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第九十三話 ボスフォラス海戦1
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「今だ! アナドル・ヒサルに全砲門を向けろ!」
キャラベル船を主軸としたジェノバ艦隊が、機敏な機動で小アジア側の砲台群に砲列を向ける。
もともと陸上砲台と艦砲では陸上砲台が有利という原則があり、それが変わるのには二十世紀の超弩級戦艦の登場を待たなければならない。
しかし数と腕で海上戦力側が大きく上回っている場合はその限りではないはずだった。
黒海の覇者ジェノバの名が伊達でないことを、黒海艦隊司令官ボロディーノは実力をもって証明した。
「撃て!」
一斉に放たれた砲弾が、アナドル・ヒサルの各所に着弾すると盛大に爆発が発生する。
榴弾の爆発が起きたのであった。
残念ながら精度の高い着発信管が実用化できない以上、昔ながらの導火線式を使うほかはないが、その調整さえうまくいけば効果のほどは計り知れない。
機敏なジェノバ艦に追随するように、ワラキア海軍の各艦もまた砲撃の火ぶたを切った。
先頭を行くジェノバ船より一回り大きなキャラベル型の大型艦は、ワラキアが艦隊旗艦用に建造したルーマニア級であり、片舷に積載した十門の砲門を開いてひときわ激しい弾幕を見せつけていた。
対するアナドル・ヒサルからの反撃はひどく散発的なものとなった。
電撃的に対岸の砲陣地が無力化されたことにより、もしかすると小アジア側からも奇襲攻撃があるのではないか? という疑心を晴らすことができなかったためである。
背後を気にしてまともに戦えるわけがない。
指揮統制を回復しようにも手数も威力も艦隊側が有利で、城塞の各所に雨あられと砲弾が降り注ぐ現状では不可能に等しかった。
「うろたえるな! アナドル・ヒサルは落ちはせぬ!」
守将ケマルは声のかぎりに叫んだが、その効果は付近のわずかな手勢を鼓舞するのみにとどまっていた。
もとより要塞としてのアナドル・ヒサルの防御力は、本格的な西洋城塞に比べて著しく劣るのである。
それは兵力において圧倒するオスマン領内に、大軍勢による侵攻が不可能であると考えられていたことが大きかった。
もともとアナドル・ヒサルは、ただボスフォラス海峡に睨みを利かせているだけで良い存在だったのだ。
もしもケマルにいつもの冷静さがあれば、艦隊の攻撃が砲台のみに集中していることに気付いただろう。
敵の目的が占領ではなく、アナドル・ヒサルの一時的な無力化にあることがわかれば、戦力温存の手段はあったのだ。
だが、対岸の占領で危機感を煽られたケマルにその状況を見抜く余裕はない。
なんとなれば、ほとんどの戦力をコンスタンティノポリスに集中したオスマンにとって、小アジアに残された戦力はそのほとんどが輜重部隊ばかりなのである。
一部将にすぎぬケマルが、アナドル・ヒサルの死守に思考のすべてを傾注させたとしても無理からぬことというほかはないのだった。
「撃ち返せ! 相手は一発当たれば沈むほかない船なのだぞ!」
これまで軽快に航行してきたジェノバの戦艦が直撃を受け、頭から波間に突っ込むようにして急速に沈んでいくのを見てケマルと幕僚たちは思わず歓声をあげた。
しかし全体として火力の差は覆しがたく、次々と味方の砲声が沈黙していくのをケマルは暗澹とした思いで認めるほかはなかった。
「……………スルタンからの援軍はまだか………?」
反撃の力が失われた今、救いはほんの十キほどロ先にいるはずの、コンスタンティノポリス包囲軍を頼る以外に道はない。
それまでたとえ身体は死しても、アナドル・ヒサルを守り抜く悲愴な覚悟をケマルは心に固めていた
ちょうどそのころ、コンスタンティノポリスの攻防はひとつの頂点を迎えようとしていた。
間断のない射撃、後から後から湧いて出るがごとき歩兵の波状攻撃の前に、さすがの傭兵巧者ヴァニエールも集中力を欠き始めていたのである。
弩兵の位置を割りだし、砲撃によってそれをまとめて粉砕しようとヴァニエールが指揮棒を振り上げたそのとき事件は起きた。
的確で隙のない指揮を執るヴァニエールは、ここ数日にわたってオスマン狙撃兵部隊の最重点目標であった。
