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第七十九話 ムラト二世の崩御

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「殿下、 アドリアノーポリに派遣している間者から連絡です」
 使者の表情を見た瞬間に俺は恐れていた事態が現実となったことを覚悟した。
「さる二月八日、酒席で人事不省に陥ったムラト二世はその日のうちに典医メムノンに看取られながら逝去いたしました。後継はメフメト二世で、兄弟はすでに全て粛清された模様です。また宰相カリル・パシャも粛清されました」
「カリル・パシャが?」
 大宰相カリル・パシャが粛清された?
 おかしい、史実ではカリル・パシャが粛清されるのは、コンスタンティノポリスの陥落後であったはずだ。
 史実となにが変わった? あの老練な宰相がいらないと判断された理由はなんなのだ?
「新たに宰相に就任したのはメムノン・パシャ…………殿下の恩師です」
「くそっ、あの爺いか、余計な真似をしやがったのは」
 メフメト二世に協力しているらしいことはわかっていたが、むしろ積極的なのはメムノンのほうであったらしい。
 ラドゥを引き入れたのも、当初からのメムノンの計画だろう。
 人畜無害な学者然とした面しやがって、とんだ誤算だ。
 単純にメフメト二世を敵に回すよりも厄介そうな敵の出現に、先ほどから冷や汗が止まらない。
 あの二人が即位とともに帝国を掌握すれば、真っ先に狙われるのは我がワラキアであるはずだった。

1451年2月、史実どおりメフメト二世が即位した。
 宿命の舞台の幕が上がり、かくて役者は揃ったのであった。
「始まりましたな…………」
 数万の歓呼の声を眼下に聞きながら、メフメト二世は満足げに胸を反らした。
「ああ、余の歴史の始まりだ……もはや誰にも邪魔立てはさせぬ」
 オスマン帝国新スルタン、メフメト二世の親政はまず粛清の嵐から始まった。
 まずイェニチェリ軍団を創設した大宰相カリル・パシャとその一族が族滅され、さらにカリル・パシャとは盟友関係にあったイザク・パシャもまた族滅の憂き目を見たのである。
 文武の両雄が粛清されたことで、帝国は動揺したものの新宰相メムノン・パシャは黒羊朝の皇女とスルタンの結婚を発表することで一時的な鎮静に成功していた。
 黒羊朝は現代のアゼルバイジャンからイラン高原付近に割拠した遊牧民国家である。
 先年から弱体化してきたティムール朝を連破して勢力圏を拡大しており、アスマン帝国としては頼もしい同盟国となりえた。
 黒羊朝としてもティムール朝の混乱に乗じて、ジャハーン・シャーのもと着々と領土を広げている途上にあり、オスマン帝国との軍事的緊張の緩和は渡りに船であったのだ。
 ワラキアも同じく黒羊朝の支援にあたってはいたのだが、さすがに最新武器を供給するわけにもいかず、相互の利益差分が明暗を分けた形となった。
 さらに続けてオスマン帝国はブルジーマムルーク朝のザーヒル・ジャクマクとも修好し、彼の野望であるロードス島遠征を後押しすることで、同盟を締結することに成功する。
 この一連の外交成果は、メムノンが長い年月の間に研究のため各国を渡り歩いて築いた人脈が大いに貢献していた。
 ペストの流行以来国威が疲弊しているとはいえ、マムルーク朝は南地中海の雄であり、わけても肝心なことはアレクサンドリアに貿易拠点を置くヴェネツィアに対して牽制ができるということである。
 ヴェネツィア共和国は実のところ、コンスタンティノポリスからオリエント貿易の拠点をアレクサンドリアに移しており、これを失うことは地中海貿易でしのぎを削るライバルたちに対して著しく劣勢にたつことにほかならなかった。

「そろそろヴェネツィアに不可侵条約を申し入れよ」
「あの男の慌てふためく顔が目に浮かぶようだの、先生(ラーラ)」

 さすがにこれにはワラキアも静観することはできなかった。
 すぐさま元老院に使者をおくり、地中海の未来のためにも目先の利益に惑わされオスマンと手を結ぶべきではないことを説く。
 マムルーク朝とオスマン朝が手を結んだ後の東地中海の勢力図についての危険性も。
 しかしオスマンと戦中というわけではない以上、ヴェネツィアにとってアレクサンドリアの確保の優先は当然でもある。
 ましてオスマンは危険な相手とはいえ、ワラキアと並ぶ貿易相手国でもあった。
 その結果ヴェネツィアはオスマンとの間に、限定的ながら不可侵条約を結ぶことにしぶしぶ同意することとなった。
 ワラキアの面子を立てるため、オスマンが今後ヴェネツィアの国益を損なう行動を取ったときには条約は破棄される旨の但し書きがつけられているが、戦闘予備行動が掣肘されるのは避けられない。
 開幕からワラキアの外交は、メムノンの巧妙な交渉術の前に敗退を続けていた。

