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第三章
07 嫌でないわけがないのに離れがたい
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ザイは北の魔山にはすぐに向かわず、まず、東へ進んだ。そのあとを多くの者がつけた。その中に皇妃の使いがいたことを、ザイは皇帝に知らせていたのである。
皇妃は思う。
──これがあるから、この男は嫌だ。
戦では敵に一歩も引かず血の雨を降らせるこの皇帝の脅しは、たとい皇帝が剣を持たずとも皇妃が太刀打ちできるものではない。
およそ愛しい者に向けるには程遠い皇帝の目と声音に、皇妃は唇を噛む。
それに屈するのは腹立たしい。たとえ屈しても、それに怯えたくはない。少なくとも怯えているとは、皇妃は思われたくない。
皇妃が皇帝を恐ろしいと思ったなら、皇帝は皇妃に対する興味を忽ちに失ってしまうだろう。
この男の関心が欲しいのではない。この男を愛しているのではない。ただ、「なんだお前もか」そう思われるのが、皇妃は許せないだけだ。
だから、皇妃は笑って言う。
「しかし、必要なことでございましょう?
宰相殿はご子息と奥方には殊の外お甘いのですから。
今、ザイ殿に他国に奔られては、宰相殿は宮を辞すどころか帝国を出てしまわれるでしょう」
先帝の退位と同時に宮を辞すつもりであったらしい宰相が宮に留まったのは、息子のザイが今上の侍従とされたからである。
今の帝国は盤石と言われているが、それも、先帝の御代から仕える者たちあってのことだ。その象徴とも言える宰相が宮を辞して仕舞えば、皇帝の足元は揺らぐ。
「それは、大丈夫だ」
「なにかございましたか?」
「ザイがどこに行こうと、宰相は宮に残る。俺の嫌いな奴が最期にあの宰相を宮に縛り付けた」
「そう、ですか」
「俺としてはムカつくからな、今まで言わなかった。すまない」
皇帝が辛そうにいう。かの先帝侍従と今上との間に何があったか、皇妃は知らされていない。
先帝侍従の死に皇帝は荒れ、侍従筆頭でさえ近寄れなかった。同じく侍従のザイは心ここに在らずという状態で、こちらはこちらで目が離せない有様だった。
皇帝と宰相は長いこと話をしていた。その話が何であったか皇妃は知らされていないが、宰相が皇帝を諌めた事だけは皇妃も分かった。
先帝もカイルも逝ってしまった今、皇帝を止められるのは、宰相ぐらいだろう。
「……宰相殿には、本当に御苦労をおかけしてしまいますね。申し訳ないことですが、心強いことです」
皇妃はそう言って息を吐く。しばらく沈黙が落ちたが、皇帝が口を開く。
「宮は嫌か?」
それに皇妃は即答する。
「嫌でございます」
皇帝は「そうか」と言って黙る。それを見る皇妃は、なんだか苛立ってくる。
「恐れながら陛下が私をお疑いだから嫌なのです。今更私が陛下の元を離れるとお思いですか?」
「思う」
こちらも即答の皇帝に、皇妃は、はーっとこれ見よがしにため息をつく。
「どうして、あなた様はそうなのですか」
本当に離れるとなったら、この皇帝は自分を閉じ込めるくらいはする。それから逃れられるとは流石に思わない皇妃であるのに、どうして、こんな弱い目を自分に向けるのだ。
