あほんだら

付和雷象

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あほんだら

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「ほんまこのあほぼけかすのあほんだら、豆腐の角にあたまぶつけて死ね!」

 なんて罵詈雑言なげかけられて、ちんちんまるだしりょうま二十三才は、そうかじゃあ死のう、そうだそうしようなんて、口では言うが、豆腐を用いたより効果的な死に方に思いめぐらせ、悲壮な顔つきで「すみません死ぬための豆腐をください」なんていっても豆腐屋の野郎タダでは豆腐くれねえだろうなあ、なんて思うが早いか、なんだよ、こちとら死ぬ気で行ってやってんのによう、豆腐屋のくそ野郎、馬鹿野郎、って逆切れ逆上ついには噴火しだしてしまう始末のその訳は、シンプルに金がない、ほんともうまるでないため、やや、死ぬることすらままならぬか、とげっそり絶望落胆する訳などまるでなく、あ、なんか腹減った、などと、決意のほどなどはじめからなかったかのごとく、平然のんべんだらりんしているためにかようなディスりを受けてる訳では決してない。

 そもそも一晩寝ればきれいに色々さっぱり忘れてしまうたちなので、覚えているうちに、なんでやろ、なんて考えてはみるが、まあそんな日も男性にはあるのだからしようがない、という理由で勃たねえもんはしようがない、のだが、しようがないでは先方もたまったもんではないのでかかる事態に相成ったわけで、ちんちんまるだしのままぼんやりいろんなことから取り残されてしまった午前二時のりょうま、まだなにものでもない二十三才は、まわりを見ればみんな真面目に侍やら商人やら百姓にやら、なにかしら何者かになっていることに焦るでもなく、純粋なクズとして生きよう、なんて思っているわけではないのだが、今んとこなんとなくそうなっちゃっている。


 寺田屋の二階の角部屋、すすけた障子をあければそこには蓬莱橋をぷりんぷりん怒りながら歩くさっきの女の後ろ姿が。
 あちゃあ、ありゃあ今度会っても当分やらしてくんねえだろうなあ。なんてほざいてる様はいかにも女に不自由のないもてるメンみたいだが、こいつはまるで女に人気がない。なにせちびで短足、口が臭いうえに馬面である。ただ口だけは達者なんだか、なにやら相手を妙にその気にさせてしまうからたちが悪い。
 ゆうべもおおかた適当なことを言ってだまくらかした女にきっちり飲み屋の勘定払わせて、なぜだか木戸の開いてた深夜の旅籠に我が家のごとく勝手にあがり込んでは女に逃げられ、さりとてへこむ素振りも微塵なく、あ、ラッキーと女の忘れていった煙草なんぞをふかしてそのままだらりとねむりこけてしまったところへ、なんだなにやら人の居ぬはずの部屋から気配がするよと宿の女主人おそるおそるやってきて、えいやっと襖をあけてみたらば、りょうま二十三才やはりちんちんまるだしなのであるからそりゃあもう慌てた慌てた女主人。変態がいる、ちんちんまるだしの。呆然。呆然とするがなんか気が抜ける。その訳は、あれが、まあなんとかわいらしいさまであったから。なんとゆうかちょこんとしている。気づけば結構長いあいだながめているうち母性というのかなんというのか、怒り、蹴飛ばし、追い払う気にはなぜかならず、猫がまよいこんできたのとおんなじ扱いとちょっとした情をかけてやることにした。


 そうとは知らぬりょうま目覚めて驚いたことがふたつ。ひとつはなんだかんだでいきあたりばったり勝手にあがりこんだ見知らぬ旅籠、さすがに宿の者に知られては、

「ちょいとおまいさん怪しい野郎があがりこんじまってるよ」
「なんだとこの野郎、なぐりたおしてやるー」
「そんなおよしよ、馬鹿はそんなもんじゃなおりゃしないよ」
「あっそれもそうだな、ならいっそ殴り殺してやるー」
「もうだめだよあんた、すぐにかっとなるんだから、そんなもんに使う手がもったいないよ、ほらこないだ拾ってきた流木があるじゃないか」
「あっそれもそうだな、ならこいつで叩き殺して、それから首に縄つけ町中ひきずりまわしてやるー」
「なにいってんだいそんなことしてたらこっちがお縄になっちまうよ」
「あっそれもそうだな、じゃあ調理場の包丁で三枚におろして犬の餌にしてやるー」
「いい加減にしとくれよ! なんでおまえさんはそうなんだろね」
「いけねえか?」
「なんでうちの包丁使うんだい! 使うなら角の藪そばの包丁借りてきとくれ!」
「あっそれもそうだな、よっしゃあ、じゃあいっちょ借りてくるぜ、ぐだぐだ貸し渋りやがったら一緒におやじも三枚におろして」
「おまいさん! それは、とてもいい考えだと思うわ、ちょっと待ってて他にも三枚におろしたいご近所さんのリストつくるわ」

 ・・・・などと思えばさすがにぞっとして、見知らぬ藪そばのおやじやリストアップされたご近所の方々のことを思うと胸が痛む、ということはあんまりないが、まあちょっとは申し訳ないかなと思ったりもするので、これはそうっと夜も明けぬうちこっそりおいとまするのが正解、そうだそうしよう、なんて心づもりでいたつもりが爆睡、目覚めたときにはもう昼過ぎになっていた。やば!


