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第七十六話 賢者の嫉妬
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「先生(ラーラ)の言ったとおりあの男も弟には甘いのですな」
室内だというのに、趣味の悪い白面をかぶったメフメト二世は面白そうに嗤って言った。
冷酷非情、残酷無比をもってなるワラキアの串刺し公が、実は弟に目がないなどいった誰が考えるだろう。
これはメフメト二世にとって僥倖であったといっていい。
人質の公子から東欧随一の大国の主へと立身を遂げた英雄ワラキア公の、ほぼ間違えのない弱点を掴んだのだ。
「敵となるものには徹底的に非情になりますが、味方に対しては存外に甘い………それが良くも悪くもあの男の本質です。ハンガリー戦線を放り投げてヘレナ姫を助けに戻ったのがいい例でしょう。ラドゥ殿は私や陛下の命には逆らいますまいが、兄への思慕をなくしたわけではありません。あの男を躊躇させる材料には十分でしょうな」
ニコリともせずにそう呟いたのはメムノンであった。
「その甘さが、あの男の決定的な弱点となるよう手はずを整えなくてはなりません。信じた味方を見捨てられない……その甘さを衝くのです」
「具体的にどうするというのだ? 先生(ラーラ)よ」
「最終的には、あの男をコンスタンティノポリスへおびき出して殲滅します」
白面の奥で、メフメト二世が大いなる歓喜の笑みを浮かべているであろうことが気配でわかる。
それほどにメフメト二世はドラマティックな英雄譚に憧れを抱いているのだった。
「ああ、コンスタンティノポリス! 千年の栄華の都をあの男の墓所にするとは! なんたる快事!なんたる壮挙! 先生よ! 余はその日が待ち遠しいぞ!」
後世の歴史家は語るだろう。
東欧に現れた一代の英傑も、コンスタンティノポリスの新たなる支配者たるメフメト二世には遠く力量及ばなかった、と。
偉大なるアレキサンダー大王の名声を超えんとする少年にとって、メムノンの描く未来図はあまりに魅力に溢れていた。
ひとしきりその空想に酔ったメフメト二世は、ふと思いついたようにメムノンへと尋ねた。
「…………前から先生に聞きたかったことが二つある」
「なんなりと」
「先生はなぜ落ちぶれた余に味方してくれるのか? そしてどうしてあの男をそれほど敵視しているのか?」
メムノンは苦い笑みを浮かべて首を振った。
「私は学者として、いえ、人として失格なのでしょう。あの男に嫉妬しているのです」
「それはいかなる意味だ? わけがわからんぞ先生」
「陛下は西の最果てに巨大な大陸はあるという話をご存知か?」
突然の質問にいささか面食らいながらメフメト二世は答える。
「聞いたこともないな。アフリカよりも西という話か?」
「ええ、南の果てには大陸全てが氷で覆われた極寒の大陸があるのだと。そして南と北の星空は見え方が異なるとは?」
「なるほど先生は余も敬愛する物知りであられるが………それがいったいどうしたというのだ?」
「私がこの話を教えられたのは、当時わずか十四歳のヴラド公子からでした………」
メムノンの目がつらそうに細められた。
「月の光は厳密には月が光っているのではなく、太陽の光を反射しているにすぎないのだそうです。天空に輝く星々のなかには自ら輝くものと輝きを反射するだけのものがあるそうな」
未知の知識を得れば心が躍るのが学者という生き物のはずであった。
しかし老人と呼ぶに相応しい年齢となった今、若きヴラドから聞かされる未知の知識は、メムノンにとって毒にしかならなかった。
「私はそんな知識は知らない! このオスマン世界でもっとも天文学に詳しいと自負しているこの私が!
