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第一章 悪魔討伐編
3、出会い3
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「ティンベルを殺せ」
「……何だと?」
アデルは訳の分からない命令を下すネオンに怒りを覚えるのと同時に、本気で意味が分からず当惑していた。
ティンベルはこのクルシュルージュ家の宝と言っていい程、両親や使用人から可愛がられている。そんなティンベルの死を望む者なんていないと考えていたアデルだが、ネオンの言葉で考えを改める必要があると感じた。
ティンベルがネオンを嫌う様に、ネオンもティンベルのことを嫌っていたのだろうか。そんな可能性を考えたアデルだが、彼にはその理由を知る術がない。
「何故ティンベルを?」
「お前が知る必要はない。お前はティンベルを殺せばそれでいい」
ネオンは終始苛立っているようで、アデルの問いにもぶっきら棒に返すだけで、明確な答えをくれたりはしなかった。
「断る」
「っ!何でだ!?お前に拒否権は無いと言ったじゃないか!?」
「逆に聞く……聞きますけど、拒否した場合はどうするおつもりなのですか?」
一応敬語に戻したアデルは、根本的な問題について尋ねた。報酬を用意していないこともそうだが、ネオンの行動には全て計画性が無い。子供なので仕方が無いことではあるが、人一人を殺そうとしている者としてはお粗末であった。
拒否権が無いと言ったものの、拒否した場合のデメリットを言ってこない時点で、アデルからすれば拒否してもいいという解釈になってしまうのだ。
「お、お父様に言いつけてやる!きっとキツイ折檻が……」
「それは我にとって交渉材料にはなりません」
「何だとっ?」
どうやらネオンは伯爵がほぼ毎日、適当な理由をつけてはアデルに折檻していることを知らないらしい。
ネオンが言いつけようが、そうで無かろうが、結局アデルは痛い思いをするので何の意味も成していなかった。
「な……なら!お前を殺してやる!そうだ……ティンベルを殺さなければ、俺がお前を殺してやる!お前とティンベルでは訳が違うんだ……お前が死んだところで、犯人探しに勤しむ人間なんて一人もいないんだからな!」
「ならば……試してみればどうでしょうか?殺せると言うのであれば、殺してみてください」
「な……!」
両手を軽く広げて、煽る様にアデルは提案した。
ネオンの脅しを聞いても、アデルは脅威を感じなかったからだ。今までであれば少しはその危機に対して頭を悩ませたかもしれないが、昨夜自身の異常さに気づいてしまったアデルにとって、死はあまりにも遠いところにあったのだ。
「っ……後悔しても遅いからな!」
ギリっと歯噛みしたネオンは、護身用に持っていた小型剣を取り出すと、苛立ちを原動力にアデルの腹に向かって突き刺した。
「っ……」
ネオンの動きは遅かったが、アデルはわざと避けなかった。そうしなければ、ネオンが理解することは無いと考えたからだ。
皮膚の抵抗を感じながらも小型剣は確実にアデルの腹を抉り、一気にアデルの服に血が染み出した。それだけでは止まるはずもなく、真っ白な雪に目立ちすぎる程の鮮紅が広がった。
「うわぁっ!!」
初めて人間を刃物で刺したネオンは、その感触や視覚の暴力に耐え切れなくなったのか、顔を真っ青にすると雪の上に尻餅をついて後退ろうとする。
そんなネオンを尻目に、アデルは刺さった小型剣に手を添え、意を決すると思い切りそれを引き抜いた。その際にも血が傷口から噴き出て、ネオンは更に身体を震えさせる。
小型剣を取り出したアデルは昨夜のように傷口に意識を集中させて、傷が治るのを待った。するとアデルは昨夜と今朝の中間程度の温度を傷の奥に感じ、数秒でそれは治まった。
アデルは怯えるネオンにもはっきり見えるように、服を捲って元傷口を空気に晒した。
「っ!?……きっ、傷が……化け物っ!」
「……やはり親子であるな。反応がつまらん」
あまりにもなデジャブ感に、アデルはつい本音が漏れてしまった。そんなアデルの暴言も、涙を浮かべて怯え切っているネオンの耳には届いていないようだ。
「っ……くそっ……くそぅ!」
ポロポロと様々な感情の入り混じった涙を零したネオンは、腰が抜けた状態で犬のようにその場から逃げ出してしまう。
そんなネオンの後ろ姿をぼんやりとした目で見つめたアデルはふと、血の滲んだ足下の雪に視線をやった。
