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第三章
30 政略結婚とは
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次にどんな顔をして宰相閣下にお会いすればいいのか、などと悩んでいたことなど、セラは忘れている。なぜなら、セラは打ち合わせに懸命だったからだ。
今までは一女官であったセラは、こういった打ち合わせに参加しても発言を求められることはなかった。
しかし今日は違った。宰相やその秘書官からの質問に答え、さらにはセラから提案もしなければならない。
事前に筆頭相手に今日を想定したやりとりをさせてもらっていたお陰で特段困ることもなかったが、セラには中々に気の張ることであった。
※
宰相との大方の話が終わった。
書類が整うまでの間、筆頭とセラは宰相から勧められて中庭に出ることにした。が、秘書官から筆頭が呼ばれ、セラは一人で庭に出る。
セラは宰相邸の庭について、父からこう聞いていた。
──薬や香に使われる薬草の他にも、染料となる草木、有事に備えて食用になるものまで植えられているのに、鑑賞に耐えうる見事な庭となっている。
話通りの美しい樹々のあしらいに心躍らせながら、セラは散策を始める。天気も穏やか、緊張から解き放たれたセラは、土と水と草花の匂いを目一杯吸い込んで味わう。
皇妃さまから御文を頂いてからのセラは、休み中の日々が嘘のように忙しかった。こんなにゆったりした心地は久しぶりのような気がする。
セラが自室でゴロゴロしている間に父は準備をしていたらしく、「ザイを落とせ」と言った翌日には、セラは二度目の婚約破棄をしていた。
文官長邸で行われた話し合いはあっさりとしたものだった。愛娘が捨てられぬようにと全面協力をした大宿の主人の証言は具体的で疑う余地もなく、書面で提出されたそれと、お相手自身がセラに届けた手紙をもとに淡々と事実確認が行われた。お相手は一切反論することがなかった。
お相手は憔悴しきっていた。お子が生まれるというのに、あのような様子では頼りないことだと思うセラは、自分は本当にこれっぽっちも婚約者に興味を持てなかったのねと改めて思う。それにしても程があるわ、と。
婚約破棄にあたって交わした「生まれてくる子の認知を行い、それを生涯覆さない」「お互い不利になるようなことはしない」という約束は、セラや文官長にとって当然のことで、さほど意味を持つものではない。しかし相手にとっては手足をもがれるも同然だ。彼の官吏としての出世の道は、完全に絶たれた。
セラは元婚約者となった彼に申し訳ないような気になってしまう。しかしこれは、彼の行動によって引き起こされた当然の結果だ。同情するべきではない、とセラは自身に言い聞かせる。
自身に言い聞かせねばならないほど、セラは参っていた。自分に非は無い。だが自分と関わらなければこの方は優秀な官吏で一角の人物になっていたのではないか、などと考え出すと、どうにも暗い気持ちになってしまうのだ。
──私は政略結婚には向いてなさそうね。
向いてなかろうともいずれ誰かと──それはきっとザイ以外の誰かと──結婚して家を継ぐのだろうが、しばらくはそういう話をしたくない。セラはお付き女官の話を頂けて本当に良かったと思う。
しかし、御付き女官となって仕舞えば最低一年は余程のことがない限り宮から出られない。セラは婚約破棄の翌日、会えるだけ友人たちに会い、夜は出来るだけ妹と遅くまで話をした。
結局セラは、妹にはザイへの気持ちを打ち明けた。あの夕食後の話し合いで違和感を覚えていたらしい妹は、ようやく腑に落ちた、という顔をした。そうしてあの厳格な父が、と驚いていた。
「姉様、お母様には言わないの?」
「そうね。心配させるだけだし」
それに、好きな相手と結婚したいと考える娘を、政略結婚した母はどう思うだろうと考えると、セラは言うのが怖かった。
翌日、セラは宮へ戻り女官長と共に衣装方への挨拶回りをし引き継ぎをし、そしてまた家に戻る。やはり、母に話さなければと思ったからだった。
母は、セラの話を聞くとふらりと倒れかけた。心の底からごめんなさいと思いながら母を支えたセラに、気を持ち直した母が怒る。
「お父様はご存知だったなんてひどいわ!」
てっきり「婚約者がいながら他の殿方を想っていたなんて端ない」なんて叱られるものと思っていたセラはぽかんとしてしまう。
え、そちらの方ですか?
「でもそうね、貴女は、私にはきっと言いにくかったでしょうね」
苦しかったでしょう。辛かったでしょう?
