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第七十五話 宿敵の正体

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「殿下、少しお時間をよろしいでしょうか?」
 いつも通りのシエナの鉄面皮であるが、どこか暗鬱な空気に胸騒ぎがして俺は眉を顰めた。
「どうしたシエナ?」
 シエナはいつもなら前置きは言わずに用件を話す男だ。
 その男が言い淀むことがあるとすれば……
「殿下のかつての教師であるメムノン殿………どのような人物でありましょう?」
「医学、測量学、物理学、天文学、軍事学の全てに通じていたオスマン版の万能の人みたいなおっさんだったな。冗談の通じない性格で真面目を絵に描いたような男だったよ」
 好感はもてないが、あの爺が有能であることは疑わない。
 あの爺がラドゥを可愛がっていることが、口惜しくはあるが俺の心の救いである。
 だが――――
「そのメムノン殿がメフメト二世としきりに連絡を取り合っている形跡があります」
「なんだと?」
「というよりメムノン殿こそメフメト二世の腹心ではないかと」
 まさか、と思いつつもやはり、と感じている自分がいる。
 どこまでも高みを目指す学者のメムノンと、野心旺盛なメフメトの二人は親和性が高いコンビであった。 
 手足が芯から凍てついたかのような痺れを訴えていた。
 もしかしてラドゥは二人の繋ぎ役として利用されているのか?
 それは俺の対オスマン離間工作が行われた時、真っ先に犠牲になるのがラドゥになるということを表している。
 史実通りにムラト二世が病死した際には、メフメト二世の毒殺を匂わせ、カリル・パシャと争わせる準備は整えらていた。
 しかしそれはラドゥの立場の崩壊を意味する。
 道理でラドゥの召還要請にスルタンが応じてくれなかったわけだ。
 おそらくメムノンは今後のラドゥの利用価値について気づいていたのだろう。
 もしそれが事実なら、俺はメムノンかメフメト二世のどちらか、あるいは両方に相当前から目をつけられていることになる。
 すなわち、彼らは俺がムラト二世の治世が長続きすることを望んでいるのを知っているのだ!
 どこだ? いったいどこで気付かれた?
 自分が何か策を弄しているとき、相手もまた同じように策を弄している、ということを忘れていたわけではないが…………。
「おそらくはメムノンという男が、ラドゥ様から情報を汲みあげたものかと。なるほど優秀な男のようですな」
 俺の疑問にシエナが答えた。
 つまりは俺がラドゥに漏らしてしまった未来情報や、俺の性格から推測したということか。
 人質時代は今の状況を予期してなかったから、確かに迂闊といえば迂闊だった。
「カリル・パシャと側近にラドゥの帰国を頼みこめ。いくら金がかかっても構わん」
「メフメト二世の謀反の噂はどうなさいますか……?」
「あまりに直接的な流言は控えろ。メフメト二世の器量に疑問を呈する程度に留めておけ」
「御意」
 ――ラドゥ、すまん。
 俺にできることなどこの程度だ。
 くそっ、悪魔公とか磔公とか大した名でよばれちゃいるが、弟一人も救い出せやしない名なんてなんの意味がある。
 好々爺然としたメムノンのしたり顔が脳裏に浮かぶ。
 あいつを信用した俺が馬鹿だった。
 ただの学者がスルタンの政治顧問など務められるわけはないのに、奴の野心を見誤った。
「この借りは……いつか返すぞメムノン!」
 メムノンがメフメト二世の腹心ならば、いずれ正面から敵対する時が来る。
 だが同時にそれは、兄弟の決定的な決別を意味しているのかもしれなかった。
 理不尽であるとは承知しながらも、俺はメムノンとメフメト二世に対する憎悪に全身を震わせた。



 ワラキア製のキャラベル船が桟橋で待機している。
 見送りに訪れた俺の胸に、アンジェリーナはためらいなくすがりついた。
「必ずやすぐに戻って参りますわ。父上の許可が取れ次第、殿下の御傍に!」
「戻ってくるでないわ! スカンデルベグが泣くぞ!」
「今少し、お父上に甘えているのが娘の勤めかと存じますが」
 俺の左右から腕に抱きついているヘレナとフリデリカは、アンジェリーナの決意表明に難色の様子であった。
 アルバニアへと送る支援物資と合わせて、アンジェリーナの帰国が決まっていたのである。
 そもそもスカンデルベグの息女が滞在していたこと自体異例のことではあったのだが、本気でワラキアに来るつもりなのか?
 スカンデルベグが親馬鹿をこじらせると、全面戦争に突入しかねないのだが。
「では殿下、しばしの別れじゃ!」
 一瞬の隙をついてアンジェリーナに唇を奪われてしまった。
 美乳の感覚も幸せだ。
「「ああああああああああああああ!!」」
 ヘレナもフリデリカも俺の耳元で叫ばないで!
「必ずや殿下のお心を掴み取ってみせるぞ! 私はスカンデルベグの娘、どんな戦にも負けるつもりはない!」
 言葉の意味はよくわからんがとにかくすごい自信だ!
「我が夫は渡さぬぞ!」
「殿下は私のものですからっ!」
「未来のことなど誰にもわからぬ!」
 晴れ晴れとした表情でアンジェリーナはデッキから手を振った。
 スカンデルベグが冷静な対応をとってくれることを祈らずにはいられない。
 今のこの調子でアンジェリーナがワラキア宮廷に乗り込んでこられたら、絶対に俺の胃がもたないと思う。
 ――確かにあの美乳は惜しいけれど。
「……今邪まなことを考えなかったか? 我が夫よ」
「滅相も無い」
 ゆっくりと海原へと滑りだす船を見送り、俺は心から平穏を願うのであった。
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