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第四章 少女の恨み、万事塞翁が馬
少女の恨み、万事塞翁が馬3
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透巳との内輪話を終わらせた遥音はゆなの姿をじっと見つめると、その口を開く。
「……さて。ゆなは誰が預かるか……」
「ゆなちゃんは誰がいいとかある?」
顎をつかんで思案する遥音が気にしていたのは、ゆながこれからどこで寝泊まりするかというものだった。この状況では今ここにいる誰かが預かるのが最善なのだが、透巳はその中なら誰が良いのか念の為ゆなに要望を聞いた。
「……えっと…………」
「ん?俺か?そういえば名乗ってなかったな。俺は結城遥音だ。結城が苗字、遥音が名前だ」
「はると、お兄ちゃん?」
「…………そうだ」
透巳の問いに戸惑いながらも答えを出したゆなは遥音の方を指差していて、彼は自己紹介をしていなかったことに気づいた。
自己紹介した遥音に聞き返したゆなに〝お兄ちゃん〟と呼ばれたことで遥音は一瞬硬直するが、すぐに正気を取り戻して肯定する。
「今遥音お兄ちゃんって呼ばれてもだえ……」
「……何だ?最後まで言わないのか?」
「え、だって普段なら途中で殺すぞとか言われるから」
「子供の前でそんなこと言うわけないだろうが馬鹿か?」
「結構酷いこともう言っちゃってるけどね」
明日歌はいつもの慣れで遥音のツッコみを完全に待ってしまっていたが、ゆなの前で物騒なことを言うほど遥音は空気の読めない男では無かった。
遥音は一人っ子なので妹も弟もいない。そんな遥音が〝お兄ちゃん〟と呼ばれることはそうそうないので、嬉しいと感じたのも事実なのだ。
(それに、この少女は親から散々そんな言葉を投げかけられていただろうからな)
遥音は同時に自己嫌悪に襲われたが、今そんな感傷に浸っても何の意味も無いのでその悪い思考を断ち切る。遥音は普段明日歌に鋭い指摘をする際キツイ言い方をするが、それは当然冗談込みのものだ。そんな遥音の言葉と、ゆなが両親から浴びせられたであろう罵声とでは天と地ほどの違いがあるのは、その場にいる全員が理解している。
「ゆな。指名してくれたところ悪いが、俺の父親は警察官だ。俺の家で預かることは出来ない」
「っ……」
「……?」
申し訳なさそうに告げた遥音に、ゆなは何故かどこか焦ったような表情を見せた。驚いたわけでも、悲しそうな訳でも無く。何か自身が犯した失態に気づいた様な、そんな真っ青な表情だった。
警察に知られたくないというゆなの望みを叶えるためには、遥音の自宅は最悪の場所だろう。遥音の父親は警視総監であり、そんな人物にゆなの存在を知られればそれは警察周知の事実となる。
「ならうちはどうですか?両親と暮らしている訳じゃないですし」
「まぁ、妥当かもね」
透巳の提案に明日歌はそう言って賛成の色を示した。学生である明日歌たちは当然家族と一緒に暮らしているので、両親などにゆなのことを上手く説明して泊まらせるのは困難だ。その条件に当て嵌まらないのは透巳宅と鷹雪宅だが、同性の小麦も住んでいる透巳宅の方が適しているだろう。
「服は俺が明日までに用意しておく。ゆなの世話を頼んだぞ」
「はい」
「ぷぷっ、遥音が女児用衣服を選んでる図ってかなり面白いね…………って痛い痛い!物理的な暴力やめて!」
ゆなのぶかぶかの衣服はズタボロなので、キチンとした子供服を用意してやることにした遥音。先刻明日歌に何を言われようが毒は吐かないと決意した遥音だったが、流石に限界だったのか明日歌の脇腹をゆなから見えない角度で思い切り捻ることで反撃に出た。
地味な痛みに大声を上げる明日歌だったが、攻撃している遥音がそれをおくびにも出さず満面の笑みを浮かべているので、傍から見れば明日歌一人が大騒ぎしているだけのようである。
