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第三章
29 宰相夫人のおもてなし(2/2)
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皇妃への返信は、前夜にあらかた書き終えている。仕上げるのに十分な時間はあるが、おそらく酷く疲れているだろう息子を迎えるために夫人は廊下を急ぐ。
ザイが先代に拉致された時点で、すでに東の宮から詫びの使者が来ていた。今の東の宮は先代と違って細やかである。ザイとしては出来るだけ帰還を延したいだろうから、夫人としてもザイの命が無事であれば何も思わないのであったが。
そう、命が無事であれば。
もしかすれば東の先代はザイを今上から遠ざけようとするかもしれない、とも夫人は考えていた。ザイは一時、出仕が滞っていたから。
無事帰ったということは、先代は改めてザイを認めたということである。いや、或いは。
「先代様は、ザイを未だ甥御様の侍従にふさわしいとお考えでしょうか」
夫人の独り言ではない。夫人の行く先の廊下に一人の男が降ってくる。受け身をとって難なく着地したリヒトはワシワシと頭をかきながら夫人に答える。
「そりゃあザイ殿以上の侍従なんて、当代、世界中どこ探したっていないでしょうよ。筆頭殿もよろしいが、アレはどっちかってえと、宰相の後継にふさわしい。
カイルと先の陛下がきっちり両方用意したってのはもう分かりましたから、うちの先代としちゃあ、後はどうとでもやれって感じかと」
まーた、結界変化させて手強いったら、とぼやくリヒトに、夫人は左様ですか、と呟く。
全ては今上に任せる事にしたのだろう。即位前の過干渉ぶりはどこへ消えたかと夫人はおかしく思う。急に放り出すのもまた先代らしいことだ、とも。
「ま、どんなにすごい加護を持ってらしても、お宅の息子さんの御気性じゃあ、若様の敵にはなり得ないってことです。本当に素直にお育ちで。ザイ君に背かれるようじゃ、若様が悪い主人ってことになっちまいます」
うんうん、いい子だと感心しているらしいリヒトのよく回る口は余計なことも付け加えてしまう。
「親御さんもお師匠方もアレなのに」
それはいつもの軽口のやり取りで終わるはずだった。しかし、そのあとゆるゆると続けられた夫人の言はリヒトを凍てつかせた。
「ではあの子は、私やカイルのように、主人の望まぬ末を見せることはございますまい」
夫人とリヒトとの間に突然ポカリと底無しの暗い穴が空いたかのような。
望まぬ末?
リヒトは少しだけ夫人から後ずさる。思わずに自分の足が動いたことにリヒトは驚き、それを誤魔化すようにおどけて首を傾げて夫人を見る。
「あれ、シファさん、荒れてます?」
「そのように見えますか?」
「やー、てっきり無限回廊に叩き込まれるかと思ってたもんですから?」
どうしました? 調子が狂うんですが? と笑って見せるリヒトに、夫人は笑みを零す。
「まあ、それは失礼いたしました。ではいってらっしゃいまし」
「うわその笑顔、カイルそっくり! アンタ方本当は実の兄妹でしょ!」
ほぼ同時に構築に入った二人だったが、リヒトの目眩しの術の方が完成するのは早かった。しかし、手ずから宰相邸ほぼ全てを結界で要塞化している夫人の目の前でそれをやっても、地の利のある夫人に術ごと結界に取り囲まれては逃げようがない。
こうしてリヒトは後にも先にもない元女官によって、無事、無限回廊に放り込まれた。
※
先ほどの夫人の言を、リヒトは先代の東の宮にどう報告するだろうか?
リヒト相手だとつい喋り過ぎてしまう。
しかし実際のところ、先代に今上や北の宮への興味関心を失ってしまわれては困るのだ。
今上の育ての親である東の先代は、今上の烈しい気性を抑えられる数少ない人物の中の一人。夫と息子が今上に仕える以上、東の先代の宮の力を借りられるに越したことはない。
それでも余計なことを口にしてしまった。
「あら、シロ」
反省する夫人の傍に、いつの間にやら大きな白狼がやってきている。ふさふさの尻尾をハタハタと振って夫人に戯れついてくる。甘えてくる己が契約精霊に夫人は言う。
「リヒトさんと遊びたかったの?」
シロがわふわふと答えるのに、夫人は言う。
「ダメよ、リヒトさんは早い者勝ち。私だってたまにはリヒトさんと遊びたいもの」
残念そうに耳を伏せるシロであったが、すぐにまたじゃれつきはじめ、夫人の袖を引っ張る。
「あら、他にも何かあるの?」
早く来て! とでも言うように、シロは夫人の先を二、三歩タタッと珍しく音を立てて走ると、ふっと消えてしまった。
消えた先は恐らくザイのところ。
先ほどのリヒトの言とシロの様子から夫人が考えるに、どうやらザイは主人の命令に従って精霊と契約してきたらしい。
夫人は思う。リヒトの言う通り、ザイは親にも師匠にも似なかったようだ。本当に素直な侍従である。
「それは良いことかしら?」
今度は独り言に終わった。宮で生きることを決めた我が子にとってその気性が良いことなのかそうでないのか、夫人には未だ判断がつかない。答えをくれる者もいない。
夫人はザイのもとへ向かった。
そうして夫人は懐かしい精霊と再会するのだった。
