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閑話 先帝の崩御
02 早暁の別れ ※暴力・残酷描写あり
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ザイは夜通し駆けて海に来た。暁闇の海に自ら小舟を漕ぐ。しばらくして、懐から取り出した袋をザイは恐る恐る開ける。
砂だった。軽い、指のほんの隙間からもこぼれる砂。粉と言ってもいい。注意深く、ひとすくいを手のひらに載せると、それはあっという間に風に運ばれて見えなくなった。
ザイは声を殺して泣きながら、砂を取り出しては風に乗せ、取り出しては風に乗せ、さいごのひとすくいまで、全てを海へ撒いた。
こんな別れはあんまりだ。
先帝の前の時代に失った領土を、圧倒的な力で取り戻した不世出の魔導師が、風に乗せられるほど軽くなって消えてしまうなんて。
「陛下」
そっとザイは呟く。さようなら、などとても言えない。言いたくない。
先の陛下がいない。
ザイの体の中の、芯の部分があやふやになってしまった、そんな感覚に、ザイは不安になる。やっぱり夢ではないか? カイルの悪い冗談ではないか? そんなことまで思う自分は、今一体どんな顔をしているだろう。
頼りなくゆらゆらと漂う小舟で蹲りたくなるザイを、しかし、現実が容赦なくなぶる。
潮の香りと波の音に紛れて、きな臭い匂いと、耳を塞ぎたくなるほどの嫌な音が流れて来るのをザイは感じた。
人が痛みにのたうつ声。
劣勢を一気に跳ね返すために、危険な未明の襲撃を帝国が敢行したのかもしれない。
ザイはすぐに小舟をとってかえす。振り返ることもできず、ザイは海を後にした。
※
のちにザイは思う。
散骨は先帝自らがあおいだ毒が、万一遺体に残り、後々現れるのを恐れてのことだっただろうと。
速やかに火葬し、海へ散らす。ここまですれば、先帝の死因はもう探れない。
崩御間もない敵襲も、月のない夜も、先帝とその侍従の掌の上のことだったのかもしれない。
※
ザイは駆ける。ザイが巧みに操る馬に追いつけるものはいない。
昔、早駆けで遂に先帝を負かした日、先帝はザイに口を利いてくれなかった。
次の日、先帝に呼ばれると、昨日は悪かったと言って、先帝から馬用の鞭を譲られた。
悪かったと言いつつ、もう私は使わないから、と拗ねる先帝にザイは困り果て、カイルを見る。
するとカイルは、
「では次のザイのお休みに、私と一緒に遠乗りに参りましょう。陛下はゆっくりなさって下さい」
などと言う。先帝はしばらく黙っていたが、
「そうするといいよ、私はその日、新しい鞭を作ることにするから」
と言い捨てて、ぷいと奥へ引っ込んでしまった。
そうして一月後、先帝から早駆けの勝負を持ち掛けられ、悩んだ末、「これ、手抜いてもまた拗ねるんだろうな」と思い全力で飛ばしたザイは、先帝の仕掛けた数々の結界に手を焼いたのだった。
だって結界なしとは言ってない、と先に到着して澄まして言う先帝に、まあ、さようではございますけれどね、とカイルは言い、ザイは怯えきった馬にごめんねと謝った。
それから何回か、「なんでもアリ」な早駆けの勝負を先帝から仕掛けられ、ザイの乗馬の腕──というより、どんな敵地も駆け抜ける技は、どんどん上達していった。
それを駆使して今戦場を駆け抜けていることが、ザイは可笑しくてたまらない。
一度の交戦から双方引き、膠着状態にあった戦場に現れたザイは、敵の背後をつき、そのまま突破した。
不意を突かれただけ、たかが一騎と侮って追いかけてくる敵を蹴散らし、ときに引きつけ、力尽きたと見せかけて反撃に転じ、それに慌てて出てきた敵の将を討ち取る。
持って帰れば褒賞になる首は、高々と放り投げて返してやる。
