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第二章 仲間探求編
83、彼にとって簡単なそれについて
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思いがけない答えに、アデルは呆けた様な声しか出せなかった。その発言は、彼自身を構成する全ての要素を根底から覆してしまう程の威力があったから。
アデルが初めてギルドニスと相対した折。彼は確かに自分自身を〝悪魔に対する永遠の忠義と信仰を誓う者〟と称していた。
これでは法螺も矛盾もいいところなので、間の抜けた声が出ても仕方の無い話であった。
「あぁ、勘違いなさらないでください。もちろんアデル様と初めてお会いした頃は、悪魔様に絶対の忠誠を誓っておりましたので」
「そ、そうか…………それにしても、紛らわしい言い方をするでない。驚いたであろうが」
「アデル様を驚かせることが出来るなんて……恐縮です」
「……」
苦言を呈しているというのに何故か嬉しそうなギルドニスを前に、アデルは思わず眉間に皺を寄せて苦い相好を向けてしまう。
「……そういえばお前、何故悪魔を信仰していたのだ?」
そもそもギルドニスが始受会に入会した経緯を知らないので、ふとアデルはそんな疑問を覚えた。それは元を辿れば、ギルドニスがあそこまで悪魔を崇拝していた理由に繋がる。
「…………随分と昔の話――私の幼少期の頃の出来事を話すことになりますが、よろしいですか?」
その問いにアデルが首肯して返すと、ギルドニスは兵士たちを拘束する手を止めることなく、自身の生い立ちを語り始めるのだった。
********
華位道国とイリデニックス国のハーフという、中々珍しい産まれ方をしたギルドニスは、その幼少期をイリデニックス国で過ごしていた。
父親がイリデニックス国出身だったので、母親の方が国を出る形になったのだ。だが最早ギルドニスにとって、どこで育つかという問題は、彼の人生に何ら影響を及ぼすものでは無かった。。
この世界のどこにいても、ギルドニスの辿る暗い暗い運命から逃れることは、決して出来なかっただろうから。
暗く、酷く荒れた部屋は煙草と酒の匂いが充満しており、とてもでは無いが子供を育てるのに良い環境とは言えなかった。だがギルドニスは幼少の頃、そんな環境しか知らなかった。
平たく言ってしまえば、ギルドニスは両親から虐待を受けていたのだ。ギルドニスの記憶で、両親が暴力を振るわなかった時期は無いので、恐らく赤子の頃から頻繁に虐待していたのだろう。
少しでも泣けば殴られ、反抗的な態度を取れば殺されかける。逃げようとすれば鍵のかかった小さな部屋に閉じ込められた。そんな日々を過ごしていくにつれ、幼い彼は現状打開を試みる気力すら無くなり、とうとう親の言う通りにしか動けなくなっていた。
「あぁ!?まだこれしか出来てないってどういうことだよっ!」
「……ごめんなさっ」
父親から大声で怒鳴り散らされ、ほんの少し肩を震わせたギルドニスはかき消えそうな声で陳謝した。だがその言葉を遮るように平手打ちされてしまい、彼は床に叩きつけられてしまう。
ドスッ。ドスッ。ドスッ。父親は何度もギルドニスの腹に蹴りを入れた。倒れた彼に追い打ちをかけるように。どれだけ苦しくても、耐えられない程痛くても、ギルドニスが泣き声を上げることは無かった。
泣いて助けを求めても、手を差し伸べてくれる聖人君子など現れないことをギルドニスは知っていた。そんな無駄なことをしても、目の前の両親の機嫌を損ねるだけだということを、嫌という程理解させられてきたから。
齢七にして、世界に絶望しきっていたギルドニスは、普通の七歳児の生活がどんなものなのかも全く知らないまま、現実から目を逸らすように知ろうともしていなかった。
ギルドニスは生まれつき操志者としての才能があり、機器作りも大人顔負けにこなしていた。その才能を目敏く見つけた両親は、彼の才能を金儲けの為に使うことを思いついた。
両親が目をつけたのは、イリデニックス国の軍などで普及している拳銃である。彼らはギルドニスに銃を作らせ、それを裏で売る商売をしているのだ。
とは言っても、身分も何のつても持っていない彼らが真っ当な客相手に商売が出来るはずも無く、銃を売るのは非合法な仕事をしている相手ばかりであった。
