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雪と汽車と
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雪降るホームに汽車の白煙が降りそそぐ。
鉄塊が鳴らす駆動音が収まり、駅売りたちが商品を抱えて近づく。
「焙じ茶いかがですか。一杯一銭です」
青年が優しげな声で呼び掛ける。瀟洒な給仕服の上に、安物の道中着を羽織っている青年、三熊はゆっくりと歩いた。呼気と、立ち売り箱に載せた急須から立ちのぼる湯気が、小さな軌跡を作っていく。
「緑茶はあるかい」
窓越しに乗客から声が掛かる。
「あちらで売っています。呼んできますね」
雪に気をつけながら同僚に近づき、金を渡して湯飲みに一杯分けてもらった。客の元へ戻ってそれを売る。
「こちらも緑茶」
「はい、ただいま」
給金は歩合が大きいため、これでは同僚ばかり儲かるのだが、
(こういう日もある)
三熊は笑顔を崩さず雪の上に足跡を増やしていた。
注文が落ち着いてきた頃、
「一杯頼みます」
後ろから、よく響く低音が呼び止めた。
(綺麗な声)
一等車の窓から、黒い手袋と黒いコートの裾が見えた。半開きの窓は曇り、彼の顔は見えない。
「焙じ茶でよろしいですか」
「ええ」
手を差し出すと、硬貨が載せられた。受け取りやすい上品な所作。湯飲みに注いだ焙じ茶を渡すと、手は車内へと戻っていき、三熊はほんのりと淋しさを覚えた。
「この辺りに店があるのですか」
男性が会話を続けてくれて、三熊の気分は浮上する。都会的なアクセントが妙に美しく感じた。
「はい。駅を出て右隣です。甘味にコーヒーもございます」
「そうですか。茶があってよかった。温まります」
そう言った後、彼は窓を閉めた。寒さにひりついていた三熊の頬が、白さを増す呼気に温められた。
終業までカフェで働き、洋服から着物に着替えて店を出た。冷え込んだ借家に帰って床についても、あの声が耳から離れない。
(優しそうだった)
顔は見えなかったが、襟首と胸元だけが見えた。上等なコートの前は開いていて、ぴったりと採寸されたスーツが見えた。体は鍛えてあるようで、三熊より逞しかった。
彼は十日に一度ほど汽車を利用しているようだった。
(頻繁だけど、何のお仕事だろう)
そして三熊が緑茶を売っている時は緑茶を、竹筒の水の時は水を、クッキーの時はクッキーを頼む。そして、二言三言話してくれる。
(気に入ってもらえたのだろうか)
単に近くにいたからかもしれないけれど、三熊は淡い期待を胸に言葉を交わす。
「お堀の桜は見事なんですよ」
白い花を咲かす古木の清らかさと、染井吉野の若木の華やかさで城が覆われて、とても美しい。以前、東京からの客が褒めているのを聞いたことがあるから、おそらく彼から見ても見事なはずだ。
……このところ、興味がなかった紀行文をよく読むようになった。彼との話題を探しているのだ。よく行く貸本屋や蔵書家の先生に、何かあったのかと問われてしまい、赤くなった顔を揶揄われた。
「桜ですか。見てみたいですね」
彼が興味を持ってくれたので、三熊は嬉しくなった。
「来月の今頃が盛りです。よろしければ案内しますっ」
彼が汽車から降りてくれたら、隣を歩けたら、三熊に視線をくれたなら……、どれだけ幸福だろうか。
ちょうど他の客から声が掛かり、三熊は泣く泣くその場から離れた。
甘い時間は突如として途絶えた。
(……二十日)
その日の最終列車が発車する度、三熊は彼と幾日会えていないか数える。日に日に暖かくなり、もう窓硝子は曇らない……。けれど、三熊の視界は滲む涙で曇った。
(もう、会えないのかな)
三熊は金を貯めたら東京の学校に行くつもりだ。けれど東京で彼を探そうにも、何一つ手掛かりはない。
(名前だけでも訊いておけば……)
