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第九十七話 不死の兵団

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 予想外の事態に困惑していたのはワラキア陣営ばかりではない。
 海岸陣地の救援と再構築のために予定していた野戦陣地での迎撃という戦略が崩壊し、兵団を分散配置していたことで兵力の逐次投入という戦術的な瑕疵がある以上、ワラキア優位の戦局は折込済みであるはずだった。
 いささかスルタンの気負い過ぎのきらいはあるものの、メムノンとしても出戦に否やはなかった。
 噂に聞くワラキアの工兵部隊の能力をもってすれば、時間を与えてしまうと恐るべき防御陣地を構築してしまう可能性があったからだ。
 だがしかし……………
「いったい何なのだ? この損害は?」
 このわずか半日足らずの戦闘で失われた人命はメムノンの予想を大きく上回っていた。
 いかに激しい戦場とはいえここまで容易く人は死ぬものであったろうか?
 失われた二つの兵団の死傷率はほぼ三割に達しようとしている。
 これは組織運営上全滅に等しいものだ。
 兵団が再び軍事組織としての能力を取り戻すためには、一旦離脱して指揮系統の再編作業が絶対に必要であった。
 それのない残存兵はただの烏合の衆にすぎない。
 稀にこういった烏合の衆を一瞬にしてまとめてしまう英雄が現れることがあるが、現在のところそうしたカリスマ的英雄はオスマンの軍中には存在しないのである。
「………厄介なことになる、な…………」
 あまりにも大きすぎる損害はオスマンの覇権を数年先延ばしにしてしまうかもしれない。
 しかしヴラドの首はそれを補って余りあるものだ。
 先ほどから手榴弾の炸裂音がないことにメムノンは気づいていた。
 計画は大筋で順調に推移している。
 それにオスマンにはワラキア軍にない切り札が存在するのだ。
 メムノンの見るところ切り札の投入時期はそれほど遠くないはずであった。


 一方、メフメト二世はメムノンほどに戦況に淡白ではいられなかった。
 彼の内心には抑えがたい偉業への渇望がある。
 この戦いでワラキアとコンスタンティノポリスの双方に勝利を収め、やがては欧州とアジアの支配者たることこそメフメト二世の尽きせぬ野望であった。
 戦の得手とはいえぬメフメト二世の目にも、ワラキア軍が着実に敗北へと近づいているのは確実だった。
 第三の兵団の投入時からワラキア軍は戦線を一キロ以上に渡って押し戻されている。
 それでもどうにか戦線を維持していられるのは、あのゲクランとかいう前線指揮官の手腕と、ワラキア公の右腕といわれるベルドの予備兵力の支援があればこそであった。
 このまま戦闘を継続しても勝利は疑いないだろうが、メフメト二世には一抹の不安がある。
 太陽が西に傾き始めていたのだ。
 この時代に夜間追撃を正確に行える能力はまだない。
 北方の山岳までそれほどの距離もなく、そんな場所でワラキア軍を追撃するようなことになればなまじ大軍であることが仇となってしまうだろう。
 とはいえ、せっかくここまで消耗させたワラキア軍に休息を与えてしまうのは、軍事的にもメフメト二世の心理的にも許容できることではなかった。
「そろそろ決着の時だとは思わないかね? 先生(ラーラ)よ」
 メムノンは莞爾として頷いた。とうとう待ち望んだその時がやってこようとしていた。
「スルタンの御心のままに」
 さあ、ヴラドよ、堪能してくれ。
 私が手塩にかけ、生涯の知識の全てをつぎ込んだ恍惚の兵士たちを!
 元来より学者であったメムノンの調合した麻薬によって恐怖と痛覚を限りなく麻痺させられた漆黒の兵士たちは、猛りもなく、喜びもなく、ただ沈黙とともにワラキア公国軍へと進軍を開始した。


 ゲクランは目の前のオスマン軍が退却にかかっていくのを軽い驚きとともに見つめていた。
 押されていたとはいえ、第三の兵団はいまだ余力を残していたはずであり、組織的な退却が許されるとも思えなかったのだ。
「いかんな…………なにかあるぞ、こりゃあ…………」
 はたして入れ替わるように前進を開始した兵団をゲクランの瞳が捉えた。
 一瞬意外な光景にゲクランほどのものが虚を衝かれた。
 進み出た兵団とは、漆黒の鎧に漆黒の旗を携えた、悪名高い督戦隊であったのである。

「例の物は準備できているか?」
 俺の目にも督戦隊が進んでくるのが映っていた。
 心に錐を穿たれたような痛みを覚えずにはいられないのが、俺の甘さなのだろうか?
 まさかこの期に及んでまだラドゥと戦いたくないとは情ない話であった。
「ゲクラン殿があの丘の下まで退いてくればいつなりと」
「……残る火炎瓶をありったけ投擲しろ! あの死神どもを押し戻して一気にゲクランを退かせるのだ」
 俺が作戦の指示を出すのとラドゥ率いる督戦隊の突撃は奇しくも同時であった。
 その数五千に満たないとはいえ、漆黒の兵士がしわぶきひとつ立てぬままに突撃する様は、見るものに不吉な予感を与えずにはおかなかった。
 火炎瓶の投擲により前方には少なからぬ炎の結界が張られた。
 行動の自由を失った彼らの停滞を狙い打つ、というゲクランの目論見は軍事的にいって全く妥当なものだ。
 だが、督戦隊の者たちはゲクランの想像を遥かに超えたところにいた。
「アラーに栄光あれ!」
 炎に向っていささかも歩調を緩めることなく突撃した彼らにさすがのゲクランも目を疑った。
 炎に対する恐怖心は生理的なものであり、いかに士気の高い軍隊であっても炎に生身で飛び込むような真似はできない。
 もしできるものがあるとすれば、それは真っ当な人間ではありえなかった。
「撃て!」
 有効射程ぎりぎりだが構っている余裕はない。
 敵の中には生きながら蝋燭のように炎を纏ったままで突撃してくるものもいる。
 近接されるまでに出来うる限り漸減しなければ………いや、あのような者たちを銃撃などで本当に漸減できるものなのか?
 そもそも銃撃の命中率は低い。
 ライフリングが実用化されていない現在は特にそうだ。
 にもかかわらず銃撃が戦場で決定的な抑止力たる理由は、その轟音と確率可能性にあるのだった。
 仮に銃撃の命中率を三%と仮定しても十回の斉射を受ければその中に自分が含まれる可能性は激増する。
 次は自分に命中するのではないか?
 次の次こそは命中するかもしれない。
 そんな可能性を待つ時間にこそ人は恐怖する。
 訓練とはその恐怖に耐えうる限界の底上げに他ならないのだ。
 そんな練度の高い部隊にしても限界を超える恐怖にさらされれば壊乱は免れない。
 もしも恐怖を完全に拭いさることが出来たなら、それは銃兵にとって最悪の相性であるはずだった。
「畜生! なんなんだよお前ら!」
 炎に包まれ、銃弾に貫かれながらも前進をやめない兵士たちの異常性が、逆にワラキア軍兵士を恐慌に陥れた。
「頭だ! 頭を狙え!」
 ゲクランの必死の指揮も一度起きた混乱を収集するにはいたらない。
 遂にワラキア公国軍は、常備軍設立以来初めて敵に中央突破を許したのだった。
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