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第百九話 野心の果て

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 にわかに天幕の外が激しい喧騒に包まれた。
 悲鳴と怒号が交錯し、銃声が轟き人馬のざわめきが空気を揺らす。
「オスマン軍が来襲いたしました!」
 伝令の言葉にいち早く反応したのは誰あろうヴラドであった。
「ゲクラン、小一時間持たせろ。ネイ、侍医を呼べ、止血が終わったら余も出るぞ」
 有無を言わさぬその威に打たれて、二人は膝をついて頭を垂れる。
「「御意」」


 この耐え難い喪失感をなんと表現すればよいのだろう。
 まるで俺自身の半身を失ったような感覚だった。
 事実そうなのだろう。ヴラド・ドラクリヤ本人の魂は、俺の魂の半分でもあったのだから。
 この世界の住人としてヘレナをはじめとして様々な人々と交わりながら、心のどこかで夢のなかにいるような気持ちを捨て切れなかった。
 罪も罰も責任も、もうひとりのヴラドがいつもその半分を背負ってくれていたのだ。俺は本当はこの時代の人間ではなかったから。
 そのことに今更ながら気づいている俺がいた。
 今や俺はこの世にただひとりのヴラド・ドラクリヤであった。
 夢と現実の狭間は、完全に現実にとってかわり、俺の罪と罰は真実俺だけのものとなった。
 ラドゥとベルドのいない酷薄な現実が俺を待っている。
 夢の時は終わったのだ。
 そんな現実を噛み締めていると、手のひらにぬくもりを感じた。振り向けばヘレナが俺の手を握って泣いていた。
「このたわけが……!妾を置いて逝ってしまうかと思ったぞ………!」
 潤んだ瞳で見上げてくる健気なヘレナの仕草に愛しさがこみあげてきて、俺は思わずヘレナの唇を奪った。
 そうだ、もう俺はひとりではない。
 現実は決して酷薄なばかりではなく、新たな家族の未来は続いている。
「その手を離さないでくれヘレナ。そして家族が愛し合って暮らせる場所を守るために、戦う俺を見守ってくれ」
 たとえひとりになろうとも、この罪の重さから逃げることはしない。
 そしてその罪を背負って一生を生きていく。
 俺が愛する家族のいるかぎり。
「夢は終わった。そろそろ現実を思い知る時だ。なあ、メムノンよ、メフメト二世よ」


 メムノンはほとんど勝利を確信していたと言ってよい。
 ヴラドがラドゥに対して甘い期待を抱いているのはわかっていた。
 心の髄まで洗脳をほどこしたラドゥであれば、ヴラドを殺害することも決して夢ではない。
 少なくとも傷を負わせ、ヴラドが戦場に立てないだけでも戦いは終わるのだ。
 万が一ヴラドが無傷であったにせよ、ラドゥを失い、もはや冷静な指揮を執ることはできないはずだった。
「ワラキア公はアサッシンの手にかかったぞ! ワラキア軍恐るるに足らず!!」
 オスマンの兵は大きな歓呼とともにメムノンに応えた。
 それほどにワラキア公の存在はオスマンにとって重い心理的圧迫となっていたのだった。
 アドリアノーポリの城門が勢いよく開かれた。
 決壊寸前までたまった鬱憤を晴らすかのように、オスマン軍は怒涛の勢いでワラキア軍へと襲い掛かろうとしていた。



 ゲクランの命を受けて席をはずしたクラウスの目に、オスマンのおびただしい兵影が映っている。
 その数はおよそ十万弱といったところであった。
 おそらくはアドリアノーポリの駐留兵力の全軍を、後先考えずに繰り出してきたと見ていいだろう。
総力戦になるのは確実であった。
「ちっ………シェフ殿の読みが大当たりだ!」
 慌ててクラウスは迎撃の準備に駆け出した。
 頼りがいのある彼の上司が戻るまでに、やっておかなくてはならないことが山のように残っていたからだった。