屈辱に、怒りに駆られて遮二無二襲いかかる集団は、指揮官をなくしてはザイの敵では無い。
適当に躱し、逃げ惑っているように見せて要所要所に張り巡らせた結界を、ザイはついに敵の前に浮かび上がらせる。
やられたと気づく頃には、彼らは苦鳴を漏らす暇もなく、ザイの結界に消えた。一瞬遅れて、結界が発したドンと腹に響く音が、敵味方双方の本陣に伝わる。
そうしてザイは振り返ることなく己の主人の元へと急ぐ。
敵の追撃はなかった。
突然現れた、たった一騎に小隊を撃破された敵は、異様な雰囲気に怯え嘶く馬たちを抑えるだけで必死だったのである。
※
「なんだ?」
地響きのした方を見れば、一騎がこちらに向かって駈けてくる。
おそらくは敵の左翼から飛び出してきた一騎を、皇帝は目を凝らして見る。
「はあ⁉︎ あいつ何やってんだ!」
馬を乗り潰す勢いでかけてくるのは、己の侍従だ。たしかに、カイルから「ザイならやってのけるでしょう」とは聞いていた。だが、こちらとなんの連携もなく単騎駆けをやるとはめちゃくちゃだ。
敵を連れ帰ってきたら容赦ねえぞと皇帝は構えるが、その様子はない。
物見が、敵が浮き足立ち、さらに一部は引き始めたと知らせてくる。
皇帝は機を逃さない。
ザイと入れ替えるように、一気に部隊を出撃させる。
「行け!」
それまでの睨み合いの鬱憤を晴らすかのような、帝国の激しい攻撃が始まった。
※
「遅参、申し訳ございません!」
歓声の中、馬から転げ降りるようにしてザイは主人の元に走る。ザイの馬を預かった者は、馬が予想ほどは疲弊していないことに驚く。そうして、お前は良い主人を得た! とこれまた歓声をあげる。
膠着の緊張から解放された帝国軍はにわかに活気付いた。皇帝もザイを労う。
しかし、皇帝は、ようよう我慢をしていた。
──アホかお前は。
ザイを最後の切り札として隠しておきたかった皇帝の目論見は、完全に崩れた。
「てめえ、こき使ってやるから覚悟しろよ?」
皇帝の爽やかな笑顔に、ザイは知らず主人の逆鱗に触れたことを知った。
砂だった。軽い、指のほんの隙間からもこぼれる砂。粉と言ってもいい。注意深く、ひとすくいを手のひらに載せると、それはあっという間に風に運ばれて見えなくなった。
ザイは声を殺して泣きながら、砂を取り出しては風に乗せ、取り出しては風に乗せ、さいごのひとすくいまで、全てを海へ撒いた。
こんな別れはあんまりだ。
先帝の前の時代に失った領土を、圧倒的な力で取り戻した不世出の魔導師が、風に乗せられるほど軽くなって消えてしまうなんて。
「陛下」
そっとザイは呟く。さようなら、などとても言えない。言いたくない。
先の陛下がいない。
ザイの体の中の、芯の部分があやふやになってしまった、そんな感覚に、ザイは不安になる。やっぱり夢ではないか? カイルの悪い冗談ではないか? そんなことまで思う自分は、今一体どんな顔をしているだろう。
頼りなくゆらゆらと漂う小舟で蹲りたくなるザイを、しかし、現実が容赦なくなぶる。
潮の香りと波の音に紛れて、きな臭い匂いと、耳を塞ぎたくなるほどの嫌な音が流れて来るのをザイは感じた。
人が痛みにのたうつ声。
劣勢を一気に跳ね返すために、危険な未明の襲撃を帝国が敢行したのかもしれない。
ザイはすぐに小舟をとってかえす。振り返ることもできず、ザイは海を後にした。
※
のちにザイは思う。
散骨は先帝自らがあおいだ毒が、万一遺体に残り、後々現れるのを恐れてのことだっただろうと。
速やかに火葬し、海へ散らす。ここまですれば、先帝の死因はもう探れない。
崩御間もない敵襲も、月のない夜も、先帝とその侍従の掌の上のことだったのかもしれない。
※
ザイは駆ける。ザイが巧みに操る馬に追いつけるものはいない。