だが、銃を作っているだけのギルドニスに取引相手のことを知る術など無いので、彼は自身が人殺しの片棒を担がされていることも知らない。いや、予想はついていたのだろうが、彼に見知らぬ他人の命を心配できるほどの余裕などありはしなかったのだ。
「今日中にあと三十丁作らねぇとマジで殺すからな」
「……はい」
(殺してくれる程の良心なんて……無いくせに)
最早ギルドニスにとって死は恐怖ではなくなっていた。寧ろ彼にとって死とは慈悲そのもので、悪魔のような両親がそんな慈悲心を持っているとも思っていない。
収入源であるギルドニスを殺すことほど愚かな選択は無いので、両親が自身を殺してくれるだなんて、彼は微塵も期待していないのだ。
「ほんっと鈍くさいんだから。さっさとしてよね」
「……」
暴力を振るうのは主に父親だが、だからと言って母親の方が真面というわけでは無い。父親の暴力を見て見ぬ振りな上、そもそも彼女は手を上げる労力を被りたくないだけなのだから。
そんな母親を冷めた目で捉えたギルドニスは父親に命じられるがまま、拳銃作りに着手するのだった。
********
朝起きて、ひたすら拳銃を作り、両親からの虐待に耐え、僅かに与えられる食事で何とか生き延びる。
そんな生活を続けていた頃、ギルドニスにとって運命の転機と言って差し支えない出来事が起きた。
その日は両親が自宅におらず、ギルドニスは一人で彼らの帰りを待ちつつ、いつも通り拳銃を作り続けていた。両親は、彼の作った拳銃を売る為に外出していたのだ。
日が暮れ始め、そろそろ両親が帰ってきてもいい頃合い。人々の騒がしい声に気づいたギルドニスは、窓から外の様子を確かめることにした。
建てつけが悪い上、ゴミや衣服で散らかっているせいで、窓を開けるのは中々骨が折れたが、ギルドニスは何とかその窓を開くことに成功した。
窓が開いたことで、雑音のように聞こえていた喧騒がダイレクトに彼の耳に届く。そして自身の眼下に広がる阿鼻叫喚に、ギルドニスは茫然自失としてしまった。
「みんな早く逃げろ!!」
「悪魔がいるって本当なのっ……!?」
「ちょっと退いてよ!」
「いやああああああああ!!」
「お母さーんっ……」
数え切れない程の人の群れが同じ方向へと逃げ惑い、困惑と恐怖で叫び声を上げていた。人の波を作り出している彼らが一体何から逃げているのか分からないギルドニスではなく、彼はすぐにこの騒ぎの元凶に気づいた。
喧騒の中から微かに聞こえてきた〝悪魔〟という単語だけで、この状況を理解するには十分すぎたから。
恐らく付近に悪魔が現れた。ないし、そういった噂が流れて大混乱に陥ったのだろう。ギルドニスは虚ろな目で彼らを見下ろしながら、朧げにそう推測した。
恐怖に顔を歪ませる彼らにも、悪魔自体にも全く興味が無かった彼は、煩わしい音を遮断するために窓を閉めようとするが、伸ばした手がピタッと止まった。
「……」
ギルドニスの瞳に映ったのは、有象無象と同じようなへっぴり腰で逃げ惑う両親の姿だった。そしてそれは、ギルドニスの知らない両親の姿でもあった。
ギルドニスは生まれてからずっと、絶対的な暴力で自身を支配する恐ろしい両親しか知らなかった。蔑むような目で自身を見下ろし、抵抗する権利すら与えてもらえないまま理不尽な苦痛を与え、生きている限り逃げることなど出来ない。それがギルドニスにとっての恐怖の象徴――両親だった。
にも拘らず、彼の瞳が捉えている両親は悪魔という存在に恐れ戦き、竦み上がり、恐怖で顔を歪ませていた。その姿はあまりにも弱々しく、彼は自分自身の目を疑ってしまう。何故ならギルドニスは、恐れなど知らない、絶対的な強者としての両親しか知らなかったから。
それが見間違いでも何でもない、れっきとした真実であることを悟ると、彼の中に一つの疑問が湧いた。
あの両親が恐れているのは、一体何なのかと。これは、両親に限った話ではない。
悪魔がこの世界において忌避される存在であることは知っているので、彼らが狼狽しているのは理解できるのだが、何をそんなにも恐れているのかがギルドニスには全く分からなかったのだ。
こんなにも多くの人々が身分も性別も年齢も関係なく、最上級の恐怖を抱く。そんな彼らの恐怖を一身に受けるものとは一体何なのか。その存在に対する興味を、ギルドニスは抑えることが出来なかった。
そしてふと――。
一つの可能性に辿り着く。
(もしかしてみんな……死ぬのが怖いのか?)
