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王日大学キャンパス
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翌日、佑一は安積の電話に起こされた。
「国枝です」
「西村らしい死体がマンションで発見された。現場へ行くぞ」
佑一は思わず息を呑んだ。
佑一は安積と合流すると、現場へと向かった。遺体の現場に公安の人間が現れたことに、機捜や鑑識が不審な表情を見せる中、佑一たちは遺体を確認した。果たして、遺体は西村孝義であった。
(西村……)
佑一は変わり果てた西村の顔を凝視した。
“保護してほしいんだ! 頼む!”
昨夜の西村の切羽詰まった表情が思い出された。
「西村は……自らの危険を察してたんでしょうか」
「かもしれんな」
安積はそっけない返事をした。
「もしかしたら、俺たちが接触した事で、中国側を刺激したのかもしれない」
安積が薄ら笑いを浮かべる。佑一には、到底笑えなかった。
(保護してほしいと頼まれた昨夜、保護していれば――西村は死なずに済んだ)
その考えが佑一を支配していた。安積は構わずに、西村の部屋へと向かう。そこで佑一は、知った顔を見て密かに驚いた。
(和真)
それは幼馴染の佐水和真であった。どういう訳か、場違いとしか思えない娘を連れている。しかし西村の事を考えると、それを気にかける余裕はなかった。
その後、佑一は安積と王日署へ向かい、事件を公安主導で行う旨を説明した。無論、王日署員たちから反発を買う事は百も承知だった。しかし安積の態度は、買わなくてもいい反発を買いそうだと密かに佑一は思っていた。
「――佑一!」
現場で敢えて無視をした和真は、王日署の去り際に声をかけてきた。佑一には、後ろめたさがあった。西村が保護を求めて来たことも、中国の工作員と接触していたことも、所轄の人間には話していない。なるべく、個人的に関わらないでおこうと佑一は考えていた。
「…なんだ?」
「いや…久しぶりだからな。調子はどうだ?」
「見ての通りだ」
佑一は敢えて冷たく振る舞った。あまり話をしたくなかった。しかしその様子を見せても、和真は親密な笑みを浮かべている。
(相変わらずの…屈託のない笑みだ)
佑一は、懐かしいものを見る気持ちで和真の笑みを見ていた。その佑一に、不意に動揺が襲った。
「青葉が、結婚するんだ」
その動揺は、佑一も抑え込むことができなかった。
「そう……なのか」
「お前だけ連絡先が判らないから、って俺に言付けがあったんだよ。やっぱり招待状も届いてなかったんだな」
それについて、公安であるとか何とか理由をつけて説明したが、佑一の心の中は乱れていた。
永瀬青葉は高校の同級生であり、和真もいた剣道部の仲間であり、そして高校生の頃に付き合っていた佑一の彼女であった。
式の日取りを聞いた佑一は、「おめでとうと伝えておいてくれ」と和真に言付けを頼んでその場を離れた。
親友であり、ライバルだった。
佐水和真は子どもの頃からの友人で、佑一の剣道の師、佐水択真の息子であった。二人は兄弟のように育ち、同じ教えを受け、互いに切磋琢磨した仲であった。
「オレは……また人に決定を任せたのか?」
一人歩きながら、呟きが佑一の口から洩れた。
(あの時に保護していれば、西村は死なずに済んだ。オレが自分で決定しなかったからだ)
自分で決定をしない。それは決定を任す相手に依存しているという事。人に頼り、自分で自分を生きていないという事……
佑一はそう考えていた。
“佑一は……ズルいよね”
あの時、悲し気に微笑んだ青葉の顔が甦ってくる。
(そういう生き方を変えようとしたはずなのに)
佑一は歯噛みした。
「オレは、何も変わってないのか」
苦い想いを甦らせた和真のことを考えながら、佑一は足を速めた。
*
クラスも部活も一緒の青葉は、入部以降、和真と佑一に話しかけてくることが増えた。二人も自然に話していたが、青葉の態度に変化があったのは、夏前の事だった。
その日、部内で選抜試合が行われた。剣道部では練習は男女一緒にやっていたが、大会は別なので男子だけは団体戦の代表を決めるリーグ戦が行われたのである。その中で、和真と佑一は二年や三年の先輩に勝ち、一年で二人とも団体代表に選ばれたのだった。
