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第四章 少女の恨み、万事塞翁が馬
少女の恨み、万事塞翁が馬12
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遥音の呼吸は荒く、額には脂汗が浮かんでいる。背中に走る痛みが消えてくれるわけもなく、時間が過ぎるのは信じられないほど遅く感じる。
そんな遥音を心配する明日歌たちを恨めしそうに傍観していた雪那は、再びその拳銃を構えた。透巳は逸早くそれに気づき雪那の発砲を止めようとしたが、それよりも早く反応した者がいた。
「姉さん、もう、やめろ。すぐ……そこまで、警察が来てる」
特徴的なゆったりとした話し方、低い声。聞き馴染みがあり過ぎるその声に、明日歌は驚きで目を見開く。
透巳たちが入った扉から姿を現したのは、遥音と共に結菜を捜索していたはずの兼だった。兼はこの状況を理解できないほど阿呆ではない。だからこそ明日歌は首を傾げざるを得なかった。
自身の姉が拳銃を構えている姿を目の当たりにしても、兼が一切動揺を見せていないことが。
明日歌も結菜も、突然の来訪者に動揺を隠せない中、透巳ただ一人はまるで予想していたように顔を歪めている。嫌な予感が当たったとでも言いたげなその相好が、全てを物語っていた。
「……え、兼?……何、してるの?……連絡も取れなくて、心配したんだから……何で、遥音に単独行動、許したの?」
「……」
兼の姿を目の当たりにした途端、それまで見ない振りをしてきた疑問が一気に湧いてしまい、明日歌は当惑してしまう。どうして連絡がつかなかったのか。どうして遥音と別れたのか。どうして再会した雪那に驚かないのか。どうしてこの場所が分かったのか。
俯きながら眉間に皺を寄せる兼はどこか迷っているようだ。どうして何も答えてくれないんだと、明日歌が尋ねようとすると、
「あははははっ…………明日歌、アンタって本当に馬鹿よね」
場にそぐわない雪那の笑い声が響き渡った。
「なに……」
「兼はねぇ、私のこと知ってたのよ。最初から」
「……え?」
知っている。その言葉にどんな意味が込められているのか、明日歌は瞬時に理解できなかった。どこからどこまでを知っていたのか。それを明確に示されていないので、明日歌の反応も無理はない。
「……一年位前だったわ。兼が私たちのアパートを訪ねてきたのは」
「一年、前……?」
「そ。どうやって調べたのか知らないけど、突然やってきて驚いたわ。その時に結菜のことも知ったから、私がどういう生活を送っていたのかも分かっていたはずよ。それに、最近兼の方から連絡があって、どういうつもりか聞いてきたのよ。だから正直に答えてあげたの」
「……なん、で……」
雪那の話が事実であると仮定すると、兼は初めて結菜に会ったあの日から、彼女が一体誰の子供かを理解していたということになる。そもそも虐待されている子供を一年間も放置していたという事実の方が、明日歌にとっては鮮烈に衝撃を与えた。
恐らく結菜の方は一年前、僅かに会った見知らぬ少年のことなど覚えていなかったのだろう。結菜も驚きのあまり当惑しているのが証拠だった。
雪那が子供を虐待していることも。雪那がわざと結菜を明日歌たちに接触させたことも。雪那たちの目的も。兼は全て知ったうえで、何も言わなかった。つまりはこのまま傍観していても、兼にとっては不利益が生じなかったということだ。
「兼には兼の目的があった。その目的のためには、私たちの計画を無視した方が都合が良かった。それだけよ……そうよね?兼」
「……」
利害の一致。透巳の頭に浮かんだのはその言葉だった。兼が嬉々として虐待を見て見ぬ振りするような人間ではないことは分かっていた。だがそうするだけの理由が兼にはあったのだろう。一番重要なその理由が、明日歌たちにははっきりと掴めない。
「……とにかく。その拳銃を、下ろして」
「いいわよ。アンタたちと、これから来る警察を皆殺しにしたらね」