「ワラキア公戦死!」
「アサッシンに誉れあれ!」
「悪魔よ滅びよ!」
 ほとんど狂騒状態に近いオスマンの強攻は、ワラキアの精強な常備歩兵にかつてないストレスを強いていた。
 オスマン軍の異常な士気の高さが、ワラキア公の死によるものだということがワラキア軍の動揺を誘っていたのである。
 指揮官たちが口々に否定の言葉を繰り返しても、これまで常に戦場にあったワラキア公の姿がないという事実は動かない以上、不安の完全な払拭は不可能だった。
 甚大な損害にも怯まずに猛攻の最前線に立っていたのは、オスマンの誇る常備歩兵イェニチェリ軍団であった。
 彼らはオスマン最精鋭の名に相応しく最新の装備で武装していた。
 急造ながら彼らだけに供給されたもののなかには、ワラキア軍がこれまで独占してきた手榴弾が含まれていた。
 彼らの投擲した手榴弾が、今度はワラキアの野戦陣地を襲う。
「………敵に使われて見るとなんて厄介な武器だ!」
 ワラキアの誇る野戦陣地はこうした投擲武器との相性が悪い。
 数において劣る現状では特にそうだった。
「ここから先に通すんじゃねえぞてめえら! 銃先を揃えろ! 散弾の一斉射撃が終わったら押し戻すぞ!!」
 このころ、第二線陣地にはようやくゲクランが間に合っていた。
 後年ぶどう弾と呼ばれることになる散弾が、前線に並べられた五十門近い大砲へと装填され、その凶悪な破壊を一斉に吐き出す。
「突撃ィ!」
 散弾で穴だらけになったイェニチェリの戦列を槍先を揃えてワラキア銃兵が押し返す。
 しかしすでにコンスタンティノポリスで苛烈な火力戦を経験したオスマン軍は、凶悪な散弾の破壊力を目の当たりにしつつもなお士気を失いはしなかった。
「悪魔に正義の鉄槌を!」
「アラーの御名において復讐を!」
 温存されてきたスルタン直属の常備軍は、さすがに士気も練度も最高な水準にあると言わざるをえない。
 突撃の衝力を失ったワラキア銃兵が、再び押し込まれ始める。
 戦いの勢いはいまだオスマンにあり、ゲクランの手腕をもってしてもその勢いを押しとどめるのは容易なことではなかったのだ。
「てめえら漢を見せろ! 一歩たりとも本陣に近づけるな!」
 さすがのゲクランが焦りの色を隠せなかった。
 ゲクランはこれまでの歴戦の経験から、ヴラドの負傷が決して軽くないことを知っている。
 内臓の傷つき方によっては死んでいてもおかしくない重傷なのは間違いなかった。
 できることならヴラドの出馬なしで決着をつけたいというのがゲクランの本音である。
 そもそも鎧を着ることも馬に乗ることも、負傷者にとってはあまりに負担の大きな行動なのだった。
「今こそ勇を奮え! 忠勇なる神の戦士たちよ! ヴラドなきワラキア軍など相手にもならぬわ!」
 しかし現実問題としてヴラドの不在は確実にオスマン軍に力を与えていた。
 味方に数倍する損害をオスマン軍に強要しつつも、ワラキア軍はオスマン軍の勢いに後退を余儀なくされていたのであった。
「シェフ殿、そろそろここもやばいですぜ」
「押し込まれる前に第三線に下がらないと………」
 ゲクランにもここから退勢が覆しがたいことはわかっている。
 しかし第三線陣地とはすなわち本陣にほかならない。
 迂闊に退いてしまっては後がないのだ。
「………仕方ねえ、クラウス、お前は一隊を率いてイェニチェリどもを例の罠に誘い込め、モーニ、お前は一足先に戻って迎撃の準備をしておくんだ。砲をありったけかき集めておけ。殿はオレがやる」

