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第3章 月の里
3-3 水、命
しおりを挟む「岩壁の泉が?」
場がざわつく。無理も無い。
集落に流れ込む川は無く、取水は三つの湧水に頼っている。中でも岩壁の湧水は最も水量が多く、そこから農地を横切るように引かれた用水路は農業用水の要となっていた。
「ああ、少しおかしな味が続いていて……日に日に強くなっているんだ」
コルリは俯きそうになるのを堪えて凛と背を伸ばし、頷く。
「火の山や潮向きの所為ならばいずれは収まるはずだが……先ず懸念すべきは畑の不作や毒化だ」
広くない土地に少ない農作物、特に今は越冬の為に貯蔵する芋に岨麦の実や藁だった。これらの出来で越冬の難度が変わる。
「判りました。蒸留所も飲み水用に幾つか開けときましょうや。無いよりはマシだ」
「今年は山羊も増えたで、山羊糞も燃料のほうに多く回すかね」
「酪は乳酒にして室で藁に埋めとこうや」
「ほれ、コルリ様。じじ様の代にも泉が枯れかけたことはあったでな、そな神妙なお顔で畏まらんでもええ。わしらに任せぇ」
集落に住まう知恵袋たちの優しげな、そして頼もしい視線が集まる。
「コルリ様は水を診て、水を止めるかどうか決めて下せぇよ。そればっかりはこの年寄り共じゃどうにもならん。コルリ様がどう決めたってそりゃみんなを想ってのことだ。みんな解っとるよ」
結局─────
朝夕の冷え込みが気になる頃から落葉樹の葉が色付き散るまでになっても、湧き水の水質は回復しなかった。かなり強くなったその味は遂に上限に達したのかそれ以上濃くなることは無かったが、もう誰が口にしたとしてもその異味に気付くに違いない。
用水路は止めざるを得なかった。集会も何度目になるだろう。
集落の民が家路につく頃には、空が紅く染まりかけていた。他の季節より早い、秋の夕日。冬支度はもう始まっているというのに。
集落でも長老格である山羊飼いの老爺は落ち込むなと背を叩いてくれた。水の異変は神官のせいではないのだから、と。
確かに水質の操作はできない。できるならとうに元の綺麗な水に戻している。神官という肩書きを持ちながら、鍛錬を受けていながら、それでも自分は無力だ。
水に混じった味の正体も未だに判らない。少なくとも商人から入手した水を教材に父から教えられたどの味とも違った。
──薄暗い廊下へ入り込んだ素足に触れる床が冷たい。
「お兄様」
廊下の燭台に火を入れていたのだろう、手燭を掲げた妹が廊下の真ん中に立っていた。
「イスカ」
既に自分の部屋から灯りが漏れている。
「灯りを入れに来てくれたのか。有難う」
「……ええ」
あまり無理をしないようにと言い残して去った妹の足音を背に、御簾を上げて部屋に入り込む。良い香りに誘われて作業机を見遣れば湯気の立つ椀が置かれていた。温めた酪だ。
椀を包んだ掌にじんわりと伝わる熱が温かい。
唇から口腔を通り喉を流れる液体が、温かい。
添えられていた花弁を口にする。蜜漬けのそれは甘く鼻の奥に染みた。
「……イスカ」
妹の名を噛み締める。
「……させない」
甘みに痺れた喉を酪の熱で流し込み、息をつく。
「……贄になど、させるものか」
灯明の中心で芯が鳴った。黒い煙が一瞬だけ炎の先から噴き上がり、薄闇に溶ける。
板壁に踊る影に、震える肩は映らない。
─────指を伝う赤も、映らない。
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