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1巻
1-2
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「――お嬢さま、新しいお湯ですわ」
「ありがとう、アンナ」
「それから、彼が目覚めたら、こちらも必要かと思いまして」
部屋に入ってきたアンナが、ベッドの隅にタライを、小さなテーブルに包帯やら水差しなど必要なものを置いてくれる。
「もう少しお休みになったら、食べるものもご用意いたします。何かあればお呼びください」
彼女はそれだけ言い残して、出て行ってしまった。
……うーん。やっぱりあえてふたりきりにされている気がする。
アンナはわたしの旅の目的もよく理解してくれているから、気を利かせてくれているんだと思う。少し、微笑ましいものを見るような視線が気恥ずかしいけど。
(さて、ずいぶん綺麗になったかな)
新しく綺麗なタオルを濡らして、最後に丁寧に彼の身体を拭った。
(たっぷり眠って、ご飯を食べて。早く、元気になってね)
彼の口角がわずかに上がった気がして、ほっとする。わたしは無意識に、彼のおでこに自分のおでこをコツンとくっつけた。
今日一日、ずっとくっついていたからか、わたしの感覚もちょっと麻痺しちゃっている。
――だから完全に油断してた。
突然ぐりんと、視界がさかさまになる。何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
気がつけばわたしの身体はひっくり返され、なぜか彼にのし掛かられていたのだ。
そしてそのまま、ぎゅうぎゅう抱きしめられてしまった!
「レオルド! え!? 待って? ね、起きてってば……!」
わたしの頭のなかは真っ白になった。
(寝ぼけてる!? ――いやいやいや。ちょっと待って!? この体勢はマズくないかなあ!?)
だって、レオルドは、下穿きこそはいているけれど、ほぼ裸。年頃の男女が、同じベッドで抱き合うだけでおおごとなのに、押し倒されるなんて!
さらにレオルドは、すごーく穏やかな顔をしてわたしにぐりぐり顔を押しつけてくるとか……いや、待って!? そこ、胸っ。ふわ、胸にお顔を擦りつけないで……っ!?
この状況にわたしの心臓がもつはずもない。だからばたばた暴れるけど、ビクともしない。
憔悴しきっているとはいえ、レオルドはやっぱり戦士で、たくましい男の人なのだ。
「ちょ……レオルドっ!?」
押してもすり抜けようとしても、全部ムダ。たくましい腕にぎゅうぎゅう抱きしめられ、本気で耐えられないって思った、そのとき――
「何をやっているのですかっ!!」
バァン、と、勢いよくドアが開かれ、これでもかってくらいの大声が耳に届く。かと思うと、一瞬でわたしの身体が軽くなった。
わけもわからないうちに、レオルドが部屋に入ってきた人物に突き飛ばされ、床に転がされたのだった。
「お、俺がいない間に! 貴様っ、お嬢さまを汚そうなんざ、百年早いっ!!」
わたしは、事実確認もまともにせず、レオルドに容赦ない蹴りを入れた男に目を向ける。
そこにいたのは、勝手にわたしの貞操の危機を勘違いしてくれたもうひとりの付き人――キース・バートレイ。それはもう、主人想いの暑苦しい男だった。
キースはひとつにまとめられた華やかな金髪と、涼しげな碧眼が印象的な美男子だ。
彼に微笑まれてときめかない女の子はいないと断言できるほどに、整った顔立ちをしている。その気になれば彼女の十人や二十人余裕で作れるだろうに、そんな素振りすら見せない仕事人間……と言えば聞こえはいいけれど。
……なんというか、彼は小さな頃からわたしの面倒を見ることに人生をかけすぎている、超過保護人間なのだ。
当然、レオルドとくっつきっぱなしの今のような状況、彼が見逃してくれるはずがない。
今のような容赦のない一撃もきっと、彼の忠誠心の表れなのだろう。
けれど、やっていいことと悪いことがある。
「馬鹿! 何やってるのよ、キース!」
「は? ……お嬢、さま……?」
呆けるキースなんて、当然無視だ。
わたしはキースを押しのけて、レオルドに駆け寄った。
だって、今のレオルドを放っておけるはずがないもの。彼はわたしから離されたことで激しい痛みに襲われたらしく、床に転がり、のたうちまわっている。
「レオルド!」
慌ててレオルドに手を伸ばすと、彼も必死でわたしを求め、抱きしめてくる。
そうして床に座ったまま、わたしは再び、彼に離してもらえなくなった。
「お嬢さま、それは一体……?」
あまりの出来事に、キースは目を白黒させる。
わたしはそっとため息をつき、これまでのことを順を追って説明したのだった。
――結果。
「ああああ許すまじ、レオルド・ヘルゲン!」
キースは頭を抱えて叫んでいた。
「事情はわかりましたが、お嬢さまも! もう少し抵抗なさってください!! 完全に押し倒されてましたよね? 節度というものがあるでしょう!」
「そ、それは誤解よ。ちゃんと、抵抗したわよ? うん、ホントに」
「……満更でもない顔をしてたくせに」
「ううっ……!」
見透かされている。すっごく焦ったのは事実だけど、相手はあのレオルドなのだ。ドキドキしちゃうのは仕方がないことだと思う。
図星を指されて、わたしは誤魔化すように笑った。そんなわたしを、キースがじとりと見る。
「一体なんなのですか? お嬢さまがくっついているときだけ大人しくなるとか、この男……」
「わからないのよ。だから〈隷属〉魔法の鎖を見てみようと思うんだけど、彼の体力が回復しないとさすがに負担が大きいもの」
「だったら、その野郎が元気にならないかぎり、お嬢さまは、まさか、まさか……!」
「できるかぎりひっついているわよ」
