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第七十二話 悪魔の戦略

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「くそっ! どこの馬鹿どもの仕業だ!」
 荒々しく俺は壁を殴りつけた。
 油断していたつもりはない。
 史実では1451年にペトル・アロンによってボグダン二世が暗殺されることはわかっていた。
 しかし影で糸をひいていたポーランドの影響を排除し、ペトル・アロンを辺境へ放逐したことで暗殺の脅威は去ったとも思っていた。
 それほどボグダン二世は貴族にも国民にも好かれた篤実な政治家だったのだ。
 今回の暗殺の首謀者ランバルド・マシュディーは母方にポーランドの大貴族の血を引く有力貴族のひとりであった。
 彼にとってボクダン二世が着手し始めた中央集権志向の政策は全てが我慢のならないものだった。
 なかでもヴラドとの政治経済的結びつきを重視したボクダン二世、が港の国有化とドナウ川流域の関税を撤廃したのがいけなかった。
 ドナウ水系に面した領土を持つ貴族にとって、関税収入は貴重な欠くべからざる収入源なのだ。
 しかし今や港のなかったワラキアはアドリア海に窓口を有しており、ドナウにおける支配権も、河川海軍を組織したワラキアにもはやかなうものではなくなっていた。
 好調な対ワラキア貿易を継続していくために、国境沿いの関税を相互に撤廃していくのは最終的に両国の国益になるはずだったのである。
 税収の増額で関税収入の減額は補うことができる。とボグダン二世はランバルドを説得したがランバルドにとって税収の増収と関税収入は全く別個のものであり、先祖から代々譲り受けてきた権利を剥ぎ取られるのを認めるつもりは全くなかった。
 そもそもモルダヴィア領であるキリアに、ワラキア軍が闊歩していることもランバルドには気に入らなかった。
 彼の中で次第にボクダン二世は売国の徒となっていき、既得権益を奪われた同士がある一定の数に達したとき暴発は起こった。
 ランバルドは当初楽観的であった。
 これほどの好機にポーランドが動かぬはずがないと。
 長年ポーランドが欲し続けたキリアなど、自らの主権を認めてもらえるならのしをつけてくれてやるつもりであった。
 ところが、ポーランド国王カジミェシュ四世からはボグダン二世に対する謀反の不義を告発し弾劾する書簡が届いたのみであった。
 ようやくランバルドは自らの置かれた立場の危うさに気づき始めていた。


 慌ただしくブダを出発する艦隊を見送るフリデリカの胸中は複雑だった。
 もしもポーランドが黒幕であった場合自分はどうなってしまうのか。
 いや、仮に全く関係がなかったにせよポーランドが実際に脅威となっているのは事実なのだ。
 ワラキア公の寵愛を受けることなど夢のまた夢なのではないか。
 このワラキアにも、私の居場所はないのではないか。

「辛気臭い顔をするでないわ、この垂れ乳め」
「………ヘレナ様……まだ行かれてなかったのですか?」
 いつの間にかヘレナがからかうような顔を向けていた。
 この方がうらやましい。
 殿下に才を認められ、こうして戦場への同行すら許されるのだから。
 自分にはとうてい無理な話だった。
 フリデリカの精神構造は凡庸なものであり、ヘレナのような常識を突き破ったような横紙破りの行動がどうしても取れずにいた。

「妾は我が君夫の傍らにあってお助けするのが役目じゃ。しかしお主の役目は他にある」
「………私ごときが何の役に立ちましょう………」
 本心でフリデリカはそう考えていた。
 自分には容姿以外になんら秀でたものがない。ごくごく平凡な女なのだ。
「確かに本当に王族の生まれかと思うほど平凡な女ではあるがな。しかし妾のような非常の女ばかりでは我が君も心の休まる間があるまい」
「生まれて初めて平凡であることを褒められた気がいたします………」
 どうやら信じられないことにヘレナは自分を元気づけに来てくれたらしかった。
 平凡なままで良いのだと。
 そして自分がワラキア公を愛していて構わぬのだと。
「もっとも我が君にとっての一番は妾であるがな」
 少女は絶対の自信とともに不敵に微笑むと、くるりと身を翻した。
「その台詞はもう少し胸が育ってからになさいませ」
「うぐぅ」





 俺を乗せた新鋭のキャラベル船がドナウ川を下っていく。
 その甲板から水面を眺めながら、俺は気が狂いそうな憤怒と必死になって戦っていた。
 貴族よ
 貴族よ
 何故かくも容易くお前たちは裏切るのだ?
 いったい貴様らにとって王とは国とはなんなのだ?

