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第百二話 黒と白の相克

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 黒羊朝の王、ジャハーン・シャーは己の野望が果たされぬどころか、黒羊朝そのものが累卵の危機に立たされていることを知った。
 マザルシャリフで対峙していたティムール軍を攻めあぐねているうちに白羊朝のウズン・ハサンが背後から迫っていたのである。
 おそらく白羊朝とティムール朝の双方を合わせても黒羊朝の総軍には及ばないであろうが、挟撃は十分その兵力差を埋める要素になるはずであった。
「小僧め………やってくれる………!」
 ジャハーン・シャーは何度かウズン・ハサンに会ったことがある。
 切れ味の鋭い刃物のような印象を抱いたものであったが、彼が実の兄をを裏切れる器とは到底思えなかった。
 戦術家としての能力はともかく、権力に対する執着が為政者として決定的に不足しているように感じられたのである。
 それが見事な手腕で兄を隠居に追い込むや、一国をまとめて揺るぎなく、今自分に挑戦しようと迫っているとはなんとも世界は遼遠なものであった。

「だが、まだ若い」
 確かにその器量は認めよう。
 オスマンへと差し向けた援兵を蹴散らし、後方を蚕食する手腕は常人にかなうものではない。
 しかしウズン・ハサンの器量はあくまでも武人としてのものにとどまる。
 少なくとも現時点では君主としての経験が絶対的に不足していた。
「アブーサイードに使者をたてよ。余はティムール朝の宗主権を認め、降伏する用意があると」
 度重なる君主の暗殺からようやくティムールを一統したアブーサイードだが、その権力基盤は土豪の連合体に過ぎない。
 つまりは専制君主としての権威を、いまだ持ちえていないのだった。
 あるいはアブーサイードなら目先の餌を罠であると看破するやもしれないが、アブーサイードを支持する土豪たちは彼ほどに遠くが見えるとは限らないのだ。
 議論は割れるだろう。
 その結果黒羊朝に敵対を続けてくれてもいい。
 ただ、混乱してくれる時間さえあればそれでジャハーン・シャーには十分なのだから。


 そのころ、マザルシャリフ西方のバルフ近郊に迫ったウズン・ハサンは、黒羊朝の兵団が完全にこちらを待ち受けていることを知った。
「アブーサイードの馬鹿が。このタイミングで黒羊朝と手を結んだか。所詮はオレに飲み込まれるだけの器だな」
 とはいえアブーサイードの兵力はおよそ三万、そしてジャハーン・シャーの兵力五万、対するウズン・ハサンが掌握している二万弱の兵力ではいささか手に余る。
 しかしここで引き返しても益はない。
 こちらが後先を考えぬ全力であるのに対して、黒羊朝にはまだ余力があるからである。
 全面的な総力戦になれば白羊朝の分が悪いに決まっていた。
 どうやらティムール朝をあてにはできないらしいが、さすがに全く警戒を解くわけにはいかないだろうから、黒羊朝の兵力はいくらか割り引いて考えることが出来るはずだ。
 たとえ二倍の兵力差があろうとも、己が負けることなどウズン・ハサンは想像すらしていない。
 時として偉大な為政者は歴史の中での自分の役割を無意識に感じ取ることがある。
 冷静な算術からいえば、オスマンと黒羊朝とマムルーク朝の同盟に歯向かうことは自殺行為以外の何物でもない。
 にもかかわらずウズン・ハサンは己の勝利と、ヴラドの勝利を疑ってはいなかった。
 この戦に勝って歴史に名を刻むという衝動のままに、ウズン・ハサンは決戦の場へと兵を進めた。
 勝てるとわかっている戦しかしない男は、少なくとも遊牧民の男ではない。
 黒羊朝も白羊朝も、ともに遊牧民の軽騎兵を主力としているのは変わりはなかった。
 歩兵は補完戦力として剣と投射武器を装備しているが、彼らの中で軍の主力を任せられるほどにいたってはいない。
 中央アジアの砂漠や荒野を行動範囲とする彼らにとって、馬のない生活は考えられない以上それは今後も劇的な変化を望めぬ類のものなのだった。
 欧州とは自然環境が決定的に違いすぎるのである。
「どこまで通用するものか――期待はしておこうか」
 ウズン・ハサンの目が向いた先には巨大な棒火矢……地対地ロケットが組み上げられつつある。
 いくつものパーツに分解して持ち運びを容易にさせたそれは、いったん組みあがるとおよそ六メートルになんなんとする巨大なものであった。
 これを製作した技術者は本当はこの倍以上の棒火矢を作りたかったらしいが。