それはギルドニスにとって理解しがたい感情で、まさに盲点であった。ギルドニスは死を恐れたことが無く、寧ろ死ぬことが出来ればどれだけ幸福だろうと幾度も想像してきたから。他人にとって死というものが恐れる現象であること。何より、ギルドニスにとって些細でしかない事象を、両親が恐れているという事実が彼には衝撃的だったのだ。
人々が悪魔を忌み嫌うのは五千年前の出来事が原因だが、彼らが悪魔を前にして死を連想するのは、悪魔が絶対的な力を持っているからだ。彼らはその圧倒的な力を前に為す術を持ち合わせていないから、迫りくる死を恐れる。
それを理解した瞬間、ギルドニスは思った。両親を悪魔だと思っていた自分は、何て無知で愚かだったのだろうと。本物の悪魔を前にしてしまえば、彼ら如き矮小な存在など、有象無象の一部分でしか無いというのに、自分は何を恐れていたのだろうと。
自分があんなにも恐れ、従ってきた両親を、いとも簡単に十把一絡げにしてしまった悪魔は、何て偉大な力を持つ存在なのだと。ギルドニスは素直に尊敬の念を抱いた。
「そっか……」
ボソッと呟いた刹那、ギルドニスの虚ろだった瞳に光が灯る。何かを決意したような、キリッとした面持ちになったギルドニスの行動は早かった。
窓を素早く閉めると、ギルドニスは作っておいた拳銃を手に取り、そのまま玄関へと向かう。物言わぬ扉に向けて拳銃を向けると、ギルドニスはそのまま静止した。
慌てて帰宅してくるであろう両親を、その銃口で待ち構えるように。
その時のギルドニスの心は、酷く穏やかだった。
扉が開かれれば、弾丸を二発撃ちこむ。彼にとってはそれだけのことだったから。たったそれだけのことで、その先に彼の知らない世界が待っているのだから、寧ろ好奇心が湧きあがる程であった。
しばらくすると扉の向こうから酷く慌てた様な足音が聞こえ、ギルドニスは引き金に指をかける。そして、勢いよく扉が開かれると同時に彼は――。
バンバンっ!
と、両親それぞれの胸に弾丸を撃ち込んだ。
両親は呆気なくその場に倒れ込み、ギルドニスに鋭い睨みを向けることも、罵声を浴びせることも、踏み潰した虫のように動き回ることも無かった。
あまりにも呆気ない最期を前に、今までの自身の愚かさを彼は嘆いた。
「なんだ……こんなことでよかったのか」
こんなことで全てが解決するのであれば、もっと早く実行すれば良かったと。ギルドニスは長い時間を無駄にした気分になった。だがいくら嘆いたところで、過去を変えることは出来ない。今は両親の呪縛から解き放たれたことを素直に喜ぼうと、ギルドニスは思考を塗り替えた。
それから。
両親を殺し、自由を手に入れたギルドニスは、きっかけである悪魔に対する好奇心を抑えることが出来ず、少しずつ悪魔について調べるようになった。
その過程で悪魔教団〝始受会〟の存在を知ったギルドニスは、第一支部主教への道を駆け上がるのだった。
********
ギルドニスの口から、悪魔を崇拝するようになったきっかけを聞いたアデルは酷く冷静で、彼は思わず首を傾げた。
「あまり驚かれませんね」
「なに……よくある話である」
「そう……ですね」
アデルの言ったことはどう足掻いても変わらない、残酷な現実だった。アデル自身も同じような……いや、それ以上の運命を背負ってきたので、ギルドニスを特別視することなど出来なかったのだ。アデルやギルドニスだけではなく、不遇な運命を背負いながら辛い幼少期を過ごしてきた者は多くいるから。
ギルドニスと違い、アデルは不特定多数の人々から迫害されてきた上、普通の人間であれば死んでもおかしくない様な暴行を幾度となく受けてきた。比べることでは無いが、とても〝同じような〟と一纏めにすることは憚れる。
「悪魔を信仰していた理由は分かったが…………結局……お主は今、一体何を糧にして生きているのだ?」
アデルが初めてギルドニスと相対した折。彼は確かに自分自身を〝悪魔に対する永遠の忠義と信仰を誓う者〟と称していた。
これでは法螺も矛盾もいいところなので、間の抜けた声が出ても仕方の無い話であった。
