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第一章 悪魔討伐編
1、出会い1
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呑みこまれそうな純黒の髪に、鮮血で染めたような真っ赤な瞳。これはこの世界〝アンレズナ〟において最も恐怖され、嫌悪の対象となる人間が持つ特徴である。
嫌悪されるべき人間が偶々黒髪と赤い瞳だったわけでは無い。黒髪と赤い瞳を持って生まれただけで、その人間は悪とみなされるのだ。
それがこの世界〝アンレズナ〟の常識であり、誰もが疑いもしない不条理であった。
********
指先の感覚が無くなってしまう程、凍える冬の朝。吐いた息は白く形を残し、その少年の虚しさを表しているようだ。
少年は黒い髪を乱雑に切り揃えており、髪型に頓着していないことが見てとれる。前髪の向こう側に見え隠れする赤い瞳は、吸い込まれそうな存在感を放っている。だがその存在感は、他の者にとって畏怖すべきものなどではなく、ただただ嫌悪し蔑むのが正常な反応であった。
少年の名を、アデル・クルシュルージュという。
アデルは齢八つにして、自らが生まれた伯爵家において使用人として扱われている。その為アデルはこの冬空の下、触れることすら躊躇う程冷たい水で衣服をひたすら洗い続けている。
その両手は酷いあかぎれを起こしており、見る目を細めたくなる程痛々しい。それでもそんな視界の暴力も、衣服を擦るたびに走る痛みも、アデルにとって脅威では無かった。
アデルは知っているのだ。この程度の傷、自分なら気づかぬ内に回復してしまうことを。だから無感情に、何でも無い様に働くことが出来た。
だがアデルは知らない。何故自分はこんなにも早く傷を無かったことにできるのか。そもそもアデルは、これが異常である事さえも分かっていない。
何故自分はこんな早朝から使用人として働かされているのか。何故自分を見た人間は、凍てつくような瞳で睨みつけ、嫌悪し、罵詈雑言を浴びせてくるのか。
アデルは何一つ、知らなかったのだ。
********
「おい!どうしてここに悪魔がいるんだ!?あんなものを僕に視界の届く場所に置くな!!」
「も、申し訳ありません。坊ちゃま」
朝、アデルが手を赤くしながら洗った大量の衣服やシーツを彼が太陽の下で干していると、子供のけたたましい怒鳴り声が鳴り響いた。
声の主である少年――ネオン・クルシュルージュは、やせ細っているアデルとは違い大きく肥え太っており、一瞬にして二人の育ちの違いが見てとれる。身長はアデルの方がほんの少し高いが、これではアデルの方が一つ年上とは到底思えない。
ネオンの方は丁寧に織られた、見るからに高級そうな衣服を身に着けていたが、アデルの方は汚れが染みついたヨレヨレの布切れ一枚を、無理矢理衣服に作り替えたようなものを身に着けている。育ちの違いはそんなところにも露見していた。
ネオンはアデルを無遠慮に指すと、隣にいた執事を委縮させた。すると執事は代わりにアデルの方をキッと睨みつけ、どこかに行けと言わんばかりに片手を払う。
アデルは意味がよく分からないまま、未だ残っている衣服をどうしたものかと頭を悩ませる。このまま仕事を放って立ち去れば後々キツイ折檻が待っていると簡単に予想できたが、ここで執事や少年の要望を無視して仕事を続けるのも失礼に思われると考えた。
アデルは物を知らない。こういう際、どうするのが正解なのか分からない程度に物を知らなかった。
取り敢えずアデルは、残った洗濯物がぎゅうぎゅうに押し込められたたらいを抱えてその場から離れてみる。
アデルは逃げるように足を速めながら、いつも抱いている疑問について考える。
何故自分は〝悪魔〟と呼ばれるのか。何故自分はこんなにも嫌悪されているのか。何故自分とあの少年とでは、ここまで扱いが違うのか。
