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第一章 春は憂鬱の香り
第一章 春は憂鬱の香り ③
しおりを挟む「本当、です」
蚊の鳴くような小さな声なのに、この時ばかりは教室中に響き渡る。
「何だ、弾けるヤツいたんじゃん! じゃあ、相沢さんにお願いしてもいい?」
ただでさえ孤立しているのに、ここで断ってしまったらきっと信頼も地に落ちていくに違いない。ただでさえピアノを弾けるという事を隠し通そうとした負い目もある。少しでも人の輪に入るためには、私にはもうこうする他なかった。
「……はい」
頷くと、とりまとめ役も指揮者の子も、安心したように笑った。もちろん、クラスの誰も可も。
「じゃあ、今日の放課後から練習始めるので、残れる人は残っていってください。相沢さん、あとで楽譜渡すけど、大丈夫? 今日からピアノあったら助かるんだけど」
「……それは、大丈夫だと思う」
「やった! じゃあ、今日から頼むわ」
「うん、わかった」
かくして、本格的に合唱コンクールの練習が始まってしまった。私がピアノの奏者になったという事もお母さんの怒りを買ってしまったらしく、関係ない曲を弾いている時間があるなら……と言って、ピアノのレッスンの時間も大幅に増えてしまった。晩ご飯の後だけではなく、朝早くたたき起こされて遅刻になるギリギリまで。疲れた体に鞭を打つような生活も、合唱コンクールが終わるまで。そう思えば少しだけ体も軽くなるような気がした。それに、悪い事ばかりではない。
「相沢さーん、ここの部分、もう一度弾いてもらっていい?」
「うん、わかった」
「相沢さん! 音程わかんなくなったからちょっと弾いてみせてよ!」
「う、うん!」
そう、クラスメイトから話しかけられることが増えた事。相変わらず、一緒にお昼ご飯を食べるような友達はできていない。それでも、学校にいる間中ひとりぼっちで過ごす時間が多かった私にしてみれば、これ以上ないくらいの環境の変化だった。練習期間も終盤になってくると、合唱もいい感じになってきた。
「じゃあ、ちょっと休憩するか」
指揮者の子が手を叩くと、皆一気に気を緩める。楽譜を放り投げて、仲のいいグループに固まって話を始める。さっきまで歌っていたばかりなのに、どうしてすぐにおしゃべりできるんだろう? と不思議に思うくらい。私も立てかけていた楽譜を閉じて、教卓に置いていた電子ピアノの前から離れる。
「あれ? 相沢さんどこ行くの?」
「自販機、飲み物買いに」
すぐに戻ると伝えて、私は足早に廊下を進んでいく。自動販売機のコーナーは教室から少し離れた渡り廊下の向こう、体育館の近くにあって、早く買いに行かないと休憩時間があっという間に過ぎ去ってしまうからさ。
「練習まじだりぃ」
渡り廊下に差し掛かった時、女の子の話し声が聞こえた。私はとっさに身を隠す、別に隠れなくってもよかったかもしれない……そう思った時には後の祭りで、彼女たちの内緒話はドンドン盛り上がってしまって、私はその先に行くこともできなくなっていた。
「合唱コンとか、やる意味ある?」
「指揮者がマジになってんだから、やらないと可愛そうじゃん」
「杏奈やさし~」
その名前を聞いて、私はそこに、あまり良く思っていない新田さんがいることに気づく。
「でも、アイツうざくない?」
「アイツ? 誰それ」
「相沢」
突然新田さんの口から飛び出してきたのは、私の名前だった。耳を塞ぐ暇もなく、私はその場に立ちすくむ他なかった。
「え~、なんで? がんばってんじゃん相沢さんも」
「でもちょっとピアノ弾けるからってさ、調子に乗ってない?」
「まあ、杏奈の言ってることちょっとわかる。なんか少し上から目線なところない?」
「あぁ~、『あんたら、ここの意味わかってないの?』みたいな感じあるね。でも、相沢さんがピアノ弾けるってみんなに教えたの、元はと言えば杏奈じゃん」
「そうだけどさ……私さ」
