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ルシファー事変

挫折と虚空の心

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 アリシアはベナン基地の一角にある、とある部屋にいた。
 その部屋は他とは違い、かなり近代化改修されたメカメカしい部屋だった。
 周囲には複数機のコンピューターに繋がれた人が入れるサイズのカプセルがあった。



「これなんです?」



 吉火に案内されるまま更衣室に行き、支給された蒼いダイレクトスーツと言うAPのインターフェースのようなものを着るように言われ、今ここにいる。
 その不思議な装置を物珍しそうに見つめる。



「これはアクセルトレーニング。アクセル社が開発した。正式名称ATVRFアクセルシンクバーチャルリアルティフィールド。仮想現実の世界で体感思考速度を加速させる事で肉体負荷を拡張し、訓練を行う装置です」

「仮想現実!確か、本物そっくりな世界でしたよね!」



 作りものの世界の中で活動する事ができるシステムでそれを題材にした小説などを呼んだ記憶がある。
 一般にはゲームとしてこの機能を応用したゲームが存在するが、アリシアにとっては今、聴くまでは空想の産物と同じ幻想と夢のあるおとぎ話の物だった。
 そのおとぎ話の産物が目の前にある事に一時だけ今までの暗さを忘れ、目を輝かせ、陶然とした眼差しでカプセルをつぶさに確認する。
 カプセルの周りをぐるぐる回り、ペタペタと触り心地を確認する。



「そうです。仮想現実を使った訓練は今までも存在しました。ですが、この装置は使用者の思考を200倍にして、経験やそれに伴う肉体負荷も200倍にする事の出来る装置です。どうです?すごいでしょう」



 吉火はアリシアの感性に合わせてATの性能を子供に殊更、自慢する親のような心境で堂々と胸を張って両腕を腰に当てる。



「凄そうですね!それで私はこれに入るんですか?!」

「えぇ。6日間入って貰います」



 その言葉に浮かれた気持ちが一瞬、挫かれた音がした。
 アリシアの頭の中で高速で演算が行われる。



「えーと、1200日約3年120日フルタイムの訓練ですか?」

「いやいや、まさかそんな事はさせませんよ。実質、睡眠時は思考加速出来ないので1日10時間睡眠と休み時間込みで1年位ですよ。まぁ……もし、気が向いたら延長ボタンでも押して下さい」



 延長ボタンを使うほど自分の体力が持つとは思えなかった。
 1年でも長い気がするのだが、3年近く訓練するよりは遥かにマシと思ったのと、罪悪感から自分に拒否権はないと言う自覚があったので特に反駁はしなかった。
 だが、それとは別に気になる事があった。



「あの食べ物とか御手洗いは……」

「基本的に口からパイプで直接必要な栄養を送ります。御手洗いは……代謝との兼ね合いを計算して出来る限り、消化の良い物にしていますから気にしなくて大丈夫です。必要な時は自動で行います」



 何ともかなり合理的で人間倫理的に不安が過ぎる内容だったが、これをやる事と決めた以上、多少の事は我慢する。
 多少の不便は忍耐しないとやっていけないとアリシアは理解している。
 ちょっと女子である自分には受け入れがたい内容ではあるが、その意見を喉に押し込めた。



「それと……この装置は多くの経験が出来る反面、向こうでの経験負荷が戻った時に一気に襲ってくる可能性があります。負荷を減らす様には成っていますがそこは注意して下さい」

「分かりました。具体的に向こうでは何をすれば良いんですか?」

「まず、そこで歩兵基礎課程と歩兵応用課程を受けて下さい。必要な技量と体力が付いた時に本来の課題を出します。その後でAPに関連した訓練を本格化させます」

「分かりました」



 アリシアと本来の課題に付いて特に何も聴かず、乗り込んだ。
 自分には、それを聴く資格はないと判断したからだ。
 だが、後になって……その事を少しだけ問題になったが結果、怪我の功名のような形で活かされる事になる。



