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第九章
忘れられない顔
しおりを挟む「なにしてるのよ、ほら。早く行って下さいな、お嬢様」
「ちょっ……待ってってば。まだ心の準備が――ッ」
東の離宮。
まだうら若い貴族の婦女子が出歩くにしてはちょっと遅すぎる時間帯。
御供もつけず、護衛も無し。
そういう状態だったら彼女達はそれぞれ態度父親にとても怒られたことだろう。
しかし今回は近衛騎士なんてものがそばにいて、これから会うのがこの国で五本の指に入るくらい偉い人物で、その傍らにはケイトの恋人もいる。
「心の準備って、そんなもの必要ないでしょ。さっさとやることやって帰りましょうよ」
「やることってっ――ケイト! 言い方が貴族令嬢らしくない……」
「どうでもいいでしょそんなこと。いい、アイリス? あなたは私とヴィクターとの大事な大事な時間をまた奪うつもりなの?」
「そんなことは――そんなことはないわよ」
「じゃあしっかりしてちょうだい。殿下ときちんとお話をしてね。わたし達、下のものが迷惑を被らないように」
迷惑、と言うキーワードがとても強調された一言だった。
多分これで婚約者との仲が破談になったら、ケイトは一生口をきいてくれないだろう。
そう予感させる一言だった。
「ちゃんとする、ちゃんとしますからッ! 私が殿下とお話をしている間に、二人はこの前の埋め合わせを、ね?」
「当たり前です!」
騎士の手を借りて馬車を降りた二人の貴族令嬢は、ひそひそと顔を寄せ合い乙女の会話とかいうやつで誤魔化しつつ、これからの算段を練る。
「こちらにどうぞ。アズライル王子も、オンセド男爵もお待ちになっております」
「……オンセド男爵?」
思わず小さく問いかける。
ケイトはもう忘れたの、とそんな顔をした。
そうだった。ヴィクターは父親の跡を継いですでに男爵様になっていたのだ。
それも王国ではなく――アイリスに剣を突き立てて、女神サティナの妹アミュエラの名誉を回復したあの王国騎士が守る街の隣……帝国の男爵。
「帝国の爵位だったら、規模が違うからこの国では子爵位の権力があったりして……」
ふと二国間の規模を思い浮かべ、そんなことを思ってしまう。
ケイトは逆玉というか。
彼女の実家が子爵だから、釣りあいはとれているのだろう。
いい侍女だけど、いまでもこれだけ口うるさいのだから、結婚したらヴィクターも大変ね。
口には出さず、心でそう呟くアイリスだった。
そして離宮に入れば、通された場所には見知った相手がいる。
「……あ――っ……。でん、か……ッ」
「よく来てくれたな、アイリス。随分、時間を変えたのは困りものだが。元気そうで何よりだ」
忘れられない顔が、そこにはあった。
金髪碧眼、まあまあ悪くない美丈夫。
しかし王太子として甘やかされてきた彼の顔は、わがままと尊大さと、弱い立場の者を思い合えるはずの優しさはそこにはない。
「お久しぶりです、殿下。ご機嫌麗しゅう――その節は私のわがままを聞き届けてくださいまして、アイリス、深く感謝致しております」
「感謝、な。こちらの予定を変じるようにしないで頂きたい、ドナード侯爵令嬢殿」
冷たい返事――予想していたこととはいえ、心が冷たさを感じていた。
頭二つほど高い長身から見下ろされると、普通の子女なら黙り込んでしまうかもしれない。
この頃からこんな醜い顔をしていたんだ……。
アイリスは真っ先に目に入ってきたその顔を見て、ちょっと唖然としてしまった。
この時の彼は二十四歳。
軍務や政務で忙しい最中だったからだろう。
前回、会う約束をすっぽかしたものだから、アイリスにいささか腹を立てているように見えた。
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