おそらくはあの男の知識が正しいのでしょう。私がもう少し若ければ、地に頭をこすり付けてでも恥も外聞もなく教えを乞うたかもしれません。だが今の私は認められなかった」
メムノンの年齢はすでに七十に届こうとしている。
とうにこの時代の平均寿命を超えていた。
「私が全生涯を賭けて研鑽した知識が、十四歳の若造に劣ることなど認めるわけにはいかない。どれほど卑小に見えようと、大人気ないと言われようと、それが私の偽らざる本音です」
本当は嫉妬していることすら認めたくはなかった。
自分がそんな小さい人間だと誰が素直に認められるだろう。
ヴラドが傀儡の君主のままいたならば、世迷言をほざく若造として生涯無視を貫いたかもしれなかった。
「では余に味方してくれる理由は?」
「ムラト二世陛下の進める融和政策では、あの男を私の生きているうちに仕留められるかわかりませんでしたゆえ」
悪びれもせずメムノンは答える。
現に今の時点でも、あの男に相当な力を蓄えさせてしまっていた。
あの男の危険さは、異端の知識の恐ろしさは、本当の意味においては自分にしかわかることができないのだ。
オスマン帝国最初の万能の人たる自分にしか。
「フフフ………よい、実に良いぞ、先生。人にはそれぞれ果たさなくてはならぬ大望がある。余とともに歴史に名を刻み、そしてあの男を歴史の表舞台から消し去ろう。それが余と先生の共通する願いなのだから。それに、なぜか余もあの男が憎いゆえな」
若さとカリスマと、何より強固な意志を所有する若き君主と、老練でオスマン最高の頭脳の持ち主でもあるメムノンが、お互いの野心を確かめ合い真の意味でパートナーとなった瞬間であった。
サガノス・パシャ以外に確たるブレーンを持たなかったメフメト二世が、メムノンの忠誠を得た意味は巨大なものである。
ヴラドに突きつけられた害意が明確な形をとるまで、残された時間はそれほど多くはなかった。
アルバニアへと帰還した娘の表情を見た瞬間、スカンデルベグことジョルジは何かを察したように破顔した。
「どうであった? 彼の御仁は?」
「まさに非常の人でございました、父上。彼の人はまるで我々の知らぬ第三の目をお持ちです」
「惚れたか?」
いたずらっぽい笑みを浮かべた遠慮のない父の視線に、さすがの女丈夫たるアンジェリーナも赤面を隠せなかった。
「あの方を想うと胸が騒ぎます……これが恋というものでしょうか………」
娘の恥じらう姿にジョルジは思わず目を見張った。
乙女らしい恥じらいをとうとう覚えさせることができなかった我が娘を、いったいどうしたらこれほど可憐にしてしまえるものか想像もできない。
「なるほど、まさしく恋というべきかな」
実のところジョルジにとって、アンジェリーナの安否だけが最後の懸案事項であった。
アルバニアの指揮官として最後の最後まで戦い抜く覚悟に変わりはないが、娘の幸せを願うことに関しては、スカンデルベグといえども普通の父親となんら変わるところがないのである。
東欧全てを見渡しても、娘を預けるに相応しい男といえばまずワラキア公あるのみだった。
他の国ではオスマンに攻め滅ぼされるか、尻尾をふるのが関の山であり、いずれアンジェリーナに不幸をもたらすのは確実である。
それより娘が惚れた相手を快く支援してやるのがよき父親というものであろう。
この際、是が非にも正室になどとは言わぬ。
アンジェリーナさえ幸せであるならば。
「なんとしてもワラキア公の心を掴むのだ、アンジェリーナよ。彼のような男こそ、わしも義息子と呼びたいでな」
「もしかしたらお祖父様と呼ばれるかもしれませぬが」
アンジェリーナの切り返しに思わず莞爾とした笑みが浮かぶ。
ワラキア公とアンジェリーナの子……つまりはジョルジにとって孫! もちったした紅葉のような手、無垢な天使の笑み――孫とはかくも特別なものか!。
自らの妄想に恍惚としながらジョルジは多幸感に身震いした。
「わしは孫の顔を見るまで絶対に死なんからな! オスマンどのなにするものぞ!」
