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第43話
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助けてもらったことには何の文句も無い。むしろ、机に激突する未来を回避できたことに対して感謝すべきなのだ。いくらレオニールのことを怖い人だと思っていても、普通の人間ならそうするはずである。
それでも、この体勢は何かがおかしい。突然の出来事だったとしても、これはいただけない。相手にとっても、よく知らない小娘にいつまでも身体を預けられているのは迷惑に違いないし、何より重たいはずだ。
一刻も早く、離れなければ。
「ごっ、ごめんなさい!今離れますね!」
「まあ待て」
「うぐっ!?」
慌てて離れようとした私を、レオニールの腕が押しとどめる。
早々に離れたほうが双方にとって良いはずなのに、何故止めるのだろう。私は困惑しながらレオニールの顔を見て――そして後悔した。
うっそりと細められた深緑色の瞳と、緩やかに弧を描く唇。
嫌な予感が止まらない。このままこの男の傍にいてはいけないと、本能のようなものが警鐘を鳴らす。レオニールを見つめる自分の表情が徐々に強張っていくのがわかった。
「顔が青ざめているな。怖いのか?」
「……そ、それは」
怖いに決まっている。でも、それを口にして何になるというのだろう。
まずは、レオニールの腕から逃れることが先決だ。
「あの、離してください」
「断る、と言ったら?」
レオニールは、にやりと意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
(……うわ)
彼のその反応から、このままだと絶対ろくでもないことになりそうだと半ば確信する。
素直に腕を解いてくれないのなら無理矢理にでも自分で距離を取るしかないと考えた私は、両腕に力を込めてレオニールの身体を押し返そうと試みたが、無駄な努力でしかなかった。どれだけ力を込めてもレオニールはびくともしない。それどころか逆に拘束が強まってしまう始末だ。
非力な自分では彼に敵わない。最初からわかっていたことだった。
挙げ句、この一連の行動のせいでさらに彼との距離が縮まってしまった。腰に回されたレオニールの腕は、私の身体を支えるためというよりも、私を簡単に逃がさないために使われているようにさえ思えてくる。
こうも身体が密着しているととても居心地が悪いし変に緊張してしまうのだが――レオニールはいったい何がしたいのだろう。
(どうしてこうなった?)
何とも言えない表情でレオニールに視線を移すと、彼はふっと息を吐き、喉の奥で低く笑う。
――何故だろう。なんだか面白がられている気がする。
「あの、さっきまで本を読んでましたよね?私がここにいたら邪魔なはずですし、降ろしてくれませんか?」
「確かに邪魔といえば邪魔だな。だが、却下だ」
「いやいや、そこは却下しないでくださいよ!それに絶対重いはずですし!お互い何の得も無いでしょう!?」
「そうだな。色気も無いただの小娘など相手にしたって何の意味もない」
「は?……ま、まあ、そうですけど」
すごく失礼なことを言われたような気がするが、私に色気が無いのは事実だからと喉まで出かかった文句をなんとか飲み下す。けれどレオニールは私のその反応を予想していたようで、くつくつと笑みを零していた。
「……退屈しのぎに毛色の違う珍しい女を眺めるのもまた一興か。悪くねェな」
「え?」
「お前、名は?」
「……コトハ、ですけど」
最悪な初対面の際、ウェティに問われて自己紹介したはずだが、まさか覚えていないのだろうか。
(まあ、興味無ければ名前も覚えないか。ここから出られるまでは捕虜と同じ扱いだもんね私。自分で言ってて悲しくなってきたけど)