「あぁ、勘違いなさらないでください。もちろんアデル様と初めてお会いした頃は、悪魔様に絶対の忠誠を誓っておりましたので」
「そ、そうか…………それにしても、紛らわしい言い方をするでない。驚いたであろうが」
「アデル様を驚かせることが出来るなんて……恐縮です」
「……」
苦言を呈しているというのに何故か嬉しそうなギルドニスを前に、アデルは思わず眉間に皺を寄せて苦い相好を向けてしまう。
「……そういえばお前、何故悪魔を信仰していたのだ?」
そもそもギルドニスが始受会に入会した経緯を知らないので、ふとアデルはそんな疑問を覚えた。それは元を辿れば、ギルドニスがあそこまで悪魔を崇拝していた理由に繋がる。
「…………随分と昔の話――私の幼少期の頃の出来事を話すことになりますが、よろしいですか?」
その問いにアデルが首肯して返すと、ギルドニスは兵士たちを拘束する手を止めることなく、自身の生い立ちを語り始めるのだった。
********
華位道国とイリデニックス国のハーフという、中々珍しい産まれ方をしたギルドニスは、その幼少期をイリデニックス国で過ごしていた。
父親がイリデニックス国出身だったので、母親の方が国を出る形になったのだ。だが最早ギルドニスにとって、どこで育つかという問題は、彼の人生に何ら影響を及ぼすものでは無かった。。
この世界のどこにいても、ギルドニスの辿る暗い暗い運命から逃れることは、決して出来なかっただろうから。
暗く、酷く荒れた部屋は煙草と酒の匂いが充満しており、とてもでは無いが子供を育てるのに良い環境とは言えなかった。だがギルドニスは幼少の頃、そんな環境しか知らなかった。
平たく言ってしまえば、ギルドニスは両親から虐待を受けていたのだ。ギルドニスの記憶で、両親が暴力を振るわなかった時期は無いので、恐らく赤子の頃から頻繁に虐待していたのだろう。
少しでも泣けば殴られ、反抗的な態度を取れば殺されかける。逃げようとすれば鍵のかかった小さな部屋に閉じ込められた。そんな日々を過ごしていくにつれ、幼い彼は現状打開を試みる気力すら無くなり、とうとう親の言う通りにしか動けなくなっていた。
「あぁ!?まだこれしか出来てないってどういうことだよっ!」
「……ごめんなさっ」
父親から大声で怒鳴り散らされ、ほんの少し肩を震わせたギルドニスはかき消えそうな声で陳謝した。だがその言葉を遮るように平手打ちされてしまい、彼は床に叩きつけられてしまう。
ドスッ。ドスッ。ドスッ。父親は何度もギルドニスの腹に蹴りを入れた。倒れた彼に追い打ちをかけるように。どれだけ苦しくても、耐えられない程痛くても、ギルドニスが泣き声を上げることは無かった。
泣いて助けを求めても、手を差し伸べてくれる聖人君子など現れないことをギルドニスは知っていた。そんな無駄なことをしても、目の前の両親の機嫌を損ねるだけだということを、嫌という程理解させられてきたから。
齢七にして、世界に絶望しきっていたギルドニスは、普通の七歳児の生活がどんなものなのかも全く知らないまま、現実から目を逸らすように知ろうともしていなかった。
ギルドニスは生まれつき操志者としての才能があり、機器作りも大人顔負けにこなしていた。その才能を目敏く見つけた両親は、彼の才能を金儲けの為に使うことを思いついた。
両親が目をつけたのは、イリデニックス国の軍などで普及している拳銃である。彼らはギルドニスに銃を作らせ、それを裏で売る商売をしているのだ。
とは言っても、身分も何のつても持っていない彼らが真っ当な客相手に商売が出来るはずも無く、銃を売るのは非合法な仕事をしている相手ばかりであった。
だが、銃を作っているだけのギルドニスに取引相手のことを知る術など無いので、彼は自身が人殺しの片棒を担がされていることも知らない。いや、予想はついていたのだろうが、彼に見知らぬ他人の命を心配できるほどの余裕などありはしなかったのだ。
「今日中にあと三十丁作らねぇとマジで殺すからな」
「……はい」
(殺してくれる程の良心なんて……無いくせに)
