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第三章 穢れた愛、それでも遺したもの
穢れた愛、それでも遺したもの5
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生徒たちが安らげるはずの保健室に不穏な空気が流れる。梓紗は終始笑顔、透巳は無表情でとてもそんな雰囲気には見えないが、二人に挟まれている小麦からすれば睨み合っているのと大差ないものだ。
「……でももう用済んだし、俺たち授業に戻るけど。アンタも戻れば?」
「…………そう。あぁ……そうね。それがいいわ」
代わりに小麦についておくと提案してきた梓紗をバッサリと否定した透巳。それによって梓紗は一瞬固まったが、何故か反論することもなくすぐに受け入れた。
あまりにも聞き分けがいい梓紗を透巳たちは怪訝に感じるが、ここで小麦と梓紗を二人きりにする方が憚れるので選択肢は限られてしまう。
「じゃ。そういうことで」
「じゃ、じゃあね。梓紗」
「うん」
先に退出した透巳に続いて小麦も後目で梓紗を捉えつつ、おずおずと保健室を後にする。小麦の目に映った梓紗は怒っているようでも、笑っている訳でもなく、ただただ小麦たちの背中を見つめるばかりだ。逆に小麦にはそれが不気味に見え、梓紗が一体何を企んでいるのか全く見当がつかなかった。
********
教室へと向かう道すがら。廊下を静かに歩く二人の間には、目に見えるより広い距離がある。先刻のことで何と切り出せばいいのか分からず、沈黙が続いているからだ。
「湿布、わざと汚く貼っておいたから」
「へっ……?」
「自分で貼ったって言っても怪しくないよ」
透巳の説明で漸く意味を理解した小麦は、驚きと感嘆で目を見開いた。小麦は帰宅したとき必ず保健室でのことを問いただされる。その時もし透巳が彼女の素肌を見たということを知られれば、小麦がどんな目に遭わされるか分かったものではない。
だから透巳は例え梓紗に背中の湿布を見られても、自分で貼ったと小麦が言い訳できるように前準備を施したのだ。
あの時そこまで考えて行動していたという事実が衝撃的で、小麦は思わずポカンした表情を露わにしてしまう。
「何その顔。変顔?もしかして笑わせようとしてくれてる?」
「ち、違うよ。ちょっと……いやかなりびっくりしただけ」
「そ」
本気でそんなことを尋ねてきた透巳に、小麦はほんの少し頬を膨らませて否定する。すぐに興味を失ったように正面を向き直した透巳が、ほんの少し天然なのかもしれないと小麦が感じた初めての瞬間である。
この時の小麦は透巳に気を取られているせいで知る由も無かった。そう遠くない内に、自身に訪れてしまう最悪の事態を。
********
その日の放課後。小麦は逸早く違和感を覚えた。学校のある日はほとんど放課後に訪れる生徒会室に向かわず、授業が終わるとすぐに梓紗は小麦を連れて下校し始めたのだ。
それだけではない。普段なら必ず手を繋ぐというのに、今日は下校中手も繋がず会話さえ全くしなかったのだ。道に響くのは微かな風と二人の足音のみ。
終始涼やかな相好の梓紗は今までに見たことが無く、小麦は未知の出来事に不安を抱く。
すると梓紗は何故か途中から家への道とは別の方向に向かい、小麦は当惑しつつも彼女のあとを追った。
「あ、梓紗。どこ行くの?そっち、家じゃないよね?」
「……」
いくら問いただしても梓紗は一向に答えてくれず、小麦はだんだんと嫌な予感を覚える。のこのこと梓紗についていったのは間違いでは無いのか。今すぐ走り出して逃げた方が良いのではないか。
そんな不安と疑問が頭を過ぎったが、小麦はそれを実行できる程の強さを持ち合わせてはいなかった。これが長年梓紗という絶対的な存在に支配され続け、恐怖を植え付けられてきたことの末路である。
梓紗に連れられてきたのはトランクルームが大量に設置されている場所で、思わず立ち止まった小麦の腕を梓紗は引っ張る。梓紗は小麦を〝三四〟と表記されたトランクルームの前まで連れて行くと、ポケットから取り出した鍵で扉を開けた。
