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第三章

17 契約

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 セラを幸せには出来ない、なんて。

 なんて思い上がったことを僕は考えていたんだろう。
 
 母は言った。

 セラは幸せになる、と。

 ザイと結婚してもしなくても、他の誰かと結婚しても、誰とも結婚しなくても、セラは幸せになる。

 母に指摘され、それは本当に当然のことで、ザイは久し振りに恥ずかしい思いをした。

 セラはセラだ。セラが幸せかどうかはセラが決めること。あの元気なセラだもの、誰と居たって、一生独りで居たって、彼女は幸せになれる。

 だから、ザイは思う。

 ──だったら、なおさら僕はこの手でセラに触れたくない。

 ザイの手は血にまみれている。

 敵を殺めること、それにザイは随分と早いうちに折り合いを付けた。

 なぜなら、宰相唯一の弱点であるザイは幼い頃から命を狙われ続けていて、それを容赦なく退ける父母や師匠を見て育ってきたからだ。今更迷いなどないし、そのことを恥じたこともない。

 ザイの手は堂々と血にまみれている。それはきっとこれからも続く。

 しかし、セラをそれに巻き込むことは出来ないと思うザイだ。

 セラにはどうか、そんなこととは無縁に過ごして笑っていてほしいと思う。

 宮でくるくると働き、怒り、そして曇りのない笑顔を見せるセラにはどうしても。

 ──ああ、そうか。

 ザイは気づく。

 ──僕はセラを大切にしたいのか。

 文官長の護衛の任で出会ったセラは箱入りのお嬢さんだった。それが宮に上がると、どこかふわふわした柔らかい眼差しはきりりと引き締まり、生き生きと動き出した。女官となって昔が信じられないくらい図太くなったわと本人が言うほど雰囲気も変わったが、それでも。

 傷付けたくない。泣かせたくない。辛い思いをさせたくない。

 それはセラを思ってのことである以上に、ザイがセラがそんなことになるのが、どうしても嫌だからだ。

 ──参ったなあ。

 何が参ったのか分からないが、ザイは参ったなあと思う。これは何だかまずい気がする。何がまずいのかも分からないが。

 こんなにも、自分の気持ちがわからない。

 ザイはカイルを亡くしてしまった時もそんな不安に駆られたが、今はまた違うようである、と思う。

 ──結局僕は、

 ザイは急に酷く疲れてしまって、地べたに座り込んだ。

 ※

 座り込んだザイの頬に、小さい蛟が鼻先をぴたりと当ててくる。

 ザイは、その心地よい冷たさにようやく気づく。

 ──あ、これ、僕、熱がある。

 疲れているところを雨に濡れて体が冷え、風邪をひいたらしい。

 ──そりゃ、考えもまとまらなくなる訳だ。

 ザイは急におかしくなって声を立てて笑う。そんなザイを縹が不思議そうに見る。

 ひとしきり笑ったザイは言う。

「ありがとう、大丈夫だよ」

 小さい蛟は、ザイの背中を支えるように、ザイの後ろでとぐろを巻いている。

「あれ、縹、大きい蛟は?」

 目の前にいたはずなのに。縹に聞くと縹はしばらくしてから言った。

 ──大きいと契約されないから隠れてる。

「そうなんだ。姿を見せてくれないかな?」

 ザイが慌てて呼びかけて辺りを見回すと、少し離れた木の陰、縮こまってじーっとこちらを見る大きな蛟と目があった。

 蛟にも表情というものがあるようである。心なしか目がうるうるしているような気がする。

「ご、ごめんね? でもそんな目で見なくても……」

 対面する他人の表情は、自分の心の鏡だという。

 この場合、相手は人間ではなくて精霊だけど、きっとこの蛟と僕の考えていることは全く違うけれど、僕も今こんな情けない顔をしているだろうか?

 今更、セラに会えなくなることが嫌だなんて都合のいい話だ。
 
 嫌ならこの蛟の力を使いこなせるようになればいい。きっと僕にはその力がある。だって僕は不出来だけれど、それでもカイルさんの弟子だから。

「僕に君の力を貸して欲しいんだ。君がいいなら僕と契約してくれる?」

 ザイがそう言うと、大きい蛟がそろりと近付いてきた。

「ええと、縹、どうすれば契約できるの?」

 ──名前を付けるの。良い名前で呼んであげるの。

「良い、名前?」

 良い名前……、考えるが、ザイの頭は熱に緩む。

 まずい、本格的に熱が上がってきた。風邪はひき始めが肝心。これは早いところ体を休めなければ、明日以降酷いことになる。

 ザイは懸命に考え、思いついた名を口にした。
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