※────
・夫人は懐かしい精霊と再会する
→「宰相さんちの犬はちょっと大きい─契約編─」(宰相夫妻結婚前の話)05話「頂上にて」
ザイが先代に拉致された時点で、すでに東の宮から詫びの使者が来ていた。今の東の宮は先代と違って細やかである。ザイとしては出来るだけ帰還を延したいだろうから、夫人としてもザイの命が無事であれば何も思わないのであったが。
そう、命が無事であれば。
もしかすれば東の先代はザイを今上から遠ざけようとするかもしれない、とも夫人は考えていた。ザイは一時、出仕が滞っていたから。
無事帰ったということは、先代は改めてザイを認めたということである。いや、或いは。
「先代様は、ザイを未だ甥御様の侍従にふさわしいとお考えでしょうか」
夫人の独り言ではない。夫人の行く先の廊下に一人の男が降ってくる。受け身をとって難なく着地したリヒトはワシワシと頭をかきながら夫人に答える。
「そりゃあザイ殿以上の侍従なんて、当代、世界中どこ探したっていないでしょうよ。筆頭殿もよろしいが、アレはどっちかってえと、宰相の後継にふさわしい。
カイルと先の陛下がきっちり両方用意したってのはもう分かりましたから、うちの先代としちゃあ、後はどうとでもやれって感じかと」
まーた、結界変化させて手強いったら、とぼやくリヒトに、夫人は左様ですか、と呟く。
全ては今上に任せる事にしたのだろう。即位前の過干渉ぶりはどこへ消えたかと夫人はおかしく思う。急に放り出すのもまた先代らしいことだ、とも。
「ま、どんなにすごい加護を持ってらしても、お宅の息子さんの御気性じゃあ、若様の敵にはなり得ないってことです。本当に素直にお育ちで。ザイ君に背かれるようじゃ、若様が悪い主人ってことになっちまいます」
うんうん、いい子だと感心しているらしいリヒトのよく回る口は余計なことも付け加えてしまう。
「親御さんもお師匠方もアレなのに」
それはいつもの軽口のやり取りで終わるはずだった。しかし、そのあとゆるゆると続けられた夫人の言はリヒトを凍てつかせた。
「ではあの子は、私やカイルのように、主人の望まぬ末を見せることはございますまい」
夫人とリヒトとの間に突然ポカリと底無しの暗い穴が空いたかのような。
望まぬ末?
リヒトは少しだけ夫人から後ずさる。思わずに自分の足が動いたことにリヒトは驚き、それを誤魔化すようにおどけて首を傾げて夫人を見る。
「あれ、シファさん、荒れてます?」
「そのように見えますか?」
「やー、てっきり無限回廊に叩き込まれるかと思ってたもんですから?」
どうしました? 調子が狂うんですが? と笑って見せるリヒトに、夫人は笑みを零す。
「まあ、それは失礼いたしました。ではいってらっしゃいまし」
「うわその笑顔、カイルそっくり! アンタ方本当は実の兄妹でしょ!」
ほぼ同時に構築に入った二人だったが、リヒトの目眩しの術の方が完成するのは早かった。しかし、手ずから宰相邸ほぼ全てを結界で要塞化している夫人の目の前でそれをやっても、地の利のある夫人に術ごと結界に取り囲まれては逃げようがない。
こうしてリヒトは後にも先にもない元女官によって、無事、無限回廊に放り込まれた。
※
先ほどの夫人の言を、リヒトは先代の東の宮にどう報告するだろうか?
リヒト相手だとつい喋り過ぎてしまう。
しかし実際のところ、先代に今上や北の宮への興味関心を失ってしまわれては困るのだ。
今上の育ての親である東の先代は、今上の烈しい気性を抑えられる数少ない人物の中の一人。夫と息子が今上に仕える以上、東の先代の宮の力を借りられるに越したことはない。
それでも余計なことを口にしてしまった。
「あら、シロ」
反省する夫人の傍に、いつの間にやら大きな白狼がやってきている。ふさふさの尻尾をハタハタと振って夫人に戯れついてくる。甘えてくる己が契約精霊に夫人は言う。
「リヒトさんと遊びたかったの?」
シロがわふわふと答えるのに、夫人は言う。
「ダメよ、リヒトさんは早い者勝ち。私だってたまにはリヒトさんと遊びたいもの」
残念そうに耳を伏せるシロであったが、すぐにまたじゃれつきはじめ、夫人の袖を引っ張る。
「あら、他にも何かあるの?」
早く来て! とでも言うように、シロは夫人の先を二、三歩タタッと珍しく音を立てて走ると、ふっと消えてしまった。
消えた先は恐らくザイのところ。
先ほどのリヒトの言とシロの様子から夫人が考えるに、どうやらザイは主人の命令に従って精霊と契約してきたらしい。
夫人は思う。リヒトの言う通り、ザイは親にも師匠にも似なかったようだ。本当に素直な侍従である。
「それは良いことかしら?」
今度は独り言に終わった。宮で生きることを決めた我が子にとってその気性が良いことなのかそうでないのか、夫人には未だ判断がつかない。答えをくれる者もいない。
夫人はザイのもとへ向かった。
そうして夫人は懐かしい精霊と再会するのだった。
※────
・夫人は懐かしい精霊と再会する
→「宰相さんちの犬はちょっと大きい─契約編─」(宰相夫妻結婚前の話)05話「頂上にて」
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