そう言って母は涙を流してセラを抱きしめた。セラはぽかんとしながらも何となく今なら何を言っても許されるかも、と自分は口説かれたこともないが、ザイを口説いてみようと思います、ということも伝えた。できるかどうかわからないけれど、と付け加えて。
すると母はセラを抱きしめたまま言った。
「大丈夫よ。貴女なら出来るわ。だって私の娘ですもの」
ん?
今度はセラが倒れかける番だった。
つまり。
口説かれたのですかお父様。口説き落とされたのですかお父様。そんなことお父様はひとことも、いいえ、お母様いつ口説いたのですかそしてそれはどうやって? どのように? そもそも口説くってどうすることなのですか⁉︎
聞きたいことが一瞬にして山のようにセラに押し寄せてきたが、あいにくセラはその日のうちに宮に戻らなければならなかった。
母と話して心の整理をしてから宮に上がろう。そう思っていたセラは母に聞きたいことの何一つも聞けず混乱のまま宮へ上がることになってしまったのだった。
※
宮へ上がったセラは自分の控えを片付け、昼には陛下に拝謁してお言葉をいただき、そのまま筆頭と今日の宰相邸訪問の打ち合わせをし、それが終われば控えの引越し作業をし、その合間にあいさつに来てくれるお針子さん達と思い出話をし、泣いたり笑ったり、もう目の回る忙しさだった。
そうしてやっと訪れたほっとする時間。
ここがザイの育ったお家かと思うとソワソワもしてしまうが、セラはようやく安らぎの時間を手に入れた。
ふと、セラは気配を感じた。セラが目を上げると、樹々の向こうにザイが見えたような気がした。
いよいよ幻覚まで見はじめたかとセラが自身に呆れた時、セラの視界は突然水の中に沈む。
いや、それは間違いで、セラはもちろん水に落ちなどせず宰相邸の中庭に自分の足で立っている。
何事⁉︎
戸惑うセラの目の前に、にゅっと何かが現れた。
「な」
それはなんとも不思議な、不思議としか言いようのないモノだった。
ゆらゆらと、ひだまりの小川のような優しい光を返す体は鱗に覆われ滑らかに動く。
セラは水に落ちたのではなく、水を模した大蛇のような竜のような、なんとも形状し難いイキモノに、いつの間にやらくるりと巻かれているのだった。
※────
・お相手自身がセラに届けた手紙
→第二章02話「婚約破棄する女官は蹴りに来た馬を華麗に乗りこなすつもりが馬が来る様子がない」
・あの夕食後の話し合い
→ 第二章17話「終わりは突然に来るという話」~18話「袋小路の堂々巡り」
今までは一女官であったセラは、こういった打ち合わせに参加しても発言を求められることはなかった。
しかし今日は違った。宰相やその秘書官からの質問に答え、さらにはセラから提案もしなければならない。
事前に筆頭相手に今日を想定したやりとりをさせてもらっていたお陰で特段困ることもなかったが、セラには中々に気の張ることであった。
※
宰相との大方の話が終わった。
書類が整うまでの間、筆頭とセラは宰相から勧められて中庭に出ることにした。が、秘書官から筆頭が呼ばれ、セラは一人で庭に出る。
セラは宰相邸の庭について、父からこう聞いていた。
──薬や香に使われる薬草の他にも、染料となる草木、有事に備えて食用になるものまで植えられているのに、鑑賞に耐えうる見事な庭となっている。
話通りの美しい樹々のあしらいに心躍らせながら、セラは散策を始める。天気も穏やか、緊張から解き放たれたセラは、土と水と草花の匂いを目一杯吸い込んで味わう。
皇妃さまから御文を頂いてからのセラは、休み中の日々が嘘のように忙しかった。こんなにゆったりした心地は久しぶりのような気がする。
セラが自室でゴロゴロしている間に父は準備をしていたらしく、「ザイを落とせ」と言った翌日には、セラは二度目の婚約破棄をしていた。
文官長邸で行われた話し合いはあっさりとしたものだった。愛娘が捨てられぬようにと全面協力をした大宿の主人の証言は具体的で疑う余地もなく、書面で提出されたそれと、お相手自身がセラに届けた手紙をもとに淡々と事実確認が行われた。お相手は一切反論することがなかった。
お相手は憔悴しきっていた。お子が生まれるというのに、あのような様子では頼りないことだと思うセラは、自分は本当にこれっぽっちも婚約者に興味を持てなかったのねと改めて思う。それにしても程があるわ、と。
婚約破棄にあたって交わした「生まれてくる子の認知を行い、それを生涯覆さない」「お互い不利になるようなことはしない」という約束は、セラや文官長にとって当然のことで、さほど意味を持つものではない。しかし相手にとっては手足をもがれるも同然だ。彼の官吏としての出世の道は、完全に絶たれた。
