カゼノセカイ

辛妖花

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2話

母のセカイ

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  春の大きな風が、桜の花びらを舞い上げる午後。山奥の農村地域。山の中腹にある大きな桜の木の下に、息子を亡くした母親が現れた。
  この生まれ故郷に帰省後、不思議な出来事を目の当たりにしていた。
  死んでしまったはずの息子から、この桜が描かれた家族の絵が、うたた寝をしていた先程、母親の目の前に置かれていたのだ。1度も連れてきた事が無い母親の実家なのに。



  山奥の田舎町から仕事の為、麓の大きな県に引っ越してきた陽子。仕事も私生活も順風満帆で、程なくして結婚する。
  とても可愛い女の子を授かり、子育てと仕事に忙しい日々をおくっていたが、とても幸せだった。
  しかし、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。

「どうしたの?」

  ある晴れた日、仕事に出掛けて行ったばかりの夫が、突然ドカドカと帰って来た。何も言わずに冷蔵庫から乱暴に缶ビールを取り出し、開けて飲み干した。ただならぬ空気に生唾を飲み込む陽子。何か恐ろしさも感じたが、その背中に心配になってもう1度声をかける。

「···どうしたの?大丈夫?」

  くるっとこちらに向き直った夫の顔は、今まで見たことの無い怒りの形相だった。
  どしん、どしんと鬼の様に近づいてくる。

「···見て分からないのか!?大丈夫な訳ないだろ!!」

  聞き取れたのはそこまでで、後はなんと言ったか分からない罵声を浴びせられる陽子。そして、ついには頬を平手打ちされてしまう。夫から、初めて暴力を受けた日だった。
  一人娘の真奈美が、小学校に行っていて居なくて良かったなどと考えながら、理不尽な暴力に思考は停止する。

  それからと言うもの、ほぼ毎日暴力を振るわれる様になってしまった。
  あの日夫は、会社を解雇されていた。同僚と揉め、暴力を振るった為であった。出世目前だった様で、かなりショックだったのだろう。朝と言わず昼と言わず、常にビールや焼酎を飲んで潰れていた。
  誰にも悩みを言わず、弱音も吐かずにひたすら優しく我慢し、頑張って来ていたのを見ていただけに、何と言葉をかけていいか分からなかった。
  それに、余計な事を言って逆上させ、真奈美にまで暴力を振るわれたら大変だからだ。もう少し時間が経てば落ち着くだろうと思っていた。

  しかし、そんな思いも虚しく夫のアルコールの量が増えるのと比例して、暴力も増えていった。

  そしてとうとうその日が来てしまう。

  小学校5年生だった真奈美は、父親が母親に暴力を振るっているのでは無いかと気付いていた。母親の痣や怪我が耐えないからだ。
  しかも、父親はこの所ずっと家に居て、酒に溺れている。あんなに熱心で優しかった父親は、真奈美の話しも聞かない見向きもしない別人になってしまっていた。
  今日こそは、父親にお酒を止めてもらおうと、いつもより早く帰宅した。学校から家までは少々遠い道のりでもあったからだ。
  真奈美は小走りに、古い2階建てのアパートの階段を上り、4つ並ぶドアの1番奥のドアを開ける。

「ただい···ま···」

  玄関を入り、目隠しの長いのれんを左手でよけると、目の前には茶の間と台所がある部屋だ。
  今はカーテンを締め切って薄暗く、あちこち血で汚れ、乱雑に散らかり、ひっくり返ったテーブルの下には何と顔が腫れ上がった無惨な姿の母親が横たわっていた。
  その向かって右側のキッチンの方には、血で汚れた父親が、死んだ魚の目をして立っていた。

「···お前は何Я△#ってΣ◎&@□ああ"ー!?」

  突然の怒号と罵声で何を言っているか聞き取れなかった。そのままドタドタと千鳥足ながらも凄い勢いで向かって来た。恐怖を感じ、慌てて玄関に引き返す真奈美。

  その様子を陽子は見ていた。手足は焼ける様に痛く、お腹も激痛で身動き出来ない。その為、腫れ上がってうっすらとしか開かない目で真奈美を見ているしか出来なかった。口も腫れ、お腹の激痛で声も出せなくなっていた。

  真奈美は、玄関のドアを勢い良く開けて飛び出したので、正面の柵に体当たりしてしまう。そこに足のもつれた父親が倒れ込んで来た。真奈美は柵と父親に挟まれ息が詰まる。

  その時、柵が壊れ真奈美は2階から下の道路へと落ちてしまった。

  運悪く後頭部から落ちてしまい、強く打ち付けてしまった。それを、柵の壊れた2階通路から見下ろす父親。しかし、無表情のまま踵を返し、真奈美から見えなくなった。
  後頭部から大量の血が滲んできて、真奈美の体は鼓動を失った。が、真奈美の心は灼熱地獄の様に怒りで燃え盛った。
  部屋に残された母親を守ろうと、感覚の無くなった手足に懸命に力を込める。重い重い鎖に繋がれて地面に縛り付けられている様だったが、早くしないと母親が殺されてしまう。そう思った真奈美は力を振り絞った。途端、地面からビュンと飛び上がり2階の柵を超え、玄関までたどり着いていた。驚いたが、今はそれ所では無い。目の前の父親の背中に手を伸ばす。
  掴むつもりだったのに、父親が目の前から消えていた。困惑する真奈美。

  陽子は、開け放たれたドアから微かに真奈美が父親に押されて2階通路の柵から落下したのを見た。涙が溢れ、何も見えなくなった。
  その水中の様な視界に父親が戻って来たのが分かった。死を覚悟する。
  しかし、急に様子がおかしくなる。自分の両手を驚いた様子で交互に凝視していた。
  真奈美はどうしたのだろうか。何とかこの隙に、真奈美のもとへ行けないものかと、思い切って手を動かし、のしかかっていたテーブルを退かす。
  しかし、あまりの痛さに気を失ってしまう陽子。

「母さん!!」

  と、叫んだはずの真奈美の声はせず、聞こえたのは父親の声だった。真奈美は心底驚き、怖気立った。台所を見ると、シンクに反射して映る姿は父親のおぞましい顔だ。
  真奈美は父親の体の中に入り込んでしまった様だった。負の感情が渦を巻くように真奈美の魂を埋め尽くす。そして、父親の中に入り込んでしまった真奈美は、台所にあった包丁を手にする。

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