 飛び起きところがあたりは妙にしんとして、伏見港につけられた船がごんと石垣に鳴る。はっ、そうか、今ちょうど藪そばんとこ行ってんだな、すまねえおやじ死んでくれ、顔も知らんけど、なんてこれ幸い今のうちになんとか逃げ出しちまいましょうねと立ち上がったところの目に入ってきたのはお盆の握り飯。

 ?

 一体全体どうしたというのだこの握り飯は!? なぜここにある!? 誰が? などと考える間なく、なんかしらんくうたろ、なんてもさもさむさぼりだしたかと思えば次の瞬間にはもうたいらげていた。あまりなにも考えない。それはまるでハムスターが指で与えた餌をたいらげるかのよう。ハムスターりょうま。さてと、と腹が満たされなにかへんに落ち着いちゃったねな感じになってしまったりょうま、無意味に悠然宿の階段を下りてゆくところへ、
「これえっっ!」
 突然鞭打つような女の怒号。
 びくうぅ!
 思わず縮み上がった。ハムスターの男二十三才。すこしもらした。
 え・・・・なんなん? と思っていると下の部屋からなおもおんなじ声で
「姿勢えっ!」だの、「箸っ!」だの、怒号が聞こえてくるではないか。
 おそるおそるそおうっとのぞいてみてみると、目の前に年増の女が背中を向けて座っているその向こうに大汗をかきながらプルプル震え涙目であたふたと食事をとっているおおきな若いでぶの侍がいた。でぶが気づいたらしくちらっとこちらを見た瞬間、
「集中しいっ!」と怒鳴られたでぶは、思わず口に入れたばかりの米を飲み込んでしまい、
「なんやの! ちゃんと噛みいっ!」に食い気味で、
「ほらこぼしたっ!」かと思えば、
「またこぼしたっ!」あげく、
「どんだけこぼすん!」とその都度つんざく怒号がアメリカ軍の集中砲火のごとく展開されていた。その迫力に圧倒されながら、あかん、やばい、おおきなでぶが、ちいさくなって、おろおろ飯食ってる、あかん、めちゃめちゃおもろい、めっちゃ涙目やし、なんなんあいつ、あかん、わろてまう、なんか丁髷までおもろみえてきた、と、どうにも笑いがこみあげてきてしまったりょうま、つい我が身を忘れ、はっきり言って気のゆるみ、足元の桶をコロンと転がしてしまった。あっ。
 ・・・・・・・・
 怒号がやみ、突然訪れる静寂。桶のコロンな残響音がやけに響く。
 年増の女の背中はぴくりとも動かない。でぶは箸をもったまま、まあるい目をぱちくりさせて女とこっちをちらちら見ている。
 ・・・・やば。
 やがて、静かな波に揺れた伏見港の船がごんと石垣に鳴るやいなや、
「のこさはるんかっ!食べるんかどっちや!」
 とふたたび女が叫ぶと、
「えっ、あ、はい、」とでぶが戸惑っているのに食い気味で、
「どっちやきいてますんやあっ!」なんてどなりつけるものだから、でぶのほうもあわてて、
「食べます食べます」とおろおろ箸を動かし始めた。



 わけが分からん、一体全体この町はどうなっているのだ!?
 あわてて寺田屋を飛び出したりょうま、力いっぱい駆けだしてもう追いつけないだろう角で、はあはあ息を切りながら思った。まったくここにきてからおかしな連中にしかでくわしてない。

 ひとりめは、はじめて町をぶらぶら歩いていると道の真ん中で声かけてきたヤツで、なんかこっちにむかってくるなと思っていたらぬぼうっといきなり、
「すんません、お金貸してもらえませんか?」
 みれば五十をすぎただろう汚いおっさん。もちろん知らんヤツ。
 あまりにもあたりまえのように言うからびびったが、物取りやカツアゲのたぐいではなさそうな、ふつうの気の弱そうなおっさん。ははん、これは純粋に俺に金を貸してもらえないかときいているんだな、って、どうみたら俺に金があるようにみえる? おっさんも汚いが俺もたいがい汚ねえなりぞ? たいしてかわらんぐらいかも。いやいや、そもそも初対面の人にいう? それ? すげえ勇気だな。仮に貸してやっても、絶対貸さんけど、おっさん死んでも返さんだろう!? もっとゆったら金貸しの店の前でたまたま歩いてた俺に金借りようとするか? とゆうかこれで貸すヤツいんのか? とかなんとか思っていたら、
「お金、貸してもらえませんか?」
 なんてまだぬぼうっと平気できいてくるもんだから腹立って、身ぐるみはがしてやろうかしら、などと考えたがぐっとこらえて、いやです、とだけ言ったら、
「ええーっ」と言った。貸してもらえると少しでも思っていたことに驚いた。