「助かるために俺に媚びるでも、怯えて泣き喚くでもねえ。怖がってはいるが、真っ直ぐに俺の目を見て意見し、自分の命を脅かしかねない相手にも礼を言う。俺はお前みたいな馬鹿正直さは嫌いじゃねえんだ」
「は、はあ……」
「ただ無知なだけとも言えるがな。だが、ウェティに口添えされたからとはいえ、俺相手に引かない度胸は買ってやる」
「ええと……ありがとうございます?」
レオニールの言葉の意味を測りかね、迷いながらもお礼の言葉を口にしたけれど、はたしてこれでよかったのだろうか。私の行動は間違ってはいないだろうか――そんな疑問が胸中をよぎる。
正解なんてないのかもしれない。だけど、私の返答にますます面白がるような表情をしたレオニールを見て、もしかしたら失敗してしまったのかもしれないと考えてしまう。
「お前を解放はしない。が、暇を持て余しているのなら俺の部屋に来るがいい。相手にしてやれねえ時もあるが、お前が俺を納得させることができれば、早く出られるかもしれないぞ?」
「……ほ、ほんとですか?」
「ああ。せいぜい努力するんだな」
また意地の悪い笑みを浮かべるレオニールの言葉を完全に信じることはできないが、彼の部屋を訪れることで出られる確率が上がるのなら、そうするべきなのだろう。あまり彼の元へ通い詰めたくはないのだが――
(あとでウェティに相談してみよう。一人で来るのはやっぱりまだ気が引ける)
「あとは……そうだな」
「え?うわ!」
レオニールの呟きとともに、唐突に腰に回されていた腕が外れ、一瞬バランスを崩しかけたがなんとか堪えた。できるだけ気にしないよう頭の隅に追いやっていた事実だけれど、私はこの妙に恥ずかしい体勢のままレオニールと会話していたのだと思うと、いたたまれなくなる。
私はこれ幸いとばかりに急いでレオニールから離れ、距離を取った。
レオニールはそんな私を一瞥してからゆっくりと立ち上がり、部屋の奥へと向かっていく。そして本棚の近くにある豪奢なデザインの大きな机の引き出しを漁り、何かを手に取ると、それをこちらに放り投げてきた。突然のことに慌てたけれど、レオニールが投げる方向を上手にコントロールしたからか、難なく受け止めることができた。
「っ!これ!」
「お前のだろう?」
それは、失くしたと思っていた私の鞄だった。
確認のため鞄を開けてみるも、減っているものはなく、私が攫われた時のまま。迷子防止用のベル型のシルバーアクセサリーも、鞄の側面に装着されたままだった。
「部下がお前とともに持ってきたものだ。念のため俺の手元に置いていたが、怪しいものは一切見つからなかった。本当はお前がここを出るまで返すつもりはなかったがな。気が変わった」
「あ、ありがとうございます!」
前言撤回。
鞄を返してくれたことを鑑みれば、レオニールとの対話は案外失敗ではなかったのかもしれない。
「それを持って今度こそ部屋に戻れ」
「……わかりました。失礼します」
レオニールに返事をしてから、私は鞄を抱え直して部屋の入口へと向かう。
歩を進めるたび、視界の隅でベル型のシルバーアクセサリーが揺れる。相変わらず綺麗でかわいらしいのだけれど、マジックアイテムとしての効果の程はまだ把握できていない。
第一、今の私は迷子よりもひどいものだ。効果が無くても仕方ないことなのかもしれないと、内心苦笑しながら、私はそれに何気なく触れる。
その瞬間、ベル型のシルバーアクセサリーがちりんと音を立てた。
“――――見つけた――――”
「え……?」
突然、耳に届いた小さな声。
思わず足を止めると、またベル型のシルバーアクセサリーがちりんと涼やかな音で鳴った。
ざわり、空気が揺れる。
窓を開けない限り部屋の空気が大きく動くことなんてないはずなのに、まるで室内に風が吹き始めたかのような錯覚に陥ってしまう。
(――違う)
髪が煽られ、書類が宙に舞い、カーテンが激しくはためいている。