そう言った瞬間、キースの綺麗な碧眼から、ぶわっと滂沱の涙が溢れ出した。
「そんなっ……あまりに、破廉恥っ、破廉恥ですお嬢さまっ」
「いやいや、これ人助けだから」
「とか言いながら、儲けたって顔しないでくださいっ。取引するときの旦那さまと同じ顔してるぅ」
「えーっ。せめてお母さまと似てると言ってくれる?」
「さらっと旦那さまに失礼なこと言った!」
キースは涙目のまま喚いている。いやほんと、うるっさいのなんの。
この街に来るまでの道中だって、お嬢さまは男を見る目がないだの、俺より年上の男なんてだの、本当に本人かどうかもわからないのに会いに行くなんてだの、ずーっとぷりぷりしていた。
心配してくれるのはありがたいけど、正直、ちょっと鬱陶しい。しかも、この期に及んでうだうだしっぱなしなのだ、この男は。
「アンナから事情は聞いておりましたが、俺は認めるわけにはいきませんっ。お嬢さまのお部屋はしっかりとご用意しておりますから、そちらに……」
「……だから。今はレオルドのそばから離れるつもりはないの」
何度言わせたら気が済むのだろう。寝転がったままだからいまいち格好つかないけれど。じっとりとキースを睨みつけると、彼はうっ、とうめいた。
「何度説得しようとしても無駄よ。わたしがいることで彼が安らげるなら、それでいい。なんのためにこの街までやってきたと思っているの? わたしの最優先は、レオルドなんだから」
「……っ」
「このままじゃ、うるさくて彼が休めないわ。――出て行って」
「……かしこまり、ました」
いまだキースの涙は止まらず、その肩が「無念」と告げている。
まだまだ言いたいことは山ほどあるのだろう。
それでも、彼は唇を噛みしめたまま、そっと、部屋から出て行った。
「……はぁ」
そんなキースの後ろ姿を見送って、わたしはため息をついた。
たしかに非常識なことをしていると思う。わたしも一応女としての教育を受けているから、結婚前の男女が、こうやってひとつのベッドで一緒に横になるのが問題だってことくらいわかるよ。
――でもさ。
(さすがに、今のレオルドが異常だってことくらい、わたしだって気付いてるもん)
死を待つ奴隷たちが押し込められたあの地下から彼を連れ出したとき。むき出しだった敵意を引っ込め、驚きで目を潤ませたレオルドの顔が忘れられない。
彼はひとり隔離され、手足も、首までも、ガッチリと固定されていた。
それがどうしてか、今ならわかる。彼を放っておくと、痛みでのたうちまわるからだ。きっと、それすらもさせないようにしていたのだろう。
それに、今も彼の首に嵌められている黒い首輪。これは魔石という魔力を含んだ特殊な石でできている特別製だ。魔石のなかでも特に稀少で、力のある石でできているみたい。
わざわざこんな貴重な魔石を媒体にしてまで奴隷という身分の人間を縛るとか、普通するかな。
それに、問題は首輪だけじゃない。彼自身にも、強い〈隷属〉魔法がかけてあるのだ。
レオルド本人の魔力の波動を感じないから、多分、彼の体内にある魔力の道が、何者かの魔法によって無理矢理閉ざされているのだと思う。
彼にかけられた魔法は、〈隷属〉魔法のなかでも特に珍しいものではないだろうか。少なくとも、わたしは見るどころか、聞いたことすらない。
〈隷属〉魔法――それは、相手を使役するために契約で縛ることのできる、特別な魔法だ。
その魔法をかけられると、行動や言動を制限され、魔法の使い手に支配されるようになる。
契約内容は様々だけれど、命令に従わない場合、ひどい苦痛を与えられることもある。使い方によっては、非常に悪質な魔法にもなってしまうんだ。
……ううん。ほとんどの場合が、悪質な使い方をされてしまうと言ってもいいのかも。
わたしは床に座り込んだまま、穏やかに眠っているレオルドの寝顔をそっと見つめる。
(わたしの力でどこまで解除できるかな)
実は、わたしの得意魔法も少し特殊だからね。
ある意味〈隷属〉魔法と非常に似た特性を持っているから、彼にかけられた魔法の鎖をいくらかは断ち切ることができると思うんだ。……ううん、なんとしても断ち切らなきゃ。
奴隷という身分は、彼の根本から、彼自身を苦しめた。
あんなむき出しの敵意を向けるくらい、すべてを敵視するしかできなかった彼の数年を想う。
一体どんな経験をすればこんなことになるのか、想像すらできない。
でも、あれほどの苦痛を常時――それも何年も与え続けられると、おかしくなってしまうのも不思議ではない。
大丈夫、ここにいるよと呟くと、穏やかな寝息が聞こえてくる。
きっとこれまで、彼はまともに眠ることすらできなかったに違いない。
――そうしてレオルドは眠り続けた。
わたしを離してくれないまま彼がベッドの上の住人になって、五日。ようやく彼は、まともに起き上がれるようになったのだった。
それはもう大変な日々だった。なにせ彼は、少しも離れることを許してくれないんだもん。
もちろん、彼がそんな行動をするのは全部、彼を縛る魔法のせいだということは理解してるよ。
だから、わたしがその魔法から彼を解放するまでは、できるだけ、彼のそばにいてあげようって思っている。
でもやっぱりね……お風呂とか、トイレとか、着替えとかはね? うん。さすがに抵抗があるといいますか。
そういったさわりがあるときだけは、心苦しいけどレオルドには我慢してもらって、アンナたちにどうにか引っぺがしてもらっていた。
わたしと離れている間は痛みに苦しんでいたみたいだけど……さすが〈赤獅子〉というべきか。もともと体力のある人らしく、しっかり休んで、食べられるものを食べたら、彼の回復は早かった。外傷の一部はまだまだ痛々しいけれど、顔色はずいぶんとよくなってる。
――だから、そろそろいいんじゃないかと思うんだ。
「ね、アンナ。今日、これから、彼の〈隷属〉魔法を解こうと思うの」
