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第百八話 ある男の夢

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「ジョゼフには気の毒だったな………」
 ネイはジョゼフの後釜として情報省からまわされてきたドールに、今は亡きジョゼフの面影を見出していた。
 くすんだ金髪に細面の顔の造詣がよく似ていたのだ。
 ネイにとってジョセフは片腕と呼んでも差し支えない存在だった。
 あのベクシタスの原野で失われずにいれば、いずれは自分の地位を譲る可能性もあったと思えるほどである。
「卿には期待している。兄の分まで殿下のお役に立て」
 ドールに託されたシエナの計画は、意外なところで変更を余儀なくされようとしていた。
 シエナからの推薦によって近衛騎士に任じられたとはいえ、新米騎士のすることといえば雑用は歩哨と相場が決まっている。
 ドールとしてはそこからなんとか身体の自由を得なくてはならなかったのだが、近衛の長を務めるネイはジョゼフの弟ということでドールを非常に高く買ってしまったのが何よりの誤算だった。
 兄に負けぬ騎士に成長してほしいと期待をかけたネイは、ワラキア公の傍に控える従騎士のなかにドールを加えたのである。
 ドールとしては誤算も甚だしいことだった。
 しかし、復讐の機会を得るという意味においてワラキア公の傍に控えるのも決して悪いことばかりではなかった。
 標的と接触することができるということにおいて、これ以上の場所はないからだ。
 問題の歴戦の近衛隊精鋭を出し抜いて標的を殺害できるか、という点においてドールは忙しく思考をめぐらせていた。
「兄上、どうか非才なる私に力をお貸しください」

 会見に現れたラドゥは、誰の目にも異常であった。
 左腕の肘から先がなくなっているため、歩くたびにバランスが崩れるらしく、ひどく危うげな雰囲気を漂わせている。
 肩まで届こうかという豪奢な金髪も荒れるに任されており、鳥の巣のように無造作にからみあっていた。
 それはかつて美男公と呼ばれた男の残骸にしかすぎなかった。
 ヘレナやゲクランといった首脳たちも、このラドゥへのオスマンの仕打ちには義憤を隠せなかった。
 確かにラドゥは憎き敵であり、ベルドの仇であるにもかかわらず、いまだ甘さを捨てきれないヴラドを指弾したい気持ちはある。
 しかし仮にも講和の使者を、ワラキア公のたったひとりの弟を、かくも惨めに壊しつくすのが認められるかは別問題だ。
 同時にそれは、この会見が所詮は茶番であり、オスマンに講和の意志など微塵もないのだということを明確に示していた。
「………兵たちに気を緩めるなと伝えろ………」
 ゲクランの言葉を受けて副官のクラウスは兵の掌握へと席をはずす。
 この会見の最中にも、オスマンが戦端を開く可能性は少なくないとゲクランは考えていた。
 すでに両軍のかけひきは始まっていたのである。

