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第一章 悪魔討伐編
4、知の芽生え1
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「いやぁ!君ってば本当に小汚いね?僕の愛しのベッドちゃんが台無しじゃないか。その汚れたシーツを洗うのは一体誰だと思ってるんだい?君をここまで運ぶ間も小汚い小汚いなぁとは思っていたのだけど、まさかシーツを真っ黒にする程の節操無しだと思わなかったよ。ホントに悪魔の愛し子っていうのはこんなにも小汚い奴ばっかりなのかな?」
「……」
息継ぎなしで捲し立てたこの家の家主に、アデルは一瞬呆けてしまう。終始満面の笑みでアデルに対する毒を吐き続けた家主は、彼が今まで出会ってきたどんな人間のタイプにも属していなかったからだ。
言っていることや選ぶ単語は刺々しいというのに、アデルは何故かそこに悪意を感じられず、それも彼の困惑に繋がっていた。
「……綺麗好きであるか?」
「ん?そりゃあ汚いよりは綺麗な方がいいに決まっているじゃないか?愚問だね」
「そうであるか。シーツが汚れるかもしれないのに、我をここに寝かせてくれたのだな。感謝する」
「おや。礼儀だけは一人前だね、悪魔の愛し子くん」
散々アデルを小汚いと罵り、ベッドが汚れてしまったことを嘆いていた家主だが、それでもアデルを助けてキチンとベッドに寝かせてくれたのは事実だ。自分の損得よりもアデルの快適さを優先してくれた家主に、アデルはベッドの上で正座すると礼を言った。
アデルは改めて自分の姿を見てみると、確かに家主の言う様にあちこちに泥がついていて汚らしかった。だが傷はどこにもなく、アデルは寝ている間に自然治癒したのだろうと朧気に思う。
「恩人殿、我と一緒にいた子供は……」
「あぁ。彼女ならさっき僕がクルシュルージュ家の屋敷に行って適当な使用人に預けたよ。あぁ後、ほんの少しか擦り傷があったから治療しておいたよ。感謝してよね」
「……!そうか。感謝する、恩人殿」
ティンベルが無事であることを確認できたアデルは、心底安堵した様にため息をつくと、再度家主に礼を言った。
「恩人殿、我はアデル・クルシュルージュである。恩人殿の名前を聞いても良いだろうか?」
「僕?僕はエルだよ」
「エル、殿…………殿であっているのだろうか?」
「性別の話かい?」
自己紹介ついでに、家主――エルについて最初から疑問に思っていたことをアデルは尋ねてみた。質問に対してキチンと答えてくれたエルに、アデルはほんの少し驚きと嬉しさが込み上げてきた。
だがすぐに話を続けたアデルは、エルからの問いに首肯して返す。
「僕は無性だよ。気持ちはどちらかと言えば女だけれど」
「む、せい?」
「なんだい君?もしかして無性も知らないのかい?無知だね。僕無知な奴は大嫌いだよ」
アデルにはエルの言う、〝無性〟が何のことか理解できなかった。どこかキョトンとしているアデルを目の当たりにしたエルは彼のことを罵ったが、アデル自身自覚していたので特に傷ついたりはしなかった。
「……申し訳ない。我は、物を知らなすぎるきらいがあるのだ。その……もし気分を害さないのであれば、その無性という言葉の意味を我に教えてはくれぬか?」
「別にいいけど」
「っ!……良いのであるか?」
あっさりと承諾してくれたエルに、アデルは心底驚愕して目を見開いた。断られると思いつつ、ダメ元で頼んでみたので、アデルにしてみればなかなかの衝撃だったのだ。
「無知を恥じて知ろうとする人間は嫌いじゃないよ。何をそんなに驚いているんだい?」
「……我が知る人間は、聞いても答えてくれたことが無かったのだ。不快であったのであれば謝罪する」
「……そうかい。そういえば君、悪魔の愛し子だったね。まともに会話もできないか」
アデルがエルの反応に驚いた理由は、今までの経験が大きく関連していた。アデルが物を知らないのは、知識や一般常識を教えてくれる者がいなかったからなのだから。
