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第五章・雨。その帳の向こう
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訓練はもちろんだが、勇三は折を見てトリガーが口にする逸話の数々を聞くことも密かな楽しみにしていた。
どこで話題を仕入れるのか、この賢い犬は夜間警戒中にうろつく兵士の幽霊の話や、生息しているはずのない地域で淡い光を放ちながら一斉に飛び立つ蛍の群れの様子を語ってくれた。この陰惨ながらも幻想的で妙な真実味のある出来事を紡ぐ訥々とした口調に耳を傾ける時間を、勇三は気に入っていた。
「勇三、学校の勉強は怠るな。それは訓練なんかよりもずっと重要なことだ」
ある日トリガーは、脇に寄せた宿題が捗らないことをこぼしながらコーヒーを飲む勇三にそう言った。
「それは、わかってるよ。叔父さんたちに学費を出してもらってるんだし……けど、いまのおれには訓練のほうがが大事っていうか、役に立つと思うんだ」
トリガーはしばし押し黙ったのち、「それじゃあ訊くが、五十メートル離れた標的を十メートルの高さから狙撃する場合、弾丸は何メートルの距離を飛ぶか。わかるか?」
トリガーの問いに、勇三は棒を飲んだように黙ってしまった。頭の中に図式を描くことはできても、正確な数字の導き方がわからなかった。
「三角関数の初歩的な計算だ。この国の学校だと高校二年生か、早ければ一年目の終わりには習う内容だろう」
「生きるために必要な知識ってことだな」カウンターでハロルドくんとリバーシゲームに興じていた霧子が口を挟む。「ちなみにわたしはそんな計算知らない」
「だったらなんで得意顔なんだよ」
「ニンフズの言うことはさておき、つまりはそういうことだ」トリガーは続けた。「この国では最低でも九年、本人さえ望めば二十年近く学びに専念できるんだ。贅沢なことじゃないか」
無言のままでいる勇三にトリガーが向き直る。
「もちろん訓練はこれからも続けてもらうつもりだ。ただ、おまえにはできるかぎり以前と同じような生活も続けてほしいと思っている。ニンフズの影響かな……わがままかもしれないが、おれも最近そう思うようになったんだよ」
「ああ、もう。わかったよ」勇三は頭をがしがしと掻きながら言った。「学生の本分を全うすればいいんだろ」
その日から勇三は、平時と非常時のバランスを意識しながら生活を送った。だが、やはりそこにはいつも落ち着かない気分がわだかまっていた。
<アウターガイア>に恋焦がれるような感情を抱いていたわけではない。相変わらずあの世界のことは不気味に思ったし、自分が立つ地面の下でうごめく怪物たちのことを考えると背筋が寒くなった。
それでも、そんな世界を通して得られた出会いもあった。勇三はこれまで送ってきた半生で得られたものと同じく、そのことも大切にしたいと思っていた。
要するに勇三はトリガーや霧子、それにハロルドくんのことまでを好きになっていたのだ。
窓を閉め切った自宅はじめじめと湿っぽく、蒸し暑さすら感じる。重ね着をした背中からはじわりと汗さえ浮かんできた。衣替えの時期も、もうそう遠くない。
玄関を開けると、部屋の中より幾分冷えた空気が身体を包んできた。
勇三はドア脇に置いていた傘を手にとると、ゆっくりとした足取りで登校した。
どこで話題を仕入れるのか、この賢い犬は夜間警戒中にうろつく兵士の幽霊の話や、生息しているはずのない地域で淡い光を放ちながら一斉に飛び立つ蛍の群れの様子を語ってくれた。この陰惨ながらも幻想的で妙な真実味のある出来事を紡ぐ訥々とした口調に耳を傾ける時間を、勇三は気に入っていた。
「勇三、学校の勉強は怠るな。それは訓練なんかよりもずっと重要なことだ」
ある日トリガーは、脇に寄せた宿題が捗らないことをこぼしながらコーヒーを飲む勇三にそう言った。
「それは、わかってるよ。叔父さんたちに学費を出してもらってるんだし……けど、いまのおれには訓練のほうがが大事っていうか、役に立つと思うんだ」
トリガーはしばし押し黙ったのち、「それじゃあ訊くが、五十メートル離れた標的を十メートルの高さから狙撃する場合、弾丸は何メートルの距離を飛ぶか。わかるか?」
トリガーの問いに、勇三は棒を飲んだように黙ってしまった。頭の中に図式を描くことはできても、正確な数字の導き方がわからなかった。
「三角関数の初歩的な計算だ。この国の学校だと高校二年生か、早ければ一年目の終わりには習う内容だろう」
「生きるために必要な知識ってことだな」カウンターでハロルドくんとリバーシゲームに興じていた霧子が口を挟む。「ちなみにわたしはそんな計算知らない」
「だったらなんで得意顔なんだよ」
「ニンフズの言うことはさておき、つまりはそういうことだ」トリガーは続けた。「この国では最低でも九年、本人さえ望めば二十年近く学びに専念できるんだ。贅沢なことじゃないか」
無言のままでいる勇三にトリガーが向き直る。
「もちろん訓練はこれからも続けてもらうつもりだ。ただ、おまえにはできるかぎり以前と同じような生活も続けてほしいと思っている。ニンフズの影響かな……わがままかもしれないが、おれも最近そう思うようになったんだよ」
「ああ、もう。わかったよ」勇三は頭をがしがしと掻きながら言った。「学生の本分を全うすればいいんだろ」
その日から勇三は、平時と非常時のバランスを意識しながら生活を送った。だが、やはりそこにはいつも落ち着かない気分がわだかまっていた。
<アウターガイア>に恋焦がれるような感情を抱いていたわけではない。相変わらずあの世界のことは不気味に思ったし、自分が立つ地面の下でうごめく怪物たちのことを考えると背筋が寒くなった。
それでも、そんな世界を通して得られた出会いもあった。勇三はこれまで送ってきた半生で得られたものと同じく、そのことも大切にしたいと思っていた。
要するに勇三はトリガーや霧子、それにハロルドくんのことまでを好きになっていたのだ。
窓を閉め切った自宅はじめじめと湿っぽく、蒸し暑さすら感じる。重ね着をした背中からはじわりと汗さえ浮かんできた。衣替えの時期も、もうそう遠くない。
玄関を開けると、部屋の中より幾分冷えた空気が身体を包んできた。
勇三はドア脇に置いていた傘を手にとると、ゆっくりとした足取りで登校した。
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