これは錯覚などではない。本当に、風が吹いているのだ。
「なんだ……?」
レオニールも室内の変化に気付いたのか、眉をひそめて注意深く周囲の様子を窺っている。
私はどうしたらいいのかわからず、入り口の傍で鞄をぎゅっと抱き締めるだけ。
きいん、とふいに耳鳴りがする。
“――――我が名を以て命ず――――”
また、どこからか声が聞こえた。
“――――魔力開放。制限解除。……承認せよ――――”
「これは――――詠唱かっ!」
レオニールが何かに気付いた様子で厳しい表情を浮かべ、私の元へと走り寄ってきた。
彼は私を背に庇うような形のまま壁際に追いやると、まるで睨み付けるように視線を周囲へと走らせる。
部屋全体に響くどこか不明瞭な声は、その間も途切れることなく続いていた。
“――――理を捻じ曲げ、破壊し、修復せよ。彼方への道筋を紡ぎ出せ――――”
歌うような詠唱に応じて、室内に吹き荒れる風が強まっていく。
最初は不明瞭だった声が、どんどんクリアになっていく。
“――――空間接続開始。……我が力、標となれ!――――”
そうして、詠唱が終わりを告げたと思われた――次の瞬間。
どん、と地震のような大きな衝撃が部屋全体を襲い、私はたまらず床に膝をついた。私の傍にいたレオニールはどうにか耐え切ったらしく、起立したままでいる。その手には、いつの間にか銃が握られていた。
「ちっ、魔力障壁への干渉だと?……いや、これは、破るつもりか!?くそっ、修復が間に合わねえ!」
レオニールが苛立ったように叫ぶのと同時に、二度目の強い衝撃が私達を襲う。
床に膝をついたままだった私は、そのままの体勢でぎゅっと目を瞑り、衝撃をやり過ごす。そうしてしばらく経った後、私は現状把握のため恐る恐る目を開けた。
「……え、うそでしょ……」
私は、驚きに目を見開いた。
それは、ちょうど生活区域と保管庫を隔てるような位置であり、部屋の中心部となる場所。
その空間部分に、大穴が空いていた。
驚いたのはそれだけではない。大穴の向こうに人影が見えたかと思ったら、誰かがそこから飛び出してきたのだ。
「コトハちゃん!」
「コトハ!」
大穴の向こうからやってきたのは、私が一番会いたかった仲間達。
「あ……」
二人に何と言えばいいのかわからない。わからないけれど、二人の顔を見たら、無性に泣きたいような気持ちになった。
(――ああ)
働かない頭で考えた結果、最後に残ったのは、もう大丈夫なのだという漠然とした安心感。
二人がいれば、私はいつだって幸せな気分になれるのだ。
「コトハちゃん!」
クロノスが私の名を呼びながら駆け寄ってくる。
先程の詠唱の声の主はクロノスだったのだろう。魔法を発動した名残か、クロノスの右腕には青白い静電気のような光が幾筋も走っている。しかし、私の視線に気付いたクロノスが反対側の手で一撫でした途端、それは跡形もなく消えた。
一連の動作をぼんやり眺めているうちにクロノスが私の目の前までやってきて、優しい手つきで私を抱き寄せた。
「心配していたんだよ」
「……うん」
「無事でよかった」
「…………うん」
クロノスの温もりと、少し強い抱擁が、私の心を溶かしてくれる。
頭を撫でる手が、あまりにも優しくて、私の涙を誘う。
嬉しいやら安心したやら、いろいろな感情がごちゃ混ぜになって、私は堪え切れずに泣き出してしまった。
「ふふ。ごめんね。泣かないで。もう大丈夫だから」
ぽろぽろと流れ落ちる涙を、クロノスの指が拭っていく。
その手つきすら優しくて。私を見つめる瞳が、私の知らない甘さを含んでいるように見えて。
私は声を上げずにしばらく彼の腕の中で涙を流した。
「――はっ、面白ぇ。お仲間登場ってとこか?」
静寂を破ったのは、レオニールの挑戦的な声だった。
