魔女の虚像

睦月

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14.鳩羽ひまりの日記⑤

2007/9/2 2ページ目

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「馬鹿なことはよしなさい。ライターをこちらへ」

「嫌です。緋音様、知ってますか?ガソリンって数メートル離れたところでも火の気があれば燃え上がるらしいですよ。私が今火をつけたら、どうなることか」

「だから危険なので早く離してください」

「真相を公表してくれるというまで引き下がりません」

ライターをかばいながら、緋音様を睨みつけた。緋音様は苛立たし気にライターを掴んでいる私の右手に手を伸ばす。ほかの家族は、私を刺激するのを恐れているのか、近づいてこない。

私だって火をつけることは望んでいない。火をつけたって、真相は闇に隠れたままなのだから。けれど公表してくれないというのなら、彼らを許せない。


「烏丸さんのことを公表するわけにはいきません。石鷲見家の人間が殺人事件を起こしたというだけでなく、それを隠していたなんてしれたら、うちはもう終わりです」

「玲佳はあなたたちの代わりに終わりにされました。玲佳の名誉はどうでもいいんですか?」

「使用人ごときに名誉だなんて」

緋音様は目を鈍く光らせて言う。そして、掴んでいた私の左手をさらに折れるくらい強く握った。痛みで手の力が緩む。私の体格では抗うのもそろそろ限界だった。


今さらになって、私は尻込みしていた。今なら火をつけられる。けれど、恐ろしいと感じてしまう。

自分の命なんてどうでもいいと思っているし、玲佳を追い詰めた石鷲見の人間なんて死ねばいいと思っているのに、指が動かない。死ぬのも殺すのも、恐ろしい。


「鳩羽さん。あなたが今になって暴れて何になるんですか?玲佳さんはあなたと違って聡明な人だった。僕が、これは石鷲見を守るため、ひいては紅介兄さんを守るためでもあるんですとお話したら、ちゃんとわかってくれた」

「まさか、あなたが玲佳に罪を被せることを思いついたんですか?」

「ええ。そうです。それが一番丸く収まると思ったので」

緋音様の手が私の右腕を掴む。もう駄目だ。今押さなければチャンスはない。でも、それでも押す勇気が出ない。ここまでやっておいて、なぜ私は怯えているんだ。

その時、突然爆発するような音が響いた。視界の隅が光る。

見ると、廊下が炎に包まれていた。爆発に驚いた緋音様の腕が緩んだ隙に急いで抜け出す。

ライターのボタンは押せなかったのに。

呆然として室内を振り返ると、後ろに朱莉様が立っていた。真っ黒な光のない目でマッチを手にこちらを見つめている。マッチなんて一体どこにあったんだろう。

「朱莉様が火を……?」

「ばれるわけにはいかないの」

いつも怒っていたり、笑っていたり、わかりやすい表情をしている朱莉様に、今は何の表情もない。

「ばれるくらいなら死んだ方がましよ」

朱莉様はそう言って、口の端を上げて笑った。


火はすごい勢いで燃え広がっていった。廊下が赤く光って、もうすでに前も見えない。石鷲見家の人たちは、部屋の中を逃げまどい、出口を探している。けれど、この部屋に玄関以外の出口なんてない。下見をしたときに確認した。

朱莉様は一人ケタケタ笑ったまま動かず、奥様に引っ張られて引きずられるようにドアのそばから離れた。

私は壁際に寄り、火の海になった廊下を眺める。熱くて、息が苦しい。けれど、現実感がない。このままここにいたら確実に死ぬのに、さっきまであったはずの恐怖心さえどこかへ行ってしまった。

「おい、馬鹿。逃げるぞ」

突っ立っていると、急に手を引っ張られた。見上げると紅介様がこちらを怒った顔で見ている。

「私は大丈夫です」

「何が大丈夫なんだ。そっちに使っていない通路がある。そこからならまだ逃げられるかもしれない」

紅介様はそう言って私の腕を引く。この人はなぜ私を助けようとしているんだろう。私は紅介様と家族を殺そうとしたのに。今こうなっているのも私が原因なのに。

部屋の隅では、旦那様と緋音様が協力して棚をどかしていた。後ろからドアが現れる。準備の時には気づかなかったけれど、ここにも扉があったのか。

扉から出て行く一家をぽかんと眺めていたら、紅介様にいいかげん自分で歩けと怒鳴られた。

のろのろと扉をくぐる。しかし、扉の先の部屋もすでに炎が燃え広がっていた。

絶望的なため息と、朱莉様の笑い声が室内に響く。

「さっきの部屋よりは炎の回りが遅い。炎を避けて進めばなんとか下まで降りられるかもしれない」

旦那様は出口の方を見つめ、硬い声で言う。そうして奥様たちの方を見ると、先頭をきって進んでいった。朱莉様を抱えるように、奥様と緋音様は旦那様の後に続く。

「紅介!あなたも早くしなさい」

「はい」

奥様の甲高い声に呼ばれ、紅介様は返事をする。

「おい、行くぞ」

紅介様はこちらを振り向いて言った。


紅介様に引っ張られながら炎の間をすり抜けて進む。熱い。煙で喉が痛い。意識が朦朧としてきて、自分が今どこを歩いているのかもわからなくなる。ひたすら紅介様の背を見て歩いた。

なんとか廊下を進み切ったところで、紅介様が階段に一歩足をかけたら、ボロボロと崩れ落ちた。無情にも足場は消えていく。

「紅介?」

「ここはもう通れないようです。先に逃げてください。別の道を探します」

下から響く心配そうな奥様の声に、紅介様ははっきりした声で返事をした。

「階段はもう駄目だ。窓から飛び降りるしかない」

「三階ですよ。ここ」

「窓の近くに木の植えてある場所があったはずだ。あそこからなら怪我で済むかもな」

紅介様は炎を避けながら廊下を進む。私が頭の痛みで立ち止まると、乱暴に腕を引いた。


「さっさと歩け。この足手まとい」

「すみません。頭が痛いんです。私は最初から覚悟の上ですから、もう置いていってください」

「うるさい。頭痛くらい我慢しろ。歩くぞ」

紅介様は私の言葉に構わず、ずんずん進んでいく。


窓のそばまでくると、紅介様は着ていた上着を脱いで私の頭に被せた。

「ないよりはましだろ。被ったままここから飛び降りろ。下の木に引っかかれば運が良ければ助かる」

「あの、紅介様は」

「お前の後で飛び降りる。時間がないんだ。さっさとしろ」

紅介様は息を切らして言う。ずいぶん苦しそうだ。
殺そうとした人間に引っ張られ、助けられようとしている状況に混乱しながら、窓枠に足をかけた。
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