いい感じに爺馬鹿になったアルバニアの英雄であった。
「必ずや吉報を」
決然としてアンジェリーナは父に誓う。
三日後にはワラキアにとんぼ返りすることが決定し、ヴラドの預かり知らぬところで勝手な未来絵図が描かれようとしていた。
「どうも嫌な予感がするな………」
「ヘレナ様もですか?」
「お主もか? 何やらあのお転婆の高笑いが聞こえたような気がしての」
「………これ以上側室が増えるのは得策とは思えませぬが」
「それに関してだけはお主に同感じゃ」
どうやら女たちの戦いも熾烈を極めようとしているようだ。
室内だというのに、趣味の悪い白面をかぶったメフメト二世は面白そうに嗤って言った。
冷酷非情、残酷無比をもってなるワラキアの串刺し公が、実は弟に目がないなどいった誰が考えるだろう。
これはメフメト二世にとって僥倖であったといっていい。
人質の公子から東欧随一の大国の主へと立身を遂げた英雄ワラキア公の、ほぼ間違えのない弱点を掴んだのだ。
「敵となるものには徹底的に非情になりますが、味方に対しては存外に甘い………それが良くも悪くもあの男の本質です。ハンガリー戦線を放り投げてヘレナ姫を助けに戻ったのがいい例でしょう。ラドゥ殿は私や陛下の命には逆らいますまいが、兄への思慕をなくしたわけではありません。あの男を躊躇させる材料には十分でしょうな」
ニコリともせずにそう呟いたのはメムノンであった。
「その甘さが、あの男の決定的な弱点となるよう手はずを整えなくてはなりません。信じた味方を見捨てられない……その甘さを衝くのです」
「具体的にどうするというのだ? 先生(ラーラ)よ」
「最終的には、あの男をコンスタンティノポリスへおびき出して殲滅します」
白面の奥で、メフメト二世が大いなる歓喜の笑みを浮かべているであろうことが気配でわかる。
それほどにメフメト二世はドラマティックな英雄譚に憧れを抱いているのだった。
「ああ、コンスタンティノポリス! 千年の栄華の都をあの男の墓所にするとは! なんたる快事!なんたる壮挙! 先生よ! 余はその日が待ち遠しいぞ!」
後世の歴史家は語るだろう。
東欧に現れた一代の英傑も、コンスタンティノポリスの新たなる支配者たるメフメト二世には遠く力量及ばなかった、と。
偉大なるアレキサンダー大王の名声を超えんとする少年にとって、メムノンの描く未来図はあまりに魅力に溢れていた。
ひとしきりその空想に酔ったメフメト二世は、ふと思いついたようにメムノンへと尋ねた。
「…………前から先生に聞きたかったことが二つある」
「なんなりと」
「先生はなぜ落ちぶれた余に味方してくれるのか? そしてどうしてあの男をそれほど敵視しているのか?」
メムノンは苦い笑みを浮かべて首を振った。
「私は学者として、いえ、人として失格なのでしょう。あの男に嫉妬しているのです」
「それはいかなる意味だ? わけがわからんぞ先生」
「陛下は西の最果てに巨大な大陸はあるという話をご存知か?」
突然の質問にいささか面食らいながらメフメト二世は答える。
「聞いたこともないな。アフリカよりも西という話か?」
「ええ、南の果てには大陸全てが氷で覆われた極寒の大陸があるのだと。そして南と北の星空は見え方が異なるとは?」
「なるほど先生は余も敬愛する物知りであられるが………それがいったいどうしたというのだ?」
「私がこの話を教えられたのは、当時わずか十四歳のヴラド公子からでした………」
メムノンの目がつらそうに細められた。
「月の光は厳密には月が光っているのではなく、太陽の光を反射しているにすぎないのだそうです。天空に輝く星々のなかには自ら輝くものと輝きを反射するだけのものがあるそうな」
未知の知識を得れば心が躍るのが学者という生き物のはずであった。
しかし老人と呼ぶに相応しい年齢となった今、若きヴラドから聞かされる未知の知識は、メムノンにとって毒にしかならなかった。
「私はそんな知識は知らない! このオスマン世界でもっとも天文学に詳しいと自負しているこの私が!