この日明日歌は、調子に乗って遥音をいじり過ぎると痛い目を見ると再学習させられることになったのだ。
********
透巳と小麦の住処に到着してすぐ、ゆなは風呂に入ることになる。傷跡も目立ってはいたが、ゆなの身体はあちこち汚れていて、碌に風呂にも入れていないのが明らかだったからだ。
ゆなの世話を一時的に小麦に任せた透巳は、待つ間いつものようにシオと戯れる。透巳はゆなが先刻まで来ていたボロボロの服を手に持っていて、何を思ったかそれをシオの鼻に近づけてみる。するとシオはその強烈的な臭いに顔を逸らし、透巳の手に向かって威嚇し始めた。
「ばっちぃね。こんなもの子供に着させるなんて……親の顔が見てみたい」
透巳はその衣服を丸め、ゴミ箱目掛けてシュートする。バスケットボール選手さながらのシュートは見事にゴールし、ボロボロの衣服はお払い箱となった。
すると小麦たちが風呂から上がり、すっかり綺麗になったゆなが透巳の前に現れた。
ゆなは小麦の服をワンピースのように着ていて、ぼさぼさだった髪は濡れて艶やかになっている。長すぎる前髪はかきあげているので、ようやくその顔がおでこまではっきりと見ることが出来た。
「おや。随分と可愛い子がやって来たね」
「透巳くん、ゆなちゃんにドライヤーしてくれる?」
「うん」
ゆなは零れるほどの大きな瞳、白すぎる肌には上気する頬が良く映えていた。顔にも先刻鷹雪が施した治療の跡があり痛々しかったが、それでもゆなの可愛らしさは拭えない。
透巳にゆなの世話をバトンタッチした小麦は夕食の用意に取り掛かる。一方の透巳はゆなを手招きして、彼女を自分の前に座らせた。ちょこんという効果音が聞こえてきそうな身体の小ささに、透巳は小さく笑みを零す。
「うーん。乾かす前に切っちゃう?」
「え。透巳くん髪切れるの?」
「分からないけど、まぁ切れるでしょ。俺器用だし」
「否定できないから悔しい」
透巳は基本的になんでも器用にこなしてしまうタイプなので、小麦は今すぐに髪を切らせるなら透巳が適任だろうと考えた。
部屋には不規則な包丁の音が聞こえるが、そんな家庭的な効果音でさえもゆなにとっては物珍しいものである。
「ゆなちゃん、髪、切っても良い?」
「うん。えっと……」
「俺は透巳。あの子は小麦」
「すみお兄ちゃん、こむぎお姉ちゃん、よろしくお願いします」
「挨拶できて偉いね」
「……えらい?」
「うん。偉い偉い」
透巳は自身と小麦を指差して紹介すると、素直に頭を下げたゆなを褒めた。褒められた経験が無いのか、ゆなはポカンとした相好で聞き返してきた。そんなゆなに褒められることに慣れて欲しいと感じた透巳は、刷り込むように彼女の小さな頭を撫で始める。
「はるとお兄ちゃんと、同じ……」
「ん?あぁ、そうだね」
今日初めて遥音によって頭を撫でられる温かさを知ったゆなは、本日二度目のその感触に胸を温めた。どこかホッとしている様なゆなを目の当たりにすると、虐待の被害に遭っているなど忘れそうになるが、痛々しい傷痕が現実へと引き戻す。
「それじゃあお客様、可愛く切って行きますね」
********
「はい。完成」
「わぁ……」
ドライヤーの電源を切った透巳はゆなに鏡を見せてやった。透巳によって生まれ変わったゆなの髪は元々の半分ほどの長さになり、前髪もキチンと目が窺えるほど短くなっていた。
初めて見るぼさぼさの髪型ではない自分に、ゆなは目を輝かせて鏡に釘付けである。
「そういえば、どうして遥音先輩のところが良かったの?」
「……一番、優しそうだったから」
「流石……子供はよく見てるね」
ゆなが告げた理由は透巳にとって同調せざるを得ないもので、それを一瞬で見抜いたゆなに感嘆の声を上げた。
明日歌たちが優しくないというわけでは無いが、あの面子の中で何だかんだ最も優しいのは遥音だろう。遥音なら例え悪人であっても叱責しながら面倒を見るのが容易に想像出来てしまう。そういった空気感をゆなは感じ取ったのだろう。