その声につられるようにのろのろと顔を上げる。視線の先では、レオニールとロイドがお互い武器を手に対峙しているようだった。けれど二人が纏う雰囲気はまったく正反対で、ロイドは厳しい表情でレオニールを睨みつけているし、対するレオニールは楽しそうな表情を浮かべていて、どこか余裕があるようにも見える。
「大丈夫。コトハちゃんはここにいてね?」
クロノスは私の頭を名残惜し気に撫でてから身体を離し、レオニールの方へ歩いて行く。
「空間を捻じ曲げ、あるはずのないところに新たな領域を作り出す。そして人々の目に映らぬよう幾重にも折り重なった魔法という名の神秘の布で覆い隠す。とっても高度な魔法だわ。考えたわね、アナタ。おかげでここを見つけるのに苦労しちゃった」
「はっ、そりゃどうも。魔術師サマに褒められるとは、俺の魔法も捨てたもんじゃねえってことか」
「あら、お世辞なんかじゃないわよ?空間を操る魔法は、単なる属性魔法よりも高度なものだもの。でも、アタシ達の仲間を攫ったというのはいただけないわねェ?」
「ああ?そんなにその女が大事なら箱に入れて大事に仕舞っておけばいいだろうが」
「――彼女を攫った下種が何を言う。コトハに何をした」
全身に怒りを滲ませたロイドの低い声が、耳朶を打つ。
いつも穏やかで優しいロイドが怒りをあらわにするなんて珍しいと、場違いなことを思った。
「さあ、どうだろうな?」
「貴様っ――!」
にやにやと楽しそうに挑発するレオニールに、ロイドが気色ばむ。
このままでは、この狭い空間で戦闘になってしまう。
どうにかしたほうがいいとは思うがその方法が思いつかず、おろおろするばかりの私の耳に、部屋の扉が勢い良く開かれる大きな音が飛び込んできた。
「――皆様、おやめくださいませ!」
私以外の全員が武器を手にした、一触即発の空気。
それを打ち破ったのは、ウェティの凛とした声だった。
それでも、この体勢は何かがおかしい。突然の出来事だったとしても、これはいただけない。相手にとっても、よく知らない小娘にいつまでも身体を預けられているのは迷惑に違いないし、何より重たいはずだ。
一刻も早く、離れなければ。
「ごっ、ごめんなさい!今離れますね!」
「まあ待て」
「うぐっ!?」
慌てて離れようとした私を、レオニールの腕が押しとどめる。
早々に離れたほうが双方にとって良いはずなのに、何故止めるのだろう。私は困惑しながらレオニールの顔を見て――そして後悔した。
うっそりと細められた深緑色の瞳と、緩やかに弧を描く唇。
嫌な予感が止まらない。このままこの男の傍にいてはいけないと、本能のようなものが警鐘を鳴らす。レオニールを見つめる自分の表情が徐々に強張っていくのがわかった。
「顔が青ざめているな。怖いのか?」
「……そ、それは」
怖いに決まっている。でも、それを口にして何になるというのだろう。
まずは、レオニールの腕から逃れることが先決だ。
「あの、離してください」
「断る、と言ったら?」
レオニールは、にやりと意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
(……うわ)
彼のその反応から、このままだと絶対ろくでもないことになりそうだと半ば確信する。
素直に腕を解いてくれないのなら無理矢理にでも自分で距離を取るしかないと考えた私は、両腕に力を込めてレオニールの身体を押し返そうと試みたが、無駄な努力でしかなかった。どれだけ力を込めてもレオニールはびくともしない。それどころか逆に拘束が強まってしまう始末だ。
非力な自分では彼に敵わない。最初からわかっていたことだった。
挙げ句、この一連の行動のせいでさらに彼との距離が縮まってしまった。腰に回されたレオニールの腕は、私の身体を支えるためというよりも、私を簡単に逃がさないために使われているようにさえ思えてくる。
こうも身体が密着しているととても居心地が悪いし変に緊張してしまうのだが――レオニールはいったい何がしたいのだろう。
(どうしてこうなった?)
