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(十八)
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「竜胆!」
奇跡はこの時起きた。
竜胆の身を案じ、なんとか熊の気を引けないかと、千之助が一歩を踏み出す。
日頃の運動不足のせいか、注意を熊に向けていたせいか、彼は地面に転がるなんでもない石につまずき、体制を崩した。
その瞬間、肩に激痛が走る。
悲鳴を上げ、転がってその場から逃れる。逃れた先で千之助は見た。自分が先ほどまで立っていた場所のすぐ後ろに、鬼の形相をしたお菊が立っているのを。
痛む肩に手をやると、細い鉄の棒が手に当たった。針だ。
今朝、彼女が彼に向かって構えた針と同じ物。拾ってきたのか、もう一本持っていたのかは知らないが、とにかく今度は本当に刺した。
千之助が体勢を崩していなければ、今頃はうなじのあたりを一突きにされ、地面に転がっていたであろう。
「お菊! 何をする!」
お菊は倒れている彼を睨みつける。
「知れたことを。私たち二人の邪魔をする愚か者を始末しようとしたまで」
彼女は着物に手をかけ、一息に脱いだ。
美しい体が月夜に浮かび上がる。
「慣れぬ方法は上手くいきませんね。やはり、私は私らしくといったところでしょうか。今度は手加減いたしませぬ。大人しく骨と皮におなりなさい」
冗談ではない。
わけのわからぬ理由で殺されるなど御免である。
なんとか距離をとろうと後ずさると、思いのほか簡単に彼女から離れた。
千之助が数歩退こうとも、お菊は一歩しか歩まぬがゆえに。
彼は下がりながら首を捻る。
お菊の『忍法女体釜』は、その真価を発揮するには、相手に密着する必要がある。
だというのに彼女は芸もなく、千之助に向かって一歩ずつ歩みを進めるだけ。
鬼気迫る感じはあるが、動きが鈍い。
目もどことなくうつろだ。まるで、夢を見ているような。
夢? ああ、そうだ。夢だ。
遅ればせながら彼は気がついた。
もしやお菊は、敵の夢神楽の術にかかっているのではなかろうか?
これまで敵の毒牙にかかった娘たちと同様に、夢と現実の境界が曖昧になっているのでは?
だとすれば千之助にとっては、起きているお菊を相手にするよりも容易。
彼は距離を詰められるのを覚悟で、その場に踏みとどまり、お菊の口元をしっかりと見る。
お菊の呼吸に自分の呼吸を合わせていく。
実際に夢の中に入る訳ではない。相手の意識の奥に自分の存在をはっきりと認識させるだけだ。体にふれずとも、それくらいはこの状況でもできる。
忍びの実力に自信などない千之助だが、夢神楽の術は別。相手の深層心理たる夢の中には、百を超える数で忍びこんできた。
できる。必ずできる。
「聞こえるか、お菊」
これまで一歩ずつではあっても、絶え間なく千之助に歩み寄っていた彼女の動きが止まった。
お菊には彼の声が耳からではなく、頭の奥から聞こえてくるように感じられているはず。
「お主、敵の術にかかっておるぞ」
「な、なにを馬鹿げたことを」
否定しながらも、彼女の瞳が大きく揺れる。
「誰にわしを襲うように言われた? お前のことだ。見ず知らずのものに言われて、はいと指示に従ったわけではあるまい」
「指示など、指示などされていない! これは私と竜胆で話し合って決めたこと!」
なるほど流石は夢心地。忍びと思えぬほど口が軽い。
敵の手口は理解した。
夢で現実を上書きされたならば、こちらは現実で夢を上書きするまで。
千之助は夢を実体化させる時ように、呼吸を、言葉を、お菊の乱れた呼吸に、心にかぶせていく。
「話し合いだと? 竜胆は言葉が話せん。そのことはお前も承知しておるではないか」