昔、早駆けで遂に先帝を負かした日、先帝はザイに口を利いてくれなかった。
次の日、先帝に呼ばれると、昨日は悪かったと言って、先帝から馬用の鞭を譲られた。
悪かったと言いつつ、もう私は使わないから、と拗ねる先帝にザイは困り果て、カイルを見る。
するとカイルは、
「では次のザイのお休みに、私と一緒に遠乗りに参りましょう。陛下はゆっくりなさって下さい」
などと言う。先帝はしばらく黙っていたが、
「そうするといいよ、私はその日、新しい鞭を作ることにするから」
と言い捨てて、ぷいと奥へ引っ込んでしまった。
そうして一月後、先帝から早駆けの勝負を持ち掛けられ、悩んだ末、「これ、手抜いてもまた拗ねるんだろうな」と思い全力で飛ばしたザイは、先帝の仕掛けた数々の結界に手を焼いたのだった。
だって結界なしとは言ってない、と先に到着して澄まして言う先帝に、まあ、さようではございますけれどね、とカイルは言い、ザイは怯えきった馬にごめんねと謝った。
それから何回か、「なんでもアリ」な早駆けの勝負を先帝から仕掛けられ、ザイの乗馬の腕──というより、どんな敵地も駆け抜ける技は、どんどん上達していった。
それを駆使して今戦場を駆け抜けていることが、ザイは可笑しくてたまらない。
一度の交戦から双方引き、膠着状態にあった戦場に現れたザイは、敵の背後をつき、そのまま突破した。
不意を突かれただけ、たかが一騎と侮って追いかけてくる敵を蹴散らし、ときに引きつけ、力尽きたと見せかけて反撃に転じ、それに慌てて出てきた敵の将を討ち取る。
持って帰れば褒賞になる首は、高々と放り投げて返してやる。
屈辱に、怒りに駆られて遮二無二襲いかかる集団は、指揮官をなくしてはザイの敵では無い。
適当に躱し、逃げ惑っているように見せて要所要所に張り巡らせた結界を、ザイはついに敵の前に浮かび上がらせる。
やられたと気づく頃には、彼らは苦鳴を漏らす暇もなく、ザイの結界に消えた。一瞬遅れて、結界が発したドンと腹に響く音が、敵味方双方の本陣に伝わる。
そうしてザイは振り返ることなく己の主人の元へと急ぐ。
敵の追撃はなかった。
突然現れた、たった一騎に小隊を撃破された敵は、異様な雰囲気に怯え嘶く馬たちを抑えるだけで必死だったのである。
※
「なんだ?」
地響きのした方を見れば、一騎がこちらに向かって駈けてくる。
おそらくは敵の左翼から飛び出してきた一騎を、皇帝は目を凝らして見る。
「はあ⁉︎ あいつ何やってんだ!」
馬を乗り潰す勢いでかけてくるのは、己の侍従だ。たしかに、カイルから「ザイならやってのけるでしょう」とは聞いていた。だが、こちらとなんの連携もなく単騎駆けをやるとはめちゃくちゃだ。
敵を連れ帰ってきたら容赦ねえぞと皇帝は構えるが、その様子はない。
物見が、敵が浮き足立ち、さらに一部は引き始めたと知らせてくる。
皇帝は機を逃さない。
ザイと入れ替えるように、一気に部隊を出撃させる。
「行け!」
それまでの睨み合いの鬱憤を晴らすかのような、帝国の激しい攻撃が始まった。
※
「遅参、申し訳ございません!」
歓声の中、馬から転げ降りるようにしてザイは主人の元に走る。ザイの馬を預かった者は、馬が予想ほどは疲弊していないことに驚く。そうして、お前は良い主人を得た! とこれまた歓声をあげる。
膠着の緊張から解放された帝国軍はにわかに活気付いた。皇帝もザイを労う。
しかし、皇帝は、ようよう我慢をしていた。
──アホかお前は。
ザイを最後の切り札として隠しておきたかった皇帝の目論見は、完全に崩れた。
「てめえ、こき使ってやるから覚悟しろよ?」
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