その日の帰り道、走ってきた青葉が二人を呼び止めた。
「ちょっと! 二人とも、凄いね! 代表、おめでとう!」
「あん? ああ」
面倒くさそうに答える和真に、青葉はふくれっ面をした。
「ちょっと、なんかもう少し嬉しそうな顔してよ。代表に選ばれるって、凄い事なんだからね!」
「いや、まあ…そりゃそうだけど……」
和真は苦笑して、佑一を見る。佑一は、ふっと笑みをこぼして下を向いた。
「ちょっと何? 国枝君まで!」
「いや…代表になるのは、目標じゃないし。和真はそれに、個人戦の代表に選ばれなかったのが、悔しいのさ」
佑一は青葉にそう説明した。青葉は目を丸くする。
「個人戦って、三年の主将たちに勝つつもりだったの? それに代表が目標じゃないって、どういう事?」
「代表になる事じゃなくて、試合に出て勝つこと。それが目標――でも、駄目だって父さんに言われそうだけどな。試合に出るのは自分の力を試す機会であって、目標じゃない」
「と、択真先生は常々言っている」
和真の言葉に、佑一が補足をつける。青葉は真顔になった。
「二人とも、別の道場で教わってるの?」
「ちっちゃい頃からな。俺の親父がそこの先生」
「先生にかかったら、オレたちなんか、まだ子供扱いだ」
佑一の実感を込めた言葉に、青葉は息を呑んだ。
「二人とも、それで一年なのに、そんなに強いのね」
「だから、そんなでもないって」
「――あたしも連れてって!」
青葉は勢い込んで、和真に迫った。
青葉はそうして、部活終わりや土日に佐水択真の道場へ来るようになった。青葉はみるみる実力を上げていったが、次第に和真と佑一との仲が近くなり、いつの間にか択真の呼び方に倣って、二人を『和真』『佑一』と呼び捨てするようになっていた。
*
和真と今日子は、王日大学に来ていた。最初に会ったのは、学部長の曽我元則教授である。
「いや…まさか西村くんが亡くなるとは」
頭髪の薄くなった太め体格の曽我は、経済学が専門である。二人を自分の部屋に招くと、曽我はそう洩らした。
「大学では西村さんは、講義も行ってたんですよね。どんな様子でしたか?」
「いや…実は――」
曽我は少し声を落とすように口を開いた。
「心配していたんです」
「心配?」
「ええ。どうもこのところ、顔に生気がなくてですね。どうも研究の方が行き詰ってるんじゃないか、と思ってたところなんです」
和真と今日子は顔を見合わせた。マンションの管理人夫婦も同じことを言っている。
「それについて、本人から話しを聞いたりしましたか?」
「いいえ。私は専門が違いすぎますんでね。同じ電子系の斎藤先生なら、何か話しを聞いてるかもしれない」
「斎藤先生ですか、ありがとうございます」
二人は礼を言い、斎藤健次郎准教授に話しを聞くことにした。
斎藤は西村と同じ40代前半で、上背はあるが細身であった。
「西村くんは、自殺ですか?」
二人と会うなり、斎藤はまずそう訊いてきた。和真は答える。
「いえ、まだ断定はできません。その可能性もある…と考えて、調べているところです」
「いやあ、なんか顔がやばかったんですよね、ここんとこ。なんか思いつめてるっていうか、緊張してるというかですね。あんまりひどいと鬱症状になりかねない。それで本人に訊いてみたんですよ、『何かあったのか?』って」
「そしたら、何て言ってましたか?」
「『いや、なんでもないんだ』と言ってました。青い顔で。いや、なんでもないって顔じゃあなかったですけどね」
斎藤は喋りながら、苦笑して見せた。不意に今日子が口を挟んだ。
「お二人は仲はよかったんですか?」
「同僚ですからね、話しくらいはしますが……西村くんは、誘っても一緒に呑みに行くようなタイプじゃなかったんでね。あまり、他の先生方とも親交がなかったと思いますね。人付き合いが悪いというか――特に、離婚してからは、そうですね」
「離婚の原因って、何かご存知ですか?」
今日子の再度の質問に、斎藤は少し目を見開いた。
「どうしようかな…言ってもいいもんかな?」
「是非、聞かせてください!」
今日子は身を乗り出すように、声をあげた。その勢いに苦笑しながら、斎藤は口を開いた。