「むむむっ! 来た! 来たぞ! 我が灰色の脳細胞に天啓が来たぞ!」
「先生……またろくでもないこと考えついたのかい?」
「たった一回発射薬で飛ばそうとするから強度が不足するのじゃ! ならばムカデのように装薬を分散して加速してやることが出来たならば無駄なく推力を加速できるはず!」
 恐るべしウルバン。
 その発想は第一世界大戦でドイツがパリ攻撃のために開発した多薬室砲、通称パリ砲を先取するものである。
「もういい加減に大砲の均一化と弾道の安定に取り組みましょうよ………温厚なワラキア公もしまいには怒りますよ?」
「くくっ……このアイデアの素晴らしさが理解できんとは………天才は孤独なものだな」

 そんなことを開発者が呟いていると知る由もないウズン・ハサンは不敵に嗤った。
 まあ、いい。この棒火矢などなくとも戦に勝つ算段は十分だ。
 ジャハーン・シャーの命させ奪えば勝利は決まる。
 白羊朝二万名の戦士たちはそのひとりひとりが、ジャハーン・シャーへ向けられた刺客なのだった。

 両者の火蓋は、棒火矢の一斉射撃から始まった。
「あの空飛ぶ筒はなんだ?」
 炎とともに飛来する六メートル以上の物体は、それだけで畏怖と恐怖を呼び起こすに足りるものだ。
 ウルバンの鉄塔と後に呼ばれる棒火矢は、着弾するやその巨大な姿に見あった破壊を黒羊朝の陣内に撒き散らした。
 全体として与えられた人的被害はごくわずかなものでしかないが、その焼夷効果と心理的衝撃に陣形が乱れるのは避けられなかった。
 こんな攻撃を体験した者など一人としていないのだから。
「突撃!」
 白羊朝の騎兵部隊が、一斉に一筋の奔流となって黒羊朝の陣営へと襲いかかったのはまさにそのときであった。
「くそ、出遅れたか! 押し包め!」
 ジャハーン・シャーはロケットの奇襲に浮き足だつ配下の兵に苦りきった顔をしながらも、まだ冷静さを失ってはいなかった。
 騎兵という兵種はなんといっても機動力が命であり、それを失った騎兵など歩兵にも劣るものでしかない。
 そうであるならば圧倒的な兵力差を利用して全方位的に白羊騎兵を拘束し、機動の余地をなくしてしまうべきであった。
 実のところ騎兵はそれほど集団戦にむいた兵種ではない。
 機動力と衝力にものをいわせて歩兵を蹂躙する場合はともかく、騎兵対騎兵の戦いがほぼ乱戦になってしまうのは、騎兵が馬という他生物を操り近接武器を主武装としている以上、どうしようもないものなのだった。
 乱戦になればあとは数が物を言う。
 そうだ、何も変わりはしない。ここでお前が敗れることも、全ては当たり前のことが当たり前におきるだけのことだ、とジャハーン・シャーは信じた。
 ところが騎兵と騎兵同士がぶつかり合い、乱戦の巷に押しつぶされるかに見えた白羊朝の軍だが、驚くべきことに正面の騎兵をあっという間に突破して前進を継続していた。
「何故だ? 何故止まらぬ?」
 ウズン・ハサンが鍛え上げた騎兵部隊の練度は中央アジアでも最高に近い。
 しかし、黒羊朝とてそれは同様である。
 練度に際立った差がなければ、兵数差は絶対的な意味を持つはずではないか。
 だがジャハーン・シャーにとって予想外なことに、両騎兵の死命を制したのは練度の差ではなく、火器の差であったのである。
 馬は元来臆病な性質の生き物であり、それは戦に鍛え上げられた軍馬であろうとも例外ではない。
 鋭敏なその耳に轟音を聞かされて驚かぬ馬はいないのだ。
 戦場でこれほどの銃声を聞いた馬は黒羊朝にはいない。
 銃声に慣れさせるための訓練を積んだ白羊朝の軍馬だけが特別であった。
 火力戦が浸透した東欧の諸国とは違い、中央アジアでは騎兵による奇襲と乱戦がまだまだ戦の主流を占めていた。
 火力といえばせいぜい攻城に用いるもののなかに大砲がある、と言う程度の認識にすぎない。
 攻城戦になればともかく、野戦で火器を運用することなど、とりわけ騎兵戦では考えてもいないのが現状だった。
 野戦のなかで使用された経験がない以上、黒羊朝の騎兵部隊に為すすべのあろうはずがなかった。
「留まるな! ジャハーン・シャーの首を獲るまで止まってはならぬ!」
 剽悍な白羊朝騎兵のなかにあって青と白の戦衣を身にまとった一団が、奔馬をなだめるのに忙しい黒羊朝軍の隙間を風のように駆け抜けていく。
 ウズン・ハサンの直衛軍である。
 その俊敏な機動と、一切銃にも手をかけぬ統率ぶりは他の追随を許さない。
 慌てて追いすがろうとする黒羊軍の前に、ピストルを構えた白羊軍が立ちふさがっていた。
 乱戦のなかにあってはピストル騎兵は無類の力を発揮する。
 装填時間を稼ぐために訓練した相互支援も万全だ。
 なまじ白羊朝を包囲しようとしたことが裏目に出ていた。
 本陣までの壁となるべき兵力が薄い。