 また、メインストリートの油掛け通りでは全身紫の布をまとってなにやら指でリズムをとりながら機嫌よさそうに歌うやたら目立つおばはんがいて、ほう、これはストリートミュージシャンというやつだな、皆に己の歌唱を聞いてほしくてやっているのだよ、どれ、しばし聞いてやろう、よければ拍手のひとつでも、と足止め歌を聴いてると、
「なにみとんじゃあ!」
 いきなり怒鳴り、殺すぞといわんばかりの顔つきでにらみつけてきた。
「・・・・・」
 ちなみに別の日に見たそのおばはんは道の端の溝に向かって、ふざけんな! いてもたろか! 殺すぞ! しばいたろか! などなど何に何の腹を立てているのかさっぱりわからぬ悪態をつき続けながら歩いていて、驚いたのは周りの人間たちがそれをまったく気に留めることもなく、普通に店の前を掃除してたり知人とあいさつなどしたりして、なんの違和感もなくすべてがごくごく自然なこの町の風景になっていたということだった。

 なるほど自分はまだまだ世間を知らないのだなということに思い至るわけもなく、なんちゅう町だここは、わけがわからん! とわめきながら歩くりょうまも、また、結構たいがいではあったが、町はそれすらも飲みこんで本日快晴。

 と思っていたらスネを思いっきり打たれてつんのめった。

 いったあ、と打たれたスネを両手でかかえ、打たれてないもう片方の足でよろよろバランスをとっているところへ背中を蹴飛ばすヤツがあるもんだから、たまらずそのまま顔面道のくぼみの泥の中へと突っ込んだ。びちゃ。
 おい! と声がして、泥が着物に跳ねただのなんだのと、とにかくヤカラみてぇな口ぶりの男がわあわあ文句をわめきちらしてる。
「なんとかゆうたらどないや!」ゆわれたかって現在顔面が泥に埋まっている状況なのですから、なんともゆわれへんこちらの事情を少しはわかっちゃくんねえかなこの野郎と泥の中でうめいていると、あーわるかったなわるかったな、こいつ知り合いでな、すまんな勘弁したってくれや、と別の誰かの声がしたかと思えば、文句の声がピタッと止んで、たっ、と駆け出してっちまったようだから、りょうま顔面泥につっこんだまま何が起こったんだかさっぱりわからない。やがてスネの痛みもおさまらぬなか、なんとか起き上がってはみたものの、やはり泥で目が開けられないから、誰が来てなにがどうなったんだかカイモクわからんところへ、ひどい有様やなあ、と笑いながら自称りょうまの知り合い、へらへら声をかけてきた。だれや、ここに知り合いなんぞはひとりもおらんはず、などと思っていると、ほい、と手ぬぐい渡され、あどうもと顔の泥を拭って見たらば、思い出した、ゆうべ一緒に飲んでた禿じじい。あー!
「あーやあれへん、まず、ありがとうございますやろが」なんて杖ついてニヤニヤしてやがる。
「またおっさんかあっ!」
 思い出したのだ。ゆうべも歩いていたらば急にスネを打たれてよろけたところを背中から蹴飛ばしてくるヤツがいて、ってそいつが今目の前にいる杖を持った禿じじい。
「二回もひっかかんなや、ゆうべの今日やないか」
 二回もおんなじことにひっかかっているのであった。くそ。じじいの杖はスネを打つための杖なのかよ、ちくしょう、いてえよ! なんて食ってかかったところをゆうべは、「まあまあ、年寄りの悪ふざけにそない怒んな、お前があんまり田舎もんまるだしのくせに、なんやえらいかっこつけてアーバンボーイ風ふかしとって、かえって田舎もんまるだし感がすごいことなっとったからな、わし逆にあわれになって、とゆうか、ひまやったし、とゆうかひましてるとこにあほがきた思て、したら、からかってみとなるがな、ならんか? わしはなるねん、ま、どっちでもええわ、おい、どや、年寄りのひまつぶしついでや、ちかくに知ってる店あるから飲みいこ」なんて連れていかれた長建寺の川向いにある、馬に人や荷をのせて運搬する馬子やら船頭やらがたむろする小汚い居酒屋で、てっきりお詫びにおごってくれるもんだとばかりに、ばかすか飲み食いしてたら、じじいいつのまにかいなくなっちまいやがって、それでも勘定は払ってくれてるもんだろうと思って店出ようとしたらば、「にいさん、お勘定!」っておれが払うんかい! ってなんだよ結局おれがじじいにおごってんじゃねえかって、いや、おれ払ってないわ、ん? 勘定どうなった? あ、女のひとに払ってもらったんだった、そうそう、そうだそうだ、あはは、ってそんとき一緒にいた女のひとってだれだ?
「おい、あれからどないなってん?」じじいがにやにや聞いてくる。は?
「ごっつすごいん持ってはんねやろ? 大砲なみの。そいつはゆうべ存分使えましたですか? ええ?」
 なんのこと・・・?
「だいたいおまえがえらい吹かしよるからやな、おれの大砲がどうやこうやゆうて、そないすごいん持ってるんやったらいっぺん見してみいゆうても、全然みせんし、あげくには、そもそも女がおらんとこでは大砲にはならん、ゆうてごねるからやな、わざわざ女呼んだったんやないけ、どや、おんなや、大砲なったか? 聞いても、まだや、時間かかるねん、ゆうしやな、わしみてみたいがな、大砲なるとこ。てゆうか火い吹くとこ」
 火?
「おれの大砲はごつくて黒くて火い吹くねんぞ、ってお前がなんべんもゆうからやな。最初は笑って聞いてたけど、いやマジでって、えらい真剣な顔でゆうからやな、まあ、わしも長いこと生きてるけど、あそこから火吹くヤツなんかみたことあれへんし、どないやって火い吹くんか、ちょっとみてみたいがな、どうゆう仕組みになってんのかも気になるし、なんや煙もでるゆうてたよな?」
 ・・・・・
「な?」
 ・・・・ちがう、それ黒船の話や。
 へんなふうにまざってしもてるやん。ちょっと前に峠の茶屋で知らんヤツが横でしゃべってたんをちろっと聞いただけの黒船の話、それ。・・・・あちゃあ、酔っぱらっててごっちゃになってしもとる、てゆうか、じじいちょっと信じてるやん。
「もういつになったら大砲見れるんかわからんしやな、おれもなんか眠なってきてしもたから、ゆうべはあきらめて帰って寝たけど、おい、あれからどうやってん? 火吹いたんか? 煙だしたんか?」ぐいぐい聞いてこなくていい、じじい。しかも大声で。なんでそんな大声なんだ、恥ずかしい、てゆうか、みんな見てる! いかんいかん、とりょうまスッと立ちあがり、
「あー、うるさいうるさい。昼間から道の真ん中でなにを言うのですか、あなたは。僕はね、おじいさんと遊んでる暇はないのだよ。これから、今まさにだね、さる高名なえらい偉い和尚様にだね、これまた江戸一番のど偉い師匠から預かってきた手紙をだ、その、アレするとゆうか、コレしにゆかねばならないという、大事なナニがあるのであって、そのナニに大都会江戸からはるばるやってきたナニであるわけだからからして、えー、わかったかね、ではこれで」
 とゆうとじじい
「なんやねん、しょうもな。おい、さっきの手ぬぐい返せ」とりょうまの手から泥を拭いた手ぬぐいを奪い取り、そのまま簡単にたたんでは手ぬぐい屋の店頭に並べてあるおんなじ柄の手ぬぐいの上に戻した。
 売りもんやったんかい! とりょうま思って見ていると、店の主人が、がっつりこちらをにらんでる視線と目が合った。
 おれちゃうやん・・・・あかん、とにかくその場を逃げるように立ち去ろうとするりょうまに、
「まあ、えらい坊さんとこいくんはええけど、あとで紅屋んとこも行っとけよ」
と背中越しにじじいが言う。
「は? 紅屋?」と歩きながら背中で返事をしていると、
「まあ島原とかに比べたら柳町は大衆的なとこやけどな、紅屋のおりょう、ゆうたら、まあ、ここいらの遊郭では一番や、安ないぞー」
 慌ててりょうま「おい、昨日の人プロやったんか! ってなんでおれが払わなあかんねん!」と振り返るが、じじいの姿はそこになく、あるのは手ぬぐい屋の主人の恨めしい視線のみ。うわ、まだみてる。