 そのころメフメト二世は会心の笑みを浮かべていた。
 いよいよ勝利が近づいていることが本陣からも窺うことができたからだ。
「………これまで幾度も煮え湯を飲まされてきたが、最後に勝つのは余のほうであったな」
 もはやワラキアの野戦陣地はあと本陣を残すのみとなった。
 それでもなおヴラドが出ないのは彼が死んだか深刻な重傷を負ったことの証であろう。
 全く愚かというほかはない。
 弟など最も最初に排除すべき政敵であろうに、そんなものに固執するヴラドの気が知れなかった。
 傍らのメムノンもまたメフメト二世ほどではないにしろ勝利を確信している。
 イェニチェリの士気は高くいまだその余力は尽きてはいない。
 ワラキア軍二万五千に対しオスマン軍十万、コンスタンティノポリスでの戦いより戦力比は縮まっているがスルタン直属の親衛隊が戦線に加入した今、投入された兵の士気と練度という意味ではむしろ戦力比は開いているといってよいのだ。
 両翼の軽騎兵は苦戦しているようだが、中央部の歩兵戦闘での優位が続く以上ワラキア軍の命運は風前の灯であった。
「歴史を創るのはやはりお前ではなかったようだな、ここで歴史の一部となれヴラドよ」」
 戦いの勢いは変わらない。クラウスに引きずられたイェニチェリが地雷原に誘い込まれる一幕があったものの、ワラキア軍は完全に本陣まで押し込まれていた。
 殿で奮戦するゲクランもこのままでは危険だ、と焦りの色を隠せずにいる。
 本陣の守りは強固だが、それでも怒涛のオスマンの攻勢を支えるには不安が大きかった。
 だがオスマンにとって不幸なことに、ワラキアの本陣に動きがあった。
「待たせたな」
 正しく最前線にヴラドが現れた瞬間、轟音とともに本陣直営の火力支援が解き放たれたのである。
「撃て!」
 二十連装の多連装ロケットがほぼ一千に及ぶ盛大な火揃を打ち上げていく。
 一回だけの使いきりだが、その瞬間制圧火力は言語を絶する。
 たとえどの時代の兵士であろうとも、一千に及ぶ地対地ロケットの斉射を受ければ壊乱は必死であろう。
 焼夷油脂を撒き散らしたロケットのあとには、大砲による散弾の一斉射撃が待っていた。
 あるものは生きながら燃える松明と化し、またあるものは人のものとも思えぬ肉塊の一部と化した。
 ほんの一瞬にして発生したさながら煉獄のような情景は、当初から勢いづいていたオスマン軍の衝力を完全に停止させたのである。
 もとよりこれらの武器は本陣防御の切り札として最初から用意されていたものだ。
 しかしオスマンの兵士にとってはとうていそうは受け取れぬものであった。
 彼らはワラキア公の出現にこそ、この惨状の理由があるとごく自然に受け取ったのである。
 ヴラドの出現にワラキア軍は沸き、オスマン軍は萎縮した。
 戦況は目に見えてワラキア軍に傾こうとしていた。
 まるで砂漠の魔神に出会ったように矛を鈍らせたオスマン軍の隙を、ゲクランたちが見逃すはずもない。
 逆に戦線を押し上げたワラキア常備歩兵軍は第二線陣地を瞬く間に奪回した。

