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14−2
しおりを挟む地面が揺れている。
深い泉の底に沈んだような感覚。体が重くて、ただ、意識だけがふわふわと漂っている。
「――――ないか! 急げ!」
「――――では――、――――しても――――?」
「――さい! ――――――しろ!」
言い争いをしている男の人の声。
それが耳に届いた瞬間、セレスティナの意識は一気に浮上した。
血が凍るような感覚。
だって、これは。この声は。
「お前! こんなスピードではすぐに見つかるではないか! 逃走手段ならある、そう言っていただろう!」
「ええ、ございましたよ。しかしそれは、かの方の魔力と引き換えではありませんでしたか。その魔力がなければ、スピードなど出るはずもございません」
キッパリと言い放つ方の声も、どこかで聞き覚えがあるような気がする。
けれども、それよりも――。
もうひとり、耳に刺さるようなトゲトゲした怒声。この声を、セレスティナはよく知っている。
嫌悪感で、身体の芯から震えが湧き起こるような。
――ああ、これは。
「魔力なら、今すぐにでも搾り取ればいいではないか。丁度、目が覚めたみたいだしな」
「…………ラルフレット・アム・イオス」
「っ、不遜な。可愛がってやった恩も忘れて」
やはり、この人は諦めてはいなかった。
セレスティナに対し、怒りを隠そうともせず睨みつけてくる男。それは、やはりかつての夫であった。
どうやら今は、荷馬車の中に乗せられているらしい。
おそらく特殊な魔法がかけられているのだろう。相当なスピードで進んでいることは間違いがない。
その荷台の隅に、セレスティナは手足を拘束されたまま転がされているようだ。
(この感覚は、魔封じね)
身体中を巡っていたはずの魔力が、全然反応してくれない。感覚が遮断され、背中に冷たい汗が流れた。
少なくとも、この状況がとんでもなく危険であることは理解できた。
外から分からぬように、一見、旅の荷馬車に見えるようになっているのだろう。ただし、しっかりと準備はされていたのか、旅の間ラルフレットが過ごすための椅子はしっかりと用意されている。
それに陣取って、彼は真っ直ぐセレスティナを見下ろしていた。
そのときの彼の瞳。
底が見えないようなギラギラとした欲を孕んだ瞳に、セレスティナの身体はビクッと震える。
(大丈夫。大丈夫よ、落ち着きなさい。ここは、あの地下牢じゃない)
カチカチと歯は噛みあわない。
けれども、怯えている姿を見せたくなかった。
昔のセレスティナとは違う。
大丈夫。きっとリカルドならこちらに気がついてきっと助けに来てくれる。そう信じて、今は時間を稼がないといけない。
揺れる荷台の上でどうにか上半身を起こし、セレスティナは前を睨みつける。
どうにか呼吸が整い、周囲を見渡す余裕が出てきた。
そこでようやく、ラルフレットの隣に長い黒髪をおさげに垂らした男が立っていることに気がついた。
揺れる馬車の中、一切バランスを崩すことなく、こちらを見つめている。
瞳の色は深い紫。黒いエキゾチックな魔導衣を纏い、夜の色彩を宿した彼を見た瞬間、セレスティナは息を呑んだ。
「ユァン・エン・レトゥ様……?」
なぜ彼が、と思う。
驚きで目を見開き、ふたりの顔に視線を行き来させる。
もし、イオス王国となんらかの軍事的な繋がりを求める協力者がいるとすれば、東の国々のどこかだとは思っていた。
けれども全く違う。遠く離れた、ヨルェン国の第一降神格だなんて。
その2国家に繋がりがあるだなんて思いもしなかったし、まさか、今回の誘拐劇に他国の第一降神格が関わってくるとは。
(そうか、ユァン様の加護は〈夜の神〉――)
あの、深くて甘い香り。それがユァンのものだと考えれば合点がいく。
夜に特化した加護を授かっているのだ。
でも、結界の中でも加護が使えるとはどういうことだろう。
「いやあ、本当に、すごいですねえ。あなたの魔力は。ワタシとも相性がいいみたいで」
ピンッ、とユァンが魔石を弾く。
コイン程度のサイズの、比較的小さなものだが、そこにはたっぷりと魔力が詰まっていた。
「これ、見てくださいよ。全っ然減ってない」
ゾッとした。
もしかしてそれは、かつてイオス王国が回収したセレスティナの魔力なのだろうか。
それをそのまま利用して、あの結界内でも大規模な加護を行使できたとでも言うのか。
「こんな豊富な魔力が無限に取れちゃうとかさ、反則じゃないですか? ねえ、王子様、そう思いますよね」
「――だから、私のことをそう軽々しく呼ぶな!」
「ええ? ワタシの援助がないと何もできないくせに」
相手がイオス王国の王太子だとわかっていても、砕けた態度のままにユァンは肩を竦めてみせる。
「まあいい」
苛立ちを隠そうともせず、ラルフレットは立ち上がった。そのままセレスティナの前までやって来ては、膝をつく。
視線が合うのも憚られて顔を横に向けるも、ぐいっと顎を掴まれて、強制的に前を向かされる。
「……っ、痛い。離して」
「私はお前の夫だぞ。言葉遣いに気をつけろ」
「結婚証明書だってとっくに破棄されたわ! もう、赤の他人よ!」
キッと眉を吊り上げ、主張する。
怖くはない。この人は、喚いて、自分を大きく見せて、人を威嚇することしかできない人。そんな人のために下を向く必要なんてない。
「わたしの旦那様はリカルドだけ。どこへ連れて行っても同じよ。あの人は、必ずわたしを見つけて助けてくれる」
かつて、イオス王国から助けてくれたのもそう。
誰にも知られずにひっそりと朽ちていくはずだったセレスティナを、ちゃんと見つけてくれた。
だから今回もきっと大丈夫だ。
「残念ながら、あなたなんかに頭を下げると思ったら大間違いよ」
「この……! 少し綺麗になったからって生意気な!」
ばんっ! と大きく突き倒され、背中を打ちつける。
突然の痛みに一瞬息ができなくなるも、セレスティナは折れなかった。転がされたまま、じっとラルフレットのことを睨み続けた。
その気迫に気圧されたのか、ラルフレットがぎゅっと唇を引き結ぶ。ふるふると、拳を小刻みに震わせながらこちらを見下ろし、ふと、口の端を上げる。
「まあいい。生意気な女を黙らせるのもまた一興か」
その瞳の奥に宿る欲。それを正確に感じ取り、セレスティナは総毛立った。
再会してから何度か見せてくるこの瞳。何が彼の琴線に触れたのかわからないが、今のセレスティナは彼の欲望に足る存在になっているらしい。
背筋に冷たい汗が流れる。己で己を抱きしめたくなるが、腕を縛られてはそれもままならない。
どうにか身体を捩り、じりじりと後ろへ下がる。
「私のものとなったら、あの男も諦めるだろう?」
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