「あのさ……さっきからツッコもうか迷ってたんだけど、その拳銃六発しか打てないから、あと弾丸は四発だよね?遥音先輩も入れると俺らは五人いる訳で、警察云々以前に俺たちでさえも皆殺しにはできないと思うんだけど」
「え……」
ポカンとした表情の雪那に透巳は心底呆れたようなため息をつく。慧馬の頼みで事件に関わることがある透巳は拳銃の知識もあり、雪那が手にしている拳銃のことも知っていたのだ。
透巳の記憶では、その拳銃の装填数は六発。最初に透巳に向けて打った時と、遥音の背中を撃ち抜いた弾丸を考えると、拳銃に残っている弾丸は最高四発。雪那の反応からして予備の弾丸も無いと判断できた。
拳銃を手にしているにも拘らず、その知識が乏しい雪那は間抜けと言われても仕方が無いほどだ。
雪那が当惑していると、兼が言った通りパトカーと救急車のサイレン音が全員の耳に届く。大きくて、心臓を揺らすその音が、こんなにも自身を安心させてくれる日が来るとは、明日歌は想像もしていなかった。
********
それから到着した慧馬たち警察によって、結菜の母親と父親は連行されていった。拳銃によって重傷を負った遥音は救急車で病院に運ばれ、即手術が行われることになった。
いつの間にか意識を失っていた遥音の手を、救急車に同乗した明日歌は手術室に入るまで握っていて、彼の手が冷たくなることは無かった。
ちなみに両親から虐待を受けていた結菜も、検査や手当てをするために救急車に同乗していた。明日歌の隣で心配そうに遥音の顔を見つめていた結菜は、目から零れそうな程涙を溜めていた。
********
手術中のライトが赤く染まっている。それをじっと見つめている明日歌たちの間に会話はない。何から切り出せばいいか分からないからだ。透巳と明日歌の手には、ハンカチでは拭いきれなかった遥音の血が残っていて、それがこの状況が現実であると主張してくる。
病院独特の消毒液の匂いは、明日歌たちにとっては嗅ぎ慣れたもので、心を落ち着かせてくれることが唯一の救いである。
だが明日歌たちの心情など、その場の空気などガン無視の存在が口を開く。
「で、結局アイツら何がしたかったの?兼くん知ってるんだよね」
「……遥音先輩の父親を脅して、今後、何かの犯罪を犯しても……揉み消してもらおうと、してたみたい」
「くだらねぇ……」
兼の答えに透巳は思わず荒い口調で本音を零した。透巳にとっては予想通り過ぎて、それでいてあまりにも身勝手な理由だったので、呆れてものも言えないほどなのだ。
「そんなことのために遥音先輩がこんな目に遭わされるなんて……アイツら、どうしようかな……?」
ブツブツと雪那たちに対する恨み言を呟いた透巳は不気味以外の何者でもない。家族である明日歌たちの前だろうと復讐の算段をつけようとする透巳の辞書に、忖度という単語はないようだ。
「……兼。どうして、黙ってたの?」
小さくて、ゆっくりとした明日歌の高い声が怯えているように尋ねた。
「……姉貴は姉さんに固執していたけど、それじゃ、駄目だと……思った」
兼の言葉に明日歌は思わず目を見開く。兼の気持ちは否定できないもので、いつから彼がそんなことを考えていたのか明日歌には見当もつかなかったからだ。
「姉さんが、いなくなってから。姉貴、元気が無くて……でも、遥音先輩たちと仲良くなってからは、楽しそうで……。でも、やっぱり姉貴は……心のどこかで、姉さんが帰ってくるのを、期待してたよね?」
「……」
その無言の間が、明日歌にとっての肯定だった。誰よりも近くで明日歌のことを見てきた兼には全てお見通しだったのだ。
「だから、俺。姉貴が吹っ切れるように、姉さんを探したんだ。……でも、姉さんはあんな感じになってて。その時俺は、驚いて……こんな姿姉貴には見せられないって……思った」
その言葉で、透巳たちは兼が結菜のことを放っておいた理由を何となく察した。結菜のことを助けようとするなら、確実に警察の力が必要になってくる。雪那たちが警察に捕まれば、明日歌がそれを知るのは必至。兼はそれを避けたかった。