 しかし、そんなりょうまのその場しのぎのでまかせも、意外とまるきりのでまかせだったというわけでもなく、確かに九僧寺を訪ねなければならない理由があるにはあったのではあるが、問題は、九僧寺の門がかつての威風堂々たる伏見城の遺構から移し今に至るそれはそれは由緒あるありがたい門なのでありますよ、と門前の立て札にえらそうに書いてあるわりには一言でいえばぼろく、古いだけのはりぼてみたいなつくりにしか見えないうえに、門のなかには埃まみれの大黒が脚立やほうきやなにかと一緒になって傾いて祀られており、しかもそれが出世大黒とあって、どうみても出世できなさそうなその姿をみるにつけ、りょうま勝手に「ウソ寺」と名付けていたのだが、さらに門をくぐるとすぐに現れる本堂は本堂で、これでもかと想像の上をゆくものすごいあばらや、また賽銭箱の前に貼ってある紙には手をあわせて拝んでいる人のイラストの横に「賽銭を払わない者は地獄行き」などととんでもないことが書いてあるのを見て、りょうま最終的に「クソ寺」と呼ぶことにした寺の名前を、実は町に住むものはみんな昔からそう呼んでいた、という事実ではなく、すみませーん、なんて本堂の前で声をかけてもいつもはなんの返事も誰かが来そうな気配もなにもないのが常である九僧寺に、今日はどうしたわけだか、どなた?と若い娘の返事あり、え、と逆に驚いたりょうまであったが、ほんとうに驚いたのはひょっこり出てきた年のころ十六、七のうりざね顔の娘がまさに、ゆうべの女であったという事実。

 げ。

 娘のほうも、あ、という顔をしているではないか。まずい。実に気まずい、気まずすぎる、などとりょうま思っているところへ、娘がやけにゆっくり言う。

「なんか、用ですか!?」
 めっちゃ怒ったはりますやん。
「てゆうか、誰?」
 すでに二言目にして社交的な言葉でさえなくなった。

 うわ、かなんなあ。グル。え? なにグルって? グルグル。あれ? グルグルグル。ひょっとして、腹くだしはじめてる? なんやねん、こんなときに。グルグルグルグル。ええい、もお!