********
次の日。F組の教室にゆなを連れて行った透巳は、ゆなの代わりに多目的室の扉を開いた。F組生徒たちは既に登校していて、遥音の手には子供服店の紙袋がぶら下がっていた。
髪を切ったゆなに各々好意的な反応を示していたが、誰よりも驚いていたのは明日歌と兼だ。だがそれはゆなの可愛らしさに衝撃を受けたようではなく、別の何かに気づいて茫然としているようだった。
遥音が買ってきた衣服に着替えるため、明日歌以外の全員は一旦多目的室から退出する。明日歌の呼びかけでゆなが着替え終えたことを知った透巳たちは、再び教室へと踵を返す。
「どーよ!」
「何故お前がどや顔なのか理解に苦しむが可愛いな」
「普通に褒められない病気にでもかかってんの?」
得意気な相好でゆなを指し示した明日歌に導かれて、透巳たちはゆなの変貌ぶりを目の当たりにした。
ゆなは白と茶色を基調としたワンピースを着ていて、所々フリルが施されている部分がとても愛らしい。靴もワンピースに合った落ち着いた印象のもので、見た目だけで高級なのだろうと予想できる。
遥音に可愛いと褒められたことが嬉しかったのか、ゆなはほんの少し笑みを浮かべてどこかもじもじと体をくねらせている。
これがゆなと出会ってから窺えた初めての笑顔だったので、遥音は服を買ってよかったと心底思った。
「遥音の癖にセンスいいのムカつく」
「センスが良いつもりは無いが、お前に任せるよりはマシだろうな」
「……はるとお兄ちゃん、ありがとうございます」
「気にするな」
服を買ってくれた遥音にペコリと頭を下げたゆな。そんな素直なゆなを目の当たりにした遥音は破顔すると、その頭を優しく撫でる。
「こんなに可愛い服、初めて……本当に貰っていいの?」
「あぁ」
「遥音はこう見えてお金持ちなのだよ。だからぜーんぜん、気にする必要ないからねぇ」
「何故お前がそれを言うんだ」
遥音が裕福なのは事実だが、何故それを本人ではなく明日歌が明言するのかとツッコみを入れる。
明日歌たちがゆなと会話している間に、遥音は昨日と同じように透巳を手招きして呼ぶ。教室の隅で固まる二人に巧実たちは首を傾げたが、遥音が何かおかしなことをするわけも無いので、すぐに興味を失ったように視線を戻す。
「神坂、成川刑事には伝えたのか?」
「はい。調べるだけ調べると言っていました。ただ、ゆなちゃんの意思を尊重して両親を特定してもすぐ逮捕したりはしないとも言ってました。兄ちゃんのことなので、他の刑事に他言したりもしないはずです」
「そうか。面倒をかけてすまないと伝えておいてくれ」
「これぐらい平気ですよ。刑事なんですから働かせないと」
慧馬が希望通りに動いてくれていることを知った遥音はほっと一安心すると、透巳に伝言を頼んだ。だが慧馬からしてみれば警視総監のご子息直々の頼みであり、何より幼気な少女のためなのだから文句など最初からないのだ。
そんな会話をしていた二人を兼は後目で見ていて、そのことに気づいたのは透巳ただ一人だった。
********
透巳たちがゆなのことで色々と手を回している頃、全く別のところでは未だに解決していないあの件が動こうとしていた。
ただの落ち葉を掃いていた季節とは様変わりして、今では紅葉や銀杏が地面を敷き詰めている神社はまるで世界そのものが変わったようだ。
だがそこにいるささだけはいつも変わらず。巫女服を着て、竹箒片手に優しく笑みを浮かべている。何時でも、何があってもそこにいるささは、きっと何十年経っても変わらないのではないかと思えるほどだ。
だからこそ青ノ宮薔弥という人間はこの存在が心底苦手で、いつでも自分に笑顔を向けてくる存在感に恐怖を覚えている。
「あ。薔弥さん、こんにちは」
「はぁ。俺、ドMなのかもしれへんな」
「ん?何のことです?」