ほんの少し気落ちしたようなアデルを目の当たりにしたエルは、事情を察した様に言った。
「無性っていうのは、普通に性別が無いこと。男でも女でも無いってことだよ」
「……そのような人間が存在するのであるか?」
「何言ってんの?そんな人間いる訳ないじゃん。僕は亜人種だよ」
「……あじん?」
「え。まさかそこから?」
アデルが亜人という種族のことも知らないという事実に、先刻から飄々としていたエルが初めて驚いたような表情を見せた。
「亜人も知らないだなんて、君逆に何を知っているって言うんだい」
「……自分の名前と、年と、性別と、クルシュルージュ家のこと……ぐらいであるな」
「……愚問だとは思うけど、この世界の名前は?」
「……世界に名があるのであるか?」
ボソッと、素朴な疑問を零したアデルに、エルは思わず言葉を失ってしまう程驚愕してしまった。アデルの物を知らないという特徴が、無知という言葉で済ませていいレベルでは無いことを、エルはようやく気付かされたのだ。
「ふぅ……すまない。君を無知と罵ったことを謝罪するよ」
「?何故であるか?我が無知なのは事実だ」
突然今までの態度を謝罪してきたエルに、アデルは思わず首を傾げてしまう。
「僕が嫌いなのは自身の怠慢のせいで無知な奴らだ。でも君の無知さ加減は、どう考えても周囲からの悪意無しではあり得ないレベルなんだよ。……どうやら僕は、悪魔の愛し子に対する差別を甘く見ていたようだ」
エルは知っているようで、知らなかったのだ。〝悪魔の愛し子〟という存在がどれ程人間から差別され、疎まれ、酷い扱いを受けているのかということを。
「すまない、エル殿。我がずっと知りたいと思っていたのはその点なのだ」
「ん?何のことだい?」
「……悪魔の愛し子というのは、一体何なのだ?」
途端、エルの呼吸が止まったかのような静けさが走る。目の前にいる〝悪魔の愛し子〟が〝悪魔の愛し子〟のことを知らないなんてことがあり得るのか。そんな疑いがエルの頭を最初に支配したが、彼が嘘をついているようにも見えなかったので、エルは余計に当惑してしまったのだ。
「…………本当に知らないのかい?」
「すまない……何故我が他者から嫌われているのか、よく分からないのだ。つい最近、我に触れると穢れると聞いたことがあった故、それが理由なのかとは思ったのであるが、それでも悪魔の愛し子が何なのかは、未だ全く知らないのだ」
目の前の小さな少年を、エルは悲劇の象徴だと思った。他者からの愛情や優しさを知らないアデルが知識を得るには、他者との会話の中から推測して捻りだすしかなかったのだ。だからこそ不憫な誤解をしたりして、更にアデルは傷つくことになっていた。
「確かに僕は君を小汚いと言った。でもそんなクズと僕の言葉を一緒にされるのは不愉快だね」
「?」
伯爵夫人の「穢れる」という言葉がきっかけで起きたアデルの誤解。そしてエルの「汚らしい」という言葉がそんなアデルの誤解に拍車をかけていた。
不満気な相好で言ったエルに対してアデルは首を傾げる。エルと伯爵夫人の言葉は似ているようでいて、その意味合いは全く異なっていたのだ。
「話は、君の身体を綺麗にしてからにしようか」
そう言ってアデルを見下ろすエルの瞳に曇りは無く、アデルはそのキラキラと光を放つ瞳に見惚れてしまうのだった。
********
アデルが連れてこられたのはエルの家のすぐ傍にある川で、底が見える程澄み切った川の水にアデルは目を奪われる。
「さてアデル。君は今からこの川の水を……って、何だいその顔は」
「……生まれて初めてアデルと呼び捨てにされた……なかなか良いものであるな」
「……お気に召したのなら何よりだよ」
今までアデルの名前を呼んでくれたのはティンベルただ一人であったが、そのティンベルも〝アデル兄様〟と呼んでいたので、エルの呼び方はアデルにとって新鮮なものだった。その為アデルは呆けたような相好を窺わせてしまったのだ。