──これだから、この男は嫌だ。
皇妃は皇帝の胸ぐらを掴んで揺さぶりたくなる。どっちかにしろ、と。
しかしそうするとこれ幸いと抱きすくめられるのも分かっている皇妃は、皇帝を睨むにとどめる。
「必ず宮に戻れ」
見上げる形になった皇妃を見て、お前の三白眼は相変わらず面白いなと皇帝は笑う。いつもの意地の悪い笑みを浮かべる皇帝に、皇妃はまた腹が立つ。が。
「お前の衣装を揃えるのをセラが楽しみにしている、とザイが言っていた。
それにお前が居なければ皇后が悲しむ。あいつこそお前がいない宮には帰らんかもしれん。
お前を待ってるのは俺だけじゃない」
そう言われて、皇妃は明るいセラの笑顔を思い出す。やはりあの娘を第四王子に嫁がせるのは忍びないと思う。
ここに居れば、宮よりも自由が効く。
そう思っていたが、ザイをつけたことを咎められてしまった今となっては、ここにいても、セラのためにしてやれることは限られてしまうだろう。
そして、優しい皇后を思い出す。
皇后は、先に自身に子が出来たことで一層皇妃を気遣うようになった。
皇妃は子を成す義務から解き放たれて寧ろ嬉しかったというのに。
皇妃が戻らなければ皇后は出産後も里下がりを続けてしまうかもしれない。
皇妃は仕方なく笑って言う。
「はい。必ず戻ります」
「そこで素直なのが、また腹が立つなお前は」
盛大に顔をしかめた皇帝は、筆頭に急かされて宮へ引き上げていった。
※
皇妃は皇帝を見送った足で弟を訪ねる。侍女をやってこちらに呼び出すのも手間だったからだ。
深夜にもかかわらず起きていたらしい弟はすぐに皇妃を迎え入れる。
「私、宮へ戻ります」
「陛下がいらした途端帰るとか」
一瞬で怒りに顔を赤くした姉に、だって傍から見ればそうじゃないですか、と弟は笑う。
「きっと今頃陛下はともかく、筆頭さまは姉上への御使者のご帰還と見えるように、あちこちでわかる者にはわかるようにお姿を見せていることでしょうね」
皇妃は皇帝の説得に応じて宮に帰るのだと周りに印象づけるために。
「あの方に執着されたのです。もう、諦められては姉上」
脱力する皇妃を、弟は遠慮なく笑う。
「そうそう、宮へお戻りになるのは結構ですが、密偵の返品先をうちにするのはやめて下さい」
ザイ様にがっつり送り返されましたよー、と報告する弟に、皇妃はしばらく諜報はやめておきますと言って、自室に戻るのだった。
※────
・俺の嫌いな奴が最期にあの宰相を宮に縛り付けた
→第一章26話、27話「護衛二日目の夜 今上と宰相」
皇妃は思う。
──これがあるから、この男は嫌だ。
戦では敵に一歩も引かず血の雨を降らせるこの皇帝の脅しは、たとい皇帝が剣を持たずとも皇妃が太刀打ちできるものではない。
およそ愛しい者に向けるには程遠い皇帝の目と声音に、皇妃は唇を噛む。
それに屈するのは腹立たしい。たとえ屈しても、それに怯えたくはない。少なくとも怯えているとは、皇妃は思われたくない。
皇妃が皇帝を恐ろしいと思ったなら、皇帝は皇妃に対する興味を忽ちに失ってしまうだろう。
この男の関心が欲しいのではない。この男を愛しているのではない。ただ、「なんだお前もか」そう思われるのが、皇妃は許せないだけだ。
だから、皇妃は笑って言う。
「しかし、必要なことでございましょう?