扉が開いてトランクルームの中が窺えそうになった瞬間、梓紗は小麦を突き飛ばしてその中へ倒れこませた。
「やっ…………梓紗?」
トランクルームの床に倒れる形で座り込んだ小麦は、震える瞳と声で梓紗を捉える。梓紗の瞳に光は無く、まるで全てを諦めたようなそんな表情だった。
「やっぱりむぎを独り占めするにはこうするのが一番いい方法だと思うの」
「えっ……」
「大丈夫よ。毎日毎日会いに来て、いつも通り愛してあげるから」
そう告げた梓紗は扉を閉め、その鍵をかけてしまった。小麦は鍵を閉められる前に出ようと駆けだしたが時すでに遅く、トランクルームの扉はピクリとも反応してくれなかった。
今の状況と、これからの自分の未来を把握してしまった小麦は目を見開き、呆然としたまま膝から崩れ落ちる。
恐らくだが、梓紗にとっての限界が今日訪れてしまったのだろう。透巳との出会いで自分と小麦の関係を壊す可能性のある存在が外にはいくらでもいるということを思い知り、それならば小麦を外の世界には決して出さないことが一番の安全策であると思い至ってしまったのだ。
梓紗の考えをここまで理解できたのなら、小麦のこれからの人生は自ずと見えてくる。梓紗は慎重な女だ。これが最善であると彼女が判断したのなら、小麦をここから出すことは死ぬまでないだろう。つまり小麦は一生この狭い空間で暮らし、梓紗に支配され続けなければならないということだ。
あまりにもな絶望に、小麦は助けを呼ぶ声も涙でさえも出てこなかった。鞄は梓紗に取り上げられ、携帯もそこに入っていたので警察に連絡することも出来ない。
「……ははっ……馬鹿みたい」
下を向いた小麦は自分の愚かさに自嘲を零す。もっと早く誰かに助けを求めていればこんなことにはならなかったかもしれない。逆に梓紗の望む自分を完璧に演じられていれば、ここまで縛られることも無かったかもしれない。
こんなものはたらればでしか無いが、今の小麦に出来るのは過去に対する後悔だけだ。
数分か数十分か、時計を持ち合わせていない小麦には分からないがそれ程の時間が経った時、小麦はトランクルームの中を見回した。
暗いトランクルーム内を傍にあった懐中電灯の明かりを頼りに探ると、そこには衣服や食料が大量にあり、小麦がここで生活するのに困らない様な準備が整われていた。つまりこれが突発的に起きたものではなく、梓紗がいつかのために計画的に用意していたものだということは一目瞭然である。
トランクルームの中に何か脱出に使える道具が無いか探そうと立ち上がった時、小麦はとある違和感に襲われる。
小麦は普段ポケットに何かを入れたりしない。昔よく物を落としたからだ。それは当然梓紗も知っていて、だからこそ彼女は衣服は確認せずに鞄だけを回収した。
にも拘らず立ち上がったその時、小麦は制服のスカートの右ポケットに僅かな重みを感じたのだ。
「これ……」
右ポケットに入っていたのはスマートフォンで、だが小麦のものではない見覚えさえ無いものだった。取り敢えず開けられるか試すことにした小麦はスマホの電源を入れてみた。このスマホは指紋認証やパスコードが設定されていなかったようで、小麦でも簡単に開くことが出来た。
スマホの中を調べて持ち主を探ろうとした小麦は思わず目を見開く。そのスマホの持ち主が透巳であることが分かったからだ。
どうして透巳のスマートフォンがポケットの中に入っているのか。そんな疑問を抱えながら、小麦は電話アプリを開いて連絡先を確認する。
連絡先の中には〝自宅〟という項目があり、小麦は藁にも縋る思いでそれに触れた。
片耳に鳴り響くコール音がここまで心をざわつかせるものだなんて、小麦は思いもしなかった。藁にも縋ると言っても、ここまで上質な藁は無いだろう。
『もしもし』
「……神坂、くん」
『あ、気づいた?教室戻るときこっそり入れておいたんだよね」
耳元で透巳の声を聞いた途端、小麦はようやく一筋の涙を流した。今までの不安、恐怖、そして透巳の声を聞いたことによる歓喜、安堵。この涙を一言で表すことなどできない。
この事態を予想していたのか、透巳は梓紗の目が無くなった保健室から教室への道すがらでスマホを小麦の制服に忍ばせていたようだ。