「やってくれるぜ」

 カリル・パシャを粛清したと聞いたときにはメフメト二世はその激情に物を言わせて、すぐにも攻めかかってくるのではないかと心配していたが、まさかこうも搦め手を固めてくるとは思わなかった。
 これでオスマン帝国は心置きなく全軍を集中させることができる。
 おそらくは目標はコンスタンティノポリスにであろうが………あるいは一気にブカレストという選択肢もないではない。
 メフメト二世の即位式典に参加するよう要請がきたがこれは断る以外に方法がなかった。
 現に亡き父ヴラド二世は、オスマンに訪問中捕らえられて虜囚の身になっているのだ。
 ヴラドが拘束されてしまえば、その瞬間にワラキアは終わるのだから、そんな危険は犯せない。
 祝い品を持たせて使者を派遣はしたが、内心は見透かされているだろう。
 ワラキアは心底からオスマンに従ってはいないということを。
 それにしてもこれほどのオスマンの外交攻勢は予想外だった。
 長年の根回しが力技でひっくり返された気分である。
 いまだオスマンの外交攻勢は留まることを知らず、ポーランド王国にも不可侵条約締結を打診しているという。
 こちらもカリル・パシャの親派だった貴族に調略を仕掛けているが、疑わしきは殺すという恐怖政治がまかりとおるだけに、成果をあげるのは難しかった。
 もっともカリル・パシャとイザク・パシャを粛清したことでイェニチェリ軍団の士気に低下が見られるという有難い情報もある。
 もともとイェニチェリ軍団は独立心の高い集団であり、長年オスマン朝を支えてきた両雄を殺されては、流石に意趣を覚えずにはいられないらしい。
 この間隙に離間を進めるつもりではあるがどうなるものか。
 しかしこれほどの粛清にも関わらず、オスマンの誇る官僚組織がほとんど機能を失わなかったのが最大の誤算だった。
 思い返せばメムノンは、有望な異教徒の子弟に対する教師を長年勤めていた。
 そのなかにはイスラム教に改宗し、今では優秀な官僚として現場で活躍しているものも少なくなかったのだ。
 オスマンのエリート層にメムノンが一定の影響力があるのは当然の帰結なのである。
「こうなると、頼みはアルバニアとジェノバのみになるやも知れませぬ」
 ベルドの声もいつもの張りを失っていた。
 ヴェネツィアの政治工作に失敗してから、どうも気に病むことが多くなっているようだ。
「………教皇庁も動きそうにないか?」
「またぞろ東西合同に未練がありますようで………」
 フィレンツェと関係を結んだことにより、教皇庁との和解に向けた話し合いが水面下で進んでいたのだが、ワラキア健在なかぎり東西教会が合同することはできないという意見が多数派を占めているらしい。
 ハンガリー王国を滅ぼして棺桶に片足をつっこんだ正教会を復興させ、教皇の面目丸つぶれにしたからしょうがないのかもしれない。
 しかしオスマンとワラキアのどちらが危険な相手かくらいは察して欲しいものだ。
 もっとも明るい材料もないわけではない。
 まずボヘミアのイジー・ポシュブラトゥとの間で、正式な相互同盟条約を結ぶことに成功している。
 条件は互いの信仰の尊重と、神聖ローマ帝国やドイツ諸侯およびオスマン朝に対抗するための軍事支援の遵守。
 これによりボヘミアの優秀な職工たちが使用可能になった。
 長年フス戦争の武器供給を担ってきた彼らの製作技術は、ワラキアにとってもおおいに有益なものとなるだろう。
 それについ先日ハンガリーにおいて小規模な貴族の反乱が発生したが、これが見事な失敗に終わっていた。
 反乱した貴族は、それなりに大領をもった有力貴族であったのだが、まず軍勢の動員からして失敗している。
 カントン制度の導入により、国民は貴族の無法な徴兵から解放されていたので、一族郎党以外思うように兵が集まらなかったのだ。
 仕方なく近在の貴族に支援を求めたのだが、支援の貴族が集まるより早く住民からの通報を受けた常備軍に殲滅されてしまっていた。
 この事件は国内における貴族の戦力の衰退を確たるものとした。
 カントン制度の浸透は、いずれ国民皆兵へと発展し、貴族から動員兵力を奪うだろう。
 国民の間で大公>貴族>国民という不等式が成立し、領主たる貴族に盲目的に従うばかりでないことも明らかになった。
 そして情報伝達力において貴族が伝令しか手段をもたないのに対し、ワラキア公は諜報員、腕木通信、狼煙などの手段によって常備軍を速やかに派遣することができた。
 もはや武力においてワラキア公に抗すべくもないことが衆目の前で明らかとなったのだ。
 この事実が示すところは大きい。
 ようやくにして貴族の影響力を廃した近代国家の片鱗が、その姿を現した証左であるからだ。
 今後は貴族も官僚組織内での出世によってその名誉を購うようになっていくだろう。
 少なくとも国内で武力反抗に及ぶ貴族はほぼあらわれまい。
 王権が強化されていくなかで、数々の大貴族が処分されていることもその理由のひとつである。
 彼らは国家憲兵の摘発を受け、あるいは展望もなく叛旗を翻して、この一年の間にその多くが自滅していった。
 隠忍自重して機会を待たれたら厄介な勢力になっていただけに、今回のように間抜けが勝手に激発してくれるのはありがたい。
 これによってハンガリー内の治安が格段に向上したので、久しぶりにトゥルゴヴィシテに帰還することができた。
 さらにドナウ河貿易の中継基地の名目で、数か月前からブカレストに城塞都市を築き始めている。
 ワラキア公国は北部と東部には天嶮があって、攻めるに難く守るに易いが南部にはドナウ河があるのみだ。
 だからこそ史実のヴラドは正面からの決戦を諦め、焦土戦術によって敵の疲労を待たなければならなかった。
 だが、オレはワラキアの国土を戦火に晒す気は毛頭ない。
 要塞と河川艦隊によってドナウ防御線を死守するつもりであった。
 とはいえカントン制度で新たに加入した国民兵が実戦に投入できる練度になるのはまだしばらく先のことであり、相変わらずワラキア軍の主力は常備軍の精鋭八千名のみであることに変わりはない。
 いまだ動かぬオスマンの動向に注視する以外に手がないのもまた冷厳な事実であった。
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