アデルが知っていることは微々たるものだ。例えば、視界に収まりきらない程豪華絢爛なこの家が、クルシュルージュ家の本邸であるということ。クルシュルージュが、この国の伯爵家の一つであること。自分はそのクルシュルージュ家の長男として産まれたこと。あの少年が、自身の弟だということ。
自身が〝悪魔〟ないし〝悪魔の愛し子〟と呼ばれていること。
それ以外は何も知らないのだ。悪魔とは何か、そしてこの国の名前すら、アデルは知らなかった。教えてくれる者が一人たりともいないからだ。
理由も分からぬまま他者から嫌われ、酷い扱いを受けていたアデルは幼少期の頃こそ戸惑っていたが、今ではそれが当たり前になっているので何とも思っていなかった。
もちろん傷つく心が無いわけでは無い。それでも雷に打たれたような衝撃や、絶望の淵に立たされたような悲壮感はあまり感じなくなっていた。
アデルは自身が寝泊まりしている小屋まで移動すると、眼前に広がる洗濯物を前に首を捻った。
「どうしたものか……」
ボソッと、アデルは困惑の声を上げた。アデルの声は幼い容姿そのままに高く、それでいて口調は子供のものとはほんの少し違っていた。生まれつきと環境のせいなので深い理由は無いが、彼は子供らしい物言いをしたことが無い。
アデルがうぅんと唸っていると、彼の小屋を入り口から覗く存在に気づく。
ボロボロの扉に空いた穴から、大きくクリっとした可愛らしい瞳を覗かせるのは、アデルが唯一真面に言葉を交わす対象であった。
「あでるにいさまぁ。おくびかしげてどうしたの?」
「ティンベル……」
可愛らしい声を舌足らずな話し方で発したのは、ティンベル・クルシュルージュ。クルシュルージュ家の長女であり、アデルのたった一人の妹である。
アデルの三分の二にも満たない背丈は、当に五才児といったところだ。美しい水色の髪はショートカットにしており、丸っとしたその形はまるでキノコの様である。ぱっつん前髪の下に輝く瞳は藍色で、キリッと全てを見通せそうである。
可愛らしく、繊細な作りのドレスを着こなす姿は、やはりアデルの妹とはとても思えない。
「また抜け出したのか?駄目ではないか。あの人たちに心配をかけてしまうぞ」
「だってあでるにいさまにあいたかったんだもん」
「……」
アデルはいつもこのティンベルに対する反応に困ってしまう。何せ今までの人生で初めて、真面にアデルと関わろうとしたのがこのティンベルであり、その上まだ小さな子供だ。物を知らないアデルが当惑するのは無理の無いことであった。
そして同時に、何故このティンベルは他の者のように己を嫌悪しないのか。それがアデルにとって大きな謎でもあった。まだ小さい子供だから、アデルのように物を知らないのだろうか?と考えたこともあった。だが他の大人たちがここまで毛嫌いする存在のことを、目の前の愛される存在に伝えていないというのもおかしな話であった。
詳しいことを知らないアデルだが、ティンベルがあのネオン以上に両親から愛されていることは何となく察していた。そうであれば、愛すべき娘にはアデルと一切接触して欲しくないと思うのが、当たり前の反応だろう。
その上ティンベルは毎度、使用人や家族の目を盗んでアデルに会いに来ているようだったので、その行為を咎められている事実は明らかであった。
つまりはティンベルの意思で、彼女はアデルに会いに来ているのだ。
「あでるにいさま?そのおようふくどうするの?」
「なぁティンベル。ネオンはまだ外にいたか?」
「ねおんにいさま?えっとねぇ……おべんきょうはじめてたよ」
「そうか。教えてくれて感謝する」
「どういたしまして!」
アデルはネオンの居場所を教えてくれたティンベルの頭を撫でると、僅かに微笑んで礼を言った。撫でる手にあかぎれはもう無く、ティンベルがその痛々しさに泣き出すことは無かった。