クルシュルージュ家全体のアデルに対する扱いをこんな会話でも垣間見てしまったエルだが、アデルの呆けた顔が面白かったのか苦笑いを浮かべた。
「で、この川の水をこのドラム缶に目一杯注ぐんだ」
「直接で良いのか?」
「別に構わないけど、かなり重いよ?」
エルがアデルに渡したドラム缶はエルの胸の位置ほどの高さがあり、なかなかの大きさであった。そんなドラム缶満杯に水を入れればかなりの重さになってしまうので、ドラム缶で直接川の水を掬うのはかなりの力がいる荒業であった。
そんなエルの心配を余所に、アデルはドラム缶を抱えると川へと入っていく。そのままドラム缶に川の水を目一杯入れると、ドラム缶の底に両手を添えて、まるでぬいぐるみを抱えるようにそれを持ち上げてしまった。
「……流石は悪魔の愛し子と言ったところかな」
アデルの怪力を目の当たりにしたエルの呟きは、アデルの耳には届いておらず独り言と化した。
「これをどうするのだ?」
「こうするんだよ」
ドラム缶を地面に置いたアデルに対する疑問を、エルは行動で返すことにする。エルはドラム缶の中で波打つ水に手を入れると、どこか真剣な表情を窺わせた。
エルが何をしているのか分からなかったアデルは思わず首を傾げつつ、ドラム缶をじっくりと観察していた。
十数秒後、アデルはドラム缶に現れる変化に目を疑うことになる。
「これは……!」
アデルの目に映ったのは、つい先刻まで冷たかったはずの水から湯気が立つ光景であった。
「うん。こんなものかな……アデル、触ってみてごらん」
「……!あたたかい」
エルに言われるがまま、ドラム缶の中に手を突っ込んだアデルは、人肌よりもほんの少し温かいその水温に目を見開いた。
川の水が一瞬にして、お湯へと変貌していたのだ。
「エル殿!何故薪も無いのに湯が出来ているのだ?どうやって火も無しで温めたのだ?」
「まぁまぁ、そこら辺の説明は君が入浴している間にしてあげるから」
「……我が入るのであるか?」
「いや君以外に誰が入るって言うんだい」
好奇心でいっぱいの瞳をエルに向けながら、未知に対する探究心を満たそうとしたアデルだったが、エルには軽くあしらわれてしまう。
エルから説明の約束を取り付けたアデルは、目の前のドラム缶風呂に自身が入ると思っていなかったのか、どこか呆けたような声を上げてエルのツッコみを誘った。
「……我、風呂に入ったことが無いのだ」
「……うわぁ、不潔」
「勘違いするでない。温かい湯に浸かったことが無いという意味である。風呂は我にとって用意するものであって、我自身が浸かるものでは無かったからな」
アデルは使用人の仕事として、屋敷の者のために風呂を沸かしたことは何度もあったが、自分が入ったことが無かった。なので毎日川の冷たい水で身を清めており、自身が風呂に入るという発想が頭から抜け落ちていたのだ。
「ふーん……あ、先に身体や頭を洗ってから浸かるんだよ。石鹸は貸してあげるから」
「何から何まで感謝する。エル殿」
「感謝されるのは嫌いじゃないよ。もっと存分に僕に感謝するといいよ」
毎度毎度キチンと礼を言ってくるアデルに気をよくしたのか、エルは得意気な顔で踏ん反り返った。
********
エルの助力で全身綺麗になったアデルは現在、ドラム缶風呂に浸かっている状況である。
エル以外の他人の目が無いとは言え、こんな明るい外で何の躊躇もなく服を脱ぎ捨てたアデルに、エルが色んな意味で感心したのはまた別の話である。閑話休題。
「君がのぼせそうになるまで、この世界について簡単な説明をしてやろうじゃないか」
「先刻の荒業については……」
「そう。その荒業も、この世界を語るには避けては通れない。ちゃんと教えてやるさ」
アデルは初めて入る風呂の心地良さに酔いしれながらも、エルから聞かされるこの世界の話に耳を傾けるのだった。