「桶町千葉道場、道場主千葉定吉先生より九僧寺住職無空様へのお手紙を、お、お届けに参りましたわたくしは桶町千葉道場門下生り、り、りょうまです! どうぞよろしく! くっ、いろいろお話せねばならないこともありましょうが、とっ、とりあえず便所をかしていただきたいっ!」
「はあ!?」
「便所を!」
「手紙は?」
「え、手紙? そんなことより便所を・・・」
「そんなことやあれへん、手紙届けにきたんやろ、まず手紙見しいな」
「う・・・・」
「手紙は?」
「ん・・・・」
「手紙!」
「・・・・ないっ!」
「は? ない!?」
「うん、そう! ない!」
「手紙届けにきたんちゃうんか!?」
「だからない! 旅の途中でどっかいった! なくした!」
「なんやそれ!あんた、ようこれたな!」
「大丈夫、内容は覚えている、金貸してほしい、そうゆう手紙だった」
「なに勝手に読んどんねん!」
「とにかく便所を!」りょうま身をよじらせながらぞうり脱ぎ散らし、お堂に上がろうとするのだが、
「ちょっ、なに勝手にあがろうとしてんねんな!」と娘は娘でこんな素性のしれぬ者に勝手にあがりこまれてはなにをしでかされるかわからんと大きく腕をひろげてりょうまの行く手に立ちはだかる。たまらずりょうま、
「あかん! もうあかんねん!」
「なにがや!」
「んもう! 御免!」とりょうま両の手のひらでいきなり娘の胸をぐわっとつかみ、
「あ」突然のことに驚き赤面言葉がでなくなった娘に向かって
「小さいっ!」とだけ渾身の声量で叫んでは、そのままどてんとひっくり返った娘を尻目に便所へどたどたと駆けていった。

 それから、どのくらいたったのであろうか、しばしの静寂の後、娘の声が午後の穏やかな町にこだました。

「死ねえー!」



 一方そのころ薩摩藩伏見藩邸ではちょっとした騒ぎがひとつ。

「あ、お登勢さん、すみませんお待たせしました」
「あ、キモちゃん」
 藩邸の門の傍らに立つ寺田屋女主人お登勢の姿を見つけて走ってくる若い侍、
「キモちゃんはよしてくださいよ」と照れ臭そうに笑う、さわやかで、礼儀正しく出来る若者といった感じの薩摩藩の若きリーダー御年二十三才、「それに今は小松です」その名を小松帯刀。
「え? キモツキはん名前変わったん?」
「ええ、結婚したんです。婿養子です」
「ああ、それで今は小松はんなんや。そらおめでとはん」
「ああどうも。いや、それより吉兵衛さんどうでした?」
「あ、そのことなんやけど、いはらへんなった聞いて部屋の様子みてみたんやけど、昨日とたいして変わった感じはなかったえ。いつもどおりきれいに着物たたんであって荷物も整理整頓されてたし。どないしたん?」
「それが、わたしのところにこれが」と小松、袂から折りたたんだ紙をとりだした。
「みてええの?」神妙な顔でうなずく小松から受け取った紙をひらいて、お登勢もまた神妙な顔つきで書かれた文字をしばし見つめ、
「読めへん。字が汚なすぎる」
「もう自分は駄目です、吉兵衛って書いてあるんです」
「これが!?」
「困ってまして、というのは急な話なんですが、江戸詰めの一行が明日にはもう薩摩に向けてここを発つことが決まりまして、いまその準備でみんな大忙しなんですが、それでもって吉兵衛さんの姿がみあたらないし、こんな手紙をみつけるし、まあ、まだこのことは私以外はみんな知らないんですが」
「あの子どないしたんやろ」
「あの子っていっても、もう二十九なんですけどね。それにしては食事の作法がひどすぎると江戸で問題になって、お鉢がわたしのところにきたもんですから、まあ、彼に限らずうちは皆田舎者ですから、薩摩藩は私もふくめ京都ではお登勢さんに食事作法をご指導いただくのが、なにかならわしのようになっておりまして、今回も無理をいって彼だけ寺田屋泊まりでご指導をおねがいしていたところだったんですけど、吉兵衛さん、あの体格のわりに神経は線の細いところがありまして・・・・」
「そうなん・・・・うーん、ちょびっときびしくやりすぎたかなあ」
「ちょびっと!?」
「なんやの・・・・」
「いえ、別に・・・・」

 と、とにかく、彼だけここに置いてゆくわけにもいかないので私もできる限り探してみますがお登勢さんもみかけましたらばどうぞご一報いただけませんでしょうか、相分かった、ということになり、ではこれにて失礼いたしますと小松が言いかけたところをお登勢あわてて「ちょっちょっちょっちょ!」と呼び止める。

「はい?」
「で、みつけたらなんぼ?」
「え・・・・お金かかるんですか・・・・」



 また一方、町ではちょっとしたニュースが広がりつつあった。

 そもそも、美人のわりに気さくで垣根をつくらず誰とでも仲良く接する町の人気者のおりょう、ではあるのだが、その実、化粧と身なりをびしっと決め込めば、柳町では珍しい公家や身分の高い者だけを客とする高級遊女でもある。しかし店に売られた娘というわけでも店に縛りつけられた遊女というわけでもないため、自由に町を出歩き、客からの呼び出しがあった時にだけ、しかもおりょうの気の向いた時にだけ、座敷にあがる。それがゆえにかえって上客のなかでもさらに限られた上客にしか呼び出しをかけることができなくなったという、まあ、一般庶民である町の者なんかではとうてい手の出せる相手ではない超高級遊女なわけであるのだが、さて、実際どうなんだろうか、着物ではようわからんな、いや、あれはあれでなかなか結構あるんじゃないか、などと妄想をふくらませていた男たちに届いた衝撃のニュース。