「でも。あの日、結菜ちゃんに会って。姉さんが、わざと逃がしたことはすぐに分かった。だから、また……連絡して。どういうつもりなのか、聞いたんだ。それで、すぐに分かった。姉さんたちは、近いうちに警察に、捕まるって。計画性皆無だし、それに……透巳がいたから」
「まぁ、だろうね」
「折角、一年前見なかったことにしたのに……姉さんたち、自分から警察に捕まりに行こうとしていたから……眩暈がする気分だった」
兼の立場から考えれば、同情せざるを得ない状況だろう。一番は明日歌のためだっただろうが、兼は家族である雪那のことも当然心配していたのだ。だからこそ警察沙汰にはしたくなかったし、会わない間に改心してくれないかと淡い期待だって抱いていた。
だが雪那は改心するどころか、馬鹿馬鹿しい犯罪を更に起こそうとしていた。兼からしてみれば、今まで明日歌に隠し事をしていたことが無駄になる愚行である。
「止めても姉さんは聞く耳を持たないし、結菜ちゃんの存在を知られた後だから、解決するのは時間の問題だと、思った。でも……ここまで救いようがないなら、逆に姉貴が吹っ切れられるんじゃないかって、そう考え始めたんだ」
「吹っ切れる?」
「姉さんは、遥音先輩に手を出した。今の姉さんが、一体どうなっているか。その目で確かめれば、姉さんに失望して……どうでも良くなるんじゃって、思った」
「兼……」
明日歌にとって今一番大事なのはF組だ。それでも雪那に対する情を、執着を捨てきれなかった明日歌。だがその雪那が大事な存在に手を出したとなれば話は変わってくる。
「俺、F組のみんなといる時の、姉貴が一番好きだった、から。だから……吹っ切れて、忘れて、幸せになって欲しかった」
俯き加減に、兼が小さな声でそう言った途端、彼の身体に衝撃が走る。明日歌が兼の元へ駆け出し、その勢いのまま抱きついたからだ。突然明日歌の体温が伝わり、兼はどうすればいいのか分からなくなってしまう。強く抱きしめられ、苦しいぐらいだというのに、嫌な感じは微塵もしなかった。
明日歌の涙が兼の制服に滲む。すぐ近くで明日歌の肩が震えていることに気づくと、兼は途端に涙を滲ませた。隠すように、明日歌の肩に顔を埋める兼。
「っ……ごめんね。駄目な、お姉ちゃんで……」
「っ……!……俺だって……駄目な弟、だよ……」
兼にここまで気を遣わせてしまった。兼に隠し事を作らせてしまった。明日歌は兼がこれまで抱えてきた全てを知らない。理解することも、全ては不可能だろう。その当たり前が歯痒く、涙が止まらない。
明日歌のためと言い訳をして、結局は明日歌の大事な人を危険に追い込んで、明日歌を傷つけてしまった。兼は自身への不甲斐無さで、その拳を目一杯握りしめた。
どれくらいそうしていたのか。明日歌と兼には分からない。気づいた時には学校から駆け付けた関口兄弟と鷹雪がいて、そのすぐ後に遥音の手術も終わっていた。
手術中の赤い灯りが消え、手術を終えた医者や看護師たちが少しずつ退出してくる。手術は無事に成功したと、担当した医師から伝えられた透巳たちは心底安堵し、思わず地面にへたり込んでしまう。
ストレッチャーの上で横たわっている遥音は怖いぐらい静かで、明日歌と結菜は思わず不安に駆られる。そもそも遥音の寝ている姿すら見たこともない明日歌たちにとって、新鮮なのは当たり前なのだが、この状況ではそんな言葉一つで表すことなどできなかった。
ピクリとも動かない遥音が本当に無事なのか不安で、結菜は通り過ぎたストレッチャーが見えなくなるまでその目で追ってしまう。
「大丈夫だよ、結菜ちゃん。遥音先輩、強いから」
「……うんっ……」
結菜の隣にしゃがみ込み、その小さく震える手を握ってそう断言した透巳。張りつめていた緊張の糸がプツンと切れるように、結菜の涙から一筋の涙が零れる。それを隠すように、結菜は拳で目元を隠した。
結菜の小さな泣き声が病院の廊下に響き渡る。その声が遥音に届けばと、透巳は切に願う。届きさえすれば、遥音はすぐに目を覚ましてくれると思えたから。