だがそんな薔弥の心情など知る由も無いささはキョトンとした相好で首を傾げている。実は薔弥が退院して以来初めて会ったので、ささは内心嬉しさ半分驚き半分なのだ。
「ささ。自分暇やろ?」
「いきなり失礼ですね。見ての通り巫女のお仕事で忙しいんですが」
「せやったらバイトでも雇い。木藤友里探すで」
「え。私とですか?」
「自分以外誰がおるねん」
薔弥の失礼な物言いにささはムスッと顔を顰めたが、唐突に告げられた提案のせいで茫然自失としてしまう。薔弥が友里に興味を持っているのは分かっていたので、彼女を探すこと自体は自然な流れだが、それにささを同行させるのは少々意外だったのだ。
ささは薔弥が自身を苦手としているのを理解しているので、普通に考えれば彼の行動は謎だろう。
「……あぁ、なるほど。そういうことですか」
「理解が早くて助かるんやが、その何でもお見通しみたいな顔が癪に障るねん」
「わがままですね」
友里がささに執着しているのは薔弥も本人も理解している。その執着がどのようなものかは分からないが、他人の機微に敏感な二人には分かってしまったのだ。
それを踏まえたうえで友里を探すとなると、ささを同行させた方が見つけやすいかもしれないという僅かな望みに薔弥は賭けているのだ。
そんな薔弥の思惑を見抜いたささだったが、これこそが薔弥が彼女を苦手とする理由の一つなので、思わず薔弥の顔が歪んでしまう。
「おい、薔弥!ささに何してやがんだ!?」
「…………めんどいおまけがついてきよったなぁ」
ささが薔弥に苦笑いを浮かべていると、その大声が二人の鼓膜を突き破った。その声の主を視界に捉えた薔弥はため息をつくと、自身の弟の執念っぷりに最早関心すら覚えるのだった。
「……さて。ゆなは誰が預かるか……」
「ゆなちゃんは誰がいいとかある?」
顎をつかんで思案する遥音が気にしていたのは、ゆながこれからどこで寝泊まりするかというものだった。この状況では今ここにいる誰かが預かるのが最善なのだが、透巳はその中なら誰が良いのか念の為ゆなに要望を聞いた。
「……えっと…………」
「ん?俺か?そういえば名乗ってなかったな。俺は結城遥音だ。結城が苗字、遥音が名前だ」
「はると、お兄ちゃん?」
「…………そうだ」
透巳の問いに戸惑いながらも答えを出したゆなは遥音の方を指差していて、彼は自己紹介をしていなかったことに気づいた。
自己紹介した遥音に聞き返したゆなに〝お兄ちゃん〟と呼ばれたことで遥音は一瞬硬直するが、すぐに正気を取り戻して肯定する。
「今遥音お兄ちゃんって呼ばれてもだえ……」
「……何だ?最後まで言わないのか?」
「え、だって普段なら途中で殺すぞとか言われるから」
「子供の前でそんなこと言うわけないだろうが馬鹿か?」
「結構酷いこともう言っちゃってるけどね」
明日歌はいつもの慣れで遥音のツッコみを完全に待ってしまっていたが、ゆなの前で物騒なことを言うほど遥音は空気の読めない男では無かった。
遥音は一人っ子なので妹も弟もいない。そんな遥音が〝お兄ちゃん〟と呼ばれることはそうそうないので、嬉しいと感じたのも事実なのだ。
(それに、この少女は親から散々そんな言葉を投げかけられていただろうからな)
遥音は同時に自己嫌悪に襲われたが、今そんな感傷に浸っても何の意味も無いのでその悪い思考を断ち切る。遥音は普段明日歌に鋭い指摘をする際キツイ言い方をするが、それは当然冗談込みのものだ。そんな遥音の言葉と、ゆなが両親から浴びせられたであろう罵声とでは天と地ほどの違いがあるのは、その場にいる全員が理解している。
「ゆな。指名してくれたところ悪いが、俺の父親は警察官だ。俺の家で預かることは出来ない」
「っ……」
「……?」
申し訳なさそうに告げた遥音に、ゆなは何故かどこか焦ったような表情を見せた。驚いたわけでも、悲しそうな訳でも無く。何か自身が犯した失態に気づいた様な、そんな真っ青な表情だった。