昼食を終え、空になった食器を下げてもらってから、アンナに告げる。
彼女はハッとその目を見開き、姿勢も正した。
「おそらく、彼を縛っているのは相当高位の〈隷属〉魔法よ。わたしも、それなりに魔力を消費すると思う」
「かしこまりました」
彼女はわたしの言葉に真剣に頷くと、立ち去っていく。
魔力を消費すると莫大な副作用があるから、今日はアンナにもキースにも、その対処のために準備を進めておいてもらわなければならない。
わたしは入り口のドアや窓が閉まっているのを確認してから、改めて彼と向き合う。
いつもの簡易ベッドの上にふたり。わたしは彼の腿の上にまたがるようにして座って、視線を上に向けた。
彼はまるで壊れた人形みたいにぼんやりとしているけれど、わたしが頬に触れるとゆっくりと視線をこちらにくれる。
「ね、レオルド。わたしの声が届いているなら、聞いて。――今からね、あなたを縛りつけている〈隷属〉魔法を断ち切ろうと思うの。その魔法はあなたの精神に直接結ばれているものよ。だから、わたしがそれに触れると、痛かったり苦しかったりすると思う。だけど、ちょっとの間だから我慢してほしいの」
「……」
「わたしもあなたのなかに潜るわけだから、しばらくの間反応できなくなる。だけど、ぎゅってしてていいから。――ね? ちょっとの間、我慢してね」
返事はないけれど、代わりに強く抱きしめられた。
ほんとにわかってるのかな、なんて苦笑しながら、わたしもまた彼をぎゅっと抱きしめ返す。
厚い胸板。まだあちこちに包帯をいっぱい巻いているけれど、少しずつ、肌にもハリが出てきている。そんな彼の胸に、わたしは頬をくっつけて、ゆっくりと目を閉じた。
「すぐに、終わるわ」
神経を集中し、意識を世界の裏側に向ける。
そしてわたしの意識は彼の内にある暗き海のなかへと潜り込んでいった。
――そこは人間の精神の奥。海のようで、星空のようでもある空間。
けれども、彼の場合は少し違った。恐ろしいほどの静寂に、弱々しい星が凍りつきそうなほどに震えている。自由に動き回れない星たちは、ぎゅうとひとところに押し込められるように密集して、ちらちらと点滅を繰り返していた。
魔力を持った人間なら、本来この場所に大きな渦や川の流れのようなものがあるはずなのだけれど、それは見えない。
魔力の流れを完全に堰き止められているらしく、星々を尋常じゃない数の鎖が縛っていた。
その鎖こそが、〈隷属〉魔法で与えられた契約。
(細かな契約事がいっぱい。これを施した〈隷属〉魔法使いは、よほど腕がいいようね……。自殺禁止に反抗禁止、言語能力の封印、複雑な思考の禁止――契約を破ったら痛みを与えるという小さなものから、何もせずとも身体と精神を痛め続ける悪趣味な鎖まで……)
普通なら絶対、ここまではしない。せいぜい命令に逆らったら苦痛を与えるくらいなのに……
見ているだけで、胸が痛くなる。
ずっと気になっていたのだ。慢心とも言えるほどに自信に満ち溢れていた〈赤獅子〉レオルド・ヘルゲンが、あんなに澱んだ目をするようになっていたことに。
(彼を縛る根源は――ああ、ひと目でわかる)
魔力の流れを縛りつけているのは、他とは比べ物にならないくらいに巨大な鎖だ。それには棘のようなものが無数についていて、レオルドの魔力の道を直接傷つけている。
(すごい。……幾重にも入念に、魔法を重ねたのね。こんなに厳重な鎖、はじめて見た)
ここまで重ねがけされていると、いくらわたしにだって、一日や二日じゃどうにもできない。
きっと施す際も、何日もかけたのだろう。実際、レオルドは力を持った魔法使いでもあったから、縛る側も簡単にはいかなかったのだと思う。
わたしは、この魔法をかけた〈隷属〉魔法使いに思いを馳せる。
黒き神の祝福を受けた、〈隷属〉魔法使い。
彼らは、黒い髪や黒い瞳を持っていて、生まれた瞬間に生き方が決まってしまう。
〈隷属〉魔法というのはそれほど貴重で、黒き神の祝福を授かって生まれた者は、必ずと言っていいほど、幼少期に国に保護されるのだ。そして〈隷属〉魔法使いとして育てられる。
そのなかでも特に優秀な魔法使いが、レオルドに〈隷属〉魔法をかけたに違いない。
わたしは目を細めた。視界を狭くすると、彼を〈結ぶ〉鎖がよりはっきりと見えた。
――わたしは〈結び〉の魔法使い。
世界の〈結びつき〉を操作する、特殊な魔法を授かった。
人と人を、あるいは物を、事象を、理を繋ぐ。世間の人は、なんとなくそんな認識でいてくれていると思う。
(わたしが操るのは〈繋がり〉そのもの。だから〈結ぶ〉こともできれば〈解く〉こともできる)
言ってしまえば、世の〈隷属〉魔法の使い手と、非常に似た力を持っているのだ。
……というよりも、本質は同じ。ただ彼らは人と人を〈結ぶ〉ことにしかその才能を向けていなかっただけ。
――世界でも指折り数えるほどしか存在せず、生まれつき生き方や学び方が決められてしまう彼らはみんな、視野が狭く、黒き魔法の真価に気がついていない。
(黒き神の祝福の、本当の力は――)
わたしが己のなかに魔力を溜め込むと、ふわりと黒い髪がなびく。
精神世界では、わたし自身も本来の姿がむき出しになる。普段は魔法で淡い茶色に染めている髪も、瞳も、本来は真っ黒。
それは、黒き神の祝福の証――
そんなわたしだからこそ、当然、彼らが〈結んだ〉契約も〈解く〉ことができる。
今日だけじゃすべては無理だろうけれど、レオルドにかけられた魔法を少しでも解いてあげたい。
わたしは手を伸ばした。ぶるりと震える、小さな光に。
(大丈夫。わたしはあなたに、けっして危害を加えない)
彼を縛る鎖に触れた。ピリ、という痛みがわたしの手に走る。
何年も何年も彼を縛りつけていた契約の数々――わたしは魔力を一点に集中させ、一気にその鎖を断ち切った。
――パアンッ!!