移動を繰り返し、遮蔽物をうまく利用することによって難を逃れてきたヴァニエールに、とうとう凶刃の矢が突き立ったのである。
「ちぃっ!……………オレとしたことが」
ヴァニエールは己のミスを嗤った。
最初から狙撃兵がいる場所は掴んでいた。
戦場を見渡すヴァニエールの眼力はまだいささかも衰えてはいない。
しかし一瞬注意を払うのを忘れ、結果的に狙撃を受けてしまっては何の意味もないではないか。
矢の一本はヴァニエールの左足の膝下からふくらはぎを貫いている。
もう一本は脇腹に深々と突き立っていた。
鮮血が噴き出る様子から見るに、足のほうはどうやら動脈を傷つけているかもしれない。
どちらも早急な手当を必要としていることは明白であった。
「隊長、ここは任せて下がってください」
「一時やそこらオレらがもたして見せまさあ!」
「あっしらはあの黒太子とやりあった 黒珊瑚団 ですぜ!」
歴戦の傭兵仲間が口々にヴァニエールの戦線離脱を促していた。
それほどにヴァニエールの傷は深いのだ。
そんなことはヴァニエール自身が一番よくわかっていた。そして、指揮官の負傷を知ったオスマン軍がより一層の苛烈な攻撃を仕掛けてくるであろうことも。
仲間のことは信頼しているが、ヴァニエールに任せられた戦力が傭兵仲間のみでないことを考えれば今戦線離脱などするわけにはいかなかった。
「はっ! この程度の傷が怖くて漢が張れるかよっ!」
手早く止血を済ませつつ、ヴァニエールは砲撃の指示を下した。
そして一斉に放たれた複数の砲弾は、これまで狙撃兵部隊のいた大地に赤黒い染みを吸わせることに成功したのだった。
無論このまま死ぬ気など微塵もない。傭兵たる者、常に生き延びる可能性は考え続けている。
だが今は己の意地と皇帝の信に応えるため、目の前の敵と戦うべきであった。
「あまり待たせすぎると、舞台が終わっちまうぜ、ヴラドさんよ!」
おそらく自分が指揮を執れるのは、この波状攻撃をしのぐまでのわずかな間にすぎない。
だが代りを探そうにも、矢玉に身を晒しながら指揮を執れる人間はごくわずかである。
皇帝にしろ宰相にしろ、最前線で活動できるような才覚も経験もないのだから。
現実主義的なヴァニエールの観測からしてあと一日が、このコンスタンティノポリスを巡る攻防の山場になりそうであった。
キャラベル船を主軸としたジェノバ艦隊が、機敏な機動で小アジア側の砲台群に砲列を向ける。
もともと陸上砲台と艦砲では陸上砲台が有利という原則があり、それが変わるのには二十世紀の超弩級戦艦の登場を待たなければならない。
しかし数と腕で海上戦力側が大きく上回っている場合はその限りではないはずだった。
黒海の覇者ジェノバの名が伊達でないことを、黒海艦隊司令官ボロディーノは実力をもって証明した。
「撃て!」
一斉に放たれた砲弾が、アナドル・ヒサルの各所に着弾すると盛大に爆発が発生する。
榴弾の爆発が起きたのであった。
残念ながら精度の高い着発信管が実用化できない以上、昔ながらの導火線式を使うほかはないが、その調整さえうまくいけば効果のほどは計り知れない。
機敏なジェノバ艦に追随するように、ワラキア海軍の各艦もまた砲撃の火ぶたを切った。
先頭を行くジェノバ船より一回り大きなキャラベル型の大型艦は、ワラキアが艦隊旗艦用に建造したルーマニア級であり、片舷に積載した十門の砲門を開いてひときわ激しい弾幕を見せつけていた。
対するアナドル・ヒサルからの反撃はひどく散発的なものとなった。
電撃的に対岸の砲陣地が無力化されたことにより、もしかすると小アジア側からも奇襲攻撃があるのではないか? という疑心を晴らすことができなかったためである。
背後を気にしてまともに戦えるわけがない。
指揮統制を回復しようにも手数も威力も艦隊側が有利で、城塞の各所に雨あられと砲弾が降り注ぐ現状では不可能に等しかった。
「うろたえるな! アナドル・ヒサルは落ちはせぬ!」
守将ケマルは声のかぎりに叫んだが、その効果は付近のわずかな手勢を鼓舞するのみにとどまっていた。
もとより要塞としてのアナドル・ヒサルの防御力は、本格的な西洋城塞に比べて著しく劣るのである。
それは兵力において圧倒するオスマン領内に、大軍勢による侵攻が不可能であると考えられていたことが大きかった。