『かけて来たってことは、何かあった?』
「……と、閉じ込められたの」
『ふーん』
「ふーんって……」
小麦の告白にも大した動揺を見せないどころか、興味なさ気に返した透巳のせいで拍子抜けしてしまう。
『それで、俺にどうして欲しいわけ?』
「えっ……」
『俺お人好しじゃないし、頼まれてもいないのにわざわざそっちの要求察して行動とか真っ平ごめんなんだけど』
小麦は透巳の言っている意味がよく分からなかった。同時に、自分がどうして欲しいのか分からないまま電話をかけてしまっていることに気づく。
小麦は黙って、自分がどうなりたいのか考えてみた。幸い透巳は小麦にその時間を与えてくれ、彼女を邪魔するような発言は一切しなかった。
小麦の望みはここから出て、梓紗から永遠に解放されること。だがそんなことは不可能だと、小麦は随分と前に諦めてしまっていた。だがそれは小麦が一人で何とかしようとしか考えてこなかったからである。
小麦はこれまで誰かに頼ろうとしなかった。だがもし透巳に救いを求めれば、何かが変わるのだろうかと小麦は思い立つ。
小麦が透巳に抱いていたのは期待だとかそんな大それたものでは無かった。ただ小麦は――。
「……たす、けて」
透巳に救ってほしかったのだ。
『……よく言えました』
その言葉を待っていたと言わんばかりに、電話越しに微笑んだ透巳は満足気な声を出す。
透巳のその言葉で滂沱の涙を流した小麦。嗚咽をもらしながらも彼女は、透巳が自分のために厳しいことを言ってくれたのではないかと朧気に思った。希望なんてないと最初から諦めていた小麦は自分から何かを求めたことがほとんどなかった。自分の意思で、何かをしようとしたことさえなかった。
だからこそ透巳は小麦自身に望みを言わせようとした。そうで無ければ、小麦はいつまで経っても変われない様な気がしたからだ。
『それで。今どこにいるの?』
「学校の近くのトランクルーム……三四番の」
『分かった』
小麦の意思を確認した透巳は早速目的地に向かう準備をする。家のパソコンで該当する場所を調べた透巳は、その地図を記憶する。
『あ、そうだ。俺が来る前に発信器外しておいた方がいいよ」
「……なにそれ?」
『何って、あの女が君につけてるやつ』
唐突に透巳から知らされた衝撃的な事実に小麦は顔を真っ青にしてしまう。まさか梓紗が自分に発信器を忍ばせていたとは思いもせず、加えて透巳があっさりとそれを見抜いてしまったことにも驚愕したのだ。
「ど、どこに?」
『制服の襟の裏。微妙に膨らんでたからそうかなぁって。だから保健室に来れたんでしょ』
「…………ほんとにあった」
透巳は小麦の背中に湿布を貼る際、彼女の制服の襟の僅かな膨らみに違和感を覚えていた。だがそこに梓紗が突如現れたことで透巳の疑問は解消されたのだ。
言われるがまま首元に手を持っていった小麦は、覚えのない硬い感触に鳥肌を立たせる。
『壊さないで、トランクルームのどこかに置いといて。そうすれば出ても気づかれないから』
「分かった」
透巳の指示に素直に従った小麦はそっと発信器を床に置いた。すると電話はいつの間にか切れていて、小麦は透巳が来るまでの間心細い思いを抱えることになる。透巳は自宅の固定電話で話していたので仕方が無いのだが、透巳の飄々とした声にはどこか安心できるような力があったのだ。
どんな危機的状況に陥っていてもその声を聞いただけで、何とかなってしまうかもしれないと思えるような、そんな曖昧で確信的な力だ。
それが無くなった今、小麦は一人という漠然とした不安を抱えているが、透巳のことを信じていればその不安も脅威的なものではない。
数十分経った時、小麦は微かな足音を耳にして思わず立ち上がる。透巳が到着したのだと安堵したのも束の間、鍵穴からカチャカチャという音がし、小麦は思わず首を傾げる。
この状況のせいで小麦はまともな思考が働いていなかったので、本来なら鍵を持たない透巳がここから小麦を救うのは無理という当たり前の事実に漸く気付く。
だがどう考えても鍵を開けようとする音がするので、透巳に何らかの手立てがあるのも明らかだった。