セラは元婚約者となった彼に申し訳ないような気になってしまう。しかしこれは、彼の行動によって引き起こされた当然の結果だ。同情するべきではない、とセラは自身に言い聞かせる。
自身に言い聞かせねばならないほど、セラは参っていた。自分に非は無い。だが自分と関わらなければこの方は優秀な官吏で一角の人物になっていたのではないか、などと考え出すと、どうにも暗い気持ちになってしまうのだ。
──私は政略結婚には向いてなさそうね。
向いてなかろうともいずれ誰かと──それはきっとザイ以外の誰かと──結婚して家を継ぐのだろうが、しばらくはそういう話をしたくない。セラはお付き女官の話を頂けて本当に良かったと思う。
しかし、御付き女官となって仕舞えば最低一年は余程のことがない限り宮から出られない。セラは婚約破棄の翌日、会えるだけ友人たちに会い、夜は出来るだけ妹と遅くまで話をした。
結局セラは、妹にはザイへの気持ちを打ち明けた。あの夕食後の話し合いで違和感を覚えていたらしい妹は、ようやく腑に落ちた、という顔をした。そうしてあの厳格な父が、と驚いていた。
「姉様、お母様には言わないの?」
「そうね。心配させるだけだし」
それに、好きな相手と結婚したいと考える娘を、政略結婚した母はどう思うだろうと考えると、セラは言うのが怖かった。
翌日、セラは宮へ戻り女官長と共に衣装方への挨拶回りをし引き継ぎをし、そしてまた家に戻る。やはり、母に話さなければと思ったからだった。
母は、セラの話を聞くとふらりと倒れかけた。心の底からごめんなさいと思いながら母を支えたセラに、気を持ち直した母が怒る。
「お父様はご存知だったなんてひどいわ!」
てっきり「婚約者がいながら他の殿方を想っていたなんて端ない」なんて叱られるものと思っていたセラはぽかんとしてしまう。
え、そちらの方ですか?
「でもそうね、貴女は、私にはきっと言いにくかったでしょうね」
苦しかったでしょう。辛かったでしょう?
そう言って母は涙を流してセラを抱きしめた。セラはぽかんとしながらも何となく今なら何を言っても許されるかも、と自分は口説かれたこともないが、ザイを口説いてみようと思います、ということも伝えた。できるかどうかわからないけれど、と付け加えて。
すると母はセラを抱きしめたまま言った。
「大丈夫よ。貴女なら出来るわ。だって私の娘ですもの」
ん?
今度はセラが倒れかける番だった。
つまり。
口説かれたのですかお父様。口説き落とされたのですかお父様。そんなことお父様はひとことも、いいえ、お母様いつ口説いたのですかそしてそれはどうやって? どのように? そもそも口説くってどうすることなのですか⁉︎
聞きたいことが一瞬にして山のようにセラに押し寄せてきたが、あいにくセラはその日のうちに宮に戻らなければならなかった。
母と話して心の整理をしてから宮に上がろう。そう思っていたセラは母に聞きたいことの何一つも聞けず混乱のまま宮へ上がることになってしまったのだった。
※
宮へ上がったセラは自分の控えを片付け、昼には陛下に拝謁してお言葉をいただき、そのまま筆頭と今日の宰相邸訪問の打ち合わせをし、それが終われば控えの引越し作業をし、その合間にあいさつに来てくれるお針子さん達と思い出話をし、泣いたり笑ったり、もう目の回る忙しさだった。
そうしてやっと訪れたほっとする時間。
ここがザイの育ったお家かと思うとソワソワもしてしまうが、セラはようやく安らぎの時間を手に入れた。
ふと、セラは気配を感じた。セラが目を上げると、樹々の向こうにザイが見えたような気がした。
いよいよ幻覚まで見はじめたかとセラが自身に呆れた時、セラの視界は突然水の中に沈む。
いや、それは間違いで、セラはもちろん水に落ちなどせず宰相邸の中庭に自分の足で立っている。
何事⁉︎
戸惑うセラの目の前に、にゅっと何かが現れた。
「な」
それはなんとも不思議な、不思議としか言いようのないモノだった。
ゆらゆらと、ひだまりの小川のような優しい光を返す体は鱗に覆われ滑らかに動く。
セラは水に落ちたのではなく、水を模した大蛇のような竜のような、なんとも形状し難いイキモノに、いつの間にやらくるりと巻かれているのだった。
※────
・お相手自身がセラに届けた手紙
→第二章02話「婚約破棄する女官は蹴りに来た馬を華麗に乗りこなすつもりが馬が来る様子がない」
・あの夕食後の話し合い
→ 第二章17話「終わりは突然に来るという話」~18話「袋小路の堂々巡り」
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