 これはアリシアの30日と言う名の5年の物語……そして、これから始まる出来事のほんの始まり過ぎない小さくて無力な自分の知るそんな5年の物語となる。
 でも、1つ言える。
 その苦しみがあったから、自分は鷲の様な強い猛禽になれたのだと……。


 ◇◇◇


 2342年 少し未来の夜

 時は……アリシアがATを降りてからしばらく経った後、その存在は誰にも悟られる事の無く、夜の山奥に降り立つ者がいた。
 山奥の茂みに密かに空間湾曲を齎す出来事が起きた事など誰も気づきはしない。
 それは密林の闇から現れるかの様に闇を切り裂き、1機のAPが降り立った。
 闇に溶け込むかの様な濃い藍色の機体がゆっくりと地面に着陸した。
 パイロットの黒髪でイケメン面の長身の男は状況を搭載されたAIに確認する。



「着いたか」

『はい、着きました』

「現在時刻と座標は?」

『2342年2月。旧アラスカです』

「場所はともかくとして時間は正確だな」

『お褒めの言葉として受け取らせて頂きます』

「前向きだな」



 パイロットは不愛想に答えた。
 特にこれといった感情は込めておらず、素直な意見を皮肉抜きで答えただけだ。
 生まれてからこの方、感情と言うモノをあまり表に出した事はない。
 それに幼少期の事もあるので、あまり感情を出すとその時に戻ってしまうようで……いつしか、感情を出すのが下手になり、寡黙な性格になってしまった。



『人生は前向きに考えねば良い方向行きません……と何かで読みました。私個人もそう考えます』

「そうかもな。この世界に限りなくゼロでも微かな希望があればな」

『では、まずは何をなさいますか?レベット アシリータの抹殺ですか?アセアンへの武力介入ですか?』

「まずはこの時代にいるネクシルを狙う。搭乗者はだろうからな。火種は早めに消す。逆探知出来るか?」

『お任せを!』



 機体のAIは演算を始めた。
 夜の静寂に機体の駆動音だけが鳴り響く。
 AIは人には見えない夜の闇に溶けるような意識のネットワークを展開し、地球の隅から隅まで拡散させるように探る。
 情報の網にかかる微かな振動を感知し、関連した情報と言う名の獲物を取っていく。
 その情報収集はまるで蜘蛛の捕食を連想させる。
 AIはネットワークにかかった獲物と言う名の情報資料を喰らい、分解し、再度組み立て、情報へと昇華させる。
 この一連の流れを刹那の合間に行われ、それは人間からすれば、直ぐに結果を出す金の鶏の体現のように見えるだろう。



『結論からで宜しいですか?』

「言ってくれ」

『現在、ネクシルは当初と違う予定を取っています。アジアでは無くアフリカにいる模様です』

「アフリカだと?日本じゃないのか?」



 男の知る情報では、本来なら日本にいなければならない物がアフリカにあると言うのは、彼にはどうにも腑に落ちなかった。
 本来、そこにある物がないと言うのが……彼の中に一抹の胸騒ぎとして心の片隅でざわつく。



『そのはずですが、はアフリカで心理兵器の破壊に行く様です』

「心理兵器だと……神の誘惑か?」

『そのプロトタイプに当たるルシファータイプの撃破の様です。どうやら、我々の知る史実と食い違いがある様ですね』



 作戦出だし早々トラブルに会うのは全くない話ではない……と言うより世の中、作戦通りに上手く行く方が稀かもしれない。
 この世界は思い通りになりにくい世界なのだから、自分の描いた様にはいかない。
 その事を彼は生きて来た18年でよく学んだ。
 だから、決してその事に不平を漏らしたりはしない。
 元々、思い通りにならない世界で駄々を捏ねて、世界の変革やら世界を変えるやら完全世界平和やら掲げて実行するのは子供の考えだからだ。
 だから、本来立てた計画が沿わないなら計画が沿うように変更するのが合理的だ。