その手立ての正体を掴むことの出来ぬまま、その時はやって来た。
ガチャリ――。
小麦の運命を一八〇度変えることになる、始まりの音がした。
「……でももう用済んだし、俺たち授業に戻るけど。アンタも戻れば?」
「…………そう。あぁ……そうね。それがいいわ」
代わりに小麦についておくと提案してきた梓紗をバッサリと否定した透巳。それによって梓紗は一瞬固まったが、何故か反論することもなくすぐに受け入れた。
あまりにも聞き分けがいい梓紗を透巳たちは怪訝に感じるが、ここで小麦と梓紗を二人きりにする方が憚れるので選択肢は限られてしまう。
「じゃ。そういうことで」
「じゃ、じゃあね。梓紗」
「うん」
先に退出した透巳に続いて小麦も後目で梓紗を捉えつつ、おずおずと保健室を後にする。小麦の目に映った梓紗は怒っているようでも、笑っている訳でもなく、ただただ小麦たちの背中を見つめるばかりだ。逆に小麦にはそれが不気味に見え、梓紗が一体何を企んでいるのか全く見当がつかなかった。
********
教室へと向かう道すがら。廊下を静かに歩く二人の間には、目に見えるより広い距離がある。先刻のことで何と切り出せばいいのか分からず、沈黙が続いているからだ。
「湿布、わざと汚く貼っておいたから」
「へっ……?」
「自分で貼ったって言っても怪しくないよ」
透巳の説明で漸く意味を理解した小麦は、驚きと感嘆で目を見開いた。小麦は帰宅したとき必ず保健室でのことを問いただされる。その時もし透巳が彼女の素肌を見たということを知られれば、小麦がどんな目に遭わされるか分かったものではない。
だから透巳は例え梓紗に背中の湿布を見られても、自分で貼ったと小麦が言い訳できるように前準備を施したのだ。
あの時そこまで考えて行動していたという事実が衝撃的で、小麦は思わずポカンした表情を露わにしてしまう。
「何その顔。変顔?もしかして笑わせようとしてくれてる?」
「ち、違うよ。ちょっと……いやかなりびっくりしただけ」
「そ」
本気でそんなことを尋ねてきた透巳に、小麦はほんの少し頬を膨らませて否定する。すぐに興味を失ったように正面を向き直した透巳が、ほんの少し天然なのかもしれないと小麦が感じた初めての瞬間である。
この時の小麦は透巳に気を取られているせいで知る由も無かった。そう遠くない内に、自身に訪れてしまう最悪の事態を。
********
その日の放課後。小麦は逸早く違和感を覚えた。学校のある日はほとんど放課後に訪れる生徒会室に向かわず、授業が終わるとすぐに梓紗は小麦を連れて下校し始めたのだ。
それだけではない。普段なら必ず手を繋ぐというのに、今日は下校中手も繋がず会話さえ全くしなかったのだ。道に響くのは微かな風と二人の足音のみ。
終始涼やかな相好の梓紗は今までに見たことが無く、小麦は未知の出来事に不安を抱く。
すると梓紗は何故か途中から家への道とは別の方向に向かい、小麦は当惑しつつも彼女のあとを追った。
「あ、梓紗。どこ行くの?そっち、家じゃないよね?」
「……」
いくら問いただしても梓紗は一向に答えてくれず、小麦はだんだんと嫌な予感を覚える。のこのこと梓紗についていったのは間違いでは無いのか。今すぐ走り出して逃げた方が良いのではないか。
そんな不安と疑問が頭を過ぎったが、小麦はそれを実行できる程の強さを持ち合わせてはいなかった。これが長年梓紗という絶対的な存在に支配され続け、恐怖を植え付けられてきたことの末路である。
梓紗に連れられてきたのはトランクルームが大量に設置されている場所で、思わず立ち止まった小麦の腕を梓紗は引っ張る。梓紗は小麦を〝三四〟と表記されたトランクルームの前まで連れて行くと、ポケットから取り出した鍵で扉を開けた。
扉が開いてトランクルームの中が窺えそうになった瞬間、梓紗は小麦を突き飛ばしてその中へ倒れこませた。
「やっ…………梓紗?」
トランクルームの床に倒れる形で座り込んだ小麦は、震える瞳と声で梓紗を捉える。梓紗の瞳に光は無く、まるで全てを諦めたようなそんな表情だった。