「――――兄様」
 ポツリと呟かれたラドゥの言葉が、俺に与えた衝撃は激甚だった。
 遠くなってしまった日に、飽きるほど聞いたはずのその言葉。
 寂しさを漂わせた甘えるような声音。
 声変わりしてはいてもいまだ変わらぬその口調に記憶はあの人質時代へと遡る。
 思わず飛び出して抱きしめてしまいたい欲求を抑えるのに俺は必死にならざるをえなかった。
 なんという惨めな有様であろうか。
 ラドゥの左腕に巻かれた包帯は黒く変色した血に汚れており、ろくな手当てを受けていないことは明白だった。
 薄く胸にも血のにじんだ後があり、よく見れば美しかった肌はひびわれ、整った顔にも小さな擦過の後が刻まれている。
 それがワラキアとの戦で得た傷なのか、その後の虐待によってつけられた傷なのかはわからない。
 しかしもしも罰というものが必要なのだとすれば、この愛すべき弟はすでに十分すぎるほど罰を受けたのではないか?
 ほとんど生気の感じられぬ茫洋とした瞳がそれを裏付けているように感じられた。
「久しいな、ラドゥ」
 情ないことに震える声で、どうにかそれだけを搾り出すように言うのが精一杯だった。
「兄様………どうかスルタン様にお降りください」
 一瞬にして俺の両脇に控えたヘレナやゲクランと近衛騎士たちの間に殺気が走る。
 ただでさえベクシタスの敗戦の、直接的な原因であったラドゥに対するワラキア宮廷の心象は悪いのにこの発言は致命的だった。
「兄様がスルタン様に降ってくだされば、またあの日のようにいっしょに暮らすことができる………スルタン様も私を愛してくださるのです、どうか兄様………」
 ラドゥは瞳に狂的な色をたたえながら、一歩また一歩と歩を進めていく。
 口元はだらしなく開き、一歩踏み出すごとに大きく身体を揺らしながら歩くその姿は生きながらにして死んでいるように思われた。
 もうすでにラドゥは人としての決定的ななにかを永久に失ってしまっていた。
 そして間接的とはいえラドゥを壊したのは、間違いなく俺自身なのだ。
 グラリ、と大きくバランスを崩して片ひざをつくラドゥに、一人の近衛騎士が歩み寄っていくのが俺の目に写った。
 嫌な予感がする。
 何故かはわからないがとてつもなく嫌な予感がして俺は無意識に手を伸ばした。
 しかし新米の騎士ドールがするすると進み出るのを、誰もとがめようとはしなかった。
 膝をつき倒れかけたラドゥに手を貸すそぶりを見せていたからだ。
 しかし、ラドゥの右手をひいて立たせた瞬間、ドールは空いていた右手で己の剣をラドゥの腹に深々と突きたてていた。
「兄上の恨み思い知ったか!」
「この慮外者め!」
 一瞬遅れて同僚の騎士がドールを取り押さえたものの、ラドゥの傷がもはや致命傷であることは誰の目にも明らかだった。
「また、私を捨てるのですか? 兄様!」
 また、と言った言葉が俺の胸に透明な刃を突き立てた。
 悪魔公などと恐れられていながら、俺にできたのは幼子のように首をふることだけだった。
「違う」
 お前を見捨てるつもりなどなかった。
 俺が望んでいたのは、こんな結末ではなかったんだ。
「ラドゥ…………」
 よろよろと歩み寄ろうとしたそのとき、腹に剣を突き刺されたままのラドゥが瀕死の人間とは思えぬすばやさで踊りかかった。
 あまりに意表をつかれた反応に、ネイもゲクランも対応できない。
 近衛騎士たちもドールを取り押さえたことで、その陣容を薄くしてしまっていた。
 ほとんど吸い込まれるようにして、ラドゥは俺の胸に飛び込んだのだった。
 まるでやけ火箸でも押し当てられたかのように灼熱感をわき腹に感じて見下ろせば、ラドゥの失われた左手からなにか尖ったものが俺の腹に突き刺さっていた。
 その正体に気づいて、俺は怒りよりも胸がつぶれるような悲しみに身を震わせた。
 鋭く尖ったその凶器は、ラドゥ自身の骨に他ならなかったのだ。
 ――気づいてしかるべきだった。
 督戦隊に麻薬が使用されてラドゥに使われていないはずがないではないか。
 おそらくは左手を壊死させて、暗殺用の武器にしたてあげたものだろう。
 もちろん生きてかえってくることなど最初から望んでもいないのだから、いくらでも好きにできようというものだ。
「兄様、許して下さい。兄様許して下さい。僕は………僕はもう一人でいることに耐えられないのです。父上に見捨てられ……兄様に見捨てられ……ベルドもいなくなってしまって……この世界にただひとりで在ることはもういやなのです。ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様………もう、もう僕を一人にしないでください…………」
 自らの骨をさらに押し込みながら謝り続けるラドゥの姿に、脳が破裂しそうなほどの怒りがこみあげる。
 それはラドゥにではない。
 この事態を画策したであろうメムノンとメフメト二世に対してだ。
 いったいどれほどの絶望を与えたら人をここまで壊すことができるというのか。
 これまでどれほど酷薄な孤独のなかで、ラドゥはずっと一人で生きてきたというのだろうか。
 怒りが許容を超えて腹の奥底にわだかまる怨念が、永い眠りから再び鎌首をもたげていくのを感じる。