おそらくはあの男の知識が正しいのでしょう。私がもう少し若ければ、地に頭をこすり付けてでも恥も外聞もなく教えを乞うたかもしれません。だが今の私は認められなかった」
メムノンの年齢はすでに七十に届こうとしている。
とうにこの時代の平均寿命を超えていた。
「私が全生涯を賭けて研鑽した知識が、十四歳の若造に劣ることなど認めるわけにはいかない。どれほど卑小に見えようと、大人気ないと言われようと、それが私の偽らざる本音です」
本当は嫉妬していることすら認めたくはなかった。
自分がそんな小さい人間だと誰が素直に認められるだろう。
ヴラドが傀儡の君主のままいたならば、世迷言をほざく若造として生涯無視を貫いたかもしれなかった。
「では余に味方してくれる理由は?」
「ムラト二世陛下の進める融和政策では、あの男を私の生きているうちに仕留められるかわかりませんでしたゆえ」
悪びれもせずメムノンは答える。
現に今の時点でも、あの男に相当な力を蓄えさせてしまっていた。
あの男の危険さは、異端の知識の恐ろしさは、本当の意味においては自分にしかわかることができないのだ。
オスマン帝国最初の万能の人たる自分にしか。
「フフフ………よい、実に良いぞ、先生。人にはそれぞれ果たさなくてはならぬ大望がある。余とともに歴史に名を刻み、そしてあの男を歴史の表舞台から消し去ろう。それが余と先生の共通する願いなのだから。それに、なぜか余もあの男が憎いゆえな」
若さとカリスマと、何より強固な意志を所有する若き君主と、老練でオスマン最高の頭脳の持ち主でもあるメムノンが、お互いの野心を確かめ合い真の意味でパートナーとなった瞬間であった。
サガノス・パシャ以外に確たるブレーンを持たなかったメフメト二世が、メムノンの忠誠を得た意味は巨大なものである。
ヴラドに突きつけられた害意が明確な形をとるまで、残された時間はそれほど多くはなかった。
アルバニアへと帰還した娘の表情を見た瞬間、スカンデルベグことジョルジは何かを察したように破顔した。
「どうであった? 彼の御仁は?」
「まさに非常の人でございました、父上。彼の人はまるで我々の知らぬ第三の目をお持ちです」
「惚れたか?」
いたずらっぽい笑みを浮かべた遠慮のない父の視線に、さすがの女丈夫たるアンジェリーナも赤面を隠せなかった。
「あの方を想うと胸が騒ぎます……これが恋というものでしょうか………」
娘の恥じらう姿にジョルジは思わず目を見張った。
乙女らしい恥じらいをとうとう覚えさせることができなかった我が娘を、いったいどうしたらこれほど可憐にしてしまえるものか想像もできない。
「なるほど、まさしく恋というべきかな」
実のところジョルジにとって、アンジェリーナの安否だけが最後の懸案事項であった。
アルバニアの指揮官として最後の最後まで戦い抜く覚悟に変わりはないが、娘の幸せを願うことに関しては、スカンデルベグといえども普通の父親となんら変わるところがないのである。
東欧全てを見渡しても、娘を預けるに相応しい男といえばまずワラキア公あるのみだった。
他の国ではオスマンに攻め滅ぼされるか、尻尾をふるのが関の山であり、いずれアンジェリーナに不幸をもたらすのは確実である。
それより娘が惚れた相手を快く支援してやるのがよき父親というものであろう。
この際、是が非にも正室になどとは言わぬ。
アンジェリーナさえ幸せであるならば。
「なんとしてもワラキア公の心を掴むのだ、アンジェリーナよ。彼のような男こそ、わしも義息子と呼びたいでな」
「もしかしたらお祖父様と呼ばれるかもしれませぬが」
アンジェリーナの切り返しに思わず莞爾とした笑みが浮かぶ。
ワラキア公とアンジェリーナの子……つまりはジョルジにとって孫! もちったした紅葉のような手、無垢な天使の笑み――孫とはかくも特別なものか!。
自らの妄想に恍惚としながらジョルジは多幸感に身震いした。
「わしは孫の顔を見るまで絶対に死なんからな! オスマンどのなにするものぞ!」
いい感じに爺馬鹿になったアルバニアの英雄であった。
「必ずや吉報を」
決然としてアンジェリーナは父に誓う。
三日後にはワラキアにとんぼ返りすることが決定し、ヴラドの預かり知らぬところで勝手な未来絵図が描かれようとしていた。
「どうも嫌な予感がするな………」
「ヘレナ様もですか?」
「お主もか? 何やらあのお転婆の高笑いが聞こえたような気がしての」
「………これ以上側室が増えるのは得策とは思えませぬが」
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