アデルに感謝されたことで、どこか誇らしげな表情を見せたティンベルは当にドヤ顔丸出しである。
ネオンが勉強のために室内に戻ったのであれば、アデルは再び仕事に戻ることが出来る。その為彼は立ち上がると、たらいを片手で再び持ち上げた。
「ティンベル。途中までついて行ってやるから、部屋に戻ろう」
アデルは余ったもう片方の手をティンベルに差し出すと、彼女に帰宅を促した。
「あでるにいさまもわたしのおへやにきてよ」
「……すまない。我にできる精一杯はいくらでもくれてやれるが、我はあの家に入る許可を得ていないのだ。分かってくれるか?」
「……はい……わがままいってごめんなさい。あでるにいさま」
「よいのだ。謝れるティンベルは良い子であるな」
アデルを困らせる我が儘を言ったティンベルだったが、眉を下げて困ったような相好を窺わせたアデルを目の当たりにすると素直に陳謝した。しょんぼりとした様子のティンベルを慰めるように頭を撫でたアデルは、物分かりの良い彼女を褒め称えた。
頭を撫でていた手でティンベルの小さくふっくらとした手を握ったアデルは、小屋から一歩を踏み出した。
「なぁティンベル。そんなに寂しいのであれば、ネオンにでも遊んでもらえばいいだろう?」
「いやっ!だってねおんにいさまきらいなんだもん!」
「……そうか。ティンベルはネオンが嫌いか」
ティンベルが飽きもせずこうして自分に会いに来るのは、遊んでくれる相手がいなくて寂しいからだとアデルは思っていた。なのでネオンを勧めてみたのだが、ティンベルのお気には召さなかったようだ。
確かにネオンはアデルに対して酷い態度をとるが、こんなにも可愛くか弱い妹にまで同じ対応をしているとは到底思えない。そもそもネオンがアデルを蔑むのはアデルの方に原因がある。幼い頃から多くの人間に同じような対応を取られていたアデルはそう考えていた。
それでもティンベルはネオンを嫌いだと断言した。そしてアデルに良く懐いているティンベルは、他者から見て異端と呼ばれても仕方が無い存在である。
「そうか、嫌いか…………くくっ……なかなかどうして愉快であるな」
アデルはネオンに対して憎しみの感情を持っているわけでは無い。だが当然好きでもない。好きか嫌いで判断するのであれば、アデルはネオンのことが確実に嫌いなのだろう。
だからこそ、唯一好ましく思っている妹の正直な感情が、アデルにとっては愉悦以外の何物でも無かったのだ。
********
「では。我はこの仕事を片付けてくる。ここから先は一人で帰れるか?」
先刻アデルが洗濯物を干していた場所まで移動すると、アデルは握っていたティンベルの手を離して尋ねた。
地上を照らす太陽はもうすぐ真上にまで昇りそうで、冬の寒々しい空気がだんだんと暖まってきていた。
「はい。てぃんべるはいいこなので、あでるにいさまをこまらせたりしません」
「ふふっ……そうか、偉いぞ」
得意気に言ったティンベルを目の当たりにすると、生理現象のように頬が緩んでしまうアデルは、若干その衝動を抑えながらティンベルの頭を撫でようとした。
だがそれは、突然の乱入者によって阻まれてしまう。
「お前っ……!ティンベルから離れなさい!」
「……」
「おかあさま……」
ネオンと瓜二つな怒鳴り声を上げたのは、このクルシュルージュ家の奥方――ティンベルたちの母親であった。
ティンベルと同じ水色の髪ではあるが、ショートボブの彼女とは違って、腰まで伸びたその髪を美しく結い上げている。だが瞳の色はティンベルではなくネオンによく似た焦げ茶色で、アデルを睨みつけているせいで醜く歪んで見える。
濃い化粧で被られた仮面の下の素顔は、平凡な顔立ちであるがアデルはそれを知らないし、興味さえも無い。
「申し訳ありませ……」
