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第七十話 かつての恩師

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 オスマン宮廷で地位以上に敬意をもって遇されているのが、学者のメムノンである。
 現在は皇太子メフメトの教師として、またスルタンムラト二世の顧問として、宮廷に部屋を与えられ彼の声を侮る者は一人もいない。
 しかし生活はいたって質素であり、謙虚な姿勢からまるで古の賢者のようにメムノンを慕うものは多かった。
 そのメムノンを訪問しているのは、ヴラドの使命を受けたワラキア商人の男であった。
「それでは商人殿がワラキアに帰られたら伝えて欲しい。陰ながら殿下の武運をお祈りしておる、と」
「きっと殿下もお喜びになるでしょう。それでは縁あればまた………」
 知性の光が傍目にも見て取れる厳格な老人に、商人らしい風体の男が深々とお辞儀をして辞去していく。
 男は商人としてオスマンとの商いに携わってはいるが、その正体が諜報員であることを当然メムノンは知っている。
 それと気づいていながらあえて接触を持ち、お互いの情報を交換しながら決して言質を与えないところはさすがはメムンというべきであろう。
 オスマン帝国でも屈指の学者であり、医者としても知られるメムノンは、ムラト二世の典医のうちの一人でもあった。
 ゆえに薬や食物を扱う商人が、メムノンの周囲では絶え間なく出入りしている。
 商人の知りたかった情報は、ムラト二世の健康状態であった。
 ヴラドだけが史実から知っていることだが、ムラト二世は来年早々に病死するはずだからだ。
 病状から原因が推測できれば、前世知識を総動員してでもムラト二世の延命を図らなければならなかった。
 メフメト二世の即位を阻止することは十万の援軍に勝るからであった。
 ところが意外にもムラト二世は健康そのもので、一向に床につくような気配はないという。
 それはメムノンの医者としての誇りにかけて間違いなかった。
 ムラト二世は全く健常だ。
 ――――ただし、外から害しようとするものがいればその限りではないのだが。

「先生(ラーラ)も人が悪い。あの使者が知りたかったことの一番肝心なことを隠しておくとは」
 メムノンの天幕の向こうから現れたのは白面をつけた少年だった。
「あの使者が我が前に現れたことだけでも恐るべきことです。あの男は陛下の命が縮むことを恐れている。つまりどこで知ったのかわからないが、それは貴方の野心と力量を知っていることにほかなりません。どうやら計画は急いだほうがよさそうですな」
 面に覆われた少年の表情は伺うべくもないが、苛立たしげな空気だけは隠せなかった。
「あの男の手はどこまで長いのだ! もう待てぬ! あの男が十分に力をつけてしまう前に余の権利を回復しなくては!」
 男と生まれたからには歴史にその名を残したかった。
 千年の時を越えて大王と称されるあのアレキサンダー大王のように。
 しかし今、巷間の噂に上るのは忌々しいワラキアのあの男でありその多角的な業績は史上類がないとまで言われている。
 その事実が少年には悔しい。悔しくてならなかった。
「歴史に名を残すのは余ひとりでいいのだ…………」
 その呼び名が少年が誰かを雄弁に物語っていた。
 マニサへ蟄居しているはずの先代スルタン、メフメト二世その人にほかならなかった。
 巨大すぎる野心のゆえに、一度は失脚した彼は、今もまだいささかも野心を衰えさせることなく、むしろ燃え上がらせていた。
 メフメトにとってヴラドの目覚ましい活躍は、煮えたぎる嫉妬を呼び起こす燃料にほかならなかったのである。
「余は、余は決してヴラドには負けん!」
 まだヴラドとラドゥが人質であったころ、何度か言葉を交わした線の細い小僧――その少年に自分の野望が邪魔されることなどあってよいはずがなかった。