何とも言えない表情でレオニールに視線を移すと、彼はふっと息を吐き、喉の奥で低く笑う。
――何故だろう。なんだか面白がられている気がする。
「あの、さっきまで本を読んでましたよね?私がここにいたら邪魔なはずですし、降ろしてくれませんか?」
「確かに邪魔といえば邪魔だな。だが、却下だ」
「いやいや、そこは却下しないでくださいよ!それに絶対重いはずですし!お互い何の得も無いでしょう!?」
「そうだな。色気も無いただの小娘など相手にしたって何の意味もない」
「は?……ま、まあ、そうですけど」
すごく失礼なことを言われたような気がするが、私に色気が無いのは事実だからと喉まで出かかった文句をなんとか飲み下す。けれどレオニールは私のその反応を予想していたようで、くつくつと笑みを零していた。
「……退屈しのぎに毛色の違う珍しい女を眺めるのもまた一興か。悪くねェな」
「え?」
「お前、名は?」
「……コトハ、ですけど」
最悪な初対面の際、ウェティに問われて自己紹介したはずだが、まさか覚えていないのだろうか。
(まあ、興味無ければ名前も覚えないか。ここから出られるまでは捕虜と同じ扱いだもんね私。自分で言ってて悲しくなってきたけど)
「助かるために俺に媚びるでも、怯えて泣き喚くでもねえ。怖がってはいるが、真っ直ぐに俺の目を見て意見し、自分の命を脅かしかねない相手にも礼を言う。俺はお前みたいな馬鹿正直さは嫌いじゃねえんだ」
「は、はあ……」
「ただ無知なだけとも言えるがな。だが、ウェティに口添えされたからとはいえ、俺相手に引かない度胸は買ってやる」
「ええと……ありがとうございます?」
レオニールの言葉の意味を測りかね、迷いながらもお礼の言葉を口にしたけれど、はたしてこれでよかったのだろうか。私の行動は間違ってはいないだろうか――そんな疑問が胸中をよぎる。
正解なんてないのかもしれない。だけど、私の返答にますます面白がるような表情をしたレオニールを見て、もしかしたら失敗してしまったのかもしれないと考えてしまう。
「お前を解放はしない。が、暇を持て余しているのなら俺の部屋に来るがいい。相手にしてやれねえ時もあるが、お前が俺を納得させることができれば、早く出られるかもしれないぞ?」
「……ほ、ほんとですか?」
「ああ。せいぜい努力するんだな」
また意地の悪い笑みを浮かべるレオニールの言葉を完全に信じることはできないが、彼の部屋を訪れることで出られる確率が上がるのなら、そうするべきなのだろう。あまり彼の元へ通い詰めたくはないのだが――
(あとでウェティに相談してみよう。一人で来るのはやっぱりまだ気が引ける)
「あとは……そうだな」
「え?うわ!」
レオニールの呟きとともに、唐突に腰に回されていた腕が外れ、一瞬バランスを崩しかけたがなんとか堪えた。できるだけ気にしないよう頭の隅に追いやっていた事実だけれど、私はこの妙に恥ずかしい体勢のままレオニールと会話していたのだと思うと、いたたまれなくなる。
私はこれ幸いとばかりに急いでレオニールから離れ、距離を取った。
レオニールはそんな私を一瞥してからゆっくりと立ち上がり、部屋の奥へと向かっていく。そして本棚の近くにある豪奢なデザインの大きな机の引き出しを漁り、何かを手に取ると、それをこちらに放り投げてきた。突然のことに慌てたけれど、レオニールが投げる方向を上手にコントロールしたからか、難なく受け止めることができた。
「っ!これ!」
「お前のだろう?」
それは、失くしたと思っていた私の鞄だった。
確認のため鞄を開けてみるも、減っているものはなく、私が攫われた時のまま。迷子防止用のベル型のシルバーアクセサリーも、鞄の側面に装着されたままだった。
