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乱 江梨

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第三章 穢れた愛、それでも遺したもの

穢れた愛、それでも遺したもの13

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「言い訳を聞こうか?」
「……お願い。どいて……透巳くん」
「駄目。どいたら逃げるでしょ?」


 無意味だと分かっていても、小麦は抗おうとしてしまう。他の誰のためでもなく透巳のために。だが透巳にも譲れないものがあり、両者の思いが今ぶつかり合っているのだ。

 体裁を取り繕うことをやめた小麦は泣きそうな相好で俯いてしまっている。


「はぁ……小麦。俺は今とても怒っています。さて何故でしょう」
「……?」


 透巳が怒り心頭なのは分かっていた。透巳の顔を見れば一目瞭然だったからだ。だが突然問題を投げかけてきた透巳に小麦は当惑してしまい、ポカンとした表情になってしまう。


「一、小麦が嘘をついたから。二、小麦が嘘でも別れようなんて言ったから。三……小麦が俺の幸せを勝手に決めつけたから…………答えは全部だよ、小麦」
「っ……」


 三つ目の選択肢を聞いた時、小麦は気づいた。一つはやはり透巳が小麦に起きた出来事を把握しているということ。
 そしてもう一つは自分が透巳のことを傷つけてしまったのだということだ。

 小麦は透巳のためにと思って行動を起こした。だがそれは小麦の自己満足でしかなく、透巳からすれば嬉しいどころか絶望の淵に立たされるようなものだったのだ。
 その事実に気づいた途端、小麦の目から涙が零れ落ちる。透巳に対する申し訳なさと、こんな自分をまだ受け入れてくれる透巳への感謝の気持ちが溢れ出て止まらなかった。


「俺は小麦がいないと幸せになれないんだよ。分かった?」
「っ……ごめんなさいっ……」
「うん……よしよし」


 この日初めて優しく微笑んだ透巳の声で、小麦の涙腺は崩壊してしまう。顔を真っ赤にしながら震える声で謝罪した小麦を、透巳は優しく抱きしめて背中を撫でた。

 透巳にとっての幸せは一生小麦と仲睦まじく暮らすことだ。その人生には家族や友人も欠かせない。もしそれが失われて生きるぐらいなら死んだ方がマシなのだ。そのことを小麦はきちんと理解できていなかった。
 だからこそ透巳の幸せを自分の中で結論付けて、勝手に離れようとしたのだ。


「――ごめんね。別れないと透巳くんを殺すって、脅されて……」
「まぁそんなとこだろうとは思ったけど。俺そんな簡単に殺されたりしないよ?」
「でも……不意打ちとか、透巳くんよりずっと強い人が相手だったら、分からないから……」


 小麦の語った経緯は実に予想通りで透巳は大して驚くことも無かったが、一方で少々不満だった。小麦がその脅しで別れを切り出したということは、透巳がどこの誰とも知らない相手に簡単に殺されてしまうと思ったからだ。それが透巳は不満で少々拗ねた様な相好になっている。

 もちろん小麦も透巳が簡単に殺されるような男では無いことを理解している。だが透巳は格闘技を本気で習得しているわけでは無い。小学生の頃空手を習ってはいたが、中学の時には既にやめていて今はほぼ我流である。そんな透巳が本気で格闘技を身に着けている相手に勝てるわけも無いので、小麦は心配したのだ。


「それはそうだけど……はぁ……でも今回は俺の落ち度だな。アイツが小麦を利用しようとするとか、考えればすぐに分かることだったのに」


 透巳は自分自身に失望した。少し前の――小麦と出会う前の透巳であればこんなミスは犯さなかっただろう。常に頭を働かせ、常に冷静に、常に相手の心理を読んで先を読む。そこに自分の感情や他人の思いなどへの配慮は無く、透巳は常に冷徹だった。

 だが小麦と出会って透巳は変わった。悪い言い方をすれば平和ボケしてしまったのだ。もちろん小麦と出会ってからの自分を透巳は嫌ってなどいない。だがそれによって小麦の危機に駆け付けられなかったことも事実で、透巳は自身の力不足を嘆くほかない。


「ほんっとうに……小麦にこんなことさせたアイツと、それを許した俺に対する怒りでどうにかなりそう……」


 透巳は小麦の肩に顔を埋めると弱々しい声で呟いた。透巳は小麦が嘘をついたことに対して怒っていると言っていたが、正確には違う。透巳は小麦にそんなことをさせてしまった自分自身に怒りを向けていたのだ。