「竜胆が喋れない? いえ、そんなはずは……竜胆は喋れ……ない?」
「見よ、お菊!」
たたみかけるように声を張り上げ、熊と戦う竜胆を指さす。
彼女は彼の勢いにのまれ、抵抗もなくそちらを見る。
竜胆とお菊の視線が交わった。
竜胆としてはこの異常事態に駆けつけたいのはやまやまだが、自分が行けば熊も追ってくる。
それゆえ彼女はあえてその場にとどまり、熊の攻撃をかわし続けていた。
「竜胆があそこで熊を相手にしておるのは、わしらを守るためであろう。わしらが今やるべきことは争うことではない。あの熊を操っているものを倒し、その呪縛から解き放つことだ」
「あ、ああ!」
お菊が頭を抱えて苦しみだす。
言葉で心を揺り動かすことができるのはここまで。
あとは、現実でしか起こりえない事象をぶつけるのみ。
千之助は己の肩に刺さっていた針を引き抜いた。新たな痛みが襲ってきたが、いまは痛がっている場合ではない。
長針を両手でしっかりと握りしめ、忍法女体釜を恐れず、お菊に突進する。
彼女がよけようと身をよじるが、夢見心地の身体では、怠け者である彼の動きを上回ることすらできはしない。
千之助はためらうことなく、お菊の太ももに長針を突き立てた。
「目を覚ませ、お菊!」
「ぎゃぁぁぁ!」
彼の怒鳴り声と彼女の悲鳴が重なる。
「竜胆は話せん。話せたとしても、自分の都合で仲間を殺せと言うような奴ではない。お前が話した竜胆は偽物じゃ!」
千之助の言葉が届いているのか、いないのか。
お菊は頭を抱えたまま悲鳴を上げ続ける。
足の痛みよりも、自分にとって都合のよい、甘い夢を壊されることの痛み。
彼女の悲鳴が止んだ。
お菊が顔をあげ、千之助を見る。
竜胆と熊を見る。
己の足に刺さった長針を見る。
その目にみるみるうちに涙がたまっていく。
彼女は長針を勢いよく引き抜き地面に突き立てると、がばっと千之助の前にひれ伏した。
奇跡はこの時起きた。
竜胆の身を案じ、なんとか熊の気を引けないかと、千之助が一歩を踏み出す。
日頃の運動不足のせいか、注意を熊に向けていたせいか、彼は地面に転がるなんでもない石につまずき、体制を崩した。
その瞬間、肩に激痛が走る。
悲鳴を上げ、転がってその場から逃れる。逃れた先で千之助は見た。自分が先ほどまで立っていた場所のすぐ後ろに、鬼の形相をしたお菊が立っているのを。
痛む肩に手をやると、細い鉄の棒が手に当たった。針だ。
今朝、彼女が彼に向かって構えた針と同じ物。拾ってきたのか、もう一本持っていたのかは知らないが、とにかく今度は本当に刺した。
千之助が体勢を崩していなければ、今頃はうなじのあたりを一突きにされ、地面に転がっていたであろう。
「お菊! 何をする!」
お菊は倒れている彼を睨みつける。
「知れたことを。私たち二人の邪魔をする愚か者を始末しようとしたまで」
彼女は着物に手をかけ、一息に脱いだ。
美しい体が月夜に浮かび上がる。
「慣れぬ方法は上手くいきませんね。やはり、私は私らしくといったところでしょうか。今度は手加減いたしませぬ。大人しく骨と皮におなりなさい」
冗談ではない。
わけのわからぬ理由で殺されるなど御免である。
なんとか距離をとろうと後ずさると、思いのほか簡単に彼女から離れた。
千之助が数歩退こうとも、お菊は一歩しか歩まぬがゆえに。
彼は下がりながら首を捻る。
お菊の『忍法女体釜』は、その真価を発揮するには、相手に密着する必要がある。
だというのに彼女は芸もなく、千之助に向かって一歩ずつ歩みを進めるだけ。
鬼気迫る感じはあるが、動きが鈍い。
目もどことなくうつろだ。まるで、夢を見ているような。
夢? ああ、そうだ。夢だ。
遅ればせながら彼は気がついた。
もしやお菊は、敵の夢神楽の術にかかっているのではなかろうか?