「彼奴……小便を漏らしていきおった。……今日は雪かきであるな」
雪に滲む別の液体に気づいたアデルは、既にいなくなってしまったネオンの愚行に顔を思い切り顰め、思わず鼻を塞いでしまう。そして今日限定で追加された仕事に意気込むのであった。
********
「それにしても、何故ネオンはティンベルのことを殺したがっているのだ?」
昼になり、雪が太陽に照らされきらめきを放つ頃。アデルは薪割りを行いながら、ネオンに追求し損ねた疑問について考えていた。
「ティンベルは良い子だ……それなのに何故……嫌いというのであれば、一体ティンベルの何が気に食わないというのだ?」
パキンッという薪の良い音が鳴るたびに、アデルは首を傾げていた。
ティンベルがネオンを嫌う理由はアデルでも容易く想像できた。ティンベルはアデルに懐いているので、そんな彼に酷い態度しかとらないネオンは悪人に見えてしまうだろう。
だがネオンがティンベルを嫌う理由は何か。ティンベルに嫌われているから、などという単純な理由で彼女の殺害を企てるとは到底思えず、アデルは頭を捻る。
殺したい程の何かが、ネオンの中にはあった。それに気づける程、アデルはネオンに接したことが無い。
アデルはふと、今まで見てきたネオンはどのような感じだったかと、その記憶を辿ってみた。毎度毎度睨まれ、暴言を吐かれた記憶しか無かったが、そんな中にもアデルは僅かな違和感に気づく。
「……そういえば彼奴、両親といるところを見た試しがないな」
その事実に気づき、アデルは思わず斧を振る手を止めて目を見開いた。
アデルが普段見かけるネオンは執事といることが多く、伯爵や伯爵夫人と並んでいる姿はほとんど見たことが無かった。
逆にティンベルは本来使用人が迎えに来るところを、両親自ら足を運ぶことがある程溺愛されている。アデルと両親が一対一で会う際も、話に上がるのはティンベルのことばかりで、あの二人がネオンのことを語る姿は正直見たことが無かった。
「ネオンは、あの性格からして、相当周りから甘やかされて育ったと見える。……だが我が見る限り、あの両親が愛情をより注いでいるのはティンベル……どのような思いだったのだろうか?自身には全く関心を失くしてしまったというのに、二つしか変わらない妹は大層可愛がられているというのは…………まぁ、我には到底理解できぬ感情であるな」
アデルは生まれてからずっと、何も持っていない。両親からの愛情も、人間としての尊厳や権利も、当たり前の生活も、自由も、幸せも、心の温かさも、何も。最初から何も持っていないアデルに、ネオンの気持ちなど分かるはずもない。
アデルからして見れば、ネオンは幸せ者で、ただの我が儘を拗らせているだけだった。
「だが……自分の物を取られたような感覚なのだろうか?」
まるで自分のおもちゃを取られて駄々をこねる子供のようだなと、アデルは思った。そしてハッと気づく。ネオンはまだ七才の子供なのだと。
だからその程度のことでティンベルを殺そうとした。子供のネオンにとってはその程度では無かったから。
アデルにとっての子供とは、ティンベルのように純粋で可愛らしい存在であった。だがそれはアデルが多くの子供を見たことが無いからこそ抱いた思い込みであり、性悪のネオンも、そしてアデル自身もまだ子供なのだ。
今まで思い込みのせいでそれに気づけなかったアデルは、唐突に危機感を覚えた。
「彼奴、まさか自棄を起こすのでは無いだろうな?…………ティンベルっ」
普段〝悪魔の愛し子〟と馬鹿にしている人物に頼まなければならない程、ネオンはティンベルの死を望んでいた。だがそれは同時に、自身の手を汚すことを恐れていることも意味していた。
だからこそ、アデルの力を借りられなくなった状況で、ネオンがティンベルに手を出す可能性は低いとアデルは考えていたのだ。
だが不満を溜め込み、アデルの異常性で計画が破綻してしまった今、ネオンが真面な判断を下せる状態なのか、アデルには分からなかった。
アデルは仕事を放って走り出すと、ティンベルとネオンを探すため奔走するのだった。
********
「屋敷にはいないか……外を探したほうが良さそうであるな」
屋敷と言っても、アデルは許可なしに室内に入ることが出来ないので、探すことが出来るのは外だけだ。幸いにも、人の目の多い室内でネオンが手を出せる可能性は少ないので、アデルが探す必要も無かった。