 
「透巳くんのせいじゃ……んっ……」


 透巳の責任では無いと小麦は切に伝えようとしたが、透巳によって遮られてしまう。透巳は普段よりも衝動的に小麦の唇を奪い取り、彼女にそれ以上喋らせることを許してはくれなかった。
 それだけ透巳には余裕が無かったのだ。一瞬でも小麦が離れていく未来を想像し、生きた心地がしなかった。

 激しく透巳に求められる感覚に、小麦は息も出来ないほど顔を熱くする。透巳から伝わってくる体温の温かさに小麦は無性に泣きたくなってしまい、その感情を殺すことなく涙を零した。

 すると透巳は小麦を横抱きにして、そのままベッドの上に寝かせた。突然の出来事に小麦は目を回すが、上から見下ろしてきた透巳の表情で一気に鳥肌を立たせる。


「さてと。今回は俺も反省しなきゃだけど、小麦が俺に嘘をついた点に関してはやっぱり思うところがあるんだよね。アイツの口車に乗るんじゃなくて、キチンと俺に相談してほしかったかな」
「え、えっと……透巳くん?」
「というわけで。お仕置きタイムといきます」


 小麦の嫌な予感は的中してしまう。困惑気味の小麦に向けられた透巳の笑顔は憤慨している時のものでも、小麦を安心させる優しいものでもなく、悪戯を仕掛ける子供のものだったからだ。

 完全にSのスイッチが入ってしまった透巳に小麦は苦笑いを浮かべることしか出来ない。だがお仕置きなんて物騒な言葉を聞いても小麦が苦笑いを浮かべることが出来るのは、透巳が小麦に酷いことをするわけが無いと信用しているからだ。

 少しずつ、梓紗の呪縛から解放されていることを自覚した小麦は、感慨深い気持ちになったのだった。

 ********

 次の日の早朝。朝日に照らされた小麦の寝顔を神妙な面持ちで見つめる透巳は、彼女の頬をそっと撫でた。すると小麦は無意識のうちに透巳の右手に擦り寄り、若干顔を綻ばせる。

 浮かない表情で小麦の頬を撫で続ける透巳の背中を不思議そうに眺めているシオは、自身の頭を彼の腰に擦りつけて気を引こうとする。すると透巳はシオの方を振り返り、困ったような笑みを浮かべた。


「シオ……もしかして慰めてくれてる?」
「にゃ……?」
「……俺は幸せ者だなぁ」


 透巳はシオを抱き上げてベッドから降りると、シオの餌の用意を始める。無邪気にキャットフードを食べ進めるシオの姿を、頬杖をつきながら眺める透巳はしみじみと呟いた。
 シオが餌を食べ終える前に支度を整えた透巳は、まだ眠っている小麦に書き置きを用意する。

 そしてシオが餌を食べ終えしばらくすると、透巳は自宅を後にした。

 ********

 警視庁を訪れた透巳はぼぉっとしながらも頭を働かせていた。犯人逮捕のことではない。犯人と小麦を接触させてしまったことについて、透巳は考えていたのだ。についても。

 正直なところ首謀者を捕まるのは簡単なことだった。小麦が犯人に会っているので、彼女の証言と透巳の持つカードを掛け合わせれば令状を取ることが出来るはずだからだ。その後犯人の自宅を調べることが出来ればそれなりの証拠も出てくるだろう。


「透巳。眠いのか?」
「ううん……ただ、俺弱くなったなぁって……」
「は?なんだそれ?」


 慧馬の机を占領して突っ伏している透巳を心配した慧馬は、彼の答えに思わず首を傾げる。透巳は昨日の出来事を知らない慧馬に事情を説明した。
 小麦が犯人に脅迫されたこと。そしてそれを透巳が未然に防げなかったことを。


「前の俺ならこんなミス犯さなかった」
「まぁ、そうだろうな」


 昔から透巳のことを知っている慧馬は励ましで否定したりはしなかった。透巳の言う様に、昔の彼なら完璧に事を進めただろうことは簡単に想像出来たからだ。


「でも俺は今のお前の方が好きだぞ?」
「そうなの?」
「あぁ。だって小麦ちゃんに会う前のお前って、孤高のオオカミみたいだったからな」
「だっさ。何それもしかして馬鹿にしてる?」
「何でだよ!?孤高ってカッコいいじゃねぇか!」
「センス疑うよ」
「じゃあもうクソガキでいいな」