わたしの耳の奥に、魔力が破裂する音が聞こえる。
(よし)
ひとつひとつ細い鎖を断ち切っていく。魔力を堰き止めている太い鎖にはまだ手をつけられないけれど、彼の自我を縛っているものを、どんどん破壊していく。
二十を越えたあたりから数えるのをやめたけれど、さすがの量だ。ひどく魔力を消耗してしまう。
(ちょっと、はりきりすぎたかも)
これ以上手を加えるのはやめておいたほうがいいかもしれない。わたしの魔力がもたない。
鎖を断ち切ったからといって終わりじゃない。わたしは、これからこのレオルドの意識の海を泳いで、地上に戻らなければいけないのだ。
わたしは再びふらふらと真黒の海を泳ぎ出し、意識を浮上させていく。
――ぱきん。
現実に戻ったそのとき、何か、金属が割れたような音が聞こえた。
「――ん」
ぎぃ、とベッドが軋み、その振動が直接膝にくる。
わたしは体重を前にかけたまま気を失っていたらしい。
瞼をわずかに開けると、レオルドの胸で光が遮断されて、世界が薄暗く感じた。
どくどくと、心地よい心臓の音が聞こえる。
無意識に、もっと……とわたしは擦り寄る。するとその鼓動はますます速くなり――次の瞬間、わたしは両肩を掴まれ、がばりと引き剥がされた。
いつかのようにぐりんと身体がひっくり返り、わたしはベッドに背中を打ちつける。
「っ!」
呼吸できなくなるほど強い衝撃に、思わずうめく。
そしてわたしは、わたしを取り巻く世界が変わってしまったことを理解した。
「なんだ? ――おい、嬢ちゃん。アンタ、何モンだ? オレに何しやがった、なあ?」
ごちん、と額をぶつけられ、体重をかけられる。
目の焦点が合うと、目の前に赤い色彩があることがわかる。
どうやら、わたしの上にはレオルドがのしかかっているようだ。
彼は目を吊り上げて、わたしを睨みつけている。
問答無用で両手首を掴み上げられ、頭の上に縫いつけられる。わたしを押さえつける彼の手は怒りで震えていて、ぎゅう、と力を込められると、手首の骨が軋んだ。
「いた……っ」
「オレを襲おうったぁ、いい度胸だな」
がらがらに掠れた声で凄まれる。
これくらいの脅しで屈するわたしではないけれども、その内容のほうに硬直することとなった。
「襲う? えっ?」
「急に抱きついてきやがって。どこだここは? いつの間に薬なんか仕込みやがった」
「えっ? は?」
なんだかとんでもない誤解をされている気がする。というより、レオルドの意識は、いつの記憶と繋がっているのだろう。
先ほどまでと違って、目の前の男はハッキリとした自我を持っている。ぼうぼうの髭面で凄む彼は、まるでどこぞの山賊のようだ。
「嬢ちゃん、可愛いツラして好き者か? ハッ、男に乗っかるのが好きなのかい? ……残念だがな、オレの好みは嬢ちゃんみたいなガキじゃねェんだわ」
レオルドはそう言うと、わたしの胸倉をひっつかんで身体を引き離す。そのままぽいっと片腕でベッドに投げ捨てられるように突き放されて、わたしは咳き込んだ。
「んじゃ、あばよ」
彼はそう言って部屋を立ち去ろうとしたらしい――のだけれど、すぐにガタガタッと、ものすごい音が聞こえた。
「レオルド!?」
驚いて彼のほうを見てみると、レオルドの大きな背中が目に映る。
彼はその場に蹲り、そのままのたうち回って、テーブルに身体を打ち付けていたのだ。
「っ! ンだこりゃ! ってええええ……っ!」
彼の魔力を縛る一番大きな〈隷属〉魔法は、簡単に解ける代物ではない。
棘を持った大きな鎖。あれが彼の魔力の通り道をぐるぐるに縛り、直接彼の精神や肉体に痛みを感じさせているのだ。
「レオルド! まだ〈隷属〉魔法がっ」
わたしはとっさにベッドから飛び降りた。彼の巨体を背中から抱え込むけれど、のたうち回る彼に振り回されて体勢を崩してしまう。そのままなし崩しにふたりで床に転がり、絡み合った。
「ってェ……っ」
「~~~~っ!」
勢い余ってわたしも変なところを打ったらしく、腰がジンジン痛む。
しばらくその痛みで動けなかった。
涙目になりながらもおそるおそる瞼を開けると、そこには苦い表情をしたレオルドがいる。
彼も腿のあたりを打ったのか、左手でそこを擦っている。けれど何かに気がついたのか、彼はくいと片眉を上げた。
「――ん?」
彼は表情を強ばらせて、眉間に皺を寄せる。そのまま顎に手をあてて、じっと考え込んだ。
「……痛、くねえな」
ペタペタペタと、彼はわたしの身体に触れて、ひと呼吸。
「あの――って、レオルド!?」
次の瞬間、何を思ったのか彼はがばりとシャツを脱いだ。まだ包帯が巻かれているけれど、すっかり見慣れてしまったはずの身体も、こうして見せつけられると心臓に悪い。
そして彼は、まるで獲物を定めた獅子のような目をして、こちらを睨みつけてくる。
「ありがとう、アンナ」
「それから、彼が目覚めたら、こちらも必要かと思いまして」
部屋に入ってきたアンナが、ベッドの隅にタライを、小さなテーブルに包帯やら水差しなど必要なものを置いてくれる。
「もう少しお休みになったら、食べるものもご用意いたします。何かあればお呼びください」
彼女はそれだけ言い残して、出て行ってしまった。
……うーん。やっぱりあえてふたりきりにされている気がする。
アンナはわたしの旅の目的もよく理解してくれているから、気を利かせてくれているんだと思う。少し、微笑ましいものを見るような視線が気恥ずかしいけど。
(さて、ずいぶん綺麗になったかな)
新しく綺麗なタオルを濡らして、最後に丁寧に彼の身体を拭った。
(たっぷり眠って、ご飯を食べて。早く、元気になってね)
彼の口角がわずかに上がった気がして、ほっとする。わたしは無意識に、彼のおでこに自分のおでこをコツンとくっつけた。
今日一日、ずっとくっついていたからか、わたしの感覚もちょっと麻痺しちゃっている。
――だから完全に油断してた。
突然ぐりんと、視界がさかさまになる。何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
気がつけばわたしの身体はひっくり返され、なぜか彼にのし掛かられていたのだ。
そしてそのまま、ぎゅうぎゅう抱きしめられてしまった!