警察に知られたくないというゆなの望みを叶えるためには、遥音の自宅は最悪の場所だろう。遥音の父親は警視総監であり、そんな人物にゆなの存在を知られればそれは警察周知の事実となる。
「ならうちはどうですか?両親と暮らしている訳じゃないですし」
「まぁ、妥当かもね」
透巳の提案に明日歌はそう言って賛成の色を示した。学生である明日歌たちは当然家族と一緒に暮らしているので、両親などにゆなのことを上手く説明して泊まらせるのは困難だ。その条件に当て嵌まらないのは透巳宅と鷹雪宅だが、同性の小麦も住んでいる透巳宅の方が適しているだろう。
「服は俺が明日までに用意しておく。ゆなの世話を頼んだぞ」
「はい」
「ぷぷっ、遥音が女児用衣服を選んでる図ってかなり面白いね…………って痛い痛い!物理的な暴力やめて!」
ゆなのぶかぶかの衣服はズタボロなので、キチンとした子供服を用意してやることにした遥音。先刻明日歌に何を言われようが毒は吐かないと決意した遥音だったが、流石に限界だったのか明日歌の脇腹をゆなから見えない角度で思い切り捻ることで反撃に出た。
地味な痛みに大声を上げる明日歌だったが、攻撃している遥音がそれをおくびにも出さず満面の笑みを浮かべているので、傍から見れば明日歌一人が大騒ぎしているだけのようである。
この日明日歌は、調子に乗って遥音をいじり過ぎると痛い目を見ると再学習させられることになったのだ。
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透巳と小麦の住処に到着してすぐ、ゆなは風呂に入ることになる。傷跡も目立ってはいたが、ゆなの身体はあちこち汚れていて、碌に風呂にも入れていないのが明らかだったからだ。
ゆなの世話を一時的に小麦に任せた透巳は、待つ間いつものようにシオと戯れる。透巳はゆなが先刻まで来ていたボロボロの服を手に持っていて、何を思ったかそれをシオの鼻に近づけてみる。するとシオはその強烈的な臭いに顔を逸らし、透巳の手に向かって威嚇し始めた。
「ばっちぃね。こんなもの子供に着させるなんて……親の顔が見てみたい」
透巳はその衣服を丸め、ゴミ箱目掛けてシュートする。バスケットボール選手さながらのシュートは見事にゴールし、ボロボロの衣服はお払い箱となった。
すると小麦たちが風呂から上がり、すっかり綺麗になったゆなが透巳の前に現れた。
ゆなは小麦の服をワンピースのように着ていて、ぼさぼさだった髪は濡れて艶やかになっている。長すぎる前髪はかきあげているので、ようやくその顔がおでこまではっきりと見ることが出来た。
「おや。随分と可愛い子がやって来たね」
「透巳くん、ゆなちゃんにドライヤーしてくれる?」
「うん」
ゆなは零れるほどの大きな瞳、白すぎる肌には上気する頬が良く映えていた。顔にも先刻鷹雪が施した治療の跡があり痛々しかったが、それでもゆなの可愛らしさは拭えない。
透巳にゆなの世話をバトンタッチした小麦は夕食の用意に取り掛かる。一方の透巳はゆなを手招きして、彼女を自分の前に座らせた。ちょこんという効果音が聞こえてきそうな身体の小ささに、透巳は小さく笑みを零す。
「うーん。乾かす前に切っちゃう?」
「え。透巳くん髪切れるの?」
「分からないけど、まぁ切れるでしょ。俺器用だし」
「否定できないから悔しい」
透巳は基本的になんでも器用にこなしてしまうタイプなので、小麦は今すぐに髪を切らせるなら透巳が適任だろうと考えた。
部屋には不規則な包丁の音が聞こえるが、そんな家庭的な効果音でさえもゆなにとっては物珍しいものである。
「ゆなちゃん、髪、切っても良い?」
「うん。えっと……」
「俺は透巳。あの子は小麦」
「すみお兄ちゃん、こむぎお姉ちゃん、よろしくお願いします」
「挨拶できて偉いね」
「……えらい?」
「うん。偉い偉い」