だが、遥音はそれから数日経っても、意識を取り戻してはくれなかった。
そんな遥音を心配する明日歌たちを恨めしそうに傍観していた雪那は、再びその拳銃を構えた。透巳は逸早くそれに気づき雪那の発砲を止めようとしたが、それよりも早く反応した者がいた。
「姉さん、もう、やめろ。すぐ……そこまで、警察が来てる」
特徴的なゆったりとした話し方、低い声。聞き馴染みがあり過ぎるその声に、明日歌は驚きで目を見開く。
透巳たちが入った扉から姿を現したのは、遥音と共に結菜を捜索していたはずの兼だった。兼はこの状況を理解できないほど阿呆ではない。だからこそ明日歌は首を傾げざるを得なかった。
自身の姉が拳銃を構えている姿を目の当たりにしても、兼が一切動揺を見せていないことが。
明日歌も結菜も、突然の来訪者に動揺を隠せない中、透巳ただ一人はまるで予想していたように顔を歪めている。嫌な予感が当たったとでも言いたげなその相好が、全てを物語っていた。
「……え、兼?……何、してるの?……連絡も取れなくて、心配したんだから……何で、遥音に単独行動、許したの?」
「……」
兼の姿を目の当たりにした途端、それまで見ない振りをしてきた疑問が一気に湧いてしまい、明日歌は当惑してしまう。どうして連絡がつかなかったのか。どうして遥音と別れたのか。どうして再会した雪那に驚かないのか。どうしてこの場所が分かったのか。
俯きながら眉間に皺を寄せる兼はどこか迷っているようだ。どうして何も答えてくれないんだと、明日歌が尋ねようとすると、
「あははははっ…………明日歌、アンタって本当に馬鹿よね」
場にそぐわない雪那の笑い声が響き渡った。
「なに……」
「兼はねぇ、私のこと知ってたのよ。最初から」
「……え?」
知っている。その言葉にどんな意味が込められているのか、明日歌は瞬時に理解できなかった。どこからどこまでを知っていたのか。それを明確に示されていないので、明日歌の反応も無理はない。
「……一年位前だったわ。兼が私たちのアパートを訪ねてきたのは」
「一年、前……?」
「そ。どうやって調べたのか知らないけど、突然やってきて驚いたわ。その時に結菜のことも知ったから、私がどういう生活を送っていたのかも分かっていたはずよ。それに、最近兼の方から連絡があって、どういうつもりか聞いてきたのよ。だから正直に答えてあげたの」
「……なん、で……」
雪那の話が事実であると仮定すると、兼は初めて結菜に会ったあの日から、彼女が一体誰の子供かを理解していたということになる。そもそも虐待されている子供を一年間も放置していたという事実の方が、明日歌にとっては鮮烈に衝撃を与えた。
恐らく結菜の方は一年前、僅かに会った見知らぬ少年のことなど覚えていなかったのだろう。結菜も驚きのあまり当惑しているのが証拠だった。
雪那が子供を虐待していることも。雪那がわざと結菜を明日歌たちに接触させたことも。雪那たちの目的も。兼は全て知ったうえで、何も言わなかった。つまりはこのまま傍観していても、兼にとっては不利益が生じなかったということだ。
「兼には兼の目的があった。その目的のためには、私たちの計画を無視した方が都合が良かった。それだけよ……そうよね?兼」
「……」
利害の一致。透巳の頭に浮かんだのはその言葉だった。兼が嬉々として虐待を見て見ぬ振りするような人間ではないことは分かっていた。だがそうするだけの理由が兼にはあったのだろう。一番重要なその理由が、明日歌たちにははっきりと掴めない。
「……とにかく。その拳銃を、下ろして」
「いいわよ。アンタたちと、これから来る警察を皆殺しにしたらね」
「あのさ……さっきからツッコもうか迷ってたんだけど、その拳銃六発しか打てないから、あと弾丸は四発だよね?遥音先輩も入れると俺らは五人いる訳で、警察云々以前に俺たちでさえも皆殺しにはできないと思うんだけど」
「え……」