「レオルド! え!? 待って? ね、起きてってば……!」
わたしの頭のなかは真っ白になった。
(寝ぼけてる!? ――いやいやいや。ちょっと待って!? この体勢はマズくないかなあ!?)
だって、レオルドは、下穿きこそはいているけれど、ほぼ裸。年頃の男女が、同じベッドで抱き合うだけでおおごとなのに、押し倒されるなんて!
さらにレオルドは、すごーく穏やかな顔をしてわたしにぐりぐり顔を押しつけてくるとか……いや、待って!? そこ、胸っ。ふわ、胸にお顔を擦りつけないで……っ!?
この状況にわたしの心臓がもつはずもない。だからばたばた暴れるけど、ビクともしない。
憔悴しきっているとはいえ、レオルドはやっぱり戦士で、たくましい男の人なのだ。
「ちょ……レオルドっ!?」
押してもすり抜けようとしても、全部ムダ。たくましい腕にぎゅうぎゅう抱きしめられ、本気で耐えられないって思った、そのとき――
「何をやっているのですかっ!!」
バァン、と、勢いよくドアが開かれ、これでもかってくらいの大声が耳に届く。かと思うと、一瞬でわたしの身体が軽くなった。
わけもわからないうちに、レオルドが部屋に入ってきた人物に突き飛ばされ、床に転がされたのだった。
「お、俺がいない間に! 貴様っ、お嬢さまを汚そうなんざ、百年早いっ!!」
わたしは、事実確認もまともにせず、レオルドに容赦ない蹴りを入れた男に目を向ける。
そこにいたのは、勝手にわたしの貞操の危機を勘違いしてくれたもうひとりの付き人――キース・バートレイ。それはもう、主人想いの暑苦しい男だった。
キースはひとつにまとめられた華やかな金髪と、涼しげな碧眼が印象的な美男子だ。
彼に微笑まれてときめかない女の子はいないと断言できるほどに、整った顔立ちをしている。その気になれば彼女の十人や二十人余裕で作れるだろうに、そんな素振りすら見せない仕事人間……と言えば聞こえはいいけれど。
……なんというか、彼は小さな頃からわたしの面倒を見ることに人生をかけすぎている、超過保護人間なのだ。
当然、レオルドとくっつきっぱなしの今のような状況、彼が見逃してくれるはずがない。
今のような容赦のない一撃もきっと、彼の忠誠心の表れなのだろう。
けれど、やっていいことと悪いことがある。
「馬鹿! 何やってるのよ、キース!」
「は? ……お嬢、さま……?」
呆けるキースなんて、当然無視だ。
わたしはキースを押しのけて、レオルドに駆け寄った。
だって、今のレオルドを放っておけるはずがないもの。彼はわたしから離されたことで激しい痛みに襲われたらしく、床に転がり、のたうちまわっている。
「レオルド!」
慌ててレオルドに手を伸ばすと、彼も必死でわたしを求め、抱きしめてくる。
そうして床に座ったまま、わたしは再び、彼に離してもらえなくなった。
「お嬢さま、それは一体……?」
あまりの出来事に、キースは目を白黒させる。
わたしはそっとため息をつき、これまでのことを順を追って説明したのだった。
――結果。
「ああああ許すまじ、レオルド・ヘルゲン!」
キースは頭を抱えて叫んでいた。
「事情はわかりましたが、お嬢さまも! もう少し抵抗なさってください!! 完全に押し倒されてましたよね? 節度というものがあるでしょう!」
「そ、それは誤解よ。ちゃんと、抵抗したわよ? うん、ホントに」
「……満更でもない顔をしてたくせに」
「ううっ……!」
見透かされている。すっごく焦ったのは事実だけど、相手はあのレオルドなのだ。ドキドキしちゃうのは仕方がないことだと思う。
図星を指されて、わたしは誤魔化すように笑った。そんなわたしを、キースがじとりと見る。
「一体なんなのですか? お嬢さまがくっついているときだけ大人しくなるとか、この男……」
「わからないのよ。だから〈隷属〉魔法の鎖を見てみようと思うんだけど、彼の体力が回復しないとさすがに負担が大きいもの」
「だったら、その野郎が元気にならないかぎり、お嬢さまは、まさか、まさか……!」
「できるかぎりひっついているわよ」
そう言った瞬間、キースの綺麗な碧眼から、ぶわっと滂沱の涙が溢れ出した。
「そんなっ……あまりに、破廉恥っ、破廉恥ですお嬢さまっ」
「いやいや、これ人助けだから」
「とか言いながら、儲けたって顔しないでくださいっ。取引するときの旦那さまと同じ顔してるぅ」
「えーっ。せめてお母さまと似てると言ってくれる?」
「さらっと旦那さまに失礼なこと言った!」
キースは涙目のまま喚いている。いやほんと、うるっさいのなんの。
この街に来るまでの道中だって、お嬢さまは男を見る目がないだの、俺より年上の男なんてだの、本当に本人かどうかもわからないのに会いに行くなんてだの、ずーっとぷりぷりしていた。
心配してくれるのはありがたいけど、正直、ちょっと鬱陶しい。しかも、この期に及んでうだうだしっぱなしなのだ、この男は。
「アンナから事情は聞いておりましたが、俺は認めるわけにはいきませんっ。お嬢さまのお部屋はしっかりとご用意しておりますから、そちらに……」
「……だから。今はレオルドのそばから離れるつもりはないの」
何度言わせたら気が済むのだろう。寝転がったままだからいまいち格好つかないけれど。じっとりとキースを睨みつけると、彼はうっ、とうめいた。