最早ギルドニスにとって死は恐怖ではなくなっていた。寧ろ彼にとって死とは慈悲そのもので、悪魔のような両親がそんな慈悲心を持っているとも思っていない。
収入源であるギルドニスを殺すことほど愚かな選択は無いので、両親が自身を殺してくれるだなんて、彼は微塵も期待していないのだ。
「ほんっと鈍くさいんだから。さっさとしてよね」
「……」
暴力を振るうのは主に父親だが、だからと言って母親の方が真面というわけでは無い。父親の暴力を見て見ぬ振りな上、そもそも彼女は手を上げる労力を被りたくないだけなのだから。
そんな母親を冷めた目で捉えたギルドニスは父親に命じられるがまま、拳銃作りに着手するのだった。
********
朝起きて、ひたすら拳銃を作り、両親からの虐待に耐え、僅かに与えられる食事で何とか生き延びる。
そんな生活を続けていた頃、ギルドニスにとって運命の転機と言って差し支えない出来事が起きた。
その日は両親が自宅におらず、ギルドニスは一人で彼らの帰りを待ちつつ、いつも通り拳銃を作り続けていた。両親は、彼の作った拳銃を売る為に外出していたのだ。
日が暮れ始め、そろそろ両親が帰ってきてもいい頃合い。人々の騒がしい声に気づいたギルドニスは、窓から外の様子を確かめることにした。
建てつけが悪い上、ゴミや衣服で散らかっているせいで、窓を開けるのは中々骨が折れたが、ギルドニスは何とかその窓を開くことに成功した。
窓が開いたことで、雑音のように聞こえていた喧騒がダイレクトに彼の耳に届く。そして自身の眼下に広がる阿鼻叫喚に、ギルドニスは茫然自失としてしまった。
「みんな早く逃げろ!!」
「悪魔がいるって本当なのっ……!?」
「ちょっと退いてよ!」
「いやああああああああ!!」
「お母さーんっ……」
数え切れない程の人の群れが同じ方向へと逃げ惑い、困惑と恐怖で叫び声を上げていた。人の波を作り出している彼らが一体何から逃げているのか分からないギルドニスではなく、彼はすぐにこの騒ぎの元凶に気づいた。
喧騒の中から微かに聞こえてきた〝悪魔〟という単語だけで、この状況を理解するには十分すぎたから。
恐らく付近に悪魔が現れた。ないし、そういった噂が流れて大混乱に陥ったのだろう。ギルドニスは虚ろな目で彼らを見下ろしながら、朧げにそう推測した。
恐怖に顔を歪ませる彼らにも、悪魔自体にも全く興味が無かった彼は、煩わしい音を遮断するために窓を閉めようとするが、伸ばした手がピタッと止まった。
「……」
ギルドニスの瞳に映ったのは、有象無象と同じようなへっぴり腰で逃げ惑う両親の姿だった。そしてそれは、ギルドニスの知らない両親の姿でもあった。
ギルドニスは生まれてからずっと、絶対的な暴力で自身を支配する恐ろしい両親しか知らなかった。蔑むような目で自身を見下ろし、抵抗する権利すら与えてもらえないまま理不尽な苦痛を与え、生きている限り逃げることなど出来ない。それがギルドニスにとっての恐怖の象徴――両親だった。
にも拘らず、彼の瞳が捉えている両親は悪魔という存在に恐れ戦き、竦み上がり、恐怖で顔を歪ませていた。その姿はあまりにも弱々しく、彼は自分自身の目を疑ってしまう。何故ならギルドニスは、恐れなど知らない、絶対的な強者としての両親しか知らなかったから。
それが見間違いでも何でもない、れっきとした真実であることを悟ると、彼の中に一つの疑問が湧いた。
あの両親が恐れているのは、一体何なのかと。これは、両親に限った話ではない。
悪魔がこの世界において忌避される存在であることは知っているので、彼らが狼狽しているのは理解できるのだが、何をそんなにも恐れているのかがギルドニスには全く分からなかったのだ。
こんなにも多くの人々が身分も性別も年齢も関係なく、最上級の恐怖を抱く。そんな彼らの恐怖を一身に受けるものとは一体何なのか。その存在に対する興味を、ギルドニスは抑えることが出来なかった。
そしてふと――。
一つの可能性に辿り着く。
(もしかしてみんな……死ぬのが怖いのか?)
