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3−1 疎まれた花嫁
しおりを挟む花婿が逃げた、という声が漏れ聞こえた瞬間、セレスティナは凍りついた。
それは麗らかな陽差しが心地よい春の良き日。待ちに待った結婚式前の出来事だった。
この後、結婚式の会場で、セレスティナはリカルドと改めて顔を合わせる。
最後に彼の顔を見たのは先の国際会議以来だから、実に4年ぶりの再会となる。
今の何も持たないセレスティナ自身を望み、何度も婚約の打診をくれた新しい旦那様。
どんな方であっても、誠心誠意尽くそう。セレスティナはそう心に決めて、このフォルヴィオン帝国までやって来たのに。
(逃げた……ですって?)
いや、でも、空耳かもしれない。
ここは花嫁の控え室。扉は閉ざされており、外の声などわずかにしか聞こえない。
きっと空耳か何かであるはずだ。
震える身体を抱きしめながら、セレスティナは結婚式を待ち――――。
バージンロードを歩くとき、その道の向こうにリカルドが立っていたことにホッとした。
やはり逃げたというのは幻聴だったのだ。
感情の見えない無の表情だが、ちゃんとセレスティナを出迎えてくれる。
久しぶりに会うリカルドは、すっかり大人の男性になっていた。
セレスティナよりも3つ年上だから、今は25歳だったはず。
英雄と呼ばれるからには、ガッチリとした筋肉の体格のいい男性をイメージするが、彼の場合は全然違う。
魔法騎士だからだろう。どちらかといえば細身で、長身だ。猫背だった印象もあるが、今は背筋を伸ばしてビシッとして、そこに立っている。
大きなステンドグラスから溢れる光が、彼の赤髪を照らした。
紅蓮の髪とも呼ばれる濃い赤の髪は長く、後ろでひとつに纏めている。
シャープで端整な顔だちだ。冷たい印象ではあるが、顎のラインはくっきりしており、すっと通った鼻筋は高い。
ややつり目な黒曜石の瞳は、左側が前髪で隠れて見えないが、神秘的な輝きを宿してセレスティナを見つめていた。
ただ、どうも表情が硬い気がする。
いや、元々の彼の性質から、ニコニコ出迎えられるようなことは期待していなかったけれども、それでも絶対零度の瞳と言うべきか。
まるでこちらに対して怒っているかのように、ギロリと睨みつけられているのだ。眉間の皺を隠そうともしない。
その鋭い視線にセレスティナも緊張し、背筋が伸びる。
でも――。
(なんだか、綺麗……)
やはり黒騎士と呼ばれるだけの存在なのだろう。
一度目があうと釘付けになり、目を離せない独特の雰囲気がある。
この日も彼は黒い正装に身を包み、凜と立っている。ステンドグラスからの光は、まるで神の祝福のよう。
誰も寄せ付けない孤高の存在。
そんな特別な彼の元へ、セレスティナはお嫁に行くのだ。
どくん、と胸が高鳴った。
自分でも、この惚れっぽさはどうかと思う。
でも、わざわざ半神の加護持ちでしかない自分を選んでくれたというだけで、相手に対して好感を持つのは当然だと思う。
この孤高の黒騎士様が、どうしても結婚したいと、何度も打診をくれたのだ。それだけで、彼のことを好いてしまうのは仕方がないようにも思える。
正直、結婚はまだ怖い。
だって、かつてセレスティナは裏切られた。
結婚式ではどれだけ甘くとも、初夜になって夫の態度が一変した。
だから今も、この胸の奥に湧き起こる幸せの予感に浸っていていいのか悩ましくもある。
結局は怖いのだ。
でも――。
(わたしは、リカルド様を信じたい)
この人なら。
いや、この人となら、幸せな未来を築いていけるかもしれない。
そう思えるから――。
厳かな雰囲気の中、司祭が式を進めていく間も、セレスティナはリカルドのことばかり考えていた。
もしかしたらリカルドもなのかもしれない。
先ほどから何度も、彼の視線が突き刺さるから。
(甘い視線ではないけれど……)
さすがに孤高の黒騎士様から、いきなりそのような態度をとってもらえるだなんて思えない。
そもそも、セレスティナはまだ、この結婚の本当の意図も知らない。勝手に、自分を好いてくれていたらいいなという甘い願望を抱いているだけ。
だから、期待しすぎるな。
がっかりするのは嫌だ。
どんな理由でも、セレスティナは彼に尽くすと決めた。
そう自分に言い聞かせながら、式の進行を見守っていく。
そうして、互いに誓いの言葉を交わし合い、向かい合う。
いよいよこの時が来た。
皆の前で口づけを交わし合う時が。
真正面から見ると、やはり彼は随分と長身のようだ。
セレスティナとは頭ひとつ分以上も違う。
ひょろりとしているが、そのシャープな身体つきこそまさに冥王である〈糸の神〉の印象そのものだ。
見とれていると、彼がくしゃりと目を細めた。
眉間にギュウギュウに皺を寄せ、大きく息を吐いた。
少しだけ嫌な感じがする。
……これがため息ではない、と思いたい。
嫌々セレスティナと結婚する、なんてことはないと信じたい。
お願い。
お願いだから。
少しでもいいから。
甘い心の欠片を見せてと思うのに。
リカルドが手を伸ばすことはない。触れて、抱き寄せてくれることもない。
彼は嫌々といった様子で、セレスティナの額に微かに唇を落としただけだった。
まともに口づけすらしてもらえない。
そのことがひどく惨めで、セレスティナは涙が溢れぬようにぐっと堪えた。
――大丈夫。
額へのキスだって、よくあること。
皆の前で口づけをするのが気恥ずかしかっただけ。
孤高の黒騎士様なら、そう考えてもおかしくない。
そう、自分に何度も、何度も、何度も、何度も言い聞かせたのに。
「いい加減にしてくれ! こんな結婚、最悪だ!」
――夜。
彼の屋敷に迎えられて早々。
リカルドが、誰かに向かって激怒している言葉を聞いてしまった。
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