「実は、西村くんの浮気が原因でしてね」
「浮気? 誰と?」
「おっきな声じゃあ言えないが、実はゼミ生で留学生だった、李蓮花という女の子です」
斎藤はうっすらと笑いを浮かべながら、話しを続けた。
「いや、びっくりするほどの美人でしたがね。西村くんの何が良かったんだか……。いや、これは失礼な言い草かな。しかし、まあそんなに目立ったところのない既婚者の西村くんが、どういう訳か超美人の留学生といい仲になっちゃったんですよ。彼女が在学中は隠れて付き合ってたみたいですがね。それで李蓮花が卒業する直前に離婚した。彼としては、結婚するつもりだったのかなあ。しかし李蓮花は帰国すると、そのまま戻ってこなかった。後には独りになった男が取り残された。――と言う訳です」
「なるほど…李蓮花という人は、中国からの留学生ですか?」
「そうです。まあ、どういうやりとりがあったのかは、当事者しか知りませんけどね。元気がないといえば、彼は離婚してからずっと元気がなかった…とも言えます」
「なるほど、色々お話しありがとうございます」
話好きらしい斎藤の部屋を後にして、二人はキャンパス内を歩いた。大学生たちが、校内を闊歩している。その様子を見て、今日子は声をあげた。
「あ~あ、いいなあ、若いって」
「何言ってんだ、お前。お前は卒業したばっかで、充分若いだろ」
「もう社会人ですよ。学生の頃って、楽しかったじゃないですかあ。みんなキラキラしてるし」
「そう見えるだけで、実際は金に苦労したりしてる子もいるだろうさ。今や大学生の半分は奨学金で入学してるけど、それは卒業したら返さなきゃいけない金だ。当然、在学中の住居費や生活費は、多くを親に頼ることのできない世帯だ。自然、在学中の生活費は自分でバイトするようになる。大変だと思うぞ」
「そっかあ……」
今日子は大学生たちに、また視線を向けた。
(こいつはお嬢さんだからな。金には苦労しなかったんだろう)
和真は今日子を見て、ふとそう思った。
「ところで、どうして李蓮花は戻ってこなかったんでしょうね?」
「……ハニートラップ」
短く和真は呟いた。
「なんです?」
「なんで、公安が動いてるのか。そう考えると、つじつまが合う」
「もう、一人で納得してないで、説明してくださいよ」
少しむくれる今日子に、和真は説明を始めた。
「恐らく、李蓮花は中国の工作員だったんだ」
「工作員! そんな事、本当にあるんですか?」
驚く今日子に、和真は言葉を続けた。
「あるさ。中国の連中は、美人を使って対象の人物を落とし、そこから機密を持ち出す……。言っとくがな、日本では過去に首相でも引っかかった事があるような手口なんだぜ」
「え、首相が! 誰です?」
「まあ、それは後で教えてやるけどな。しかし多分、西村はその対象として狙われたんだ。で、関係を持ち、いい仲になった。本人は本気だから、卒業したら結婚しようと持ちかける。しかし工作員は、帰国したら当然、連絡などしない……という事だろう」
「え~、じゃあ色仕掛けで騙された、って事ですか?」
「ハニートラップってのは、そういうもんだ」
今日子はそれを聴いて、すこし首をかしげて見せた。
「それで…公安の人は、この事件にどう関わってるんです?」
「どう関わってるんだかな――しかし、連中が自殺じゃないというからには、それなりの根拠があるのか、それとも自殺という形で簡単に処理される前に、所轄の手を使って西村周辺の情報を得たいか…そんなとこかな」
「そっかあ……それで、わたしたちはどうするんです?」
「大学じゃあ、西村の状況があまり得られなさそうだからな。研究所に行くんだよ、このキャンパス内にある」
「あ、けどそこは――」
今日子がそう言いかけた時、まさに公安の二人が学内の別方向から歩いてきた。
「国枝です」
「西村らしい死体がマンションで発見された。現場へ行くぞ」
佑一は思わず息を呑んだ。
佑一は安積と合流すると、現場へと向かった。遺体の現場に公安の人間が現れたことに、機捜や鑑識が不審な表情を見せる中、佑一たちは遺体を確認した。果たして、遺体は西村孝義であった。
(西村……)
佑一は変わり果てた西村の顔を凝視した。
“保護してほしいんだ! 頼む!”