敷地内にはいないことを確認したアデルは、急いで屋敷の外に出た。そして向かったのは、アデルが普段食料調達に足を運ぶ森であった。
森もすっかり雪によって白く染まっていて、昨日の緑はほとんど見えなくなってしまっていた。アデルは子供の足でも行けるような道を選んで、二人を探していく。
森に入って二十分ほど経った頃、アデルは誰かの小さな声を耳にして、その方向を振り返った。見える限りでは誰もいなかったがその僅かな音を頼りに、アデルは全速力で走っていく。
林を抜け、視界が広がったかと思えば、そこは山の行き止まり――崖がすぐ傍に迫っていた。
そしてアデルは、視界に飛び込んできた光景に思わずカッとなり無我夢中で飛び込んでしまう。
「いやぁ!こわいっ……やだぁ!ねおんにいさまやめて!!」
「うるさいうるさいっ!お前さえいなければっ……!」
ネオンはティンベルの身体を無理やり押して、彼女を崖から突き落とそうとしていた。ティンベルは大泣きしながら何とか地面ギリギリのところで踏ん張っているが、体格差の大きい二人のどちらの力が大きいかなんて説明するまでも無い。
このままではティンベルが崖から落ちてしまうのも時間の問題であった。
「おいっ!やめないか!」
「くっ……!」
「あでるにいさっ……」
「ティンベル!!」
アデルが大声を上げたことで、彼の存在に気づいたネオンは悔し気に歯噛みした。一方のティンベルはアデルが助けに現れたことで嬉々とした相好を露わにするが、その希望は一瞬にして崩れ去ってしまう。
アデルの存在で気が緩んでしまったティンベルは、ネオンの力に押し負けて片足を踏み外してしまった。それに逸早く気づいたアデルだったが、片足が落ちてしまえばティンベルの身体はあっという間に投げ出されてしまう。
アデルの視界には最早ネオンなど入っておらず、彼は落ちていくティンベルを救うことだけに集中する。
ティンベルを追いかけるように崖から飛び出したアデルは、何とかティンベルの腕を掴んでその身体を抱きしめた。
そして地面が迫ってくる前に、自身の身体が落下の衝撃を受けるように、アデルは空中で位置の調整を試みる。
何とか自身の背中を地面に向けることに成功したと思った瞬間、アデルの意識は途絶えた。
********
アデルは長いこと眠っていたような、ずっと誰かの声を聞いていたような。そんな奇妙な感覚と共に目を覚ました。ぼやけた視界がクリアになってくると、自分が知らない天井を見つめていることにアデルは気づく。
少なくとも、アデルの住むぼろぼろの小屋の天井ではなく、綺麗な木材が組まれた屋根の内側のようであった。
アデルは段々と、現在の状況が分かってきた。今アデルは人生で初めてベッドの上で寝かされており、この家の持ち主は今のところ留守のようだった。小さな家ではあるが、アデルの住む小屋の五倍以上はあるので、アデルにとっては勿体ない待遇である。
あの崖から落ち、意識を失っているところをこの家の主に助けてもらったのだろうと、アデルは適当に予想づける。
〝悪魔の愛し子〟と呼ばれ、ほとんどの人間から疎まれているアデルを助けるような殊勝な人間がいたのだろうかと、アデルは疑問に思う。
そんなことをぼんやりと頭の隅で考えながら身体を起こしたアデルは、最も大事なことに気づいて目を見開いた。
「ティンベルはどこだっ……?」
「おや?どうやら起きたみたいだね」
ティンベルがどこにもいないことに気づいたアデルは、慌てて彼女を探そうとした。だがアデルが見つけたのはティンベルではなく、この家の扉から入ってきた見知らぬ人物であった。
百六十センチ程の背丈に、ターコイズの美しい髪をショートボブにしているので、女性か男性かの判別がアデルにはできなかった。抹茶色の瞳は大きすぎず小さすぎない、その人物の知的さを物語っていた。
その声も男か女を判断するには、高いわけでも低いわけでも無い音程だったのでアデルは困惑してしまう。
兎にも角にも、随分と身軽な状態で現れたその人物は、物腰柔らかな笑みを浮かべていたのでアデルは一瞬、優しい人物なのだろうと勘違いしてしまった。
「初めまして。小汚い悪魔の愛し子くん」
そんなものは甘い幻想なのだと、アデルはすぐに理解させられてしまった。
********
次は明日投稿予定です。明日からは一日一話の通常ペースになります。
「……何だと?」
アデルは訳の分からない命令を下すネオンに怒りを覚えるのと同時に、本気で意味が分からず当惑していた。
