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第二章 帝国編(海上編)

侍女の鉄拳

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「ありがとう、アルナルド」
「え……」

 更に怒りをこめての船室の扉を指さそうとしていたアルナルドの手が止まる。
 素直なその感謝の一言は、どこまでも自然のそれだった。
 開放してくれて、受け入れてくれて、船に乗せてくれて、愛を語ってくれて、利用してだましてくれて、友人でいてくれて、家族でいてくれて……旧友であり幼馴染であり――彼を追いかけて助けを求めた。
 いや……自分が生きてきた中で初めて愛したいと思った女性の、思い浮かんだ事情のどの言葉にも当てはまりそうなありがとう、の一言。
 思わずそれを受け止めきれず、逆にアルナルドは二歩、三歩と長椅子を立ち上がり、サラから後ずさりながら距離を取ろうとして、テーブルに膝裏がつき、置いていた食器同士が触れてカチャン、と音を立てた。

「何?」
「なんでもない」
「そう。ねえ、アルナルド」
「……」
「都合が悪くなると黙る癖、止めた方がいいわよ」
「うるさい……よ。そんなことじゃない」
「そう」

 サラは多くを取り合わない。
 また気まぐれに何かを言い出されたら、たまったものではないからだ。
 それよりも彼に早くこの部屋から出て行って欲しかった。
 いろいろとまとめ、仕度をしなくてはいけないからだ。

「どうして」
「はい?」

 さあ、どれから手に付けよう。
 侍女たちを呼ぼうと呼び鈴を手にしたサラに向かい、立ちっぱなしの殿下は奇妙なことを口走った。

「君は淑女らしく出て行かない?」
「え……それって殿方が怒りに任せて出ていくものではないの?」
「……どんな安っぽい歌劇だよ」

 歌劇? オペラと言えば――と、ふとサラはレイニーが最後に見た時に侍らせていたオペラ歌手。彼がロイズによって断罪されないようにと手を回すのを忘れていた、とふと思い出す。

「それは知らないけど。貴方、王国に連絡した方がいいわよ」
「いきなりどういうことかな? 君をあちらに引き渡せ、そういう話か!」

 ダン。いや、ダムッ、と形容した方が良かったかもしれない。
 まだまだ未熟な殿下は、拳を固めて思いっきりそれをテーブルに振り下ろした。
 あーあ……音がさすがにまずいでしょう、アルナルド。なるべく内密に出て行こうとしたのに、これでは台無しだ。
 暴力的な音、よりかは主人に呼ばれる音、の方がいいと思いサラは呼び鈴をすぐさま鳴らした。

 扉向こうで侍女たちを含めて数名の気配がずっとしたままだし、心なしか人気が増えた気もする。
 まあ一番に飛び込んでくるのは――あの子だろうなと思っていたら彼女は期待を裏切らずに扉を丁寧にそっと、しかし途中からは勢いをつけて蹴りだしていた。

「お嬢様!」

 そっと押し開けたのは意外にもエイルで、蹴り開けたのはいつも通りアイラだった。
 二人の声はほぼ同時に発せられて双子なのかしらと思いそうなほどに、息もぴったりだった。
 室内に数名がなだれ込んできて、アイラはアルナルドに。エイルはサラに迷うことなく向かう。

「アルナルド、あんたうちのお嬢様に何した!?」

 その一言は侍女の妹から発せられた。
 うつむいてもう無理だわ、と顔色が悪いサラをアイラが最初に目にしたからだ。
 途端、アイラは十年を共に子爵家で育った弟のような少年を、姉の一人として詰問する。しかし、ちょっとやり過ぎなものも含まれていた。

「……あ……」

 サラやエイル、その他の誰かが止める間もなく、アイラは手を一閃。
 こちらはサラに用無しと言われたまま茫然自失に近いアルナルドが悪、と見てその頬を腰だめにした素手ではたいていた。
 ロイズがサラの頬を張った時の数倍大きな音が室内に響き渡る。

「よっし!」

 エイルが漏らした歓声をサラは睨んで黙らせた。
 平手というよりはさすが騎士の娘だ。アイラのそれは頬どころか顎にまで続く掌底を叩きつけていて、アルナルドは軽くその身を部屋の奥へと足を絡ませて倒れこんでいた。

「殿下!?」

 その次に上がったのは非難と誰何と、アルナルドを助けようとか、無事ですかとか、その犯人を取り押さえろとか、そんな意味を含んでいる一言だった。

「えっ!? 待って、あたし悪くないっ」
「悪くないわけないでしょう……」

 目の前で一番先に部屋に入り込み、その勢いでアルナルドを殴りつけておきながらよく言えたものだわ、とサラは感心する。
 海兵に向けられた銃口を見るとさすがのアイラも身動きできずにいた。

「動くなよ?」
「動けないでしょ!?」

 間抜けな侍女と顔色が気色張った海兵たちはそれぞれ、微妙な緊張感をもってどうしようかとそれぞれの主に目をやる。
 床の皇太子は口端から伝う血を女性士官にぬぐられてそれどころではなかったし、サラとエイルは助けてもらった側なのにこれもいい勉強だわ、とそんな目でこっちを見ている。
 あたしの助け損じゃないかあ、とアイラがぼやきそうになった時、扉の向こうから入って来た人物がようやくその場をいさめた。

「いい。銃を収めろ」
「船長?」

 アイラの誰何の声に片目を細めると、四十代の彼は手で部下に示した。
 それからアイラをサラたちの方にやると、その足で数歩先に座り込んでいる皇太子に向かい、手を伸ばした。

「立てますか、アルナルド様」
「……いい、できるよ」
「それならば、良かった。船が少しばかり揺れましたな。あの侍女の足も勢いが付きすぎたようだ。主人をこんな朝から独占されては心配にもなろうというもの」

 この件は不問にしますよ。
 船長はその場の誰よりも強い意志をもった声で、アルナルドにそう告げていた。 
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