昨夜の西村の切羽詰まった表情が思い出された。
「西村は……自らの危険を察してたんでしょうか」
「かもしれんな」
安積はそっけない返事をした。
「もしかしたら、俺たちが接触した事で、中国側を刺激したのかもしれない」
安積が薄ら笑いを浮かべる。佑一には、到底笑えなかった。
(保護してほしいと頼まれた昨夜、保護していれば――西村は死なずに済んだ)
その考えが佑一を支配していた。安積は構わずに、西村の部屋へと向かう。そこで佑一は、知った顔を見て密かに驚いた。
(和真)
それは幼馴染の佐水和真であった。どういう訳か、場違いとしか思えない娘を連れている。しかし西村の事を考えると、それを気にかける余裕はなかった。
その後、佑一は安積と王日署へ向かい、事件を公安主導で行う旨を説明した。無論、王日署員たちから反発を買う事は百も承知だった。しかし安積の態度は、買わなくてもいい反発を買いそうだと密かに佑一は思っていた。
「――佑一!」
現場で敢えて無視をした和真は、王日署の去り際に声をかけてきた。佑一には、後ろめたさがあった。西村が保護を求めて来たことも、中国の工作員と接触していたことも、所轄の人間には話していない。なるべく、個人的に関わらないでおこうと佑一は考えていた。
「…なんだ?」
「いや…久しぶりだからな。調子はどうだ?」
「見ての通りだ」
佑一は敢えて冷たく振る舞った。あまり話をしたくなかった。しかしその様子を見せても、和真は親密な笑みを浮かべている。
(相変わらずの…屈託のない笑みだ)
佑一は、懐かしいものを見る気持ちで和真の笑みを見ていた。その佑一に、不意に動揺が襲った。
「青葉が、結婚するんだ」
その動揺は、佑一も抑え込むことができなかった。
「そう……なのか」
「お前だけ連絡先が判らないから、って俺に言付けがあったんだよ。やっぱり招待状も届いてなかったんだな」
それについて、公安であるとか何とか理由をつけて説明したが、佑一の心の中は乱れていた。
永瀬青葉は高校の同級生であり、和真もいた剣道部の仲間であり、そして高校生の頃に付き合っていた佑一の彼女であった。
式の日取りを聞いた佑一は、「おめでとうと伝えておいてくれ」と和真に言付けを頼んでその場を離れた。
親友であり、ライバルだった。
佐水和真は子どもの頃からの友人で、佑一の剣道の師、佐水択真の息子であった。二人は兄弟のように育ち、同じ教えを受け、互いに切磋琢磨した仲であった。
「オレは……また人に決定を任せたのか?」
一人歩きながら、呟きが佑一の口から洩れた。
(あの時に保護していれば、西村は死なずに済んだ。オレが自分で決定しなかったからだ)
自分で決定をしない。それは決定を任す相手に依存しているという事。人に頼り、自分で自分を生きていないという事……
佑一はそう考えていた。
“佑一は……ズルいよね”
あの時、悲し気に微笑んだ青葉の顔が甦ってくる。
(そういう生き方を変えようとしたはずなのに)
佑一は歯噛みした。
「オレは、何も変わってないのか」
苦い想いを甦らせた和真のことを考えながら、佑一は足を速めた。
*
クラスも部活も一緒の青葉は、入部以降、和真と佑一に話しかけてくることが増えた。二人も自然に話していたが、青葉の態度に変化があったのは、夏前の事だった。
その日、部内で選抜試合が行われた。剣道部では練習は男女一緒にやっていたが、大会は別なので男子だけは団体戦の代表を決めるリーグ戦が行われたのである。その中で、和真と佑一は二年や三年の先輩に勝ち、一年で二人とも団体代表に選ばれたのだった。
その日の帰り道、走ってきた青葉が二人を呼び止めた。
「ちょっと! 二人とも、凄いね! 代表、おめでとう!」
「あん? ああ」
面倒くさそうに答える和真に、青葉はふくれっ面をした。