ティンベルはこのクルシュルージュ家の宝と言っていい程、両親や使用人から可愛がられている。そんなティンベルの死を望む者なんていないと考えていたアデルだが、ネオンの言葉で考えを改める必要があると感じた。
ティンベルがネオンを嫌う様に、ネオンもティンベルのことを嫌っていたのだろうか。そんな可能性を考えたアデルだが、彼にはその理由を知る術がない。
「何故ティンベルを?」
「お前が知る必要はない。お前はティンベルを殺せばそれでいい」
ネオンは終始苛立っているようで、アデルの問いにもぶっきら棒に返すだけで、明確な答えをくれたりはしなかった。
「断る」
「っ!何でだ!?お前に拒否権は無いと言ったじゃないか!?」
「逆に聞く……聞きますけど、拒否した場合はどうするおつもりなのですか?」
一応敬語に戻したアデルは、根本的な問題について尋ねた。報酬を用意していないこともそうだが、ネオンの行動には全て計画性が無い。子供なので仕方が無いことではあるが、人一人を殺そうとしている者としてはお粗末であった。
拒否権が無いと言ったものの、拒否した場合のデメリットを言ってこない時点で、アデルからすれば拒否してもいいという解釈になってしまうのだ。
「お、お父様に言いつけてやる!きっとキツイ折檻が……」
「それは我にとって交渉材料にはなりません」
「何だとっ?」
どうやらネオンは伯爵がほぼ毎日、適当な理由をつけてはアデルに折檻していることを知らないらしい。
ネオンが言いつけようが、そうで無かろうが、結局アデルは痛い思いをするので何の意味も成していなかった。
「な……なら!お前を殺してやる!そうだ……ティンベルを殺さなければ、俺がお前を殺してやる!お前とティンベルでは訳が違うんだ……お前が死んだところで、犯人探しに勤しむ人間なんて一人もいないんだからな!」
「ならば……試してみればどうでしょうか?殺せると言うのであれば、殺してみてください」
「な……!」
両手を軽く広げて、煽る様にアデルは提案した。
ネオンの脅しを聞いても、アデルは脅威を感じなかったからだ。今までであれば少しはその危機に対して頭を悩ませたかもしれないが、昨夜自身の異常さに気づいてしまったアデルにとって、死はあまりにも遠いところにあったのだ。
「っ……後悔しても遅いからな!」
ギリっと歯噛みしたネオンは、護身用に持っていた小型剣を取り出すと、苛立ちを原動力にアデルの腹に向かって突き刺した。
「っ……」
ネオンの動きは遅かったが、アデルはわざと避けなかった。そうしなければ、ネオンが理解することは無いと考えたからだ。
皮膚の抵抗を感じながらも小型剣は確実にアデルの腹を抉り、一気にアデルの服に血が染み出した。それだけでは止まるはずもなく、真っ白な雪に目立ちすぎる程の鮮紅が広がった。
「うわぁっ!!」
初めて人間を刃物で刺したネオンは、その感触や視覚の暴力に耐え切れなくなったのか、顔を真っ青にすると雪の上に尻餅をついて後退ろうとする。
そんなネオンを尻目に、アデルは刺さった小型剣に手を添え、意を決すると思い切りそれを引き抜いた。その際にも血が傷口から噴き出て、ネオンは更に身体を震えさせる。
小型剣を取り出したアデルは昨夜のように傷口に意識を集中させて、傷が治るのを待った。するとアデルは昨夜と今朝の中間程度の温度を傷の奥に感じ、数秒でそれは治まった。
アデルは怯えるネオンにもはっきり見えるように、服を捲って元傷口を空気に晒した。
「っ!?……きっ、傷が……化け物っ!」
「……やはり親子であるな。反応がつまらん」
あまりにもなデジャブ感に、アデルはつい本音が漏れてしまった。そんなアデルの暴言も、涙を浮かべて怯え切っているネオンの耳には届いていないようだ。
「っ……くそっ……くそぅ!」
ポロポロと様々な感情の入り混じった涙を零したネオンは、腰が抜けた状態で犬のようにその場から逃げ出してしまう。
そんなネオンの後ろ姿をぼんやりとした目で見つめたアデルはふと、血の滲んだ足下の雪に視線をやった。
「彼奴……小便を漏らしていきおった。……今日は雪かきであるな」
雪に滲む別の液体に気づいたアデルは、既にいなくなってしまったネオンの愚行に顔を思い切り顰め、思わず鼻を塞いでしまう。そして今日限定で追加された仕事に意気込むのであった。
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「それにしても、何故ネオンはティンベルのことを殺したがっているのだ?」