 神よ。
 無能で残忍なこの世でもっとも醜い傍観者よ。
 貴様がたった一人の男すら救うことができないのなら、俺は全身全霊で世界を呪うだろう。
 この悪しき世界で、弱き者が踏みにじられ、愛が裏切られるのだとすれば、それは全て貴様の創造が失敗作である証明にほかならぬ。
 ならばこの俺が、貴様の作った不完全な世界を俺の気の向くままに破壊し、罵倒し、凌辱し、漆黒に塗り替えていくのを指を咥えて見守っているがいい。
 感情をもはや制御できない。
 ブレーカーが落ちるような衝撃音とともに、俺の意識は圧倒的なまでの闇に飲まれた。
 死灰と化した空気のなかで、ようやく事態を脳が把握したネイが猛然と抜剣し、ヘレナが耳をつんざく悲鳴をあげた。
 硬直したまま対応のとれなかった騎士たちも次々と抜剣してラドゥへと踊りかかる。
「動くな」
 そう言って右手で彼らを制したのは、彼らにとっての主君ヴラド三世その人にほかならなかった。
「………………永く甘き夢を見た」
 そういってヴラドは嘆息した。
 傍らではラドゥが相変わらず謝罪の言葉を続けていた。
「………とうてい我には望めぬはずの、なんとも甘美な夢だった。怨念と絶望に逃げるしかなかった我には過ぎた夢であった」
 ヴラドの言葉の意味が理解できず、近衛騎士たちが困惑の表情を浮かべる。
 襲撃者をこのままにしておくわけにはいかないのだが、ヴラドの身体から発散される圧倒的な鬼気が彼らから行動の自由を奪ってしまっていた。
「そうして我が甘い夢に酔っている間にお前は孤独に苛まれていたのだな、ラドゥ」
 ヴラドの瞳から一筋の涙がこぼれて落ちる。
 悔恨と苦悩と愛情がないまぜになった表情でヴラドはラドゥを抱きしめた。
「その責任を今こそ果たそうラドゥ」
 ヴラドに抱きしめられながらも、ラドゥは壊れた機械のように謝罪を繰り返していた。
「ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様…………」
「許しているともラドゥ、余人は許さずとも家族なら許せる。過ちが間を引き裂こうと、家族の絆は消せぬ。だからラドゥ、お前を見捨てた我をどうか許してくれ」
「兄様?」
 ラドゥの生気を失った濁った瞳にわずかに正気の色が戻ろうとしていた。
 まるでそこだけ時間が巻き戻ったように、兄弟は見つめあった。
「もう二度とこの手を離しはしない。もう二度とお前が孤独に苛まれる事はない。これからはどこまでもいっしょだ」
「よせ! 汝は妾とともにあるのではなかったのか? 我が夫よ!」
 顔面を蒼白にしたヘレナが叫ぶように言うと、ヴラドはヘレナにむかって薄く微笑んだ。
「案ずるな、ローマの姫よ。ご夫君は無事にお返し申し上げるゆえ」
「…………お主………いったい誰じゃ?」
 姿形はヴラド以外のない者でもない。
 しかし中身は決してヴラドではありえなかった。
 ヴラドがヘレナをローマの姫などと呼ぶはずはないのだ。
「………かつてヴラドであったものの残滓………ヴラド・ドラクリヤのありえたもうひとつの可能性とでも言っておこうか………」
 いつしかラドゥもしっかりとヴラドを抱き返していた。
「ああ………兄様……なんて………あたた………かい…………」
「ともにいこうラドゥ、今度こそ家族が愛し合って暮らせる場所へ。ベルドも待っている」
「そうだね。また三人で楽しく暮らせるんだね」
 ヴラドの言葉にラドゥは莞爾と笑った。
 それは生気を失った残骸の笑いではなく、なつかしい少年の日に浮かべていた無垢で愛らしい微笑みだった。
 その短い生の最後に、彼はもっとも欲しがっていたものを手に入れたのだ。
「さらばだもう一人のヴラドよ。願わくば貴殿の未来と家族に幸があらんことを」

…………そしてふたりの魂は手を携えて天へと還った
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