もともとアナドル・ヒサルは、ただボスフォラス海峡に睨みを利かせているだけで良い存在だったのだ。
もしもケマルにいつもの冷静さがあれば、艦隊の攻撃が砲台のみに集中していることに気付いただろう。
敵の目的が占領ではなく、アナドル・ヒサルの一時的な無力化にあることがわかれば、戦力温存の手段はあったのだ。
だが、対岸の占領で危機感を煽られたケマルにその状況を見抜く余裕はない。
なんとなれば、ほとんどの戦力をコンスタンティノポリスに集中したオスマンにとって、小アジアに残された戦力はそのほとんどが輜重部隊ばかりなのである。
一部将にすぎぬケマルが、アナドル・ヒサルの死守に思考のすべてを傾注させたとしても無理からぬことというほかはないのだった。
「撃ち返せ! 相手は一発当たれば沈むほかない船なのだぞ!」
これまで軽快に航行してきたジェノバの戦艦が直撃を受け、頭から波間に突っ込むようにして急速に沈んでいくのを見てケマルと幕僚たちは思わず歓声をあげた。
しかし全体として火力の差は覆しがたく、次々と味方の砲声が沈黙していくのをケマルは暗澹とした思いで認めるほかはなかった。
「……………スルタンからの援軍はまだか………?」
反撃の力が失われた今、救いはほんの十キほどロ先にいるはずの、コンスタンティノポリス包囲軍を頼る以外に道はない。
それまでたとえ身体は死しても、アナドル・ヒサルを守り抜く悲愴な覚悟をケマルは心に固めていた
ちょうどそのころ、コンスタンティノポリスの攻防はひとつの頂点を迎えようとしていた。
間断のない射撃、後から後から湧いて出るがごとき歩兵の波状攻撃の前に、さすがの傭兵巧者ヴァニエールも集中力を欠き始めていたのである。
弩兵の位置を割りだし、砲撃によってそれをまとめて粉砕しようとヴァニエールが指揮棒を振り上げたそのとき事件は起きた。
的確で隙のない指揮を執るヴァニエールは、ここ数日にわたってオスマン狙撃兵部隊の最重点目標であった。
移動を繰り返し、遮蔽物をうまく利用することによって難を逃れてきたヴァニエールに、とうとう凶刃の矢が突き立ったのである。
「ちぃっ!……………オレとしたことが」
ヴァニエールは己のミスを嗤った。
最初から狙撃兵がいる場所は掴んでいた。
戦場を見渡すヴァニエールの眼力はまだいささかも衰えてはいない。
しかし一瞬注意を払うのを忘れ、結果的に狙撃を受けてしまっては何の意味もないではないか。
矢の一本はヴァニエールの左足の膝下からふくらはぎを貫いている。
もう一本は脇腹に深々と突き立っていた。
鮮血が噴き出る様子から見るに、足のほうはどうやら動脈を傷つけているかもしれない。
どちらも早急な手当を必要としていることは明白であった。
「隊長、ここは任せて下がってください」
「一時やそこらオレらがもたして見せまさあ!」
「あっしらはあの黒太子とやりあった 黒珊瑚団 ですぜ!」
歴戦の傭兵仲間が口々にヴァニエールの戦線離脱を促していた。
それほどにヴァニエールの傷は深いのだ。
そんなことはヴァニエール自身が一番よくわかっていた。そして、指揮官の負傷を知ったオスマン軍がより一層の苛烈な攻撃を仕掛けてくるであろうことも。
仲間のことは信頼しているが、ヴァニエールに任せられた戦力が傭兵仲間のみでないことを考えれば今戦線離脱などするわけにはいかなかった。
「はっ! この程度の傷が怖くて漢が張れるかよっ!」
手早く止血を済ませつつ、ヴァニエールは砲撃の指示を下した。
そして一斉に放たれた複数の砲弾は、これまで狙撃兵部隊のいた大地に赤黒い染みを吸わせることに成功したのだった。
無論このまま死ぬ気など微塵もない。傭兵たる者、常に生き延びる可能性は考え続けている。
だが今は己の意地と皇帝の信に応えるため、目の前の敵と戦うべきであった。
「あまり待たせすぎると、舞台が終わっちまうぜ、ヴラドさんよ!」
おそらく自分が指揮を執れるのは、この波状攻撃をしのぐまでのわずかな間にすぎない。
だが代りを探そうにも、矢玉に身を晒しながら指揮を執れる人間はごくわずかである。
皇帝にしろ宰相にしろ、最前線で活動できるような才覚も経験もないのだから。
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