仕事に手いっぱいだったのと、意識すると上手く話せないから訊けなかった。なんとも要領が悪い。
ある日の午後。駅前の桜の下を通り、三熊はカフェに出勤した。西洋趣味の店内には、常連が二組と、見知らぬ着物姿の男性がいた。三熊より年上の、ちょっと目を引く美男だった。
「お一人の席の」
「はい」
着くなり厨房から皿を出された。緑茶と餡の掛かった串団子を、盆に載せて運ぶ。
「お待たせいたしました」
皿をテーブルに置く。
「――……」
男性は皿の団子ではなく、三熊を見つめている。
「どうか、なさいましたか」
「……ようやく休みが取れて、桜を見に来ました」
(――この声……)
何度も思い起こした、心地良い低音。
三熊が目を潤ませて見つめ返すと、彼は優しく微笑んだ。
「初めて降りた街です。どなたか案内がしてくれると嬉しいのですが」
「僕ではっ、だめですか」
声を荒げてしまった三熊の肩に、彼の手が触れる。なだめるように撫でられた。手のひらの体温が伝わる。鼓動を抑えながら、彼の気遣いに感謝して大人しくなる。暇なら客と会話を楽しんでいてもいいのだが、いつもと違う様子を見られるのは恥ずかしい。
「あなたが案内してくれるとなると……」
彼は潜めた声を、三熊の耳元に投げかけた。汽車の鉄の胴体などない、とても近い距離で。
「あなたの声は春の日向のようで、私の中のつぼみを咲かせてしまうかもしれない」
つぼみ……。
ここに来てくれたのは、そのつぼみに誘われてのことだろうか。そうだったら、嬉しい……。
「――……。私の中の花はとっくに咲いていて……、咲かせた人に手折られたくて待っています」
そう言い返すと、彼は頬を少し赤らめて、再び三熊の耳に唇を近づけて、宿の名と己の名を教えてくれた。
その後、彼に世話されて三熊は上京した。学業に励みつつ、大きな会社の番頭である彼を内外で支えていった。
「三熊の声は和むんだ。あの凍えるような冬の日に、柔らかく響いていた」
忙しくても変わらず優しい声を掛けてくれる彼。
三熊の花は幾度も芽吹き、生涯彼の側で咲き続けた。
〈終〉
鉄塊が鳴らす駆動音が収まり、駅売りたちが商品を抱えて近づく。
「焙じ茶いかがですか。一杯一銭です」
青年が優しげな声で呼び掛ける。瀟洒な給仕服の上に、安物の道中着を羽織っている青年、三熊はゆっくりと歩いた。呼気と、立ち売り箱に載せた急須から立ちのぼる湯気が、小さな軌跡を作っていく。
「緑茶はあるかい」
窓越しに乗客から声が掛かる。
「あちらで売っています。呼んできますね」
雪に気をつけながら同僚に近づき、金を渡して湯飲みに一杯分けてもらった。客の元へ戻ってそれを売る。
「こちらも緑茶」
「はい、ただいま」
給金は歩合が大きいため、これでは同僚ばかり儲かるのだが、
(こういう日もある)
三熊は笑顔を崩さず雪の上に足跡を増やしていた。
注文が落ち着いてきた頃、
「一杯頼みます」
後ろから、よく響く低音が呼び止めた。
(綺麗な声)
一等車の窓から、黒い手袋と黒いコートの裾が見えた。半開きの窓は曇り、彼の顔は見えない。
「焙じ茶でよろしいですか」
「ええ」
手を差し出すと、硬貨が載せられた。受け取りやすい上品な所作。湯飲みに注いだ焙じ茶を渡すと、手は車内へと戻っていき、三熊はほんのりと淋しさを覚えた。
「この辺りに店があるのですか」
男性が会話を続けてくれて、三熊の気分は浮上する。都会的なアクセントが妙に美しく感じた。
「はい。駅を出て右隣です。甘味にコーヒーもございます」
「そうですか。茶があってよかった。温まります」
そう言った後、彼は窓を閉めた。寒さにひりついていた三熊の頬が、白さを増す呼気に温められた。
終業までカフェで働き、洋服から着物に着替えて店を出た。冷え込んだ借家に帰って床についても、あの声が耳から離れない。
(優しそうだった)
顔は見えなかったが、襟首と胸元だけが見えた。上等なコートの前は開いていて、ぴったりと採寸されたスーツが見えた。体は鍛えてあるようで、三熊より逞しかった。