ポカンとした表情の雪那に透巳は心底呆れたようなため息をつく。慧馬の頼みで事件に関わることがある透巳は拳銃の知識もあり、雪那が手にしている拳銃のことも知っていたのだ。
透巳の記憶では、その拳銃の装填数は六発。最初に透巳に向けて打った時と、遥音の背中を撃ち抜いた弾丸を考えると、拳銃に残っている弾丸は最高四発。雪那の反応からして予備の弾丸も無いと判断できた。
拳銃を手にしているにも拘らず、その知識が乏しい雪那は間抜けと言われても仕方が無いほどだ。
雪那が当惑していると、兼が言った通りパトカーと救急車のサイレン音が全員の耳に届く。大きくて、心臓を揺らすその音が、こんなにも自身を安心させてくれる日が来るとは、明日歌は想像もしていなかった。
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それから到着した慧馬たち警察によって、結菜の母親と父親は連行されていった。拳銃によって重傷を負った遥音は救急車で病院に運ばれ、即手術が行われることになった。
いつの間にか意識を失っていた遥音の手を、救急車に同乗した明日歌は手術室に入るまで握っていて、彼の手が冷たくなることは無かった。
ちなみに両親から虐待を受けていた結菜も、検査や手当てをするために救急車に同乗していた。明日歌の隣で心配そうに遥音の顔を見つめていた結菜は、目から零れそうな程涙を溜めていた。
********
手術中のライトが赤く染まっている。それをじっと見つめている明日歌たちの間に会話はない。何から切り出せばいいか分からないからだ。透巳と明日歌の手には、ハンカチでは拭いきれなかった遥音の血が残っていて、それがこの状況が現実であると主張してくる。
病院独特の消毒液の匂いは、明日歌たちにとっては嗅ぎ慣れたもので、心を落ち着かせてくれることが唯一の救いである。
だが明日歌たちの心情など、その場の空気などガン無視の存在が口を開く。
「で、結局アイツら何がしたかったの?兼くん知ってるんだよね」
「……遥音先輩の父親を脅して、今後、何かの犯罪を犯しても……揉み消してもらおうと、してたみたい」
「くだらねぇ……」
兼の答えに透巳は思わず荒い口調で本音を零した。透巳にとっては予想通り過ぎて、それでいてあまりにも身勝手な理由だったので、呆れてものも言えないほどなのだ。
「そんなことのために遥音先輩がこんな目に遭わされるなんて……アイツら、どうしようかな……?」
ブツブツと雪那たちに対する恨み言を呟いた透巳は不気味以外の何者でもない。家族である明日歌たちの前だろうと復讐の算段をつけようとする透巳の辞書に、忖度という単語はないようだ。
「……兼。どうして、黙ってたの?」
小さくて、ゆっくりとした明日歌の高い声が怯えているように尋ねた。
「……姉貴は姉さんに固執していたけど、それじゃ、駄目だと……思った」
兼の言葉に明日歌は思わず目を見開く。兼の気持ちは否定できないもので、いつから彼がそんなことを考えていたのか明日歌には見当もつかなかったからだ。
「姉さんが、いなくなってから。姉貴、元気が無くて……でも、遥音先輩たちと仲良くなってからは、楽しそうで……。でも、やっぱり姉貴は……心のどこかで、姉さんが帰ってくるのを、期待してたよね?」
「……」
その無言の間が、明日歌にとっての肯定だった。誰よりも近くで明日歌のことを見てきた兼には全てお見通しだったのだ。
「だから、俺。姉貴が吹っ切れるように、姉さんを探したんだ。……でも、姉さんはあんな感じになってて。その時俺は、驚いて……こんな姿姉貴には見せられないって……思った」
その言葉で、透巳たちは兼が結菜のことを放っておいた理由を何となく察した。結菜のことを助けようとするなら、確実に警察の力が必要になってくる。雪那たちが警察に捕まれば、明日歌がそれを知るのは必至。兼はそれを避けたかった。
「でも。あの日、結菜ちゃんに会って。姉さんが、わざと逃がしたことはすぐに分かった。だから、また……連絡して。どういうつもりなのか、聞いたんだ。それで、すぐに分かった。姉さんたちは、近いうちに警察に、捕まるって。計画性皆無だし、それに……透巳がいたから」