「ちょっと、なんかもう少し嬉しそうな顔してよ。代表に選ばれるって、凄い事なんだからね!」
「いや、まあ…そりゃそうだけど……」
和真は苦笑して、佑一を見る。佑一は、ふっと笑みをこぼして下を向いた。
「ちょっと何? 国枝君まで!」
「いや…代表になるのは、目標じゃないし。和真はそれに、個人戦の代表に選ばれなかったのが、悔しいのさ」
佑一は青葉にそう説明した。青葉は目を丸くする。
「個人戦って、三年の主将たちに勝つつもりだったの? それに代表が目標じゃないって、どういう事?」
「代表になる事じゃなくて、試合に出て勝つこと。それが目標――でも、駄目だって父さんに言われそうだけどな。試合に出るのは自分の力を試す機会であって、目標じゃない」
「と、択真先生は常々言っている」
和真の言葉に、佑一が補足をつける。青葉は真顔になった。
「二人とも、別の道場で教わってるの?」
「ちっちゃい頃からな。俺の親父がそこの先生」
「先生にかかったら、オレたちなんか、まだ子供扱いだ」
佑一の実感を込めた言葉に、青葉は息を呑んだ。
「二人とも、それで一年なのに、そんなに強いのね」
「だから、そんなでもないって」
「――あたしも連れてって!」
青葉は勢い込んで、和真に迫った。
青葉はそうして、部活終わりや土日に佐水択真の道場へ来るようになった。青葉はみるみる実力を上げていったが、次第に和真と佑一との仲が近くなり、いつの間にか択真の呼び方に倣って、二人を『和真』『佑一』と呼び捨てするようになっていた。
*
和真と今日子は、王日大学に来ていた。最初に会ったのは、学部長の曽我元則教授である。
「いや…まさか西村くんが亡くなるとは」
頭髪の薄くなった太め体格の曽我は、経済学が専門である。二人を自分の部屋に招くと、曽我はそう洩らした。
「大学では西村さんは、講義も行ってたんですよね。どんな様子でしたか?」
「いや…実は――」
曽我は少し声を落とすように口を開いた。
「心配していたんです」
「心配?」
「ええ。どうもこのところ、顔に生気がなくてですね。どうも研究の方が行き詰ってるんじゃないか、と思ってたところなんです」
和真と今日子は顔を見合わせた。マンションの管理人夫婦も同じことを言っている。
「それについて、本人から話しを聞いたりしましたか?」
「いいえ。私は専門が違いすぎますんでね。同じ電子系の斎藤先生なら、何か話しを聞いてるかもしれない」
「斎藤先生ですか、ありがとうございます」
二人は礼を言い、斎藤健次郎准教授に話しを聞くことにした。
斎藤は西村と同じ40代前半で、上背はあるが細身であった。
「西村くんは、自殺ですか?」
二人と会うなり、斎藤はまずそう訊いてきた。和真は答える。
「いえ、まだ断定はできません。その可能性もある…と考えて、調べているところです」
「いやあ、なんか顔がやばかったんですよね、ここんとこ。なんか思いつめてるっていうか、緊張してるというかですね。あんまりひどいと鬱症状になりかねない。それで本人に訊いてみたんですよ、『何かあったのか?』って」
「そしたら、何て言ってましたか?」
「『いや、なんでもないんだ』と言ってました。青い顔で。いや、なんでもないって顔じゃあなかったですけどね」
斎藤は喋りながら、苦笑して見せた。不意に今日子が口を挟んだ。
「お二人は仲はよかったんですか?」
「同僚ですからね、話しくらいはしますが……西村くんは、誘っても一緒に呑みに行くようなタイプじゃなかったんでね。あまり、他の先生方とも親交がなかったと思いますね。人付き合いが悪いというか――特に、離婚してからは、そうですね」
「離婚の原因って、何かご存知ですか?」
今日子の再度の質問に、斎藤は少し目を見開いた。
「どうしようかな…言ってもいいもんかな?」
「是非、聞かせてください!」