昼になり、雪が太陽に照らされきらめきを放つ頃。アデルは薪割りを行いながら、ネオンに追求し損ねた疑問について考えていた。
「ティンベルは良い子だ……それなのに何故……嫌いというのであれば、一体ティンベルの何が気に食わないというのだ?」
パキンッという薪の良い音が鳴るたびに、アデルは首を傾げていた。
ティンベルがネオンを嫌う理由はアデルでも容易く想像できた。ティンベルはアデルに懐いているので、そんな彼に酷い態度しかとらないネオンは悪人に見えてしまうだろう。
だがネオンがティンベルを嫌う理由は何か。ティンベルに嫌われているから、などという単純な理由で彼女の殺害を企てるとは到底思えず、アデルは頭を捻る。
殺したい程の何かが、ネオンの中にはあった。それに気づける程、アデルはネオンに接したことが無い。
アデルはふと、今まで見てきたネオンはどのような感じだったかと、その記憶を辿ってみた。毎度毎度睨まれ、暴言を吐かれた記憶しか無かったが、そんな中にもアデルは僅かな違和感に気づく。
「……そういえば彼奴、両親といるところを見た試しがないな」
その事実に気づき、アデルは思わず斧を振る手を止めて目を見開いた。
アデルが普段見かけるネオンは執事といることが多く、伯爵や伯爵夫人と並んでいる姿はほとんど見たことが無かった。
逆にティンベルは本来使用人が迎えに来るところを、両親自ら足を運ぶことがある程溺愛されている。アデルと両親が一対一で会う際も、話に上がるのはティンベルのことばかりで、あの二人がネオンのことを語る姿は正直見たことが無かった。
「ネオンは、あの性格からして、相当周りから甘やかされて育ったと見える。……だが我が見る限り、あの両親が愛情をより注いでいるのはティンベル……どのような思いだったのだろうか?自身には全く関心を失くしてしまったというのに、二つしか変わらない妹は大層可愛がられているというのは…………まぁ、我には到底理解できぬ感情であるな」
アデルは生まれてからずっと、何も持っていない。両親からの愛情も、人間としての尊厳や権利も、当たり前の生活も、自由も、幸せも、心の温かさも、何も。最初から何も持っていないアデルに、ネオンの気持ちなど分かるはずもない。
アデルからして見れば、ネオンは幸せ者で、ただの我が儘を拗らせているだけだった。
「だが……自分の物を取られたような感覚なのだろうか?」
まるで自分のおもちゃを取られて駄々をこねる子供のようだなと、アデルは思った。そしてハッと気づく。ネオンはまだ七才の子供なのだと。
だからその程度のことでティンベルを殺そうとした。子供のネオンにとってはその程度では無かったから。
アデルにとっての子供とは、ティンベルのように純粋で可愛らしい存在であった。だがそれはアデルが多くの子供を見たことが無いからこそ抱いた思い込みであり、性悪のネオンも、そしてアデル自身もまだ子供なのだ。
今まで思い込みのせいでそれに気づけなかったアデルは、唐突に危機感を覚えた。
「彼奴、まさか自棄を起こすのでは無いだろうな?…………ティンベルっ」
普段〝悪魔の愛し子〟と馬鹿にしている人物に頼まなければならない程、ネオンはティンベルの死を望んでいた。だがそれは同時に、自身の手を汚すことを恐れていることも意味していた。
だからこそ、アデルの力を借りられなくなった状況で、ネオンがティンベルに手を出す可能性は低いとアデルは考えていたのだ。
だが不満を溜め込み、アデルの異常性で計画が破綻してしまった今、ネオンが真面な判断を下せる状態なのか、アデルには分からなかった。
アデルは仕事を放って走り出すと、ティンベルとネオンを探すため奔走するのだった。
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「屋敷にはいないか……外を探したほうが良さそうであるな」
屋敷と言っても、アデルは許可なしに室内に入ることが出来ないので、探すことが出来るのは外だけだ。幸いにも、人の目の多い室内でネオンが手を出せる可能性は少ないので、アデルが探す必要も無かった。
敷地内にはいないことを確認したアデルは、急いで屋敷の外に出た。そして向かったのは、アデルが普段食料調達に足を運ぶ森であった。