「何度説得しようとしても無駄よ。わたしがいることで彼が安らげるなら、それでいい。なんのためにこの街までやってきたと思っているの? わたしの最優先は、レオルドなんだから」
「……っ」
「このままじゃ、うるさくて彼が休めないわ。――出て行って」
「……かしこまり、ました」
いまだキースの涙は止まらず、その肩が「無念」と告げている。
まだまだ言いたいことは山ほどあるのだろう。
それでも、彼は唇を噛みしめたまま、そっと、部屋から出て行った。
「……はぁ」
そんなキースの後ろ姿を見送って、わたしはため息をついた。
たしかに非常識なことをしていると思う。わたしも一応女としての教育を受けているから、結婚前の男女が、こうやってひとつのベッドで一緒に横になるのが問題だってことくらいわかるよ。
――でもさ。
(さすがに、今のレオルドが異常だってことくらい、わたしだって気付いてるもん)
死を待つ奴隷たちが押し込められたあの地下から彼を連れ出したとき。むき出しだった敵意を引っ込め、驚きで目を潤ませたレオルドの顔が忘れられない。
彼はひとり隔離され、手足も、首までも、ガッチリと固定されていた。
それがどうしてか、今ならわかる。彼を放っておくと、痛みでのたうちまわるからだ。きっと、それすらもさせないようにしていたのだろう。
それに、今も彼の首に嵌められている黒い首輪。これは魔石という魔力を含んだ特殊な石でできている特別製だ。魔石のなかでも特に稀少で、力のある石でできているみたい。
わざわざこんな貴重な魔石を媒体にしてまで奴隷という身分の人間を縛るとか、普通するかな。
それに、問題は首輪だけじゃない。彼自身にも、強い〈隷属〉魔法がかけてあるのだ。
レオルド本人の魔力の波動を感じないから、多分、彼の体内にある魔力の道が、何者かの魔法によって無理矢理閉ざされているのだと思う。
彼にかけられた魔法は、〈隷属〉魔法のなかでも特に珍しいものではないだろうか。少なくとも、わたしは見るどころか、聞いたことすらない。
〈隷属〉魔法――それは、相手を使役するために契約で縛ることのできる、特別な魔法だ。
その魔法をかけられると、行動や言動を制限され、魔法の使い手に支配されるようになる。
契約内容は様々だけれど、命令に従わない場合、ひどい苦痛を与えられることもある。使い方によっては、非常に悪質な魔法にもなってしまうんだ。
……ううん。ほとんどの場合が、悪質な使い方をされてしまうと言ってもいいのかも。
わたしは床に座り込んだまま、穏やかに眠っているレオルドの寝顔をそっと見つめる。
(わたしの力でどこまで解除できるかな)
実は、わたしの得意魔法も少し特殊だからね。
ある意味〈隷属〉魔法と非常に似た特性を持っているから、彼にかけられた魔法の鎖をいくらかは断ち切ることができると思うんだ。……ううん、なんとしても断ち切らなきゃ。
奴隷という身分は、彼の根本から、彼自身を苦しめた。
あんなむき出しの敵意を向けるくらい、すべてを敵視するしかできなかった彼の数年を想う。
一体どんな経験をすればこんなことになるのか、想像すらできない。
でも、あれほどの苦痛を常時――それも何年も与え続けられると、おかしくなってしまうのも不思議ではない。
大丈夫、ここにいるよと呟くと、穏やかな寝息が聞こえてくる。
きっとこれまで、彼はまともに眠ることすらできなかったに違いない。
――そうしてレオルドは眠り続けた。
わたしを離してくれないまま彼がベッドの上の住人になって、五日。ようやく彼は、まともに起き上がれるようになったのだった。
それはもう大変な日々だった。なにせ彼は、少しも離れることを許してくれないんだもん。
もちろん、彼がそんな行動をするのは全部、彼を縛る魔法のせいだということは理解してるよ。
だから、わたしがその魔法から彼を解放するまでは、できるだけ、彼のそばにいてあげようって思っている。
でもやっぱりね……お風呂とか、トイレとか、着替えとかはね? うん。さすがに抵抗があるといいますか。
そういったさわりがあるときだけは、心苦しいけどレオルドには我慢してもらって、アンナたちにどうにか引っぺがしてもらっていた。
わたしと離れている間は痛みに苦しんでいたみたいだけど……さすが〈赤獅子〉というべきか。もともと体力のある人らしく、しっかり休んで、食べられるものを食べたら、彼の回復は早かった。外傷の一部はまだまだ痛々しいけれど、顔色はずいぶんとよくなってる。
――だから、そろそろいいんじゃないかと思うんだ。
「ね、アンナ。今日、これから、彼の〈隷属〉魔法を解こうと思うの」
昼食を終え、空になった食器を下げてもらってから、アンナに告げる。
彼女はハッとその目を見開き、姿勢も正した。
「おそらく、彼を縛っているのは相当高位の〈隷属〉魔法よ。わたしも、それなりに魔力を消費すると思う」
「かしこまりました」
彼女はわたしの言葉に真剣に頷くと、立ち去っていく。
魔力を消費すると莫大な副作用があるから、今日はアンナにもキースにも、その対処のために準備を進めておいてもらわなければならない。
わたしは入り口のドアや窓が閉まっているのを確認してから、改めて彼と向き合う。