「やっぱりむぎを独り占めするにはこうするのが一番いい方法だと思うの」
「えっ……」
「大丈夫よ。毎日毎日会いに来て、いつも通り愛してあげるから」
そう告げた梓紗は扉を閉め、その鍵をかけてしまった。小麦は鍵を閉められる前に出ようと駆けだしたが時すでに遅く、トランクルームの扉はピクリとも反応してくれなかった。
今の状況と、これからの自分の未来を把握してしまった小麦は目を見開き、呆然としたまま膝から崩れ落ちる。
恐らくだが、梓紗にとっての限界が今日訪れてしまったのだろう。透巳との出会いで自分と小麦の関係を壊す可能性のある存在が外にはいくらでもいるということを思い知り、それならば小麦を外の世界には決して出さないことが一番の安全策であると思い至ってしまったのだ。
梓紗の考えをここまで理解できたのなら、小麦のこれからの人生は自ずと見えてくる。梓紗は慎重な女だ。これが最善であると彼女が判断したのなら、小麦をここから出すことは死ぬまでないだろう。つまり小麦は一生この狭い空間で暮らし、梓紗に支配され続けなければならないということだ。
あまりにもな絶望に、小麦は助けを呼ぶ声も涙でさえも出てこなかった。鞄は梓紗に取り上げられ、携帯もそこに入っていたので警察に連絡することも出来ない。
「……ははっ……馬鹿みたい」
下を向いた小麦は自分の愚かさに自嘲を零す。もっと早く誰かに助けを求めていればこんなことにはならなかったかもしれない。逆に梓紗の望む自分を完璧に演じられていれば、ここまで縛られることも無かったかもしれない。
こんなものはたらればでしか無いが、今の小麦に出来るのは過去に対する後悔だけだ。
数分か数十分か、時計を持ち合わせていない小麦には分からないがそれ程の時間が経った時、小麦はトランクルームの中を見回した。
暗いトランクルーム内を傍にあった懐中電灯の明かりを頼りに探ると、そこには衣服や食料が大量にあり、小麦がここで生活するのに困らない様な準備が整われていた。つまりこれが突発的に起きたものではなく、梓紗がいつかのために計画的に用意していたものだということは一目瞭然である。
トランクルームの中に何か脱出に使える道具が無いか探そうと立ち上がった時、小麦はとある違和感に襲われる。
小麦は普段ポケットに何かを入れたりしない。昔よく物を落としたからだ。それは当然梓紗も知っていて、だからこそ彼女は衣服は確認せずに鞄だけを回収した。
にも拘らず立ち上がったその時、小麦は制服のスカートの右ポケットに僅かな重みを感じたのだ。
「これ……」
右ポケットに入っていたのはスマートフォンで、だが小麦のものではない見覚えさえ無いものだった。取り敢えず開けられるか試すことにした小麦はスマホの電源を入れてみた。このスマホは指紋認証やパスコードが設定されていなかったようで、小麦でも簡単に開くことが出来た。
スマホの中を調べて持ち主を探ろうとした小麦は思わず目を見開く。そのスマホの持ち主が透巳であることが分かったからだ。
どうして透巳のスマートフォンがポケットの中に入っているのか。そんな疑問を抱えながら、小麦は電話アプリを開いて連絡先を確認する。
連絡先の中には〝自宅〟という項目があり、小麦は藁にも縋る思いでそれに触れた。
片耳に鳴り響くコール音がここまで心をざわつかせるものだなんて、小麦は思いもしなかった。藁にも縋ると言っても、ここまで上質な藁は無いだろう。
『もしもし』
「……神坂、くん」
『あ、気づいた?教室戻るときこっそり入れておいたんだよね」
耳元で透巳の声を聞いた途端、小麦はようやく一筋の涙を流した。今までの不安、恐怖、そして透巳の声を聞いたことによる歓喜、安堵。この涙を一言で表すことなどできない。
この事態を予想していたのか、透巳は梓紗の目が無くなった保健室から教室への道すがらでスマホを小麦の制服に忍ばせていたようだ。
『かけて来たってことは、何かあった?』
「……と、閉じ込められたの」
『ふーん』
「ふーんって……」
小麦の告白にも大した動揺を見せないどころか、興味なさ気に返した透巳のせいで拍子抜けしてしまう。
『それで、俺にどうして欲しいわけ?』