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「いやぁ!君ってば本当に小汚いね?僕の愛しのベッドちゃんが台無しじゃないか。その汚れたシーツを洗うのは一体誰だと思ってるんだい?君をここまで運ぶ間も小汚い小汚いなぁとは思っていたのだけど、まさかシーツを真っ黒にする程の節操無しだと思わなかったよ。ホントに悪魔の愛し子っていうのはこんなにも小汚い奴ばっかりなのかな?」
「……」
息継ぎなしで捲し立てたこの家の家主に、アデルは一瞬呆けてしまう。終始満面の笑みでアデルに対する毒を吐き続けた家主は、彼が今まで出会ってきたどんな人間のタイプにも属していなかったからだ。
言っていることや選ぶ単語は刺々しいというのに、アデルは何故かそこに悪意を感じられず、それも彼の困惑に繋がっていた。
「……綺麗好きであるか?」
「ん?そりゃあ汚いよりは綺麗な方がいいに決まっているじゃないか?愚問だね」
「そうであるか。シーツが汚れるかもしれないのに、我をここに寝かせてくれたのだな。感謝する」
「おや。礼儀だけは一人前だね、悪魔の愛し子くん」
散々アデルを小汚いと罵り、ベッドが汚れてしまったことを嘆いていた家主だが、それでもアデルを助けてキチンとベッドに寝かせてくれたのは事実だ。自分の損得よりもアデルの快適さを優先してくれた家主に、アデルはベッドの上で正座すると礼を言った。
アデルは改めて自分の姿を見てみると、確かに家主の言う様にあちこちに泥がついていて汚らしかった。だが傷はどこにもなく、アデルは寝ている間に自然治癒したのだろうと朧気に思う。
「恩人殿、我と一緒にいた子供は……」
「あぁ。彼女ならさっき僕がクルシュルージュ家の屋敷に行って適当な使用人に預けたよ。あぁ後、ほんの少しか擦り傷があったから治療しておいたよ。感謝してよね」
「……!そうか。感謝する、恩人殿」
ティンベルが無事であることを確認できたアデルは、心底安堵した様にため息をつくと、再度家主に礼を言った。
「恩人殿、我はアデル・クルシュルージュである。恩人殿の名前を聞いても良いだろうか?」
「僕?僕はエルだよ」
「エル、殿…………殿であっているのだろうか?」
「性別の話かい?」
自己紹介ついでに、家主――エルについて最初から疑問に思っていたことをアデルは尋ねてみた。質問に対してキチンと答えてくれたエルに、アデルはほんの少し驚きと嬉しさが込み上げてきた。
だがすぐに話を続けたアデルは、エルからの問いに首肯して返す。
「僕は無性だよ。気持ちはどちらかと言えば女だけれど」
「む、せい?」
「なんだい君?もしかして無性も知らないのかい?無知だね。僕無知な奴は大嫌いだよ」
アデルにはエルの言う、〝無性〟が何のことか理解できなかった。どこかキョトンとしているアデルを目の当たりにしたエルは彼のことを罵ったが、アデル自身自覚していたので特に傷ついたりはしなかった。
「……申し訳ない。我は、物を知らなすぎるきらいがあるのだ。その……もし気分を害さないのであれば、その無性という言葉の意味を我に教えてはくれぬか?」
「別にいいけど」
「っ!……良いのであるか?」
あっさりと承諾してくれたエルに、アデルは心底驚愕して目を見開いた。断られると思いつつ、ダメ元で頼んでみたので、アデルにしてみればなかなかの衝撃だったのだ。
「無知を恥じて知ろうとする人間は嫌いじゃないよ。何をそんなに驚いているんだい?」
「……我が知る人間は、聞いても答えてくれたことが無かったのだ。不快であったのであれば謝罪する」
「……そうかい。そういえば君、悪魔の愛し子だったね。まともに会話もできないか」
アデルがエルの反応に驚いた理由は、今までの経験が大きく関連していた。アデルが物を知らないのは、知識や一般常識を教えてくれる者がいなかったからなのだから。
ほんの少し気落ちしたようなアデルを目の当たりにしたエルは、事情を察した様に言った。
「無性っていうのは、普通に性別が無いこと。男でも女でも無いってことだよ」