これまで敵の毒牙にかかった娘たちと同様に、夢と現実の境界が曖昧になっているのでは?
だとすれば千之助にとっては、起きているお菊を相手にするよりも容易。
彼は距離を詰められるのを覚悟で、その場に踏みとどまり、お菊の口元をしっかりと見る。
お菊の呼吸に自分の呼吸を合わせていく。
実際に夢の中に入る訳ではない。相手の意識の奥に自分の存在をはっきりと認識させるだけだ。体にふれずとも、それくらいはこの状況でもできる。
忍びの実力に自信などない千之助だが、夢神楽の術は別。相手の深層心理たる夢の中には、百を超える数で忍びこんできた。
できる。必ずできる。
「聞こえるか、お菊」
これまで一歩ずつではあっても、絶え間なく千之助に歩み寄っていた彼女の動きが止まった。
お菊には彼の声が耳からではなく、頭の奥から聞こえてくるように感じられているはず。
「お主、敵の術にかかっておるぞ」
「な、なにを馬鹿げたことを」
否定しながらも、彼女の瞳が大きく揺れる。
「誰にわしを襲うように言われた? お前のことだ。見ず知らずのものに言われて、はいと指示に従ったわけではあるまい」
「指示など、指示などされていない! これは私と竜胆で話し合って決めたこと!」
なるほど流石は夢心地。忍びと思えぬほど口が軽い。
敵の手口は理解した。
夢で現実を上書きされたならば、こちらは現実で夢を上書きするまで。
千之助は夢を実体化させる時ように、呼吸を、言葉を、お菊の乱れた呼吸に、心にかぶせていく。
「話し合いだと? 竜胆は言葉が話せん。そのことはお前も承知しておるではないか」
「竜胆が喋れない? いえ、そんなはずは……竜胆は喋れ……ない?」
「見よ、お菊!」
たたみかけるように声を張り上げ、熊と戦う竜胆を指さす。
彼女は彼の勢いにのまれ、抵抗もなくそちらを見る。
竜胆とお菊の視線が交わった。
竜胆としてはこの異常事態に駆けつけたいのはやまやまだが、自分が行けば熊も追ってくる。
それゆえ彼女はあえてその場にとどまり、熊の攻撃をかわし続けていた。
「竜胆があそこで熊を相手にしておるのは、わしらを守るためであろう。わしらが今やるべきことは争うことではない。あの熊を操っているものを倒し、その呪縛から解き放つことだ」
「あ、ああ!」
お菊が頭を抱えて苦しみだす。
言葉で心を揺り動かすことができるのはここまで。
あとは、現実でしか起こりえない事象をぶつけるのみ。
千之助は己の肩に刺さっていた針を引き抜いた。新たな痛みが襲ってきたが、いまは痛がっている場合ではない。
長針を両手でしっかりと握りしめ、忍法女体釜を恐れず、お菊に突進する。
彼女がよけようと身をよじるが、夢見心地の身体では、怠け者である彼の動きを上回ることすらできはしない。
千之助はためらうことなく、お菊の太ももに長針を突き立てた。
「目を覚ませ、お菊!」
「ぎゃぁぁぁ!」
彼の怒鳴り声と彼女の悲鳴が重なる。
「竜胆は話せん。話せたとしても、自分の都合で仲間を殺せと言うような奴ではない。お前が話した竜胆は偽物じゃ!」
千之助の言葉が届いているのか、いないのか。
お菊は頭を抱えたまま悲鳴を上げ続ける。
足の痛みよりも、自分にとって都合のよい、甘い夢を壊されることの痛み。
彼女の悲鳴が止んだ。
お菊が顔をあげ、千之助を見る。
竜胆と熊を見る。
己の足に刺さった長針を見る。
その目にみるみるうちに涙がたまっていく。
彼女は長針を勢いよく引き抜き地面に突き立てると、がばっと千之助の前にひれ伏した。
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