宰相殿はご子息と奥方には殊の外お甘いのですから。
今、ザイ殿に他国に奔られては、宰相殿は宮を辞すどころか帝国を出てしまわれるでしょう」
先帝の退位と同時に宮を辞すつもりであったらしい宰相が宮に留まったのは、息子のザイが今上の侍従とされたからである。
今の帝国は盤石と言われているが、それも、先帝の御代から仕える者たちあってのことだ。その象徴とも言える宰相が宮を辞して仕舞えば、皇帝の足元は揺らぐ。
「それは、大丈夫だ」
「なにかございましたか?」
「ザイがどこに行こうと、宰相は宮に残る。俺の嫌いな奴が最期にあの宰相を宮に縛り付けた」
「そう、ですか」
「俺としてはムカつくからな、今まで言わなかった。すまない」
皇帝が辛そうにいう。かの先帝侍従と今上との間に何があったか、皇妃は知らされていない。
先帝侍従の死に皇帝は荒れ、侍従筆頭でさえ近寄れなかった。同じく侍従のザイは心ここに在らずという状態で、こちらはこちらで目が離せない有様だった。
皇帝と宰相は長いこと話をしていた。その話が何であったか皇妃は知らされていないが、宰相が皇帝を諌めた事だけは皇妃も分かった。
先帝もカイルも逝ってしまった今、皇帝を止められるのは、宰相ぐらいだろう。
「……宰相殿には、本当に御苦労をおかけしてしまいますね。申し訳ないことですが、心強いことです」
皇妃はそう言って息を吐く。しばらく沈黙が落ちたが、皇帝が口を開く。
「宮は嫌か?」
それに皇妃は即答する。
「嫌でございます」
皇帝は「そうか」と言って黙る。それを見る皇妃は、なんだか苛立ってくる。
「恐れながら陛下が私をお疑いだから嫌なのです。今更私が陛下の元を離れるとお思いですか?」
「思う」
こちらも即答の皇帝に、皇妃は、はーっとこれ見よがしにため息をつく。
「どうして、あなた様はそうなのですか」
本当に離れるとなったら、この皇帝は自分を閉じ込めるくらいはする。それから逃れられるとは流石に思わない皇妃であるのに、どうして、こんな弱い目を自分に向けるのだ。
──これだから、この男は嫌だ。
皇妃は皇帝の胸ぐらを掴んで揺さぶりたくなる。どっちかにしろ、と。
しかしそうするとこれ幸いと抱きすくめられるのも分かっている皇妃は、皇帝を睨むにとどめる。
「必ず宮に戻れ」
見上げる形になった皇妃を見て、お前の三白眼は相変わらず面白いなと皇帝は笑う。いつもの意地の悪い笑みを浮かべる皇帝に、皇妃はまた腹が立つ。が。
「お前の衣装を揃えるのをセラが楽しみにしている、とザイが言っていた。
それにお前が居なければ皇后が悲しむ。あいつこそお前がいない宮には帰らんかもしれん。
お前を待ってるのは俺だけじゃない」
そう言われて、皇妃は明るいセラの笑顔を思い出す。やはりあの娘を第四王子に嫁がせるのは忍びないと思う。
ここに居れば、宮よりも自由が効く。
そう思っていたが、ザイをつけたことを咎められてしまった今となっては、ここにいても、セラのためにしてやれることは限られてしまうだろう。
そして、優しい皇后を思い出す。
皇后は、先に自身に子が出来たことで一層皇妃を気遣うようになった。
皇妃は子を成す義務から解き放たれて寧ろ嬉しかったというのに。
皇妃が戻らなければ皇后は出産後も里下がりを続けてしまうかもしれない。
皇妃は仕方なく笑って言う。
「はい。必ず戻ります」
「そこで素直なのが、また腹が立つなお前は」
盛大に顔をしかめた皇帝は、筆頭に急かされて宮へ引き上げていった。
※
皇妃は皇帝を見送った足で弟を訪ねる。侍女をやってこちらに呼び出すのも手間だったからだ。
深夜にもかかわらず起きていたらしい弟はすぐに皇妃を迎え入れる。
「私、宮へ戻ります」
「陛下がいらした途端帰るとか」
一瞬で怒りに顔を赤くした姉に、だって傍から見ればそうじゃないですか、と弟は笑う。
「きっと今頃陛下はともかく、筆頭さまは姉上への御使者のご帰還と見えるように、あちこちでわかる者にはわかるようにお姿を見せていることでしょうね」
皇妃は皇帝の説得に応じて宮に帰るのだと周りに印象づけるために。
「あの方に執着されたのです。もう、諦められては姉上」
脱力する皇妃を、弟は遠慮なく笑う。
「そうそう、宮へお戻りになるのは結構ですが、密偵の返品先をうちにするのはやめて下さい」
ザイ様にがっつり送り返されましたよー、と報告する弟に、皇妃はしばらく諜報はやめておきますと言って、自室に戻るのだった。
※────
・俺の嫌いな奴が最期にあの宰相を宮に縛り付けた
→第一章26話、27話「護衛二日目の夜 今上と宰相」
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