「……そのような人間が存在するのであるか?」
「何言ってんの?そんな人間いる訳ないじゃん。僕は亜人種だよ」
「……あじん?」
「え。まさかそこから?」
アデルが亜人という種族のことも知らないという事実に、先刻から飄々としていたエルが初めて驚いたような表情を見せた。
「亜人も知らないだなんて、君逆に何を知っているって言うんだい」
「……自分の名前と、年と、性別と、クルシュルージュ家のこと……ぐらいであるな」
「……愚問だとは思うけど、この世界の名前は?」
「……世界に名があるのであるか?」
ボソッと、素朴な疑問を零したアデルに、エルは思わず言葉を失ってしまう程驚愕してしまった。アデルの物を知らないという特徴が、無知という言葉で済ませていいレベルでは無いことを、エルはようやく気付かされたのだ。
「ふぅ……すまない。君を無知と罵ったことを謝罪するよ」
「?何故であるか?我が無知なのは事実だ」
突然今までの態度を謝罪してきたエルに、アデルは思わず首を傾げてしまう。
「僕が嫌いなのは自身の怠慢のせいで無知な奴らだ。でも君の無知さ加減は、どう考えても周囲からの悪意無しではあり得ないレベルなんだよ。……どうやら僕は、悪魔の愛し子に対する差別を甘く見ていたようだ」
エルは知っているようで、知らなかったのだ。〝悪魔の愛し子〟という存在がどれ程人間から差別され、疎まれ、酷い扱いを受けているのかということを。
「すまない、エル殿。我がずっと知りたいと思っていたのはその点なのだ」
「ん?何のことだい?」
「……悪魔の愛し子というのは、一体何なのだ?」
途端、エルの呼吸が止まったかのような静けさが走る。目の前にいる〝悪魔の愛し子〟が〝悪魔の愛し子〟のことを知らないなんてことがあり得るのか。そんな疑いがエルの頭を最初に支配したが、彼が嘘をついているようにも見えなかったので、エルは余計に当惑してしまったのだ。
「…………本当に知らないのかい?」
「すまない……何故我が他者から嫌われているのか、よく分からないのだ。つい最近、我に触れると穢れると聞いたことがあった故、それが理由なのかとは思ったのであるが、それでも悪魔の愛し子が何なのかは、未だ全く知らないのだ」
目の前の小さな少年を、エルは悲劇の象徴だと思った。他者からの愛情や優しさを知らないアデルが知識を得るには、他者との会話の中から推測して捻りだすしかなかったのだ。だからこそ不憫な誤解をしたりして、更にアデルは傷つくことになっていた。
「確かに僕は君を小汚いと言った。でもそんなクズと僕の言葉を一緒にされるのは不愉快だね」
「?」
伯爵夫人の「穢れる」という言葉がきっかけで起きたアデルの誤解。そしてエルの「汚らしい」という言葉がそんなアデルの誤解に拍車をかけていた。
不満気な相好で言ったエルに対してアデルは首を傾げる。エルと伯爵夫人の言葉は似ているようでいて、その意味合いは全く異なっていたのだ。
「話は、君の身体を綺麗にしてからにしようか」
そう言ってアデルを見下ろすエルの瞳に曇りは無く、アデルはそのキラキラと光を放つ瞳に見惚れてしまうのだった。
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アデルが連れてこられたのはエルの家のすぐ傍にある川で、底が見える程澄み切った川の水にアデルは目を奪われる。
「さてアデル。君は今からこの川の水を……って、何だいその顔は」
「……生まれて初めてアデルと呼び捨てにされた……なかなか良いものであるな」
「……お気に召したのなら何よりだよ」
今までアデルの名前を呼んでくれたのはティンベルただ一人であったが、そのティンベルも〝アデル兄様〟と呼んでいたので、エルの呼び方はアデルにとって新鮮なものだった。その為アデルは呆けたような相好を窺わせてしまったのだ。
クルシュルージュ家全体のアデルに対する扱いをこんな会話でも垣間見てしまったエルだが、アデルの呆けた顔が面白かったのか苦笑いを浮かべた。