 かつての透巳の形容が気に入らなかったのか、彼は思い切り顔を歪めた。だが慧馬としては気を遣った上での形容だったので、秒で侮辱されたことに腹を立ててしまう。


「はぁ……とにかくお前は、昔から近寄りがたいオーラ出まくりだったんだよ」
「そう?」
「自覚無しかよ。たちわりぃ……逆に聞くが、お前小麦ちゃんに会う前まで友人いたか?」
「いないね。不必要だったから」
「そういうとこだよ」


 慧馬は透巳のことを赤ん坊の頃から知っている。そんな慧馬の透巳に対する印象はこれまでで三段階に分けられる。まず第一印象は〝天使〟である。赤ん坊の頃の透巳はそれは大層可愛く、当に目に入れても痛くないような存在だったのだ。元々容姿の整っている透巳なので、それの赤ん坊となると可愛いのは当然だ。

 だがそれも透巳が知恵をつけ始めた段階で崩壊してしまう。透巳は頭が良かったので、幼稚園児の頃から随分と大人びたことを言う子供だったのだ。それが背伸びしたものならまだ可愛げもあったのだが、透巳の場合は本当にそれが素だったため、慧馬はその時点から彼のことを可愛いとは思えなくなっていた。
 それに加え、透巳はたまに毒を吐くこともあったので、年上の慧馬からすればここまで可愛くない子供も珍しかっただろう。

 そんな性格だったので、透巳は小麦と出会うまで友人というものがいなかった。透巳にとって大事な人間というのが家族だけだったからだ。因みに透巳の認識下での家族は血の繋がりなどでは無く、彼の思いによって左右される。
 なので幼馴染の慧馬も友人ではなく家族という認識で、透巳は慧馬のことを兄と呼ぶのだ。


「でも青ノ宮学園の子たちは友達なんだろう?不必要だなんて思ってないだろうし」
「あぁ……そう改めて言われるとそうだね。明日歌先輩たちは、大切な友達かも」
「お前の口からそんなことを聞けるなんてな……小麦ちゃんのおかげだな」
「そう、だね」


 慧馬の言葉で透巳は自身の本来の変化にようやく気付いた。透巳は弱くなったわけでは無く、良い方向に進んでいるだけなのだ。改めて考えると、以前の透巳は家族以外の存在を完全に認識からシャットアウトしていた。今でも透巳は他人に興味は無いが、関わりを持って興味を抱けば相手を尊重しているのだ。
 だが小麦に出会う前の透巳であれば、明日歌たちのような存在にも一生興味を抱かなかっただろう。それこそ、小麦のように透巳の興味を引く何かが無い限り。小麦の場合そのきっかけがあったからこそ透巳は彼女に好意を向けたが、それからの透巳の人間関係は小麦との出会いが起因しているのだ。


「それに。お前先読みしすぎで怖いんだよ。少しぐらい弱くなりやがれ」
「うーん……あ。兄ちゃん、令状って取れそう?」
「あぁ。心配すんな。正直お前のと小麦ちゃんの証言で逮捕は出来ると思うぞ」


 透巳と対話する時ほど心を読める能力が欲しいと思う瞬間は無いと慧馬は思っている。それ程透巳の目に映っているものがどれほど遠くまで伸びているのかは計り知れないのだ。
 そんな慧馬の願いを右から左に流した透巳は、事件の首謀者と思われる人物の逮捕令状について尋ねた。慧馬からの返事は透巳を安堵させるには十分に役目を果たしてくれる。


「にしてもおっかねぇよなぁ」
「何が?」
「いや素っ惚けんなよ。お前絶対俺以外の刑事にするんじゃねぇぞ?犯罪だからな犯罪」
「はいはい」


 小声で苦言を呈した慧馬だったが、透巳はまともに聞いておらず彼の神経を逆撫でしてしまう。それが透巳という人間なので慧馬は最早諦めているのだが、今回ばかりは顔を顰めざるを得なかった。

 透巳を標的にした犯人を愚かと言わざるを得なかったが、同時に神坂透巳という人間を敵に回してしまった犯人に慧馬は心底同情するのだった。


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