彼は十日に一度ほど汽車を利用しているようだった。
(頻繁だけど、何のお仕事だろう)
そして三熊が緑茶を売っている時は緑茶を、竹筒の水の時は水を、クッキーの時はクッキーを頼む。そして、二言三言話してくれる。
(気に入ってもらえたのだろうか)
単に近くにいたからかもしれないけれど、三熊は淡い期待を胸に言葉を交わす。
「お堀の桜は見事なんですよ」
白い花を咲かす古木の清らかさと、染井吉野の若木の華やかさで城が覆われて、とても美しい。以前、東京からの客が褒めているのを聞いたことがあるから、おそらく彼から見ても見事なはずだ。
……このところ、興味がなかった紀行文をよく読むようになった。彼との話題を探しているのだ。よく行く貸本屋や蔵書家の先生に、何かあったのかと問われてしまい、赤くなった顔を揶揄われた。
「桜ですか。見てみたいですね」
彼が興味を持ってくれたので、三熊は嬉しくなった。
「来月の今頃が盛りです。よろしければ案内しますっ」
彼が汽車から降りてくれたら、隣を歩けたら、三熊に視線をくれたなら……、どれだけ幸福だろうか。
ちょうど他の客から声が掛かり、三熊は泣く泣くその場から離れた。
甘い時間は突如として途絶えた。
(……二十日)
その日の最終列車が発車する度、三熊は彼と幾日会えていないか数える。日に日に暖かくなり、もう窓硝子は曇らない……。けれど、三熊の視界は滲む涙で曇った。
(もう、会えないのかな)
三熊は金を貯めたら東京の学校に行くつもりだ。けれど東京で彼を探そうにも、何一つ手掛かりはない。
(名前だけでも訊いておけば……)
仕事に手いっぱいだったのと、意識すると上手く話せないから訊けなかった。なんとも要領が悪い。
ある日の午後。駅前の桜の下を通り、三熊はカフェに出勤した。西洋趣味の店内には、常連が二組と、見知らぬ着物姿の男性がいた。三熊より年上の、ちょっと目を引く美男だった。
「お一人の席の」
「はい」
着くなり厨房から皿を出された。緑茶と餡の掛かった串団子を、盆に載せて運ぶ。
「お待たせいたしました」
皿をテーブルに置く。
「――……」
男性は皿の団子ではなく、三熊を見つめている。
「どうか、なさいましたか」
「……ようやく休みが取れて、桜を見に来ました」
(――この声……)
何度も思い起こした、心地良い低音。
三熊が目を潤ませて見つめ返すと、彼は優しく微笑んだ。
「初めて降りた街です。どなたか案内がしてくれると嬉しいのですが」
「僕ではっ、だめですか」
声を荒げてしまった三熊の肩に、彼の手が触れる。なだめるように撫でられた。手のひらの体温が伝わる。鼓動を抑えながら、彼の気遣いに感謝して大人しくなる。暇なら客と会話を楽しんでいてもいいのだが、いつもと違う様子を見られるのは恥ずかしい。
「あなたが案内してくれるとなると……」
彼は潜めた声を、三熊の耳元に投げかけた。汽車の鉄の胴体などない、とても近い距離で。
「あなたの声は春の日向のようで、私の中のつぼみを咲かせてしまうかもしれない」
つぼみ……。
ここに来てくれたのは、そのつぼみに誘われてのことだろうか。そうだったら、嬉しい……。
「――……。私の中の花はとっくに咲いていて……、咲かせた人に手折られたくて待っています」
そう言い返すと、彼は頬を少し赤らめて、再び三熊の耳に唇を近づけて、宿の名と己の名を教えてくれた。
その後、彼に世話されて三熊は上京した。学業に励みつつ、大きな会社の番頭である彼を内外で支えていった。
「三熊の声は和むんだ。あの凍えるような冬の日に、柔らかく響いていた」
忙しくても変わらず優しい声を掛けてくれる彼。
三熊の花は幾度も芽吹き、生涯彼の側で咲き続けた。
〈終〉
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