 オスマン帝国も一枚岩とはいえないが、欧州貴族の定見のなさはそれを遥かに上回る。
 コソヴォの戦いしかり、ヴァルナの戦いしかり。
 キリスト教国軍はいつも肝心なところで、貴族の裏切りによって勝利を失い瓦解を余儀なくされていた。
 かといって裏切り者がオスマン朝で重きをなしたという話も聞かない。
 つまりは一時の感情か、わずかな目先の金で彼らは易々と裏切りを犯すということなのだ。
 どうすれば彼らに忠誠心を植え付けることができる?
 これ以上どうやったら彼らに軽はずみな裏切りをさせぬようにできるのだ?


 古代ローマが安定していた時代や絶対王政華やかなりし頃、宮廷内で王族にまつわる抗争は繰り広げられていたが、武力で叛旗を翻す貴族など極わずかであった。
 それはやはり王権と貴族との間に厳然とした力の差があったことでもあり、またあるいは貴族ひとりが動かすのには社会構造が複雑化してしまったせいかもしれない。
 いずれにしろ俺は、個人的に信頼する者以外に貴族を重用するつもりはもはやなかった。
 中央集権的な 第三勢力としての力を貴族に頼れないとなれば新たな監視組織が必要となる。
 軍とはとかく暴走しやすい機関であるから、同じく武力をもった軍ではない機関の存在は絶対に必要なのだ。
 これはナチスドイツの武装親衛隊や、アメリカ合衆国の州兵やCIAなどがこれにあたり、日本のように警察力しかない国は珍しい。
 肥大化した軍を抑止するための伝統的勢力として、役割を貴族に期待した構想は事実上頓挫した。
(…………やはり近衛を軍組織から外すべきか。)
 しかし近衛といえども、軍とのつながりは完全に切れるものではない。
 現在も軍の精鋭の選抜という形を取っている以上、将来的には骨抜きにされかねなかった。
 さて、どうしたものだろうか。
 俺の空想の時間は、一人の少女によって破られた。
「………何をお考えになっておいでですか?」
 アンジェリーナだった。
 俺が怒っている間は人を寄せ付つけない空気を発散しているらしいが、全く怖気るような気配もない。
 さすがスカンデルベグの娘だけあって、従軍中にあっても不平ひとつ言っておらず、父親としては心配でたまらんだろうが、これも血の為せるわざというほかなかった。
「……そうですな。まずはこの戦が終わった後の形を」
「モルダヴィアの叛徒など相手にならぬ………と?」
 既に戦の勝利を確定させたかのような俺の物言いがアンジェリーナの気に触ったようだ。
 武人らしいと言ってしまえばそれまでだが、もしジョルジも同じ意見だとするなら由々しき問題になる。
「戦の勝敗は始まる前に決まっている……ジョルジ殿にそう言われませんでしたか?」
 アンジェリーナは明らかにハッとした顔で頷いた。
 確かに父はそう言っていた。そしてアルバニアにはそうするだけの力がないのだ、とも。
「今こうしているうちにも私がどれだけの策を実行しているかご存じか? 既にワラキアとの貿易でなんらかの利益をあげている貴族は叛徒を見限り、キリアの駐留軍とともにモルダヴィア南部を勢力下に治めています。もはや戦の帰趨は決まったという流言を撒いているので、おそらく北部貴族もじき叛徒どもを見限るでしょう。ポーランドとクリルカン国には使者を送るだけでなく、ジェノバの大使にも一枚噛んでもらっております。まず余計な真似はできますまい」
 アンジェリーナがついぞ知ることのない怪物がそこにいた。
 調略・宣伝・外交を駆使してモルダヴィアの新たな支配者となったはずの叛徒は、戦う前から一部貴族の私兵集団に成り下がっていたのだ。
 ワラキア公の言うことが真実なら、確かに戦の勝敗はすでに決していた。

 心底この男が恐ろしい、とアンジェリーナは思った。
 しかしそれ以上にこの得体のしれない怪物を知りたい欲望が勝っている。
 まるで掴み所のない、アンジェリーナの評価に余る男ではあったが、器の大きさで父を上回る初めての男であることだけはわかっていた。
 身体が熱い。
 胸の動悸は戦場が近付いてきたことへの昂揚だろうか。
 いつしかアンジェリーナは熱病に浮かれてたようにヴラドから視線をはずせなくなっていた。
「…………我が夫には今少し自分というものを知っていただかなくてはならぬな」
 すっかり苦虫を噛み潰したような顔で、お冠のヘレナであった。
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