「おりょうの胸は小さい、というか、ない、らしい」

「なんでやねん! あるわ!」ぷりんぷりん怒りながら砂煙あげて歩くおりょうの耳にもやはりニュースは届いたのであって、あげくニュースを耳にした町の男たちのなかには、やっぱりそうか、落胆、だまされたなどと言い出すものまでいる始末。
「ふざけんな! いつうちがだましてん! だまれエロじじいどもが!」などとやはりぷりんぷりん怒りながら歩くおりょうの怒りの矛先は決まっている。
 あのうんこ野郎! なにいいふらしとんねん! クズか! 絶対ころす! 絶対! なんて悶々としているところに見えた伏見港の石段に座る禿じじいの姿。おりょう、わっと駆け寄り、
「せんせえ、きいてえー」と言うやいなや禿じじい、
「わしはな、ないほうが好きや。なければないほど好きやけどな」
「・・・・・」
 絶句するおりょうに、禿じじい大笑いしながら手にしていた大福をはい、と渡し、
「さっきまで気丈にしとったのに、急にそんな泣きそうな顔になりなはんな」
「ちょっとはあんねん・・・・」
「わかったわかった。ほれ、座っておあがり」
「うん」とおりょう、じじいの隣にちょこんと座り、大福をはむっとほおばる。


「そもそもわしが寺の留守番なんぞ頼んだからこんなことになったんやったな。すまなんだな」
「それはええねん、けど、なんでせんせえ、そないにあのひとのこと気にかけてあげんの?」
「んー・・・・まあ、ちょっとな」
「誰かにたのまれたん?」
「誰に?」
「千葉道場の人とか。知り合いなんやろ?」
「まあ、知り合いっちゃあ知り合いやけど・・・・」
「あいつ、そこの人の手紙渡しにきた」
「てゆうか手紙持っとらへんかったやろ、あいつ」
「なんで知ってんの?」
「わし、門の二階からみてた」
「えーなにそれー!」
「そない怒んな。はは。ちょっとどんなこと言いよるか見たろ思てな。」
「ひどー」
「まあまあ、はい、おだちん」といって金をくるんでたたんである手ぬぐいをおりょうに渡す。
「もう、おおきに」
「で、これがゆうべのぶん」と言って別の手ぬぐい渡そうとすると、
「それは、いらん」ぷいっとあちらを向くおりょう。
「ほう?」とにやり禿じじい。
「そら、せんせえに嫌やったら帰ったらええけどある程度つきおうたってくれゆわれて、飲み屋には残ったけど、そら、なんでかうちが酒代払わされたけど、それはあいつから取り返すからええねん!」
「で、そのあとは?」意地悪そうに聞くじじい。
 おりょう何も言わず、真っ赤になってうつむいている。
「うちが自分で行きたくて、ついていったから・・・・」
「そうか・・・・」
「うん・・・・」
「そないに火吹くとこ見たかったんか」
「ゆわんといてっ!」両手で顔を覆うおりょう、耳まで真っ赤。
「みんな、あほやなあ・・・・ええか、ようききや。多分な、人間は、自力では絶対火吹かん」
「うそっ!?」
「信じてたんか?」
「あんときせんせえかて・・・」
「わしゃからかっとっただけや」
「信じられへん!」

 怒り出すおりょうを笑いながら見ていたじじい、ふと、おりょう越しに見える蓬莱橋を見つめて、急に真顔になった。
「え?」とおりょうもじじいの視線の先を振り返ってみると、橋の上、まんなかあたりで太った若い侍が、欄干を越えんばかりの勢いで身を乗り出して川面をみている、ってゆうか、あれ、飛び込もうとしている!? ところへ「待った待った待った!」とりょうまが走りこんでくるではないか。振り返る太った若い侍の欄干からのりだした上半身を橋の内側へ押し倒そうとして、りょうま体ごとでぶの侍の腹の前にぶつかってゆくのだが、ちびのりょうま走りこんできた勢いがありすぎたのか逆に押し返されて、あれえ、と一声、みごとに橋から落っこちた。

「あほや・・・」
 そんな一部始終を見ていた禿じじいとおりょう。
「あいつ死んだかな?」と取り立ててどうといったこともなさそうに、大福をほおばりながらおりょうが言う。
 橋のまわりの人々の騒ぎをながめながらじじい、
「ああゆうあほは、なかなか死なん」とのんびり言った。



 で、目を開けた時、たくさんの連中が顔を寄せてこちらをのぞき込んで見ているのに、りょうまはまず驚いて、え? と思った途端に皆、なんや生きとるやん、しょうもな、あほらしなどと口にしながらつまらなそうに次々とその場を去ってゆくその姿を見ながら今度はなんか腹立って、なんやねん! おい、こら! 生きてたらあかんのか、おい! などとふんどしいっちょで怒鳴り散らしていると「大丈夫ですか?」と声がして、あ?と振り返れば、さっき橋の上で身を乗り出していた若いでぶの侍が首から手ぬぐいをぶらさげ、やはりふんどしいっちょのまま心配そうにひとり、りょうまを見ていた。

