち合う相手と過ごす時間のほうが大事ですから」
「そう言うなら……考え直さないでもない。婚約破棄を‥‥‥ああ」

 どこか納得のいかない形で締めくくられてしまい、アルナルドは憮然としてそう言い放つ。
 その怪我した腕に、マライアは初級の治癒魔法だが、それをかけようといそいそと近づいてきた。

 まあ……これも悪くない。
 婚約破棄などとおおげさに言わず、本音を素直に吐けばよかった。

 青年はそう反省して手当をうけるのだった。
 
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