「搭乗者の名は?」



 一応、ネクシルと名の付く機体のパイロットは知っておかねばならない。
 少なくとも、自分が知る限り碌でもない大きな子供おとなが乗っている可能性があるからだ。
 もし、その男なら生かしてはおけない。
 自分の復讐とこの世界の為にも絶対に殺す。



『セキュリティが高過ぎて解析不能です』

「……そうか、分かった。まずはこっちのネクシルに接触する」

『了解。対象ネクシルをマーク、アサルトを起動します』



 彼はすぐに作戦方針を変え、実行に移す。
 その藍色の機体は再び、闇を切り裂き始めた。
 搭乗者の男は不確定要素のネクシルタイプに想いを巡らせる。



「そいつは敵なのか……それとも……」



 藍色の機体は空間を割きどこかに跳んでいく。


 ◇◇◇


 1年目

 この1年は雑用をしながら、歩兵としての技能と体力を養った。
 早朝の10kmのランニング、AI部隊との完全装備の行軍、匍匐前進に始まり、ライフルを撃ち、格闘技も習得した。
 軍事的な勉学にも励んだり、日常的な雑用と言う地味な裏方作業にも励んだ。
 心のどこかで、速く強くなりたいと焦る気持ちからATに入る前から地味でつまらないとも思う節もあったが、その小さな下済みが重要なのは後の実戦形式の模擬戦から分かって来た事だった。
 小さな事にも忠実になり、行う従順が無ければやっていけないと雑用で学んだ。

 自分は元々頭脳労働な人間であった事と集落では学びたくても、学べなかった知的欲求が爆発したのだろう。
 爆弾の作り方、AP基礎設計学、プログラミングの習得、戦術論、化学や生物学と言った軍のカリキュラムに何の関係もない事も教えてもらった。
 仮想空間を利用して飽きる程楽しんだ。
 仮想空間と言う特性上化学反応、AP組み立て等も仮想空間でありとあらゆるデータが存在し、実践的な事もかなりやり込んだ。
 ある時はただの炎色反応を観察する為に永遠とアルコールランプに金属粉を落とす事もあった。
 こんな無駄とも思える事も実は自由学習と言うカリキュラムが存在した為に出来た事だ。
 要は吉火がアリシアの自主的にしたい事をやらせる為に作ったカリキュラムと言える。
 その事は感謝してもしきれない。

 最初こそ上手く出来なかった事も多かった。
 だが、人とは最初の1%の壁を乗り越えてしまえば、そこからは上手く熟せるモノだ。
 アリシアは色んな事を馬鹿みたいにのめり込んだ。
 それこそ、楽しむ様にのめり込んだ。
 そんなこんなで1年が過ぎた。
 カリキュラムを終え出てみると本当に6日しか経っていない事に驚くばかりだ。
 そこまでは比較的、充実していた。

 ただし、そこまでだ。



 2年目。

 仮想空間である事を利用して、実践的な歩兵戦闘のシュミレートが本格的に始まった。
 何となく分かってはいた。
 訓練でやるのと実践でやるのは違うと……それがシュミレートだとしても同じだと分かっており、覚悟もしていた。
 覚悟しても実際の現実とのギャップに苦しむのも常であり、それも覚悟の上だった。
 しかし、現実はやはり甘くはない。
 初陣シュミレートを開始時は軽度な目的を達成する事に専念した。
 AI隊長の指示に従って、とにかく役割を熟した。
 介護でも自分の部に余る事は出来る人に任せて、とにかく相手に怪我をさせるなどのリスクを減らす。

 それをやる事に苦は感じなかった。
 その考えはこちらでも活きていたからだ。しかし、此処からだった。
 出来る事が増えると自ずと隊長から要求される難易度も上がってきた。
 最初は小隊や分隊で爆弾を目的地に運ぶとか殲滅作戦でもリスクが少なめ、もしくは生存率の高いパラメータの部隊と行動を共に出来た。