「部下がお前とともに持ってきたものだ。念のため俺の手元に置いていたが、怪しいものは一切見つからなかった。本当はお前がここを出るまで返すつもりはなかったがな。気が変わった」
「あ、ありがとうございます!」
前言撤回。
鞄を返してくれたことを鑑みれば、レオニールとの対話は案外失敗ではなかったのかもしれない。
「それを持って今度こそ部屋に戻れ」
「……わかりました。失礼します」
レオニールに返事をしてから、私は鞄を抱え直して部屋の入口へと向かう。
歩を進めるたび、視界の隅でベル型のシルバーアクセサリーが揺れる。相変わらず綺麗でかわいらしいのだけれど、マジックアイテムとしての効果の程はまだ把握できていない。
第一、今の私は迷子よりもひどいものだ。効果が無くても仕方ないことなのかもしれないと、内心苦笑しながら、私はそれに何気なく触れる。
その瞬間、ベル型のシルバーアクセサリーがちりんと音を立てた。
“――――見つけた――――”
「え……?」
突然、耳に届いた小さな声。
思わず足を止めると、またベル型のシルバーアクセサリーがちりんと涼やかな音で鳴った。
ざわり、空気が揺れる。
窓を開けない限り部屋の空気が大きく動くことなんてないはずなのに、まるで室内に風が吹き始めたかのような錯覚に陥ってしまう。
(――違う)
髪が煽られ、書類が宙に舞い、カーテンが激しくはためいている。
これは錯覚などではない。本当に、風が吹いているのだ。
「なんだ……?」
レオニールも室内の変化に気付いたのか、眉をひそめて注意深く周囲の様子を窺っている。
私はどうしたらいいのかわからず、入り口の傍で鞄をぎゅっと抱き締めるだけ。
きいん、とふいに耳鳴りがする。
“――――我が名を以て命ず――――”
また、どこからか声が聞こえた。
“――――魔力開放。制限解除。……承認せよ――――”
「これは――――詠唱かっ!」
レオニールが何かに気付いた様子で厳しい表情を浮かべ、私の元へと走り寄ってきた。
彼は私を背に庇うような形のまま壁際に追いやると、まるで睨み付けるように視線を周囲へと走らせる。
部屋全体に響くどこか不明瞭な声は、その間も途切れることなく続いていた。
“――――理を捻じ曲げ、破壊し、修復せよ。彼方への道筋を紡ぎ出せ――――”
歌うような詠唱に応じて、室内に吹き荒れる風が強まっていく。
最初は不明瞭だった声が、どんどんクリアになっていく。
“――――空間接続開始。……我が力、標となれ!――――”
そうして、詠唱が終わりを告げたと思われた――次の瞬間。
どん、と地震のような大きな衝撃が部屋全体を襲い、私はたまらず床に膝をついた。私の傍にいたレオニールはどうにか耐え切ったらしく、起立したままでいる。その手には、いつの間にか銃が握られていた。
「ちっ、魔力障壁への干渉だと?……いや、これは、破るつもりか!?くそっ、修復が間に合わねえ!」
レオニールが苛立ったように叫ぶのと同時に、二度目の強い衝撃が私達を襲う。
床に膝をついたままだった私は、そのままの体勢でぎゅっと目を瞑り、衝撃をやり過ごす。そうしてしばらく経った後、私は現状把握のため恐る恐る目を開けた。
「……え、うそでしょ……」
私は、驚きに目を見開いた。
それは、ちょうど生活区域と保管庫を隔てるような位置であり、部屋の中心部となる場所。
その空間部分に、大穴が空いていた。
驚いたのはそれだけではない。大穴の向こうに人影が見えたかと思ったら、誰かがそこから飛び出してきたのだ。
「コトハちゃん!」
「コトハ!」