「まぁ、だろうね」
「折角、一年前見なかったことにしたのに……姉さんたち、自分から警察に捕まりに行こうとしていたから……眩暈がする気分だった」
兼の立場から考えれば、同情せざるを得ない状況だろう。一番は明日歌のためだっただろうが、兼は家族である雪那のことも当然心配していたのだ。だからこそ警察沙汰にはしたくなかったし、会わない間に改心してくれないかと淡い期待だって抱いていた。
だが雪那は改心するどころか、馬鹿馬鹿しい犯罪を更に起こそうとしていた。兼からしてみれば、今まで明日歌に隠し事をしていたことが無駄になる愚行である。
「止めても姉さんは聞く耳を持たないし、結菜ちゃんの存在を知られた後だから、解決するのは時間の問題だと、思った。でも……ここまで救いようがないなら、逆に姉貴が吹っ切れられるんじゃないかって、そう考え始めたんだ」
「吹っ切れる?」
「姉さんは、遥音先輩に手を出した。今の姉さんが、一体どうなっているか。その目で確かめれば、姉さんに失望して……どうでも良くなるんじゃって、思った」
「兼……」
明日歌にとって今一番大事なのはF組だ。それでも雪那に対する情を、執着を捨てきれなかった明日歌。だがその雪那が大事な存在に手を出したとなれば話は変わってくる。
「俺、F組のみんなといる時の、姉貴が一番好きだった、から。だから……吹っ切れて、忘れて、幸せになって欲しかった」
俯き加減に、兼が小さな声でそう言った途端、彼の身体に衝撃が走る。明日歌が兼の元へ駆け出し、その勢いのまま抱きついたからだ。突然明日歌の体温が伝わり、兼はどうすればいいのか分からなくなってしまう。強く抱きしめられ、苦しいぐらいだというのに、嫌な感じは微塵もしなかった。
明日歌の涙が兼の制服に滲む。すぐ近くで明日歌の肩が震えていることに気づくと、兼は途端に涙を滲ませた。隠すように、明日歌の肩に顔を埋める兼。
「っ……ごめんね。駄目な、お姉ちゃんで……」
「っ……!……俺だって……駄目な弟、だよ……」
兼にここまで気を遣わせてしまった。兼に隠し事を作らせてしまった。明日歌は兼がこれまで抱えてきた全てを知らない。理解することも、全ては不可能だろう。その当たり前が歯痒く、涙が止まらない。
明日歌のためと言い訳をして、結局は明日歌の大事な人を危険に追い込んで、明日歌を傷つけてしまった。兼は自身への不甲斐無さで、その拳を目一杯握りしめた。
どれくらいそうしていたのか。明日歌と兼には分からない。気づいた時には学校から駆け付けた関口兄弟と鷹雪がいて、そのすぐ後に遥音の手術も終わっていた。
手術中の赤い灯りが消え、手術を終えた医者や看護師たちが少しずつ退出してくる。手術は無事に成功したと、担当した医師から伝えられた透巳たちは心底安堵し、思わず地面にへたり込んでしまう。
ストレッチャーの上で横たわっている遥音は怖いぐらい静かで、明日歌と結菜は思わず不安に駆られる。そもそも遥音の寝ている姿すら見たこともない明日歌たちにとって、新鮮なのは当たり前なのだが、この状況ではそんな言葉一つで表すことなどできなかった。
ピクリとも動かない遥音が本当に無事なのか不安で、結菜は通り過ぎたストレッチャーが見えなくなるまでその目で追ってしまう。
「大丈夫だよ、結菜ちゃん。遥音先輩、強いから」
「……うんっ……」
結菜の隣にしゃがみ込み、その小さく震える手を握ってそう断言した透巳。張りつめていた緊張の糸がプツンと切れるように、結菜の涙から一筋の涙が零れる。それを隠すように、結菜は拳で目元を隠した。
結菜の小さな泣き声が病院の廊下に響き渡る。その声が遥音に届けばと、透巳は切に願う。届きさえすれば、遥音はすぐに目を覚ましてくれると思えたから。
だが、遥音はそれから数日経っても、意識を取り戻してはくれなかった。
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