「……………おのれヴラドめ…………!!」
 なまじヴラドがこれまで不在であった分だけ、ヴラドに対する強迫観念にも似た畏怖が助長されてしまっている。
 先ほどまで押しに押していたイェニチェリ軍団が、見る影もなく逃げ惑う様はメムノンの腹奥に重い圧迫を覚えさせずにはおかなかった。
「まさか無事だったというのか? いや、わざわざ隠す理由はないはずだ。奴が重傷を負っているのは間違いない」
 もう少し遅ければワラキア軍の全面崩壊すらありえた。
 ということは出たくても出られなかったというのが正しいのに違いなかった。
 重傷であるならば逃げるのも困難なのは自明の理だ。
 今度こそヴラドの息の根を止められる喜びにメムノンは鼻をならした。
「督戦隊を投入しろ。ここでヴラドを仕留める」
 幽鬼のような兵団が接近しているのにゲクランはいち早く気づいていた。
 ベクシタスの原野でワラキア軍を壊滅の一歩手前まで追い込み、近衛を犠牲にさせた部隊である。
 しかしその損耗ぶりは激しく、その数は半分以下の二千にも届かない。
「それで勝ったつもりかい? メムノンさんよ」
 ワラキア銃兵の後列から、ひときわ巨大な銃をふたりがかりで抱えた兵が進み出る。
 破壊力に勝る大鉄砲の装備部隊であった。
 ベクシタスの敗戦からヴラドが急いで取り寄せたもののひとつがこの大鉄砲だった。
「ぶっぱなせっ!!」
 大鉄砲から放たれた巨大な鉛球がもたらした破壊はおそるべきものであった。
 胴体を直撃した弾は、その巨体にふさわしい運動エネルギーによりおよそ三十センチ近い破口を開け、内臓を後方へと撒き散らす。
 足に当たれば足が飛び、胸に当たれば上半身が宙に舞った。
 いかに不死身をもってなる督戦隊であろうとも、このおそるべき破壊には対抗する術がなかったのである。
 彼らはただ麻薬によって痛みを忘れ恐怖を無くしている人間にすぎないのだから。
「………そんな馬鹿な………!」
 メムノンの顔から一気に血の気がひいた。
 自らが手塩にかけた不死身の軍団が、ごく普通の兵士に敗れるなど考えもしないことであったからだ。
 もしもゲクランがメムノンの動揺を目にしたならば、嘲笑とともに鼻を鳴らしたであろう。
 確かに痛みも恐怖も感じない兵士の存在は脅威である。
 しかし彼らの耐久力も所詮は普通の人間と変わらぬことがわかっていれば、対策を用意することはやさしい。
 彼らに高度な戦術行動をとらせることは不可能だから、彼らは真っ正直に突っ込んでくるだけだ。
 ならば行動が不能になるだけのダメージを与えてしまえば容易に殲滅してしまえるはずであった。
 取り残しがいても、落ち着いて顔を狙って討ち取ればいい。
 それでもこれが定員一杯の五千名であったならば、大鉄砲の数が少ないことから考えて対応は厳しかったであろう。
 ベルドが半ば以上をベクシタスで討ち果たしてくれたからこそ完璧な迎撃戦が行えたのだ。
「ベルド………この戦の殊勲はお前さんのものだ……!」
 オスマン軍にとっては最悪なことに、東西の両翼からワラキアの援軍が姿を現し始めていた。
 その数は実に六万を超える。
 いったいどこからこれほどの大軍が湧いて出たものかメムノンには想像もつかない。
「悪魔(ドラクル)め! またわけのわからぬ魔術を………!」
 いくらなんでも両翼から迫る六万もの大軍勢を放置しておくわけにはいかない。
 ワラキアの両翼で激闘を繰り広げていた軽騎兵部隊が、急遽転進して正体不明の軍勢へと向かう。
 見れば軍列も整えきれぬ雑軍であるようであった。
 組織力のない歩兵など軽騎兵の敵ではないのは明らかである。
 雄たけびをあげて吶喊するオスマン軽騎兵の前に、巨大な炎の河が出現した。
 避けきれずに数百の騎兵が炎の柱となる。
 突如出現した炎の河の正体は火炎瓶の一斉投擲であった。
 ツポレフの組織したブルガリア・トラキアの対オスマン反抗組織が正体不明の援軍の正体である。
 もとより彼らは農民を含む烏合の衆にすぎない。
 そこでツポレフは素人でも簡単に量産できる火炎瓶を供給して、彼らにそれを投擲することだけを要求したのであった。
 六万の兵士が次々に投げ入れることで、ますます大きくなる炎はオスマン騎兵に恐慌をもたらした。
 今や絶対的物量をほしいままにしてきたオスマンの優位は失われ、総兵力が拮抗したという事実は、オスマン兵士にとってショック以上の何かであったのである。
 事実上六万の援軍が戦力としては計算できないことをオスマン軍は知らない。
 ここで決して戦意が高いとはいえない軽騎兵部隊が壊乱した。
 炎から逃れるように戦場からの逃亡を開始したのである。
 実のところオスマン朝にあって戦意が高いのは、常備軍のイェニチェリとスルタン親衛隊ぐらいなもので、辺境や属国から徴兵された兵士たちの多くは督戦するものがいなければ戦力化が難しいほどに戦意が低い。
 ここにきて通常彼らの督戦にあたっていたイェニチェリや督戦隊が、ワラキア軍と激戦の最中であることが災いしていた。
 逃亡を始める兵士を見たメムノンは決断した。
「陛下、今こそご出陣を!」
 味方の士気がこれ以上落ちないうちに全兵力をもって攻勢に出るしかない。
 そして士気を一時的にせよ回復するためには、指揮官が陣頭で指揮をとるほど効果的なものはなかった。
 しかしここでメフメト二世は逡巡した。
 個人的な武勇に自信のないことや、修羅場を経験したことのない事実が、メフメト二世を躊躇させてしまっていた。
 そこで致命的な時間が出血してしまったことをメムノンは悟った。
「おさらばです。スルタン様」
 スルタンに背を向け騎上の人となったメムノンは、わずかな側近とともにワラキア軍へ突撃を開始したのである。
 もはや彼がスルタンを振り返ることはその死にいたるまでなかったのだった。
「悪魔め! 悪魔め! この地上に貴様の住む場所などないということを教えてやる!」
 かろうじてゲクランの猛攻に耐えていたイェニチェリ軍団は、宰相自らの出戦に奮起したが、それでもワラキアに傾きかけた流れを変えることはできなかった。
 驚くべきは馬に牽引された大砲が、歩兵の前進に追随しているという事実である。
 砲身の軽量化と砲架に成功したワラキア軍は、これにより速やかに近距離火力支援を受けることができるのだ。
「弾種榴弾、縦射、斉射、撃て!」
 イェニチェリの縦深に容赦なく榴弾が降り注ぐ。
 さすがの精鋭イェニチェリも、傭兵まで逃亡を始めたなかで士気を保つのは難しかった。
「退くな! 悪魔に凱歌をあげさせて神が見過ごしたまうと思うか?」
 メムノンが声を張り上げなおも抵抗を続けるが
「………貴様が神を語るな」
 一発の銃弾がメムノンの額を撃ち抜いた。
 狙撃手の姿すら見えないその恐るべき手腕にたちまち動揺が広がる。
 なんら遮るもののない戦場で、魔弾の射手に狙われて心穏やかにいられるものはそう多くはないのだ。
「この射距離は新記録だな」
 マルティン・ロペスの神技は銃が変わろうとも、いささかも衰えぬばかりかさらに磨きがかかっているようであった。
 こうしてオスマン帝国宰相メムノン・パシャは、自らがそれと気づくことなく戦場の露と消えたのである。
 どうにか統制を保っていたオスマン軍にとって宰相の死は決定打だった。
 完全に戦意を喪失した軍はわれ先に逃亡を開始する。
 期せずしてスルタンへの進撃路が、無防備な姿をワラキア軍の前にさらしていた。