「あー! おまえなあ!」とりょうま、つかみかからんばかりの勢いで若いでぶの侍に詰め寄ると、
「無事でよかったです」とでぶの侍、泣き出さんばかりの満面の笑みで言った。

「よかったやあるかい! 死ぬか思たわ! それになんにもなかったやないけ、なにしてくれとんねん!」
「え?」
「お前が橋の上で異常に熱心に川の中見とるから、おれてっきり金かなんか落ちてんのかと思ったわ!」
「そんな、なにもないですよ」
「それやったら、そんときそう言え!」
「あの、引き留めにきてくれてたんじゃなかったんですか?」
「は?」ぽかんとしているりょうま。
「え?」
「え?って、なにが?」
「や、だってあわててかけつけてきてくれたじゃないですか・・・・」
「そら、おまえより先に金見つけてひろったろて思ったから」
「・・・・・」
「なんやねん」
「そうだったんですね・・・」
「なんにもなかったけどな!」
「実は僕、あのまま身を投げようかと思っていたんです」
「ふーん、そうなんやって、ええええっ!?」
「わっ、ええっ、すごい驚く」
「そら驚くわ!」
「ごめんなさい・・・・でも、あなたも見ていたでしょう?」
「え?」
「僕、だめなんです・・・食事作法もまともにできないし・・・・めちゃめちゃ怒られてばっかりだし、いや、他にもいろいろだめなところばかりなんです、僕・・・・なさけなくてなさけなくて・・・体ばかりでかいのもなにかみっともなく思えてきて、人並みなことなにもできなくて、ほんとだめなんです、そんな何の役にもたたない自分なんか、もう生きていく意味がないような気がして、それで・・・・」
「生きていく意味?」
「はい・・・・」
「ないやろ」
「えっ!?」
「生きていく意味なんかないやろ」
「ええっ!?ええっ!?」二回聞き直した。
「てゆうか、誰にもないやろ。そんなもん。生きていく意味とか、そんなもんハナからないっちゅうねん!」りょうまあたりまえのように言い放つ。
「ない?」
「ないよ。それに聞いてたらなんやねん、なんで役にたたんのがあかんねん?」
「そ、それは人として生まれたからには、当然、人様世間様の役にたたなければならないんじゃないんですか?」
「はあ!? なんやねんそれ! しょうもな!」
「しょうもな?」
「おい、上見ろ!」

 え? といわれたとおりに上を見上げるでぶの侍。そこには茜色に染まりつつある空。

「これ見てどうやねん」とりょうまが言う。
「どうっていわれても・・・・空があるだけです」
「だからそれはどうゆうことやねん?」
「どう、ってゆうか、空はただあるだけです」
「そうゆうこっちゃ」
「は?」
「空はただあるだけや」
「はあ」
「おれらもただあるだけや」
「え?」
「人間はただあるだけなんや、あの空と一緒!」
「空と、一緒・・・・?」
「なんかの役に立ちたかったら役に立とうとしたらええし、なんの役にも立たへんかってもそれでいい、逆になんにもしたくなかったらなんもせんでもそれでいいんじゃあ! とにかく人間はな、ただあるだけでええねん! ええか、人は、おれらは、自由なんや。お前が思ってる以上に自由なんや。それをなんや、みんな人としてこうあらねばならない、とか自分で勝手に不自由になって窮屈な思いしてよお。ましてや思い悩んで身投げするなんか、もうそんなん、あほんだらや。人間はな、ただ生きとるだけや。それだけ。草や花と一緒。それ以上でもそれ以下でもない。そんなもんに意味なんかあるか! てゆうかやな、おれびしょびしょやないか、なんか拭くもん貸してくれ!」
でぶの侍、激しく動揺しながら、
「じゃあ、じゃあなんのために人は生きるんですか?」
「知るかいや、そんなもん。生きてるから生きとるだけや。はよ拭くもんを・・・・」
「わ、わたしは誰かのために、故郷のために生きたい!」
「ああ、ああ、はいはい、それでええやん。なあ、拭くもん・・・・」
「んんん、それにやっぱりわたしは、人は草や花とはちがうと思う! 人はなにかのために働くことができる!」
「もう! なんやねん!? ぐだぐだうっさいなあ! お前仕事何や!? 侍か!?」
「薩摩藩士です。わたしの仕事は薩摩藩のために役に立つことです」
「あほか、そんなもん仕事ちゃうわい!」
「なんですと!?」
「人間の仕事は生きること! それだけや! 生きろお! それがおまえの仕事!」
「生きることが、仕事・・・?」
「そう、それが人間の唯一の仕事! それ以外に仕事はない、とにかく生きろ! ぐだぐだ言わずに生きろ! 情けなくても、みっともなくても、しょうもなくても生きろ! そうまでして生きなあかんなら、せめて元とれるぐらい楽しんで生きよう、誇りを持って生きよう、そう思って皆めいめいに生きとるだけじゃ、あほんだら! そしてお前は、いい加減その首からぶらさげてる手ぬぐいをおれによこせええ!」
 呆然としているでぶの侍、我に返って、あ、手ぬぐい、とあわてて手ぬぐいを渡そうとするのをりょうま、なんやねん、もお! なんで手ぬぐい借りるだけでこんな大声ださなあかんねん! と奪い取ってがしゃがしゃ髪をふきはじめた。
 でぶの侍、しばらくその姿をながめていたが、そのうちぽつりと、
「・・・・まあ、とにかくありがとう、ございました。ほんとは、あなたを川の中から助けていたり、岸にあげたりしている間に、さっきまで死のうとしていたこといつの間にか忘れてしまっていました。笑っちゃいますね」
「そんときおれは死にかけてたけどな」
「わたしは薩摩藩の吉兵衛といいます。あなたは?」
「歴史に名を残す男、大先生りょうま」濡れた体を拭いては手ぬぐいをしぼりながら答えた。