森もすっかり雪によって白く染まっていて、昨日の緑はほとんど見えなくなってしまっていた。アデルは子供の足でも行けるような道を選んで、二人を探していく。
森に入って二十分ほど経った頃、アデルは誰かの小さな声を耳にして、その方向を振り返った。見える限りでは誰もいなかったがその僅かな音を頼りに、アデルは全速力で走っていく。
林を抜け、視界が広がったかと思えば、そこは山の行き止まり――崖がすぐ傍に迫っていた。
そしてアデルは、視界に飛び込んできた光景に思わずカッとなり無我夢中で飛び込んでしまう。
「いやぁ!こわいっ……やだぁ!ねおんにいさまやめて!!」
「うるさいうるさいっ!お前さえいなければっ……!」
ネオンはティンベルの身体を無理やり押して、彼女を崖から突き落とそうとしていた。ティンベルは大泣きしながら何とか地面ギリギリのところで踏ん張っているが、体格差の大きい二人のどちらの力が大きいかなんて説明するまでも無い。
このままではティンベルが崖から落ちてしまうのも時間の問題であった。
「おいっ!やめないか!」
「くっ……!」
「あでるにいさっ……」
「ティンベル!!」
アデルが大声を上げたことで、彼の存在に気づいたネオンは悔し気に歯噛みした。一方のティンベルはアデルが助けに現れたことで嬉々とした相好を露わにするが、その希望は一瞬にして崩れ去ってしまう。
アデルの存在で気が緩んでしまったティンベルは、ネオンの力に押し負けて片足を踏み外してしまった。それに逸早く気づいたアデルだったが、片足が落ちてしまえばティンベルの身体はあっという間に投げ出されてしまう。
アデルの視界には最早ネオンなど入っておらず、彼は落ちていくティンベルを救うことだけに集中する。
ティンベルを追いかけるように崖から飛び出したアデルは、何とかティンベルの腕を掴んでその身体を抱きしめた。
そして地面が迫ってくる前に、自身の身体が落下の衝撃を受けるように、アデルは空中で位置の調整を試みる。
何とか自身の背中を地面に向けることに成功したと思った瞬間、アデルの意識は途絶えた。
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アデルは長いこと眠っていたような、ずっと誰かの声を聞いていたような。そんな奇妙な感覚と共に目を覚ました。ぼやけた視界がクリアになってくると、自分が知らない天井を見つめていることにアデルは気づく。
少なくとも、アデルの住むぼろぼろの小屋の天井ではなく、綺麗な木材が組まれた屋根の内側のようであった。
アデルは段々と、現在の状況が分かってきた。今アデルは人生で初めてベッドの上で寝かされており、この家の持ち主は今のところ留守のようだった。小さな家ではあるが、アデルの住む小屋の五倍以上はあるので、アデルにとっては勿体ない待遇である。
あの崖から落ち、意識を失っているところをこの家の主に助けてもらったのだろうと、アデルは適当に予想づける。
〝悪魔の愛し子〟と呼ばれ、ほとんどの人間から疎まれているアデルを助けるような殊勝な人間がいたのだろうかと、アデルは疑問に思う。
そんなことをぼんやりと頭の隅で考えながら身体を起こしたアデルは、最も大事なことに気づいて目を見開いた。
「ティンベルはどこだっ……?」
「おや?どうやら起きたみたいだね」
ティンベルがどこにもいないことに気づいたアデルは、慌てて彼女を探そうとした。だがアデルが見つけたのはティンベルではなく、この家の扉から入ってきた見知らぬ人物であった。
百六十センチ程の背丈に、ターコイズの美しい髪をショートボブにしているので、女性か男性かの判別がアデルにはできなかった。抹茶色の瞳は大きすぎず小さすぎない、その人物の知的さを物語っていた。
その声も男か女を判断するには、高いわけでも低いわけでも無い音程だったのでアデルは困惑してしまう。
兎にも角にも、随分と身軽な状態で現れたその人物は、物腰柔らかな笑みを浮かべていたのでアデルは一瞬、優しい人物なのだろうと勘違いしてしまった。
「初めまして。小汚い悪魔の愛し子くん」
そんなものは甘い幻想なのだと、アデルはすぐに理解させられてしまった。
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次は明日投稿予定です。明日からは一日一話の通常ペースになります。
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