大穴の向こうからやってきたのは、私が一番会いたかった仲間達。
「あ……」
二人に何と言えばいいのかわからない。わからないけれど、二人の顔を見たら、無性に泣きたいような気持ちになった。
(――ああ)
働かない頭で考えた結果、最後に残ったのは、もう大丈夫なのだという漠然とした安心感。
二人がいれば、私はいつだって幸せな気分になれるのだ。
「コトハちゃん!」
クロノスが私の名を呼びながら駆け寄ってくる。
先程の詠唱の声の主はクロノスだったのだろう。魔法を発動した名残か、クロノスの右腕には青白い静電気のような光が幾筋も走っている。しかし、私の視線に気付いたクロノスが反対側の手で一撫でした途端、それは跡形もなく消えた。
一連の動作をぼんやり眺めているうちにクロノスが私の目の前までやってきて、優しい手つきで私を抱き寄せた。
「心配していたんだよ」
「……うん」
「無事でよかった」
「…………うん」
クロノスの温もりと、少し強い抱擁が、私の心を溶かしてくれる。
頭を撫でる手が、あまりにも優しくて、私の涙を誘う。
嬉しいやら安心したやら、いろいろな感情がごちゃ混ぜになって、私は堪え切れずに泣き出してしまった。
「ふふ。ごめんね。泣かないで。もう大丈夫だから」
ぽろぽろと流れ落ちる涙を、クロノスの指が拭っていく。
その手つきすら優しくて。私を見つめる瞳が、私の知らない甘さを含んでいるように見えて。
私は声を上げずにしばらく彼の腕の中で涙を流した。
「――はっ、面白ぇ。お仲間登場ってとこか?」
静寂を破ったのは、レオニールの挑戦的な声だった。
その声につられるようにのろのろと顔を上げる。視線の先では、レオニールとロイドがお互い武器を手に対峙しているようだった。けれど二人が纏う雰囲気はまったく正反対で、ロイドは厳しい表情でレオニールを睨みつけているし、対するレオニールは楽しそうな表情を浮かべていて、どこか余裕があるようにも見える。
「大丈夫。コトハちゃんはここにいてね?」
クロノスは私の頭を名残惜し気に撫でてから身体を離し、レオニールの方へ歩いて行く。
「空間を捻じ曲げ、あるはずのないところに新たな領域を作り出す。そして人々の目に映らぬよう幾重にも折り重なった魔法という名の神秘の布で覆い隠す。とっても高度な魔法だわ。考えたわね、アナタ。おかげでここを見つけるのに苦労しちゃった」
「はっ、そりゃどうも。魔術師サマに褒められるとは、俺の魔法も捨てたもんじゃねえってことか」
「あら、お世辞なんかじゃないわよ?空間を操る魔法は、単なる属性魔法よりも高度なものだもの。でも、アタシ達の仲間を攫ったというのはいただけないわねェ?」
「ああ?そんなにその女が大事なら箱に入れて大事に仕舞っておけばいいだろうが」
「――彼女を攫った下種が何を言う。コトハに何をした」
全身に怒りを滲ませたロイドの低い声が、耳朶を打つ。
いつも穏やかで優しいロイドが怒りをあらわにするなんて珍しいと、場違いなことを思った。
「さあ、どうだろうな?」
「貴様っ――!」
にやにやと楽しそうに挑発するレオニールに、ロイドが気色ばむ。
このままでは、この狭い空間で戦闘になってしまう。
どうにかしたほうがいいとは思うがその方法が思いつかず、おろおろするばかりの私の耳に、部屋の扉が勢い良く開かれる大きな音が飛び込んできた。
「――皆様、おやめくださいませ!」
私以外の全員が武器を手にした、一触即発の空気。
それを打ち破ったのは、ウェティの凛とした声だった。
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