いつもの簡易ベッドの上にふたり。わたしは彼の腿の上にまたがるようにして座って、視線を上に向けた。
彼はまるで壊れた人形みたいにぼんやりとしているけれど、わたしが頬に触れるとゆっくりと視線をこちらにくれる。
「ね、レオルド。わたしの声が届いているなら、聞いて。――今からね、あなたを縛りつけている〈隷属〉魔法を断ち切ろうと思うの。その魔法はあなたの精神に直接結ばれているものよ。だから、わたしがそれに触れると、痛かったり苦しかったりすると思う。だけど、ちょっとの間だから我慢してほしいの」
「……」
「わたしもあなたのなかに潜るわけだから、しばらくの間反応できなくなる。だけど、ぎゅってしてていいから。――ね? ちょっとの間、我慢してね」
返事はないけれど、代わりに強く抱きしめられた。
ほんとにわかってるのかな、なんて苦笑しながら、わたしもまた彼をぎゅっと抱きしめ返す。
厚い胸板。まだあちこちに包帯をいっぱい巻いているけれど、少しずつ、肌にもハリが出てきている。そんな彼の胸に、わたしは頬をくっつけて、ゆっくりと目を閉じた。
「すぐに、終わるわ」
神経を集中し、意識を世界の裏側に向ける。
そしてわたしの意識は彼の内にある暗き海のなかへと潜り込んでいった。
――そこは人間の精神の奥。海のようで、星空のようでもある空間。
けれども、彼の場合は少し違った。恐ろしいほどの静寂に、弱々しい星が凍りつきそうなほどに震えている。自由に動き回れない星たちは、ぎゅうとひとところに押し込められるように密集して、ちらちらと点滅を繰り返していた。
魔力を持った人間なら、本来この場所に大きな渦や川の流れのようなものがあるはずなのだけれど、それは見えない。
魔力の流れを完全に堰き止められているらしく、星々を尋常じゃない数の鎖が縛っていた。
その鎖こそが、〈隷属〉魔法で与えられた契約。
(細かな契約事がいっぱい。これを施した〈隷属〉魔法使いは、よほど腕がいいようね……。自殺禁止に反抗禁止、言語能力の封印、複雑な思考の禁止――契約を破ったら痛みを与えるという小さなものから、何もせずとも身体と精神を痛め続ける悪趣味な鎖まで……)
普通なら絶対、ここまではしない。せいぜい命令に逆らったら苦痛を与えるくらいなのに……
見ているだけで、胸が痛くなる。
ずっと気になっていたのだ。慢心とも言えるほどに自信に満ち溢れていた〈赤獅子〉レオルド・ヘルゲンが、あんなに澱んだ目をするようになっていたことに。
(彼を縛る根源は――ああ、ひと目でわかる)
魔力の流れを縛りつけているのは、他とは比べ物にならないくらいに巨大な鎖だ。それには棘のようなものが無数についていて、レオルドの魔力の道を直接傷つけている。
(すごい。……幾重にも入念に、魔法を重ねたのね。こんなに厳重な鎖、はじめて見た)
ここまで重ねがけされていると、いくらわたしにだって、一日や二日じゃどうにもできない。
きっと施す際も、何日もかけたのだろう。実際、レオルドは力を持った魔法使いでもあったから、縛る側も簡単にはいかなかったのだと思う。
わたしは、この魔法をかけた〈隷属〉魔法使いに思いを馳せる。
黒き神の祝福を受けた、〈隷属〉魔法使い。
彼らは、黒い髪や黒い瞳を持っていて、生まれた瞬間に生き方が決まってしまう。
〈隷属〉魔法というのはそれほど貴重で、黒き神の祝福を授かって生まれた者は、必ずと言っていいほど、幼少期に国に保護されるのだ。そして〈隷属〉魔法使いとして育てられる。
そのなかでも特に優秀な魔法使いが、レオルドに〈隷属〉魔法をかけたに違いない。
わたしは目を細めた。視界を狭くすると、彼を〈結ぶ〉鎖がよりはっきりと見えた。
――わたしは〈結び〉の魔法使い。
世界の〈結びつき〉を操作する、特殊な魔法を授かった。
人と人を、あるいは物を、事象を、理を繋ぐ。世間の人は、なんとなくそんな認識でいてくれていると思う。
(わたしが操るのは〈繋がり〉そのもの。だから〈結ぶ〉こともできれば〈解く〉こともできる)
言ってしまえば、世の〈隷属〉魔法の使い手と、非常に似た力を持っているのだ。
……というよりも、本質は同じ。ただ彼らは人と人を〈結ぶ〉ことにしかその才能を向けていなかっただけ。
――世界でも指折り数えるほどしか存在せず、生まれつき生き方や学び方が決められてしまう彼らはみんな、視野が狭く、黒き魔法の真価に気がついていない。
(黒き神の祝福の、本当の力は――)
わたしが己のなかに魔力を溜め込むと、ふわりと黒い髪がなびく。
精神世界では、わたし自身も本来の姿がむき出しになる。普段は魔法で淡い茶色に染めている髪も、瞳も、本来は真っ黒。
それは、黒き神の祝福の証――
そんなわたしだからこそ、当然、彼らが〈結んだ〉契約も〈解く〉ことができる。
今日だけじゃすべては無理だろうけれど、レオルドにかけられた魔法を少しでも解いてあげたい。
わたしは手を伸ばした。ぶるりと震える、小さな光に。
(大丈夫。わたしはあなたに、けっして危害を加えない)
彼を縛る鎖に触れた。ピリ、という痛みがわたしの手に走る。
何年も何年も彼を縛りつけていた契約の数々――わたしは魔力を一点に集中させ、一気にその鎖を断ち切った。
――パアンッ!!