「で、この川の水をこのドラム缶に目一杯注ぐんだ」
「直接で良いのか?」
「別に構わないけど、かなり重いよ?」
エルがアデルに渡したドラム缶はエルの胸の位置ほどの高さがあり、なかなかの大きさであった。そんなドラム缶満杯に水を入れればかなりの重さになってしまうので、ドラム缶で直接川の水を掬うのはかなりの力がいる荒業であった。
そんなエルの心配を余所に、アデルはドラム缶を抱えると川へと入っていく。そのままドラム缶に川の水を目一杯入れると、ドラム缶の底に両手を添えて、まるでぬいぐるみを抱えるようにそれを持ち上げてしまった。
「……流石は悪魔の愛し子と言ったところかな」
アデルの怪力を目の当たりにしたエルの呟きは、アデルの耳には届いておらず独り言と化した。
「これをどうするのだ?」
「こうするんだよ」
ドラム缶を地面に置いたアデルに対する疑問を、エルは行動で返すことにする。エルはドラム缶の中で波打つ水に手を入れると、どこか真剣な表情を窺わせた。
エルが何をしているのか分からなかったアデルは思わず首を傾げつつ、ドラム缶をじっくりと観察していた。
十数秒後、アデルはドラム缶に現れる変化に目を疑うことになる。
「これは……!」
アデルの目に映ったのは、つい先刻まで冷たかったはずの水から湯気が立つ光景であった。
「うん。こんなものかな……アデル、触ってみてごらん」
「……!あたたかい」
エルに言われるがまま、ドラム缶の中に手を突っ込んだアデルは、人肌よりもほんの少し温かいその水温に目を見開いた。
川の水が一瞬にして、お湯へと変貌していたのだ。
「エル殿!何故薪も無いのに湯が出来ているのだ?どうやって火も無しで温めたのだ?」
「まぁまぁ、そこら辺の説明は君が入浴している間にしてあげるから」
「……我が入るのであるか?」
「いや君以外に誰が入るって言うんだい」
好奇心でいっぱいの瞳をエルに向けながら、未知に対する探究心を満たそうとしたアデルだったが、エルには軽くあしらわれてしまう。
エルから説明の約束を取り付けたアデルは、目の前のドラム缶風呂に自身が入ると思っていなかったのか、どこか呆けたような声を上げてエルのツッコみを誘った。
「……我、風呂に入ったことが無いのだ」
「……うわぁ、不潔」
「勘違いするでない。温かい湯に浸かったことが無いという意味である。風呂は我にとって用意するものであって、我自身が浸かるものでは無かったからな」
アデルは使用人の仕事として、屋敷の者のために風呂を沸かしたことは何度もあったが、自分が入ったことが無かった。なので毎日川の冷たい水で身を清めており、自身が風呂に入るという発想が頭から抜け落ちていたのだ。
「ふーん……あ、先に身体や頭を洗ってから浸かるんだよ。石鹸は貸してあげるから」
「何から何まで感謝する。エル殿」
「感謝されるのは嫌いじゃないよ。もっと存分に僕に感謝するといいよ」
毎度毎度キチンと礼を言ってくるアデルに気をよくしたのか、エルは得意気な顔で踏ん反り返った。
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エルの助力で全身綺麗になったアデルは現在、ドラム缶風呂に浸かっている状況である。
エル以外の他人の目が無いとは言え、こんな明るい外で何の躊躇もなく服を脱ぎ捨てたアデルに、エルが色んな意味で感心したのはまた別の話である。閑話休題。
「君がのぼせそうになるまで、この世界について簡単な説明をしてやろうじゃないか」
「先刻の荒業については……」
「そう。その荒業も、この世界を語るには避けては通れない。ちゃんと教えてやるさ」
アデルは初めて入る風呂の心地良さに酔いしれながらも、エルから聞かされるこの世界の話に耳を傾けるのだった。
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