「――――これまでか」
 冷静に戦況を分析したジャハーン・シャーは、勝てぬとみるや恥じも外聞もなく逃走を選択した。
 逃げながらジャハーン・シャーは思考を巡らせる。
 正直甘く見ていた。
 火器の威力も、ウズン・ハサンの器量も。
 しかし生きているかぎり何度でも再戦を挑むことは出来る。
 部下も精鋭も誇りも、何もかも投げ捨てて瞬時に逃走を選択できることもまた、ウズン・ハサンとジャハーン・シャーの間にある経験の差であるのかもしれなかった。
 逃走するジャハーン・シャーに気づいたウズン・ハサンであったが追撃は不可能だった。
 すでにジャハーン・シャーとその親衛隊との距離は開いており、追撃中に日没を迎えることは確実であった、何より兵たちが疲弊しきっていた。
 己に倍する敵と戦ったのだ。
 体力以上に精神力が消耗してしまっていた。
 ここにいたるまでの強行軍の疲れ影響も隠せない。
「…………まあ、いい。次に会うときこそ貴様の首を父の墓前に供えてくれる」
 タブリーズに逃げ帰ったジャハーン・シャーは、ティムールとの同盟構築を急ぐとともに、火器の援助をオスマンに要請した。
 もはや火器の支援なしにウズン・ハサンに対抗することは難しい。
 幸いアブーサイードもこれ以上の白羊朝の伸長を好ましく思ってはいないようである。
 ここはティムールと手を組んで白羊朝を抑えこむ体制を整えるのだ。
 まだまだ政治外交の術策において、ジャハーン・シャーの手腕はウズン・ハサンを大きく上回っていた。
 もっともそれをウズン・ハサンが聞いたところで嘲笑うだけであったろう。
 彼にとって同盟国とは、彼が敵にまわしたくないと見定めたものだけであるからだ。
 たとえばワラキア公ヴラドがそうであるように…………。
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