わたしの耳の奥に、魔力が破裂する音が聞こえる。
(よし)
ひとつひとつ細い鎖を断ち切っていく。魔力を堰き止めている太い鎖にはまだ手をつけられないけれど、彼の自我を縛っているものを、どんどん破壊していく。
二十を越えたあたりから数えるのをやめたけれど、さすがの量だ。ひどく魔力を消耗してしまう。
(ちょっと、はりきりすぎたかも)
これ以上手を加えるのはやめておいたほうがいいかもしれない。わたしの魔力がもたない。
鎖を断ち切ったからといって終わりじゃない。わたしは、これからこのレオルドの意識の海を泳いで、地上に戻らなければいけないのだ。
わたしは再びふらふらと真黒の海を泳ぎ出し、意識を浮上させていく。
――ぱきん。
現実に戻ったそのとき、何か、金属が割れたような音が聞こえた。
「――ん」
ぎぃ、とベッドが軋み、その振動が直接膝にくる。
わたしは体重を前にかけたまま気を失っていたらしい。
瞼をわずかに開けると、レオルドの胸で光が遮断されて、世界が薄暗く感じた。
どくどくと、心地よい心臓の音が聞こえる。
無意識に、もっと……とわたしは擦り寄る。するとその鼓動はますます速くなり――次の瞬間、わたしは両肩を掴まれ、がばりと引き剥がされた。
いつかのようにぐりんと身体がひっくり返り、わたしはベッドに背中を打ちつける。
「っ!」
呼吸できなくなるほど強い衝撃に、思わずうめく。
そしてわたしは、わたしを取り巻く世界が変わってしまったことを理解した。
「なんだ? ――おい、嬢ちゃん。アンタ、何モンだ? オレに何しやがった、なあ?」
ごちん、と額をぶつけられ、体重をかけられる。
目の焦点が合うと、目の前に赤い色彩があることがわかる。
どうやら、わたしの上にはレオルドがのしかかっているようだ。
彼は目を吊り上げて、わたしを睨みつけている。
問答無用で両手首を掴み上げられ、頭の上に縫いつけられる。わたしを押さえつける彼の手は怒りで震えていて、ぎゅう、と力を込められると、手首の骨が軋んだ。
「いた……っ」
「オレを襲おうったぁ、いい度胸だな」
がらがらに掠れた声で凄まれる。
これくらいの脅しで屈するわたしではないけれども、その内容のほうに硬直することとなった。
「襲う? えっ?」
「急に抱きついてきやがって。どこだここは? いつの間に薬なんか仕込みやがった」
「えっ? は?」
なんだかとんでもない誤解をされている気がする。というより、レオルドの意識は、いつの記憶と繋がっているのだろう。
先ほどまでと違って、目の前の男はハッキリとした自我を持っている。ぼうぼうの髭面で凄む彼は、まるでどこぞの山賊のようだ。
「嬢ちゃん、可愛いツラして好き者か? ハッ、男に乗っかるのが好きなのかい? ……残念だがな、オレの好みは嬢ちゃんみたいなガキじゃねェんだわ」
レオルドはそう言うと、わたしの胸倉をひっつかんで身体を引き離す。そのままぽいっと片腕でベッドに投げ捨てられるように突き放されて、わたしは咳き込んだ。
「んじゃ、あばよ」
彼はそう言って部屋を立ち去ろうとしたらしい――のだけれど、すぐにガタガタッと、ものすごい音が聞こえた。
「レオルド!?」
驚いて彼のほうを見てみると、レオルドの大きな背中が目に映る。
彼はその場に蹲り、そのままのたうち回って、テーブルに身体を打ち付けていたのだ。
「っ! ンだこりゃ! ってええええ……っ!」
彼の魔力を縛る一番大きな〈隷属〉魔法は、簡単に解ける代物ではない。
棘を持った大きな鎖。あれが彼の魔力の通り道をぐるぐるに縛り、直接彼の精神や肉体に痛みを感じさせているのだ。
「レオルド! まだ〈隷属〉魔法がっ」
わたしはとっさにベッドから飛び降りた。彼の巨体を背中から抱え込むけれど、のたうち回る彼に振り回されて体勢を崩してしまう。そのままなし崩しにふたりで床に転がり、絡み合った。
「ってェ……っ」
「~~~~っ!」
勢い余ってわたしも変なところを打ったらしく、腰がジンジン痛む。
しばらくその痛みで動けなかった。
涙目になりながらもおそるおそる瞼を開けると、そこには苦い表情をしたレオルドがいる。
彼も腿のあたりを打ったのか、左手でそこを擦っている。けれど何かに気がついたのか、彼はくいと片眉を上げた。
「――ん?」
彼は表情を強ばらせて、眉間に皺を寄せる。そのまま顎に手をあてて、じっと考え込んだ。
「……痛、くねえな」
ペタペタペタと、彼はわたしの身体に触れて、ひと呼吸。
「あの――って、レオルド!?」
次の瞬間、何を思ったのか彼はがばりとシャツを脱いだ。まだ包帯が巻かれているけれど、すっかり見慣れてしまったはずの身体も、こうして見せつけられると心臓に悪い。
そして彼は、まるで獲物を定めた獅子のような目をして、こちらを睨みつけてくる。
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