「な、なにをしておるメムノン?!」
 メフメト二世は腹心の死に恐慌をきたしていた。
 これでは話が違うではないか!
 ワラキアを打倒する我らの策に間違いはなかったはずだ。
 今日はローマを明日は世界を手に入れる英雄として賞賛を浴びるのは余であるはずではなかったか?
 それがいったいどうしたらこんな惨めな有様になってしまうのか!
 今やスルタンを守るのはわずか百名余の供回りだけになってしまっていた。
 親衛隊まで投入した総力戦の結果であった。
 こんな敗北は認められない。
 正義が悪魔に敗北することなどあってはならない。
 自分こそは歴史に偉業を残すものだ。
 この地上に神の栄光をもたらし、イスラムの希望となるべき存在なのだ。
 間違っている。
 こんな現実は断じて間違っている!

 メフメト二世の天幕を取り囲んだ俺は、正気を失いかけたスルタンに声をかけた。
「…………存分に夢は見たか?」
 いつしかスルタンを守る兵は一人残さず討ち果たされていた。
「こんなことは認めぬ! 余はこの地上の覇者となるべく生まれてきた男なのだ!」
 ヴラドの表情に怒りの色はない。
 むしろ悲しみを耐えるかのようにヴラドは首を振った。
「夢を見たければ一人で見ているがいい。………俺という現実がお前の夢を蹂躙するそのときまで」
「夢なら覚めよ! 余がこのようなところで死ぬはずがあるものか!」

 ――この日オスマン帝国最後のスルタンがトラキアの大地へと還った。
 スルタンを失った首都アドリアノープルは陥落し、長いオスマンの支配は終わりを告げたのである。
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