今日子は身を乗り出すように、声をあげた。その勢いに苦笑しながら、斎藤は口を開いた。
「実は、西村くんの浮気が原因でしてね」
「浮気? 誰と?」
「おっきな声じゃあ言えないが、実はゼミ生で留学生だった、李蓮花という女の子です」
斎藤はうっすらと笑いを浮かべながら、話しを続けた。
「いや、びっくりするほどの美人でしたがね。西村くんの何が良かったんだか……。いや、これは失礼な言い草かな。しかし、まあそんなに目立ったところのない既婚者の西村くんが、どういう訳か超美人の留学生といい仲になっちゃったんですよ。彼女が在学中は隠れて付き合ってたみたいですがね。それで李蓮花が卒業する直前に離婚した。彼としては、結婚するつもりだったのかなあ。しかし李蓮花は帰国すると、そのまま戻ってこなかった。後には独りになった男が取り残された。――と言う訳です」
「なるほど…李蓮花という人は、中国からの留学生ですか?」
「そうです。まあ、どういうやりとりがあったのかは、当事者しか知りませんけどね。元気がないといえば、彼は離婚してからずっと元気がなかった…とも言えます」
「なるほど、色々お話しありがとうございます」
話好きらしい斎藤の部屋を後にして、二人はキャンパス内を歩いた。大学生たちが、校内を闊歩している。その様子を見て、今日子は声をあげた。
「あ~あ、いいなあ、若いって」
「何言ってんだ、お前。お前は卒業したばっかで、充分若いだろ」
「もう社会人ですよ。学生の頃って、楽しかったじゃないですかあ。みんなキラキラしてるし」
「そう見えるだけで、実際は金に苦労したりしてる子もいるだろうさ。今や大学生の半分は奨学金で入学してるけど、それは卒業したら返さなきゃいけない金だ。当然、在学中の住居費や生活費は、多くを親に頼ることのできない世帯だ。自然、在学中の生活費は自分でバイトするようになる。大変だと思うぞ」
「そっかあ……」
今日子は大学生たちに、また視線を向けた。
(こいつはお嬢さんだからな。金には苦労しなかったんだろう)
和真は今日子を見て、ふとそう思った。
「ところで、どうして李蓮花は戻ってこなかったんでしょうね?」
「……ハニートラップ」
短く和真は呟いた。
「なんです?」
「なんで、公安が動いてるのか。そう考えると、つじつまが合う」
「もう、一人で納得してないで、説明してくださいよ」
少しむくれる今日子に、和真は説明を始めた。
「恐らく、李蓮花は中国の工作員だったんだ」
「工作員! そんな事、本当にあるんですか?」
驚く今日子に、和真は言葉を続けた。
「あるさ。中国の連中は、美人を使って対象の人物を落とし、そこから機密を持ち出す……。言っとくがな、日本では過去に首相でも引っかかった事があるような手口なんだぜ」
「え、首相が! 誰です?」
「まあ、それは後で教えてやるけどな。しかし多分、西村はその対象として狙われたんだ。で、関係を持ち、いい仲になった。本人は本気だから、卒業したら結婚しようと持ちかける。しかし工作員は、帰国したら当然、連絡などしない……という事だろう」
「え~、じゃあ色仕掛けで騙された、って事ですか?」
「ハニートラップってのは、そういうもんだ」
今日子はそれを聴いて、すこし首をかしげて見せた。
「それで…公安の人は、この事件にどう関わってるんです?」
「どう関わってるんだかな――しかし、連中が自殺じゃないというからには、それなりの根拠があるのか、それとも自殺という形で簡単に処理される前に、所轄の手を使って西村周辺の情報を得たいか…そんなとこかな」
「そっかあ……それで、わたしたちはどうするんです?」
「大学じゃあ、西村の状況があまり得られなさそうだからな。研究所に行くんだよ、このキャンパス内にある」
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