透巳は自身と小麦を指差して紹介すると、素直に頭を下げたゆなを褒めた。褒められた経験が無いのか、ゆなはポカンとした相好で聞き返してきた。そんなゆなに褒められることに慣れて欲しいと感じた透巳は、刷り込むように彼女の小さな頭を撫で始める。
「はるとお兄ちゃんと、同じ……」
「ん?あぁ、そうだね」
今日初めて遥音によって頭を撫でられる温かさを知ったゆなは、本日二度目のその感触に胸を温めた。どこかホッとしている様なゆなを目の当たりにすると、虐待の被害に遭っているなど忘れそうになるが、痛々しい傷痕が現実へと引き戻す。
「それじゃあお客様、可愛く切って行きますね」
********
「はい。完成」
「わぁ……」
ドライヤーの電源を切った透巳はゆなに鏡を見せてやった。透巳によって生まれ変わったゆなの髪は元々の半分ほどの長さになり、前髪もキチンと目が窺えるほど短くなっていた。
初めて見るぼさぼさの髪型ではない自分に、ゆなは目を輝かせて鏡に釘付けである。
「そういえば、どうして遥音先輩のところが良かったの?」
「……一番、優しそうだったから」
「流石……子供はよく見てるね」
ゆなが告げた理由は透巳にとって同調せざるを得ないもので、それを一瞬で見抜いたゆなに感嘆の声を上げた。
明日歌たちが優しくないというわけでは無いが、あの面子の中で何だかんだ最も優しいのは遥音だろう。遥音なら例え悪人であっても叱責しながら面倒を見るのが容易に想像出来てしまう。そういった空気感をゆなは感じ取ったのだろう。
********
次の日。F組の教室にゆなを連れて行った透巳は、ゆなの代わりに多目的室の扉を開いた。F組生徒たちは既に登校していて、遥音の手には子供服店の紙袋がぶら下がっていた。
髪を切ったゆなに各々好意的な反応を示していたが、誰よりも驚いていたのは明日歌と兼だ。だがそれはゆなの可愛らしさに衝撃を受けたようではなく、別の何かに気づいて茫然としているようだった。
遥音が買ってきた衣服に着替えるため、明日歌以外の全員は一旦多目的室から退出する。明日歌の呼びかけでゆなが着替え終えたことを知った透巳たちは、再び教室へと踵を返す。
「どーよ!」
「何故お前がどや顔なのか理解に苦しむが可愛いな」
「普通に褒められない病気にでもかかってんの?」
得意気な相好でゆなを指し示した明日歌に導かれて、透巳たちはゆなの変貌ぶりを目の当たりにした。
ゆなは白と茶色を基調としたワンピースを着ていて、所々フリルが施されている部分がとても愛らしい。靴もワンピースに合った落ち着いた印象のもので、見た目だけで高級なのだろうと予想できる。
遥音に可愛いと褒められたことが嬉しかったのか、ゆなはほんの少し笑みを浮かべてどこかもじもじと体をくねらせている。
これがゆなと出会ってから窺えた初めての笑顔だったので、遥音は服を買ってよかったと心底思った。
「遥音の癖にセンスいいのムカつく」
「センスが良いつもりは無いが、お前に任せるよりはマシだろうな」
「……はるとお兄ちゃん、ありがとうございます」
「気にするな」
服を買ってくれた遥音にペコリと頭を下げたゆな。そんな素直なゆなを目の当たりにした遥音は破顔すると、その頭を優しく撫でる。
「こんなに可愛い服、初めて……本当に貰っていいの?」
「あぁ」
「遥音はこう見えてお金持ちなのだよ。だからぜーんぜん、気にする必要ないからねぇ」
「何故お前がそれを言うんだ」
遥音が裕福なのは事実だが、何故それを本人ではなく明日歌が明言するのかとツッコみを入れる。
明日歌たちがゆなと会話している間に、遥音は昨日と同じように透巳を手招きして呼ぶ。教室の隅で固まる二人に巧実たちは首を傾げたが、遥音が何かおかしなことをするわけも無いので、すぐに興味を失ったように視線を戻す。
「神坂、成川刑事には伝えたのか?」
「はい。調べるだけ調べると言っていました。ただ、ゆなちゃんの意思を尊重して両親を特定してもすぐ逮捕したりはしないとも言ってました。兄ちゃんのことなので、他の刑事に他言したりもしないはずです」