アデルが陳謝しようと頭を下げると、その言葉を遮るように夫人がアデルに近づき、思い切りその左頬を殴った。ちなみに殴ったのは平手ではなく、彼女が持っていた閉じた状態の扇子である。
バチンっという痛々しい音がアデルの頬から鳴り、ティンベルは思わず「ひっ……」と声を上げて今にも泣きだしそうになっている。
「二度とティンベルに近づかないで!穢れるわ!」
左頬を手で押さえながら俯くアデルに、耳を塞ぎたくなる様な暴言を吐いた伯爵夫人は、自分の言いたいことだけを言うとその場から立ち去ってしまった。もちろん、怯えるティンベルを無理やり連れて。
ティンベルは後ろ髪を引かれるように、頻りにアデルの方を振り向いて様子を窺おうとしているが、彼が俯いたまま呆然としているせいでその表情を垣間見ることは出来ない。
「……けがれる……」
一人残されたアデルは、伯爵夫人に言われた言葉を茫然自失とした様子で復唱していた。
零れたその言葉を追いかけるように、ふと空を見上げたアデルは頬から手を下ろす。叩かれた直後は赤く腫れていた頬も、既に何事もなかったかのように元の色を取り戻していた。
「そうか……我に触れると、穢れるのか……」
まるで憑き物が落ちたかのように、アデルは納得したような声を上げた。そして穢れると言われた自身の両手を、アデルは狭い眼下に広げて見てみる。
「そうだな……穢れるのは確かに嫌であるな。長年の謎が解けて清々しい……今後は気を付けるとしよう」
自身の推理に謎の自信があるのか、アデルは一人で自己完結すると、何事も無かったかのように洗濯という課せられた仕事に取り掛かり始める。
手始めにたらいの中の汚れない真っ白なシャツを手に取ったアデルは、その手元にじっと視線をやる。
「……洗濯物は汚れないのだろうか?…………我にこの任務を課したということは、つまりそういうことなのだろうな。……うむ、そう信じようではないか」
早速自身の名推理に綻びが生じ始めていたが、アデルは見ない振りをして仕事を続行するのだった。
*********
次は本日18時投稿予定です。
嫌悪されるべき人間が偶々黒髪と赤い瞳だったわけでは無い。黒髪と赤い瞳を持って生まれただけで、その人間は悪とみなされるのだ。
それがこの世界〝アンレズナ〟の常識であり、誰もが疑いもしない不条理であった。
********
指先の感覚が無くなってしまう程、凍える冬の朝。吐いた息は白く形を残し、その少年の虚しさを表しているようだ。
少年は黒い髪を乱雑に切り揃えており、髪型に頓着していないことが見てとれる。前髪の向こう側に見え隠れする赤い瞳は、吸い込まれそうな存在感を放っている。だがその存在感は、他の者にとって畏怖すべきものなどではなく、ただただ嫌悪し蔑むのが正常な反応であった。
少年の名を、アデル・クルシュルージュという。
アデルは齢八つにして、自らが生まれた伯爵家において使用人として扱われている。その為アデルはこの冬空の下、触れることすら躊躇う程冷たい水で衣服をひたすら洗い続けている。
その両手は酷いあかぎれを起こしており、見る目を細めたくなる程痛々しい。それでもそんな視界の暴力も、衣服を擦るたびに走る痛みも、アデルにとって脅威では無かった。
アデルは知っているのだ。この程度の傷、自分なら気づかぬ内に回復してしまうことを。だから無感情に、何でも無い様に働くことが出来た。
だがアデルは知らない。何故自分はこんなにも早く傷を無かったことにできるのか。そもそもアデルは、これが異常である事さえも分かっていない。
何故自分はこんな早朝から使用人として働かされているのか。何故自分を見た人間は、凍てつくような瞳で睨みつけ、嫌悪し、罵詈雑言を浴びせてくるのか。
アデルは何一つ、知らなかったのだ。
********
「おい!どうしてここに悪魔がいるんだ!?あんなものを僕に視界の届く場所に置くな!!」
「も、申し訳ありません。坊ちゃま」