 馬鹿なのか? それに、なんて堂々と偉そうにわかったふうなことを言うのだろうこの男は、と吉兵衛は思った。が、同時に、なんかいいな、とも思った。ほんとうのことかどうかは別にどっちだっていい。灯の炎のような光が暗がりを照らす。小さくても大きく照らす。その暗がりはもともと明かりがあってもなくても同じ場所にちがいない。なら、明るいほうがいいな。この男と、ともだちになりたい、吉兵衛がそう思った次の瞬間、その思いは瞬く間に訂正された。

「てゆうか金ある?」
「はい?」
「金」
「え、お金、ですか? まあ、故郷の兄弟たちが一生懸命貯めて持たせてくれたお金ならすこし」
 にやりと笑うりょうま。
「え?なんですか?」
「よしっ、わかった!」
「なにが?」
「これからおれたちはともだちだ! な? というわけで、さっそく祝杯をあげようじゃないか! そうしよう! 近くに知ってる店があるから、そこにいこう!」
「え? え? え?」
「そして、そこでお前の金を全部使ってしまおう! おれも協力するよ! なあに、遠慮はするな! ともだちじゃないか!」
「えええっ!?」
「お前死ぬつもりやったんやろ? ほなら、それ元々使われへんかった金やないか、もったいないもったいない、使お! 使いましょう! 使ってしまおお!」
「いやいやいやいや、もう、僕、生きますから」
「大丈夫、大丈夫、お前、死ぬ、明日死ぬ! 豆腐の角に頭ぶつけて死ぬ! さ、行こう!」
「そんなあ!」
「気にすんな、気にすんな、今夜は盛り上がるぞお!」




 夜更けて寺田屋、今夜も開いてる木戸をくぐって、おねえさあん、とおりょうが風呂敷包みを手に入ってきたとき、食べ残しやら料理のきれはしやらの残飯をあつめてにぎり飯をつくっているお登勢に「なに、それ?」とおりょうが聞いて、「ああ、あんたか」とはじめてお登勢、おりょうが来ていることに気がついたかのような返事をした。

「みてわからんか、にぎり飯つくってんねや」
「それ、残飯やろ? ちょっと痛んでるのもはいってるんちゃう? 誰が食べんの? そんなん食ったら腹こわすで」
「ああ、ちょっと猫にな」
「猫?」
「それよりなんやの?」
「ああ、これ小松さんからお登勢さんに渡しといてくれって頼まれて」と風呂敷包みをお登勢に渡し、「たまたま会っただけやのに人使い荒いわあ、人のことなんやと思てんねやろ。それに渡すとき、ちらちら胸みてくるし。今日はもうさいあくや」
 笑いながらお登勢、
「そら災難やったなあ、あのひとにも困ったもんや」
「あのひと?」
「クソ寺の禿じいさん、楽しそうにゆうたはったで」
「ええっ! なにそれ、そうなん、あれ!? せんせえやったん!?」
「あの様子やったらいろんなとこでゆうてまわってんねやろなあ」
「信じられへん・・・」
「てゆうか、せんせえってなんやの?」
「え? せんせえやろ? 武芸のせんせえ」
「なんやの、それ」
「そやかって、いつも町のあらくれもんやっつけたはんで。めちゃめちゃ強いし、偉い武芸者のせんせえなんちゃうのん?」
「偉い武芸者の先生がやっつけた連中から有り金全部まきあげるかいな」
「ほならなんやの? ご住職?」
「はは、あのひとが坊主なわけないわ」
「ほな、なに?」
「まあ、あほんだらやな」



 おりょうが帰ったあと、お登勢がひらけた風呂敷包みに入っていたのはいっぱいのサツマイモ。しばらくそれを眺めながら「まあ、よしとするか」とふと庭に目をやると、そこに一匹の猫。おや、と思う間もなくどこかへ行ってしまった。あまりにもすぐに姿を消してしまったものだから、はじめからそこにはいなかったような、そんな気にもなった。だが、残像の猫の姿はいつまでもそこに残っていて、実際にずっとそこにいるような、そんな気にもなった。



 寺田屋の木戸は今夜も開いている。お登勢はなにも言わないが、町の人は何年も前にふらっとでていったきり帰ってこない風来坊の亭主が、夜中にでも帰ってこられるようにと、わざわざ木戸を開けているにちがいない、などと噂する。しかし、実際、夜中に木戸をくぐって入ってくるのは猫ばかり。



 そして今も、伏見寺田屋の庭には、夜な夜な一匹の猫が姿をみせるとかみせないとか。

                                
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