「そうか。面倒をかけてすまないと伝えておいてくれ」
「これぐらい平気ですよ。刑事なんですから働かせないと」
慧馬が希望通りに動いてくれていることを知った遥音はほっと一安心すると、透巳に伝言を頼んだ。だが慧馬からしてみれば警視総監のご子息直々の頼みであり、何より幼気な少女のためなのだから文句など最初からないのだ。
そんな会話をしていた二人を兼は後目で見ていて、そのことに気づいたのは透巳ただ一人だった。
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透巳たちがゆなのことで色々と手を回している頃、全く別のところでは未だに解決していないあの件が動こうとしていた。
ただの落ち葉を掃いていた季節とは様変わりして、今では紅葉や銀杏が地面を敷き詰めている神社はまるで世界そのものが変わったようだ。
だがそこにいるささだけはいつも変わらず。巫女服を着て、竹箒片手に優しく笑みを浮かべている。何時でも、何があってもそこにいるささは、きっと何十年経っても変わらないのではないかと思えるほどだ。
だからこそ青ノ宮薔弥という人間はこの存在が心底苦手で、いつでも自分に笑顔を向けてくる存在感に恐怖を覚えている。
「あ。薔弥さん、こんにちは」
「はぁ。俺、ドMなのかもしれへんな」
「ん?何のことです?」
だがそんな薔弥の心情など知る由も無いささはキョトンとした相好で首を傾げている。実は薔弥が退院して以来初めて会ったので、ささは内心嬉しさ半分驚き半分なのだ。
「ささ。自分暇やろ?」
「いきなり失礼ですね。見ての通り巫女のお仕事で忙しいんですが」
「せやったらバイトでも雇い。木藤友里探すで」
「え。私とですか?」
「自分以外誰がおるねん」
薔弥の失礼な物言いにささはムスッと顔を顰めたが、唐突に告げられた提案のせいで茫然自失としてしまう。薔弥が友里に興味を持っているのは分かっていたので、彼女を探すこと自体は自然な流れだが、それにささを同行させるのは少々意外だったのだ。
ささは薔弥が自身を苦手としているのを理解しているので、普通に考えれば彼の行動は謎だろう。
「……あぁ、なるほど。そういうことですか」
「理解が早くて助かるんやが、その何でもお見通しみたいな顔が癪に障るねん」
「わがままですね」
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それを踏まえたうえで友里を探すとなると、ささを同行させた方が見つけやすいかもしれないという僅かな望みに薔弥は賭けているのだ。
そんな薔弥の思惑を見抜いたささだったが、これこそが薔弥が彼女を苦手とする理由の一つなので、思わず薔弥の顔が歪んでしまう。
「おい、薔弥!ささに何してやがんだ!?」
「…………めんどいおまけがついてきよったなぁ」
ささが薔弥に苦笑いを浮かべていると、その大声が二人の鼓膜を突き破った。その声の主を視界に捉えた薔弥はため息をつくと、自身の弟の執念っぷりに最早関心すら覚えるのだった。
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全ての始まりは、彼が若き頃につるんでいた不良グループのメンバーが、変死体で見つかるという事件が起きたことだった。
特に殺害されたメンバーの第一発見者となった坂田は、その普段からの素行のせいで、警察や仲間内から犯人ではないかと疑いをかけられ、確証もないままに仲間内から制裁を受けることになってしまう。
そこに身を挺して助けに入ったのが、以前よりの悪友である楠野鐘(くすのしょう)だった。
坂田と楠野は、かつての仲間達をかわしつつ、坂田の身の潔白を証明するために犯人を探し始める。
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