朝、アデルが手を赤くしながら洗った大量の衣服やシーツを彼が太陽の下で干していると、子供のけたたましい怒鳴り声が鳴り響いた。
声の主である少年――ネオン・クルシュルージュは、やせ細っているアデルとは違い大きく肥え太っており、一瞬にして二人の育ちの違いが見てとれる。身長はアデルの方がほんの少し高いが、これではアデルの方が一つ年上とは到底思えない。
ネオンの方は丁寧に織られた、見るからに高級そうな衣服を身に着けていたが、アデルの方は汚れが染みついたヨレヨレの布切れ一枚を、無理矢理衣服に作り替えたようなものを身に着けている。育ちの違いはそんなところにも露見していた。
ネオンはアデルを無遠慮に指すと、隣にいた執事を委縮させた。すると執事は代わりにアデルの方をキッと睨みつけ、どこかに行けと言わんばかりに片手を払う。
アデルは意味がよく分からないまま、未だ残っている衣服をどうしたものかと頭を悩ませる。このまま仕事を放って立ち去れば後々キツイ折檻が待っていると簡単に予想できたが、ここで執事や少年の要望を無視して仕事を続けるのも失礼に思われると考えた。
アデルは物を知らない。こういう際、どうするのが正解なのか分からない程度に物を知らなかった。
取り敢えずアデルは、残った洗濯物がぎゅうぎゅうに押し込められたたらいを抱えてその場から離れてみる。
アデルは逃げるように足を速めながら、いつも抱いている疑問について考える。
何故自分は〝悪魔〟と呼ばれるのか。何故自分はこんなにも嫌悪されているのか。何故自分とあの少年とでは、ここまで扱いが違うのか。
アデルが知っていることは微々たるものだ。例えば、視界に収まりきらない程豪華絢爛なこの家が、クルシュルージュ家の本邸であるということ。クルシュルージュが、この国の伯爵家の一つであること。自分はそのクルシュルージュ家の長男として産まれたこと。あの少年が、自身の弟だということ。
自身が〝悪魔〟ないし〝悪魔の愛し子〟と呼ばれていること。
それ以外は何も知らないのだ。悪魔とは何か、そしてこの国の名前すら、アデルは知らなかった。教えてくれる者が一人たりともいないからだ。
理由も分からぬまま他者から嫌われ、酷い扱いを受けていたアデルは幼少期の頃こそ戸惑っていたが、今ではそれが当たり前になっているので何とも思っていなかった。
もちろん傷つく心が無いわけでは無い。それでも雷に打たれたような衝撃や、絶望の淵に立たされたような悲壮感はあまり感じなくなっていた。
アデルは自身が寝泊まりしている小屋まで移動すると、眼前に広がる洗濯物を前に首を捻った。
「どうしたものか……」
ボソッと、アデルは困惑の声を上げた。アデルの声は幼い容姿そのままに高く、それでいて口調は子供のものとはほんの少し違っていた。生まれつきと環境のせいなので深い理由は無いが、彼は子供らしい物言いをしたことが無い。
アデルがうぅんと唸っていると、彼の小屋を入り口から覗く存在に気づく。
ボロボロの扉に空いた穴から、大きくクリっとした可愛らしい瞳を覗かせるのは、アデルが唯一真面に言葉を交わす対象であった。
「あでるにいさまぁ。おくびかしげてどうしたの?」
「ティンベル……」
可愛らしい声を舌足らずな話し方で発したのは、ティンベル・クルシュルージュ。クルシュルージュ家の長女であり、アデルのたった一人の妹である。
アデルの三分の二にも満たない背丈は、当に五才児といったところだ。美しい水色の髪はショートカットにしており、丸っとしたその形はまるでキノコの様である。ぱっつん前髪の下に輝く瞳は藍色で、キリッと全てを見通せそうである。
可愛らしく、繊細な作りのドレスを着こなす姿は、やはりアデルの妹とはとても思えない。
「また抜け出したのか?駄目ではないか。あの人たちに心配をかけてしまうぞ」
「だってあでるにいさまにあいたかったんだもん」
「……」