 短い休暇を終えた俺を、仕事の山が待ち受けていた。
 まずひとつには新たに隣国となった神聖ローマ帝国への対応である。
 ボヘミアへの領土的野心も露わにしたドイツ諸侯たちを煽って、皇帝は密かに武力干渉に及ぼうとしていたのだ。
 ボヘミアの実質的支配者、イジーへの援助は行っていたものの、フス派の戦闘集団が壊滅した今その戦力は激減している。
「同盟を結ぶ以外にないか」
 神聖ローマ帝国の後押しがなければ、傭兵部隊を派遣するだけでボヘミアを防衛を全うすることは容易いだろう。
 今一度フス派十字軍を立ち上げられるほど、もはや教皇庁に威信はないし、ウィーンが危険にさらされると知ればあからさまな介入は控えるだろう。
「イワン、ボヘミアのイジーに使者を立てておいてくれ。それとキャラベル船でウィーンにも使者を立てておけ。いらぬお節介はするなとな」
「御意」
 ドナウ制河権を制覇すべく河川海軍を発足させたことで、ワラキアの戦略機動力は飛躍的に向上していた。
 いまだ外洋型のガレオン船は完成をみないが、キャラベル船は既に商船用も含め十隻ほどが就役している。
 軽砲や重砲を装備したこれらの船に、ワラキア常備軍の誇る銃兵部隊が乗り組めば、ドナウの流域の都市にはいつでも攻撃が可能だ。
 その脅威を見せ付けてなお、弱腰のフリードリヒ三世が挑戦してくるはずがなかった。
 一方、ハンガリー王国という東欧の重しがはずれた影響は大きく、北部への軍事圧力を解消したオスマン帝国は今年に入ってカラマン君侯国を攻撃していた。
 滅亡寸前に追い込まれているカラマン君侯国だが、これに対応する術はない。
 残念だが援護するにはカラマン君侯国は遠すぎる。
 むしろトレビゾント帝国に矛先が向かなかったことをよしとするほかはなかった。
 トレビゾント帝国とグルジア王国は対オスマンの東の要であり、今失うわけにはいかないのだ。
 白羊朝やマムルーク朝とも交易の手を伸ばすとともに外交ルートを構築中ではあるが、まだまだその信頼性は低く重要な交渉を持ち出せるような状態ではない。
 さしあたりトレビゾント帝国に軍事援助を増強する必要があろう。


 国内では好調を維持する経済のもと石炭鉱山の開発や公立病院の普及を急いでいた。
 人的資源の不足しがちなワラキアにとって医療技術の進歩は死活問題である。
 現にブルジーマムルーク朝は首都カイロで大規模なペストが流行し、一気にオスマン朝に対して劣勢に立たされていた。
 煮沸消毒やアルコール消毒はいまだ国家機密だが、いずれは民間普及も考えねばならないだろう。
 ハンガリー領では温泉たまごやフォアグラやトリュフなど新開発の食材と貴腐ワインの販売が好調で、対立するウィーンの都ですらヴェネツィア商人の前に行列ができる有様だった。
 おかげでハンガリー国内は予想以上に落ち着きを見せている。
 またイタリアの精密加工技術者を招いて、少数だがライフル銃の製作に乗りだしていた。
 狙撃兵の抑止効果は、指揮官が後世の近代軍より遥かに少ない中世型の軍には絶大であるといえるからだ。
 中隊以上に全て指揮官を配置しているワラキアは別として、ひどい例になると数千の軍の指揮官がたったひとりであったりするのだから当然である。
 また胸甲抜刀騎兵用の拳銃の量産も急務であった。
 打撃力の激減した騎兵を再び戦場の華とするために火力の向上は必須なのである。
 砲兵火力もストークブランのデッドコピーである迫撃砲と、焼夷多連装ロケットの量産で大幅に向上されていた。
 焼夷油脂を装填したロケットの弾道安定には、異能の天才ウルバンの親父が見事な手腕を発揮した。
 なにせジャイロ効果に独力で気づきやがったからこの親父ただ者じゃない。
 相変わらず巨砲主義なのは困りものだが。

「これが対要塞用決戦武器、名づけて雷神の槌(トールハンマー)! これさえあればウィーンの城塞ごとき一撃ですぞ!」
「お前、いい加減にしろよ!」
 とかいって全長六メートルはありそうな臼砲の化け物を作ってきたときには本気で首にしてやろうかと思った。
 役に立つところもあるから首にはしないけど、増長させたら何作り始めるかわかったもんじゃない。
 天才ってのはみんなこういうものなのだろうか。
 困ったところがあるとはいえ、絶対にオスマンに取られるわけにはいかない異才であることは疑いようがなかった。
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