私はその『私さ』の続きを聞きたくなくって、足音を立てないようにその場から立ち去る。全速力で走ってもいないのに心臓がドキドキと激しく胸を打ち付けるのは、心の痛みを表しているからだ。悔しい気持ちも悲しい思いも、お前の方がうざいっていうのも、私はその全てを打ち明ける相手はいない。この世界に、たった一人も。
私は体調が悪くなったと嘘をついて、その日の練習を早退した。だからと言って家に帰って鬼のような厳しいレッスンを受ける気持ちになれるわけもなく、足は自然と、【子ども図書館】に向かっていた。
「樹里ちゃん、いらっしゃい」
ここに来れば、いつも通りの優しい笑顔で春恵さんが出迎えてくれる。それだけなのに、心に溜まっていた澱んだ空気がほっと抜けていくのを感じていた。
「あら、顔色悪いけど……風邪でも引いたかしら?」
「ううん、そういう訳じゃないの。……オルガン、借りていい?」
「どうぞ。樹里ちゃんが弾いてくれるなら大歓迎」
私はカバンや腕時計を床に放り投げて、オルガンの前に座る。私が来ていることに気づいた常連の子どもたちが、わらわらと近づいてきていることが分かった。……今日は、今日だけは、この子たちに優しさを向けることは出来そうにない。私は金づちを打ち付けるように、鍵盤を強く叩き始めていた。今の気持ちを表す音楽……そんなもの、この世界にはないのかもしれない。それでも私は、この荒ぶった感情を、ショパンの『革命のエチュード』に乗せた。激しい音符の羅列が、【子ども図書館】の中を目まぐるしく走り回る。弾き終えた時にあったのは、呆気にとられた子どもたちの表情と、ニコニコ笑いながら拍手をする春恵さんの姿だった。
「樹里ちゃんすっご~い! 私も早く、そんな難しい曲弾けるようになりたいわ」
「……こんなの、大したことないし」
「学校で、何かあった?」
春恵さんの手がポンと私の肩に置かれる。その温かさに強張っていた心も思わず緩み、目じりから涙がにじみ出す。でも、私はそれは無理やり引っ込めた。あれくらいの悪口で泣き出すなんて、何だか癪に障る。
「聞いてよ、春恵さん!」
その代わりに、私は声を張り上げていた。春恵さんは、私がふつふつと怒りに燃えていることに気づいて、周りの迷惑にならないようにカウンターまで連れてきていた。
「ひどくない?! 私がピアノやりたいって言ったわけじゃなくって、新田さんがみんなにバラしたからひくはめになったのにさ、それを『うざい』って……『調子に乗ってる』って!」
「まあまあ、落ち着いて。樹里ちゃん、その新田さんっていう子も何か事情があったのかも……」
「事情があったら、人の悪口言ってもいいの?」
「んー……良くはないけどね」
「もうやだ、学校行きたくない……いつまで経っても友達出来ないし」
「あら、まだできてないの?」
「傷口に塩塗らないでよ……」
「樹里ちゃんが先に言い出したんでしょう? でも、相当すっきりしたんじゃない?」
「すっきり?」
私が首を傾げると、春恵さんはいつものように柔らかく微笑んだ。
「あんなに激しくピアノ弾いて、フラストレーションを発散している感じしたけれど」
「……」
本当は、そのつもりだった。昔だったらピアノを弾いている間に、イライラしていたことも悲しかったことも何もかも、すべてきれいさっぱり忘れることができたのに。家でも学校でも、私は言われた通りにピアノを弾くマシーンになってしまっていた。新田さんに陰口を言われたことよりも、私はそのことが悲しくて仕方がない。
春恵さんは子どもに呼ばれ、本棚に行ってしまう。カウンターでひとりぼっちになってしまった私は、すぐ近くにあった緑のノートに手を伸ばす。そして何も書いていないページを開いて、ペンを走らせる。
『何を弾いても、どれだけ好きな曲を弾いても、もう私は自分の気持ちをその曲に乗せることはできないのかもしれない。どこかに、私の気持ちにぴったりと合うような、代弁してくれるような曲があればいいのに。誰か教えてよ』
こんなことを書いても、私の悩みに応えてくれるような曲も人も見つかりそうになかった。
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