アデルはいつもこのティンベルに対する反応に困ってしまう。何せ今までの人生で初めて、真面にアデルと関わろうとしたのがこのティンベルであり、その上まだ小さな子供だ。物を知らないアデルが当惑するのは無理の無いことであった。
そして同時に、何故このティンベルは他の者のように己を嫌悪しないのか。それがアデルにとって大きな謎でもあった。まだ小さい子供だから、アデルのように物を知らないのだろうか?と考えたこともあった。だが他の大人たちがここまで毛嫌いする存在のことを、目の前の愛される存在に伝えていないというのもおかしな話であった。
詳しいことを知らないアデルだが、ティンベルがあのネオン以上に両親から愛されていることは何となく察していた。そうであれば、愛すべき娘にはアデルと一切接触して欲しくないと思うのが、当たり前の反応だろう。
その上ティンベルは毎度、使用人や家族の目を盗んでアデルに会いに来ているようだったので、その行為を咎められている事実は明らかであった。
つまりはティンベルの意思で、彼女はアデルに会いに来ているのだ。
「あでるにいさま?そのおようふくどうするの?」
「なぁティンベル。ネオンはまだ外にいたか?」
「ねおんにいさま?えっとねぇ……おべんきょうはじめてたよ」
「そうか。教えてくれて感謝する」
「どういたしまして!」
アデルはネオンの居場所を教えてくれたティンベルの頭を撫でると、僅かに微笑んで礼を言った。撫でる手にあかぎれはもう無く、ティンベルがその痛々しさに泣き出すことは無かった。
アデルに感謝されたことで、どこか誇らしげな表情を見せたティンベルは当にドヤ顔丸出しである。
ネオンが勉強のために室内に戻ったのであれば、アデルは再び仕事に戻ることが出来る。その為彼は立ち上がると、たらいを片手で再び持ち上げた。
「ティンベル。途中までついて行ってやるから、部屋に戻ろう」
アデルは余ったもう片方の手をティンベルに差し出すと、彼女に帰宅を促した。
「あでるにいさまもわたしのおへやにきてよ」
「……すまない。我にできる精一杯はいくらでもくれてやれるが、我はあの家に入る許可を得ていないのだ。分かってくれるか?」
「……はい……わがままいってごめんなさい。あでるにいさま」
「よいのだ。謝れるティンベルは良い子であるな」
アデルを困らせる我が儘を言ったティンベルだったが、眉を下げて困ったような相好を窺わせたアデルを目の当たりにすると素直に陳謝した。しょんぼりとした様子のティンベルを慰めるように頭を撫でたアデルは、物分かりの良い彼女を褒め称えた。
頭を撫でていた手でティンベルの小さくふっくらとした手を握ったアデルは、小屋から一歩を踏み出した。
「なぁティンベル。そんなに寂しいのであれば、ネオンにでも遊んでもらえばいいだろう?」
「いやっ!だってねおんにいさまきらいなんだもん!」
「……そうか。ティンベルはネオンが嫌いか」
ティンベルが飽きもせずこうして自分に会いに来るのは、遊んでくれる相手がいなくて寂しいからだとアデルは思っていた。なのでネオンを勧めてみたのだが、ティンベルのお気には召さなかったようだ。
確かにネオンはアデルに対して酷い態度をとるが、こんなにも可愛くか弱い妹にまで同じ対応をしているとは到底思えない。そもそもネオンがアデルを蔑むのはアデルの方に原因がある。幼い頃から多くの人間に同じような対応を取られていたアデルはそう考えていた。
それでもティンベルはネオンを嫌いだと断言した。そしてアデルに良く懐いているティンベルは、他者から見て異端と呼ばれても仕方が無い存在である。
「そうか、嫌いか…………くくっ……なかなかどうして愉快であるな」
アデルはネオンに対して憎しみの感情を持っているわけでは無い。だが当然好きでもない。好きか嫌いで判断するのであれば、アデルはネオンのことが確実に嫌いなのだろう。