 しかし、要求が上がるに連れ、自分の分ではどうしようも無くなってきた。
 その日、アリシアは初めて被弾を受けた。左足に敵の弾丸を喰らった。あまりの耐え難さ思わず断末魔を漏らしてしまうほどだった。
 その後、断末魔で敵に見つかり、蜂の巣にされる痛みも味わう。

 アリシアは初めての陽動作戦に参加した。
 だが、陽動とは相応の実力があって出来る事、損耗率も大きい。
 アリシアは疲労を歯で食いしばりながら堪え、砂漠の塹壕を使って後退しようとした。
 だが、大きな音に驚き思わず、塹壕から頭を出した。
 その時、頭部に50口径の弾丸を喰らい即死と同時に全身を複数の弾丸が貫いた。

 無論、死ぬと言っても肉体的な外傷はない。
 尤も終了後に死に等しい苦痛が伴う。
 復活後、彼女にあったのは頭部に頭痛と全身を蝕む激しい苦痛だった。

 彼女はその場で悶え、激しい痛覚が全身を刺激した。
 人間的に生理も本人の意志に関係なく局部から漏れ出て、呼吸すら止められる様だった。
 その後、しばらく陽動作戦は無かった。
 その時の彼女は何処かで経験と慣れでなんとかなると……考えていたのは今思うと恥ずかしい事だ。



 3年目

 陽動や人質救出作戦などが増えてきた。
 その度に自分は惨敗した。何度繰り返しても失敗を繰り返した。

 その為に訓練は怠らなかったが……結果は良いように伸びなかった。
 終いには、作戦失敗の表示とAI隊長からの叱責が心に刺さる。
 何故、AIに叱責する機能があるのか分からないが、AI隊長の言葉はぐさりと刺さり悪意すら感じる。
 AIに悪意はないはずだが、AI隊長はまるで悪魔にでも憑りつかれたように罵倒する。
 その言葉を聴く度に、アリシアの心の底に呪いと言う名の澱が溜まっていくのを感じる日々を送った。
「お前は何をやってもダメだ。役に立たん気合も足らん。真面目にやれ、努力も足らん。もっと頑張れ!」そんな事を毎回、言われる様に成っていた。

 努力ならしている。ただ、結果が出ないだけだ。そう……事実そうなのだ。
 だが、その隊長の言葉は自分の心に刺さる度に思う。
 自分なんて何をやってもダメなんだ‥‥幾ら努力しても報われない……評価もされない……結果なんて出るわけが無い……これ以上どうしろと言うの!

 そう思い始めた。その度に「次はやってみます」と言うのが決まり文句に成っていた。
 その度に努力を重ねて「これだけやれば!」と何度も希望を抱いた。
 しかし、その度に何度も何度……惨敗を繰り返した。

 その度に「次にはやってみせます」と何度繰り返したか……そして、あの言葉がトドメとなったのだろう。呆れたAI隊長が言った。

「もうお前の上面のやってみせますは聞き飽きた。信用に値しない。お前など何の価値もない」それがアリシアの心臓にしばらく食い込む事になった。
 辛くても努力して来た。痛い思いを一杯、味わい忍耐して来た彼女の心は限界だった。
 その言葉で彼女の心は砕ける様な音がした。
 その後、彼女はしばらく何も出来なく成った。

 仮想空間にある何処かの部屋に入り込み、引き篭もりの様な生活を始めた。
 まるで鬱病になった様にやる気が起きなかった。
 そこからしばらく……現実世界に戻る事は無かった。
 吉火さんにみっともない自分を見せられない。それに今の自分では彼をまた傷つけると思った。
 加えて、現実に戻っても報われることのない事をさせられる。
 ただ、無意味に死に行くだけの虚しい世界に戻りたくもなかった。
 自分みたいな何の生産性もない人間が生きている価値すらなく吉火に縋るかも知れないから顔を見せられなかった。
 でも、一番の理由は見栄を張っていたのだ。
 何処かで自分は大丈夫、信じて欲しいとか自分は強い、強くなれると見栄を張っていたのだと思う。
 だが、その幻想も徐々に崩れ、そして崩壊した。
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