「えっ……」
『俺お人好しじゃないし、頼まれてもいないのにわざわざそっちの要求察して行動とか真っ平ごめんなんだけど』
小麦は透巳の言っている意味がよく分からなかった。同時に、自分がどうして欲しいのか分からないまま電話をかけてしまっていることに気づく。
小麦は黙って、自分がどうなりたいのか考えてみた。幸い透巳は小麦にその時間を与えてくれ、彼女を邪魔するような発言は一切しなかった。
小麦の望みはここから出て、梓紗から永遠に解放されること。だがそんなことは不可能だと、小麦は随分と前に諦めてしまっていた。だがそれは小麦が一人で何とかしようとしか考えてこなかったからである。
小麦はこれまで誰かに頼ろうとしなかった。だがもし透巳に救いを求めれば、何かが変わるのだろうかと小麦は思い立つ。
小麦が透巳に抱いていたのは期待だとかそんな大それたものでは無かった。ただ小麦は――。
「……たす、けて」
透巳に救ってほしかったのだ。
『……よく言えました』
その言葉を待っていたと言わんばかりに、電話越しに微笑んだ透巳は満足気な声を出す。
透巳のその言葉で滂沱の涙を流した小麦。嗚咽をもらしながらも彼女は、透巳が自分のために厳しいことを言ってくれたのではないかと朧気に思った。希望なんてないと最初から諦めていた小麦は自分から何かを求めたことがほとんどなかった。自分の意思で、何かをしようとしたことさえなかった。
だからこそ透巳は小麦自身に望みを言わせようとした。そうで無ければ、小麦はいつまで経っても変われない様な気がしたからだ。
『それで。今どこにいるの?』
「学校の近くのトランクルーム……三四番の」
『分かった』
小麦の意思を確認した透巳は早速目的地に向かう準備をする。家のパソコンで該当する場所を調べた透巳は、その地図を記憶する。
『あ、そうだ。俺が来る前に発信器外しておいた方がいいよ」
「……なにそれ?」
『何って、あの女が君につけてるやつ』
唐突に透巳から知らされた衝撃的な事実に小麦は顔を真っ青にしてしまう。まさか梓紗が自分に発信器を忍ばせていたとは思いもせず、加えて透巳があっさりとそれを見抜いてしまったことにも驚愕したのだ。
「ど、どこに?」
『制服の襟の裏。微妙に膨らんでたからそうかなぁって。だから保健室に来れたんでしょ』
「…………ほんとにあった」
透巳は小麦の背中に湿布を貼る際、彼女の制服の襟の僅かな膨らみに違和感を覚えていた。だがそこに梓紗が突如現れたことで透巳の疑問は解消されたのだ。
言われるがまま首元に手を持っていった小麦は、覚えのない硬い感触に鳥肌を立たせる。
『壊さないで、トランクルームのどこかに置いといて。そうすれば出ても気づかれないから』
「分かった」
透巳の指示に素直に従った小麦はそっと発信器を床に置いた。すると電話はいつの間にか切れていて、小麦は透巳が来るまでの間心細い思いを抱えることになる。透巳は自宅の固定電話で話していたので仕方が無いのだが、透巳の飄々とした声にはどこか安心できるような力があったのだ。
どんな危機的状況に陥っていてもその声を聞いただけで、何とかなってしまうかもしれないと思えるような、そんな曖昧で確信的な力だ。
それが無くなった今、小麦は一人という漠然とした不安を抱えているが、透巳のことを信じていればその不安も脅威的なものではない。
数十分経った時、小麦は微かな足音を耳にして思わず立ち上がる。透巳が到着したのだと安堵したのも束の間、鍵穴からカチャカチャという音がし、小麦は思わず首を傾げる。
この状況のせいで小麦はまともな思考が働いていなかったので、本来なら鍵を持たない透巳がここから小麦を救うのは無理という当たり前の事実に漸く気付く。
だがどう考えても鍵を開けようとする音がするので、透巳に何らかの手立てがあるのも明らかだった。
その手立ての正体を掴むことの出来ぬまま、その時はやって来た。
ガチャリ――。
小麦の運命を一八〇度変えることになる、始まりの音がした。
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