だからこそ、唯一好ましく思っている妹の正直な感情が、アデルにとっては愉悦以外の何物でも無かったのだ。
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「では。我はこの仕事を片付けてくる。ここから先は一人で帰れるか?」
先刻アデルが洗濯物を干していた場所まで移動すると、アデルは握っていたティンベルの手を離して尋ねた。
地上を照らす太陽はもうすぐ真上にまで昇りそうで、冬の寒々しい空気がだんだんと暖まってきていた。
「はい。てぃんべるはいいこなので、あでるにいさまをこまらせたりしません」
「ふふっ……そうか、偉いぞ」
得意気に言ったティンベルを目の当たりにすると、生理現象のように頬が緩んでしまうアデルは、若干その衝動を抑えながらティンベルの頭を撫でようとした。
だがそれは、突然の乱入者によって阻まれてしまう。
「お前っ……!ティンベルから離れなさい!」
「……」
「おかあさま……」
ネオンと瓜二つな怒鳴り声を上げたのは、このクルシュルージュ家の奥方――ティンベルたちの母親であった。
ティンベルと同じ水色の髪ではあるが、ショートボブの彼女とは違って、腰まで伸びたその髪を美しく結い上げている。だが瞳の色はティンベルではなくネオンによく似た焦げ茶色で、アデルを睨みつけているせいで醜く歪んで見える。
濃い化粧で被られた仮面の下の素顔は、平凡な顔立ちであるがアデルはそれを知らないし、興味さえも無い。
「申し訳ありませ……」
アデルが陳謝しようと頭を下げると、その言葉を遮るように夫人がアデルに近づき、思い切りその左頬を殴った。ちなみに殴ったのは平手ではなく、彼女が持っていた閉じた状態の扇子である。
バチンっという痛々しい音がアデルの頬から鳴り、ティンベルは思わず「ひっ……」と声を上げて今にも泣きだしそうになっている。
「二度とティンベルに近づかないで!穢れるわ!」
左頬を手で押さえながら俯くアデルに、耳を塞ぎたくなる様な暴言を吐いた伯爵夫人は、自分の言いたいことだけを言うとその場から立ち去ってしまった。もちろん、怯えるティンベルを無理やり連れて。
ティンベルは後ろ髪を引かれるように、頻りにアデルの方を振り向いて様子を窺おうとしているが、彼が俯いたまま呆然としているせいでその表情を垣間見ることは出来ない。
「……けがれる……」
一人残されたアデルは、伯爵夫人に言われた言葉を茫然自失とした様子で復唱していた。
零れたその言葉を追いかけるように、ふと空を見上げたアデルは頬から手を下ろす。叩かれた直後は赤く腫れていた頬も、既に何事もなかったかのように元の色を取り戻していた。
「そうか……我に触れると、穢れるのか……」
まるで憑き物が落ちたかのように、アデルは納得したような声を上げた。そして穢れると言われた自身の両手を、アデルは狭い眼下に広げて見てみる。
「そうだな……穢れるのは確かに嫌であるな。長年の謎が解けて清々しい……今後は気を付けるとしよう」
自身の推理に謎の自信があるのか、アデルは一人で自己完結すると、何事も無かったかのように洗濯という課せられた仕事に取り掛かり始める。
手始めにたらいの中の汚れない真っ白なシャツを手に取ったアデルは、その手元にじっと視線をやる。
「……洗濯物は汚れないのだろうか?…………我にこの任務を課したということは、つまりそういうことなのだろうな。……うむ、そう信じようではないか」
早速自身の名推理に綻びが生じ始めていたが、アデルは見ない振りをして仕事を続行するのだった。
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次は本日18時投稿予定です。
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