それはギルドニスにとって理解しがたい感情で、まさに盲点であった。ギルドニスは死を恐れたことが無く、寧ろ死ぬことが出来ればどれだけ幸福だろうと幾度も想像してきたから。他人にとって死というものが恐れる現象であること。何より、ギルドニスにとって些細でしかない事象を、両親が恐れているという事実が彼には衝撃的だったのだ。
人々が悪魔を忌み嫌うのは五千年前の出来事が原因だが、彼らが悪魔を前にして死を連想するのは、悪魔が絶対的な力を持っているからだ。彼らはその圧倒的な力を前に為す術を持ち合わせていないから、迫りくる死を恐れる。
それを理解した瞬間、ギルドニスは思った。両親を悪魔だと思っていた自分は、何て無知で愚かだったのだろうと。本物の悪魔を前にしてしまえば、彼ら如き矮小な存在など、有象無象の一部分でしか無いというのに、自分は何を恐れていたのだろうと。
自分があんなにも恐れ、従ってきた両親を、いとも簡単に十把一絡げにしてしまった悪魔は、何て偉大な力を持つ存在なのだと。ギルドニスは素直に尊敬の念を抱いた。
「そっか……」
ボソッと呟いた刹那、ギルドニスの虚ろだった瞳に光が灯る。何かを決意したような、キリッとした面持ちになったギルドニスの行動は早かった。
窓を素早く閉めると、ギルドニスは作っておいた拳銃を手に取り、そのまま玄関へと向かう。物言わぬ扉に向けて拳銃を向けると、ギルドニスはそのまま静止した。
慌てて帰宅してくるであろう両親を、その銃口で待ち構えるように。
その時のギルドニスの心は、酷く穏やかだった。
扉が開かれれば、弾丸を二発撃ちこむ。彼にとってはそれだけのことだったから。たったそれだけのことで、その先に彼の知らない世界が待っているのだから、寧ろ好奇心が湧きあがる程であった。
しばらくすると扉の向こうから酷く慌てた様な足音が聞こえ、ギルドニスは引き金に指をかける。そして、勢いよく扉が開かれると同時に彼は――。
バンバンっ!
と、両親それぞれの胸に弾丸を撃ち込んだ。
両親は呆気なくその場に倒れ込み、ギルドニスに鋭い睨みを向けることも、罵声を浴びせることも、踏み潰した虫のように動き回ることも無かった。
あまりにも呆気ない最期を前に、今までの自身の愚かさを彼は嘆いた。
「なんだ……こんなことでよかったのか」
こんなことで全てが解決するのであれば、もっと早く実行すれば良かったと。ギルドニスは長い時間を無駄にした気分になった。だがいくら嘆いたところで、過去を変えることは出来ない。今は両親の呪縛から解き放たれたことを素直に喜ぼうと、ギルドニスは思考を塗り替えた。
それから。
両親を殺し、自由を手に入れたギルドニスは、きっかけである悪魔に対する好奇心を抑えることが出来ず、少しずつ悪魔について調べるようになった。
その過程で悪魔教団〝始受会〟の存在を知ったギルドニスは、第一支部主教への道を駆け上がるのだった。
********
ギルドニスの口から、悪魔を崇拝するようになったきっかけを聞いたアデルは酷く冷静で、彼は思わず首を傾げた。
「あまり驚かれませんね」
「なに……よくある話である」
「そう……ですね」
アデルの言ったことはどう足掻いても変わらない、残酷な現実だった。アデル自身も同じような……いや、それ以上の運命を背負ってきたので、ギルドニスを特別視することなど出来なかったのだ。アデルやギルドニスだけではなく、不遇な運命を背負いながら辛い幼少期を過ごしてきた者は多くいるから。
ギルドニスと違い、アデルは不特定多数の人々から迫害されてきた上、普通の人間であれば死んでもおかしくない様な暴行を幾度となく受けてきた。比べることでは無いが、とても〝同じような〟と一纏めにすることは憚れる。
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